・すると、
また使いの男が帰ってきて、
「さきのお手紙、
お返事がないなら、
そのまま返してもらって来い、
との仰せで」
というではないか
私はふところへ、
入れておいた手紙をとり出した
私は斉信の君から、
文をもらうなんて、
少し心ときめきして、
一人きりのときに、
ゆっくりと見たかった
しかしこう急がれるのならば、
そういう方面の文ではあるまい
ひらいて見ると、
青い薄様の紙に、
さすがに垢抜けた筆跡で、
「蘭省花時錦張下」
とあり、
「下の句はいかにいかに」
とある
べつに心ときめきする、
文句ではなく、
退屈しのぎの遊びの挑戦である
なあんだ!とがっかりしたが、
いちめん、
(さあ、きたぞ
うっかりしたことはできない)
と緊張した
これは白楽天の詩である
「蘭省の花の時、錦張の下」
に対するは、
「廬山の雨の夜、草庵の中」
という句だが、
まともにこの下の句を、
へたな女字で、
漢字を並べても芸がないし、
中宮さまでもいらっしゃれば、
ご相談申し上げたいのだが、
どうこの下の句を、
付ければよかろう
「お早く、お早く
という頭の中将の仰せで」
と役人たち、せかす
ええい、もうままよ、
と公任(きんとう)卿の歌にある、
<草の庵をたれかたづねん>
という句、
筆も墨もとりあえず、
火鉢の炭でもって、
書き付けて渡してやった
それも、
その手紙のうしろに書いた
その返事はもちろん来ない
早朝、私は局に下った
すると、
源の中将、宣方(のぶかた)の君の声で、
「『草の庵』どの、
いられますか」
と呼んでいる
宣方の君は、
私の弟、経房の君の従兄で、
年齢はずっと上、
三十八、九だが、
経房の君が私と仲よしなのを、
うらやんで私にいつも、
おべんちゃらをいって、
つきまとう男である
この人は、
頭の中将・斉信の君にも心酔して、
斉信さまが行かれるところ、
どこへでもついていく人である
草の庵どの、
というのはゆうべのことを、
さしているのかしら?
すると斉信の君は、
私の返事を側近にまで、
見せられたのかもしれない、
と思ったが、
私はいった
「なんて呼び方なさるの、
野暮ったいたらありゃしない
女の住みかへ来て、
草の庵だなんて、
殺風景ですわ
玉の台とでも呼んで下さるなら、
お返事もしやすいけれど」
宣方の中将は、
のぞきこんで、
「まだあのお話は、
聞いていられません?」
「あの話って、何です」
「『草の庵』事件
ああよかった
いや、ほかの人より先に、
あなたに伝えたいと、
思ったものだから」
「勿体ぶらないで、
おっしゃいよ
何がありましたの」
私はずっと年上の宣方の君に、
じゃけんにいう
私につきまとう男たちのうちでは、
則光より以下の等級に、
宣方の君はいる
「頭の中将の宿直所に、
ゆうべ気の利く人々が、
六位に至るまで、
みんな集まっていましてね
いろんなことをしゃべっているうち、
頭の中将が、
『やはり清少納言と絶交すると、
手持ちぶさたになっていかん
あっちからあやまるかと、
待っていても、
全く鼻もひっかけない様子で、
知らぬ顔を押し通して、
しゃくにさわる
今夜こそ、
はっきり白黒つけて、
あの生意気で高慢の鼻を、
押っぺしょってやるか、
それともこちらが折れるか、
やってみよう』
といわれたんですよ
一同、相談の上、
『蘭省の花の時』
というのを選んで送った
ところが使いの男が、
手ぶらで帰ってきて、
『今は見られないからあとで』
というじゃありませんか
頭の中将はまた追い返して、
『何でもいい、
強引に書かせろ、
書けないというのなら、
手紙を奪い返してこい』
ときびしくいって、
あの、どしゃ降りの雨の中、
使いに出されたのですよ
今度はおっそろしく早く帰ってきて、
これです、
と出したのが、
さきの手紙だったもんだから、
『さては下の句がつけられなくて、
返して来たのか』
とみんな思い、
頭の中将もそう思われたらしい、
ところが、
ひと目見るなり、
頭中は、
『う~む、くそ、畜生!』
と叫び声をあげられるでは、
ありませんか
どうしました?
とみんな走り寄っていくと、
あの、
『草の庵をたれかたづねん』
というあざやかな返事でしょ
頭中以下、声もないわけ
公任卿の歌で、
ちゃんと
『廬山の雨の夜、草庵の中』
という詩句をふまえて返してる
この、大盗人め、
心にくい奴め、
やっぱり隅におけないや
と大さわぎになりまして、
この上の句を私につけろ、
と頭中はいわれるのですが、
なんでつけられますものか、
夜更けまで皆でわいわいいって、
とうとうあきらめてしまった
このあざやかな応酬は、
先々の世の末までの語り草じゃないか、
と一同評議一決したんですよ」
と手柄顔に、
語り聞かせるのである
「だから、
これからあなたのことを、
『草の庵』さんと、
呼ぶことにしようと、
決まったってわけ」
「いやあねえ
そんな色気のない名前が、
末代まで伝わるなんて、
くやしいわ」
というと、
宣方の中将は、
忙しそうにどこかへいった
多分、次の場所、
後宮のどこか、
女たちの多くいるところで、
熱心に言いひろめて、
まわるのだろう
「草の庵」のことは、
すぐ中宮のお耳に入り、
それは女房たちからではなく、
「主上がお話し下すったの
殿上の男たちはみな、
その句を扇にまで書き付けている、
という話よ」
とお笑いになる
「それにしても、
うまく、とっさに、
思いついたものね、
公任の歌などを」
「ほんとうに、
あとから思いますと、
鬼がわたくしの耳に、
ささやいてくれたので、
ございましょう」
これは私の実感だった
斉信の君は、
それからのちは、
私に対して顔をかくしたり、
なさらない
以前に増して、
私を取り次ぎになさる
(次回へ)