「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

30、若菜(上) ⑩

2024年01月31日 09時29分19秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・女三の宮は、
ただ若くあどけなく、
子供っぽいばかりでいられた。

純真でおとなしくいられるが、
張り合いもない。

源氏はその昔、
少女の紫の上を、
引き取ったときのことと、
比べずにはいられない。

あの頃の紫の上は、
少女ながらに個性があり、
打てばひびく才気煥発の、
面白さがありながら、
勝気ではなく、
無心に愛くるしかった。

もう大人の源氏が、
細心の注意をこめて、
応対しなければ負けそうな、
張りつめた手応えがあった。

しかしこの女三の宮は、
同じようなお年頃なのに、
なんと、子供っぽい、
たよりなさであろう。

こちらが黙っていると、
いつまでも黙っていられる。

その美しい黒い瞳は、
美しいがゆえに、
精神の不在を思わせて空虚である。

その底には、
まだ何の女の感情も、
いや、人間的な自我さえも、
宿っていない。

恐れげもなく、
恥ずかしげもなく、
源氏を見つめていられる。

そこにあるのは、
ただ運命に対する従順さばかり。

(しかしまあ・・・
我の強い意地を張るような、
憎さげな性格よりましだろう)

と源氏は思いつつも、
このひとを教えて、
好みの女に仕上げよう、
という情熱と根気は、
もはや自分にないのを知っている。

三日のあいだは、
夜離れもなく、
源氏は女三の宮のもとへ通う。

結婚後の三日間は、
どんなことがあっても、
男は女のもとへ、
通わねばならない。

それが決まりである。

紫の上は、
三日も源氏と離れているとは、
もう長いことないので、
さすがに萎れていた。

彼女が沈んで、
もの思いにふけっているさまは、
愛らしくもいとおしかった。

(なぜ、
彼女を苦しめるようなことを、
してしまったのだろう。
自分の弱気と浮気心のせいで、
こんな目にあわせてしまった)

と自分の優柔不断が、
源氏には辛く思われる。

しかし、
女三の宮を新たに迎えたとて、
紫の上への愛は変質せず、
減少していない。

いや、むしろ、
彼女がどんなにすばらしく、
愛すべき女性であるか、
ということが前にもまして、
思い知られ、
断ち難い契りとなっている。

それは、
命が絶えても、
紫の上との契りは、
絶えるまいというほどの、
深い思いになっている。

源氏はつぶやく。

<命こそ絶ゆとも絶えめ
定めなき
世の常ならぬ仲の契りを>

紫の上は、
聞こえぬふりをして、

「早くあちらへおいでなさいませ。
お待ちになっていらっしゃいます。
人も変に思います」

口少なに身支度をして、
出てゆく源氏を、
紫の上はいやな顔せずに、
見送った。

しかし紫の上の気持ちは、
おだやかではない。

大小さまざまの、
源氏の恋愛事件はあったが、
みないつとはなく、
事なく流れ過ぎた。

いちばん心配したのは、
身分高い朝顔の前斎院との事件、
あの時は、
前斎院にそのお気持ちがなく、
源氏の一人相撲に終わった。

今となっては、
もう大丈夫と安心していた時に、
こんなことになるなんて。

(夫婦というもの、
これで安心、
ということはないのだ。
一瞬一瞬でどう変わるか、
知れはしない。
男心ってつかまえにくいもの)

紫の上はそう思いながらも、
それを口に出して嘆いたり、
拗ねたりできる性格では、
なかった。

常と変わらず、
平静を装っていた。

そばについている女房たちは、

「まあ、
意外なことになってしまって」

「源氏の君には、
たくさんの方々がいられるけれど、
みな、こちらの上(紫の上)の、
ご威勢をはばかって、
控えめにしていらしたから、
事なくすんでいたのです。
それがどうでしょう、
あの宮さま(女三の宮)の、
威張ったなされようは・・・」

「こちらが負けていられることは、
ないと思います」

などと言い合っていた。

紫の上は、
常の日課として、
就寝前のひととき、
女房たちとたのしく、
とりとめのない世間話を、
するつもりであったが、
源氏のいない留守に、
女ばかりでそんな、
陰湿な陰口になるのが、
いやであった。

女らしい愚痴や中傷を、
まことに聞きにくく思った。

「そうじゃないわ。
源氏の君には、
女君がおおぜいいられる、
といっても花やかな現代的な、
方はいらっしゃらなくて、
お淋しいと思うわ。
そこへお生まれもよく、
お若い姫宮が正式に、
お輿入れなさったのは、
ほんとによかったと思うの。
わたくしは子供っぽいのかしら、
宮さまぐらいのお年頃の気持ちが、
まだ残っていて、
お遊び相手に加えて頂きたい気持ち。
それなのに、
どうして宮さまのことを、
わるく言われるのでしょう。
こちらが隔て心を持ったりしたら、
お気の毒。
仲良くしてあげなければ」

女房たちは、
紫の上の言葉を聞いて、
目くばせしつつ、

(あんまりお人がよすぎる)

(そうまで宮さまに、
お気を使われなくても)

と言い合っていた。

彼女らはもともと源氏に仕え、
目をかけられていた女房たち、
であるがこの年頃は、
紫の上に仕えていて、
みな心から紫の上を慕い、
紫の上の味方であった。

他の夫人たちからも、

「大変なことになりましたね」

という見舞いの手紙が、
紫の上に寄せられたりする。

それは間違いなく、
同情なのか、
それとも好奇心なのか、
皮肉なのか、
誰が知ろう。

愛憎の渦に巻き込まれたとき、
女の同情や共感は、
たやすく皮肉や好奇心に、
裏返る。

聡明な紫の上は、
その辺を見抜く力があった。

あまり長く夜更かししても、
人々がいつもと違うと、
咎めるであろうかと、
紫の上は寝所に入った。

ここしばらく、
独り寝の床で、
そばに源氏がいないのに、
紫の上は馴れることが、
出来なかった。

心は波立たずにはいられない。

久しぶりに、
源氏が須磨に流された頃のことが、
思いだされる。






          


(次回へ)

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