・庚申の夜、
「それではとっておきの物語を、
宮さまはじめ皆々の、
お耳に入れることにしよう」
伊周(これちか)の君は、
薄い冊子を取り寄せられる
「この物語、
ちょうど七月の頃の有明の、
情趣を描いていますのでね
書き手は誰か、
読み終わってから、
お当てください
偶然手に入りましたものを、
家の女どもに筆写させましたので」
私はふっと予感がした
伊周の君は、
私の方を向いて、
意味ありげに笑っていらっしゃる
それでもまさか、
私の手もとの箱に、
そっと秘めてある、
れいの『春はあけぼの草子』
の草稿が持ち出されているはずは、
ないと思っていた
あれは誰も知らないものだし、
(厳密にいえば、
もうずっと昔、
弁のおもとを介して、
中宮やそのご一家に、
ほんの一部、
下書きの下書き、
というようなものを、
お見せしたことがあった)
三条の私の家にいる、
古女房、左近にさえ、
触れさせていないものだから
「小弁、
読むがいい
ゆっくりと情感こめて、
読むんだよ」
と伊周の君はいわれ、
小弁の君は冊子を受け取って、
「七月のころだった
暑さが厳しいので、
邸のあちこちを開け放したまま、
夜を明かした・・・」
と読み出した
もう間違いがない
私の草稿である
どこから持ち出されたのかしら、
あるいは経房の君が、
三条の自邸に来られたとき、
私の冊子をひどく見たそうにされて、
「ちょっと見せて下さいよ、
ほんの少し」
とねだられたが、
私はさえぎって隠していた
そうした折に、
一部が落ち散るか、
経房の君がかすめ取られるかして、
廻り廻って伊周の君の、
手に入ったにちがいない
「七月の夜の満月は、
よいものだが、
まして有明のやるせなさといったら、
ない
女は衣をかずいて寝ている
男はすでに出ていったあとらしい
よく拭き込んだ、
つやつやした板敷の端近に、
新しい畳を一枚敷いて、
三尺の几帳が立てられてある
女は、
恋人を送り出したあとの、
朝寝を楽しんでいた
うちかずいている衣は薄紫、
その下に着ているものは、
丁子染めの単衣に、
紅の単袴、
それも腰紐が長々と、
衣の下から見えるのも、
解けたままだからで、
あろうか
髪はゆらゆらと打衣の外へ、
はみ出して波打っている
何と長い髪だろう
初秋の風のすずやかさに、
女は眠るでもなく、
覚めるのでもなく、
ゆうべの一夜の夢に、
まだ心も身もただよいながら、
うつらうつらしているらしい
男が、
有明の霧の中から現れた
霧にしめった狩衣も、
肩からすこし落ち、
寝乱れた鬢を烏帽子に押し込んで、
いかにも朝帰りの風情
狩衣の下は白い生絹で、
紅の衣が透けて見える
いかにも女のもとからの、
朝帰りというしどけないさま
おのずと男っぽさが、
あふれていて、
面白い姿なのだが、
(朝顔の露が落ちぬ間に、
後朝の文を書こう)
と気もせいてくる道
女の局の格子が、
上っているのに、
ふと視線が吸い寄せられる
思わず寄って、
御簾の端を少しばかり、
引きあげてのぞくと、
女が一人寝ているのだった
ここも相手が帰ったあとだな、
と思うのも男は面白くて、
それに、見やると、
枕もとには紫の扇が、
開かれたままになっているし、
陸奥紙の懐紙の紅色なのが、
几帳のもとに散り落ちている
男の微笑を誘うような、
物なつかしい、
人臭い雰囲気である
気配で女は、
衣の中から顔をあげる
男は微笑んで、
長押によりかかって、
坐っている
女は少し、
不快である
知っている仲ではあるが、
いま、こんな寝起きの顔で、
会いたくないのである
『ずいぶんお名残り尽きない、
朝寝ですね』
と男は、
簾のうちに体半分入れて、
からかう
『露が置くより先に、
帰ってしまうんですもの
少し拗ねていますの』
女はつんとしていう
男はそのさまに心うごく
今、相手の女と、
別れて来たばかりというのに、
そしてこの女も、
相手の男を帰したばかりというのに、
男はふと色めいた愉しい心弾みを、
おぼえている
女の枕もとの扇を取ろうと、
男は自分の扇でかき寄せる
女は一瞬、
どきっとして、
身を退くしぐさになる
『何ですか、
いやに警戒なさるんですね』
『当然ですわ、
そんな間近に・・・』
『いいじゃないですか、
お互い遠慮のない間柄だし、
お互い、昨夜のことは、
触れっこなし』
『なんのことを、
おっしゃっていますの?』
『まあまあ・・・』
などと言い合っている所を見ると、
この二人、
かつては恋人同士であったのでも、
あろうか、
そのうち明るくなって、
周囲に人声もたかくなり、
男は出てゆく
女の相手の男は、
早々に後朝の文を書いて、
露にぬれた萩の枝につけて、
よこしたが、
使いの男は、
寄り道した男が出てゆくまで、
さし出せないでいる
(こちらも早く書かねば)
と男はそれを横目に見つつ、
(ひょっとすると、
おれが出ていったあと、
あちらでもこうして、
別の男が立ち寄っているのかな?)
などと思うと、
微笑されるのである
男が物陰にたたずんでいる、
文を持ってきた使者の前を、
通り過ぎたとき、
使者の携えた後朝の文に、
たきしめた香が、
あざやかに匂い立った」
「いい物語だわ」
中宮がまっ先におっしゃる
「いま香の匂いが、
ただよったわ
有明の空にたちのぼる、
香の匂いが
少納言、
あなたでしょう
この感覚は
あなたは天才よ」
私をじっと見て、
いわれる
私は涙が出てきた
中宮にそんな風に、
おっしゃって頂けて、
もう死んでもいい
(了)
・男性はすぐ、
現実をあらぬ夢にかぶせ、
混同してしまうが、
女性は空想や夢ばかり肥大して、
それが恐ろしいばかりに、
現実に似てくる
私は為時の娘に、
そういう才能があるのを知った
物語の書き手としては、
ふさわしい才能かもしれない
しかし、
定子中宮は、
そういう才能よりも、
「・・・するものは?」
「・・・のものは?」
などと挙げていって、
いろんな人たちの即妙の答えを、
たのしまれる、
そういう頓才がお好きらしい
「それでは怖ろしいものは?」
中宮のおたずねに、
小兵衛の君がまっ先に、
「夜の雷」
「おとなりに入った盗人、強盗」
と右衛門の君
誰かが、
「お~や、
それなら自分の家へ入ったほうが、
よっぽど怖いのに、
どうしておとなりなの?」
「自分のうちへ入られたら、
怖ろしさのあまり、
呆然としているから、
かえって恐怖は通り越してしまってる
おとなりだと、
ずっと怖いじゃありませんか」
「それはそう」
中宮は、
そういう臨機応変の考え方を、
ご支持なさる
「近火のほうが、
怖いのと同じね
二年前の火事のときも、
そうでした
自分のうちが焼けたときは、
もう無我夢中だもの・・・」
と中宮は仰せられて、
二条北宮が焼亡したときの、
恐怖が私どもによみがえる
あれは、兄君、伊周の君も、
弟君、隆家の君も流されなすった、
夏のこと
そういう運命を、
くぐりぬけて来られたからこそ、
明るく朗らかになられるのかも、
しれない
「では、灯影や、
夜目に劣るものは?」
「紫の織物
藤の花
紫は夜に見ると、
色が映えませんのね」
「紅もそうでしょう」
という人がいる
中宮のお好みは、
「日は入日
月はありあけ
星はすばる」
であられるそうな
「おお、そういえば、
もう歌が出てもよい頃おい
有明、という題で、
歌はどうかしら」
中宮が女房たちに、
課題される
女房たちは緊張する
「有明まで待っていてはだめ
さあ、出来た順に披露なさい」
中宮のお言葉で、
人々はあわてて顔色も変わるくらい、
苦しんで何とか気の利いた歌を、
ひねり出そうとしている
私はその仲間に加わらないで、
中宮のおそばへ行き、
「雲の色は白が、
よろしゅうございますね
雲は白、紫・・・」
などと、
さきの続きを啓上していた
「風のある日の、
雨をふくんだ雲も、
面白うございます
明るい月の面に、
ふと薄くかかる雲
朝の雲・・・」
などとのんびり、
話しているものだから、
「おや
なぜ少納言は歌を詠まない」
伊周の君は咎められる
「わたくしは、
歌を詠まずともよい、
という仰せを頂いております」
と私は澄ましていた
「なぜだ
なぜそんな怪しからぬことを、
宮はお許しになる
今夜は許すわけにはいかぬ
しかし、何だってまあ、
そんなわがままを、
少納言にお許しになったのです」
中宮は笑われて、
「このあいだ、
ほととぎすを、
わざわざ聞きに行って、
一つも歌が出来ないのですよ
それを叱りましたら、
少納言がそのとき、
何と申しましたか
自分は歌人元輔の娘ゆえ、
かえって父の名を汚す、
と申しますから、
歌を詠むのを見逃してやりましたの」
「そんなことが、
ほんとうにあったのですか」
伊周の君は、
疑わしげにいわれる
「宮は少納言に、
甘くていらっしゃるから
この人を、そうやって、
つけあがらせてはダメですよ」
「いえ、中宮さまのお言葉で、
やっと心の重荷がおりました
もう一切、歌のことは、
考えません
気楽でございます」
と私がいったら、
「そんな勝手な・・・」
伊周の君は、
吹き出してしまわれた
人々は大いに苦吟して、
硯をまわしては、
書きつけてゆく
伊周の君といい、
隆家の君といい、
みなそれぞれ名だたる、
歌よみでいらっしゃるので、
一同は気がひけて、
得意顔に詠み上げられない
よかった
ほんとうに
私はこういうところで、
すらすら詠みあげて、
喝采を博するような才能を、
持ち合わせていない
そういうのがうまいのは、
赤染衛門の君である
この人は晴れの場で、
朗々と万人に誦して聞かせる、
歌を詠む
格調があって行儀のいい、
品のいい歌である
私はそういうのがほんとうに、
にが手
たとえばこの間のように、
行成卿に対して、
<夜をこめて
鶏のそら音ははかるとも
世に逢坂の関はゆるさじ>
と返したような、
ああいう応酬なら、
得意なんだけど
普段着の歌というか、
はだかの歌というか、
どこか一点、
あそびがあるような、
頓智や機転をたのしむ、
やりとりなら好きなんだけれど
と思っていたら、
中宮から私にあてて、
折りたたんだ紙が投げられた
いそいで開けてみると、
美しい走り書き
<元輔がのちといはるる
君しもや
今宵の歌にはづれてはおる>
(歌詠み元輔の子、
といわれるそなたが、
まあ何だって、
今宵の歌に加わらないでいるの)
というお歌だから、
おかしくて嬉しくて、
もうたまらない
中宮からこういうからかいを、
頂く自分が嬉しくて
伊周の君は、
「なにを一人で笑っているのだ
宮のお手紙にはなんとある
お見せ、少納言」
「いえ、
これは中宮さまと、
わたくしの秘密」
と私はいったが、
「少納言
せめてそのお返しはしなさい
みなに披露するがいいわ」
と中宮は仰せになる
こういうお返しなら、
得意中の得意
<その人の
のちといはれぬ身なりせば
今宵の歌をまづぞ詠ままし>
(わたくし、
歌人の娘と指さされる身で、
ございませなんだら、
いますぐ千首だって詠んで、
お目にかけるんでございますが)
といって、
一座を白けさせ、
それもおかしかった
(次回へ)
・伊周の大臣、
正確にいえば前の大臣、
というべきであるが、
我々の間ではいまも、
大臣と呼び慣らわしている
流罪に当られて、
都を追われなすった事実を、
私たちは認めたくない気持ちが、
あったし、
中宮を頂点に据えられた私たちの、
世界では世間の慣行や、
掟とは別の秩序がある
そんな風に思いたかった
またそれを信じきる魔力が、
中宮にはおありになるが、
庚申の夜の準備を、
心を尽くしてなさる
この夜は、
何しろ眠れないのだから、
大変である
美味しい食べ物、
酒などの用意、
碁・双六、
絵合わせ歌合わせ、
物語を論じたり読んだり、
というさまざま愉しいまどいを、
設営しなければならない
伊周大臣は、
そういうことにかけては、
とても才能のある方で、
私たちも久しぶりに、
故関白さまがご在世のころと、
同じような活気と花やぎを、
とりもどして、
座は夜が更けるほど、
ますます賑わしくなる
明るく点じられた大殿油、
女房たちも今宵は、
一人も欠けず参上していて、
人がぎっしり、
眠気も吹っ飛んでしまう
私はその夜、
経房の君がいつぞや、
いっていらした物語を、
聞くことが出来た
それはかの、
目立ちたがりの陽気な伊達男、
藤原宣考(のぶたか)と、
結婚したという、
越前守・藤原為時の娘が書いた、
ものだそうである
宣考がかなり自慢して、
人に見せているのだそうだ
娘時分から書きためていて、
それがこうやって、
世間に広まっているものらしかった
今夜の席には、
鷹司どのにお仕えする女房で、
歌よみとして名高い、
赤染衛門という人の書いた、
物語も持ちこまれている
私は兵部の君を通じて、
赤染衛門と呼ばれる人とも、
顔見知りであった
そういうことが、
私を左大臣家のまわしもの、
と疑われる原因になっていた
鷹司どのというのは、
左大臣・道長の君の北の方、
倫子の上のことである
赤染衛門は、
学者の大江匡衡(まさひら)の妻で、
子供も大きくなっている、
中年婦人だが、
よく太って若々しく見え、
気立てはゆったりと、
おうような人で、
誰にも好かれているようである
彼女の歌は、
私からいわせると、
規格品めいてうまみはないが、
世間ではたいそう高く、
評価されている
学者の家に嫁いだこともあって、
男そこのけの才学を、
謳われている人だが、
彼女の文章はその歌同様に、
私にはまどろかしく、
感じられる
むしろ、
為時の娘の小説の方が、
文章に折々才気があっていい
「うつせみ」
というその題もよかった
若い貴公子が方違えに行った先の、
邸の人妻と契る、という、
さらりとした短編であるが、
印象的な描写があっていい
しかしこれだけではまだ、
海のものとも、
山のものとも、
わからない淡白さである
二つの物語を、
声の美しい若い小弁の君と、
小兵衛の君が読む
そのあいだ、
私たちは中宮の御前だというのに、
今宵は特にゆるされて、
くつろいで聞いている
幸い今宵は、
風も涼しく通ってよい
赤染衛門の短い物語は、
古い時代の帝の一代記で、
とりたてて山もなく、
まるで講義を受けている、
といったもの
私は為時の娘の、
「うつせみ」に惹かれて、
「これをお貸し下さるわけには、
まいりませんかしら・・・
筆写してお返ししますわ」
といった
「ほう
これがお気に入りましたかな」
伊周の君はにっこりなさる
「どうぞお持ち下さい
宣考は結婚したその若い妻の、
文才がひどく自慢らしくて、
本人がいやがるのに、
あちこち見せ歩いているから、
おだてればまた、
ほかのも見せるかもしれない」
「そんなにたくさん、
書いているのでございますか」
「短編の連作を、
しているようですね
ほかに、
『ゆうがお』とか、
『すえつむはな』などという題を、
聞きました
女はみな物語好きとみえて、
私の妻のところにいる、
女房たちも奪い合って、
読んでいるようだ」
伊周の君は、
妹の中宮に向かれて、
「ご感想はいかがです」
「物語は聞いているうち、
眠くなってしまって、
庚申待ちには、
ふさわしくありませんね」
中宮は笑いながらいわれる
「聞きながら、
考えていたのだけれど、
物語よりも、
わたくしたちがいつも交わす、
話のほうが面白い気がするわ
ほら、
たとえば、
この間も、
『いい匂いの思い出の話』
と言い合ったでしょう
そういう話の方が、
わたくしにはずっと面白く、
思えてよ
そうねえ・・・
笛はどういうのがいいか・・・」
中宮は人々の気持ちを、
活発に引き立てられる
「少納言、
笛は何が好き?」
「は、
横笛でございましょうか」
私は主上が、
お笛の名手であられるので、
つい、そういう
「遠くから聞こえる笛の音が、
しだいに近くなりますのも、
心おどりますし、
反対に近くで聞こえていたのが、
遠ざかってゆくのも、
しみじみした風情でございます」
「そうね、
それにふところに入れても、
袂に隠しても、
かさばらないところが、
面白うございます」
小弁の君が続ける
「おや、
盗むのにちょうどいい、
ってわけかね?
中宮さま、お気を付けください」
と、弟君、隆家の君が、
あいかわらず遠慮のない、
合いの手を入れられて、
どっと座がにぎやかにどよもされる
「車の中から聞こえるのも、
かちで歩きながらゆくのも、
馬上で吹きながらいく殿方も、
笛はいいものでございます」
宰相の君がうっとり、
いったものだから、
「誰だ、誰だ、
その男は・・・」
伊周の君が責められる
(次回へ)
・そうだ、
まだ則光と暮らしていたころ、
則光が夫で私が妻であることを、
全く疑わないで暮らしていたとき、
あれは、七、八年前のことなのに、
もう何十年も遠い昔の、
気がする
私が初夏の山里の風趣が、
好きなのを知って、
連れ出してくれるのであった
則光自身も田舎の風物が、
好きな男だった
則光は馬に乗り、
車の前になり後になりしてゆく
小鷹丸といった上の子は、
則光に抱かれて馬上にいた
その下の小隼丸は、
従者と共に馬に乗って、
はしゃいでいた
おとなしくて美しい、
五つ六つの末っ子の吉祥丸は、
私の膝に
車の窓から見る景色は、
いまこの景色と、
そっくり同じだった
やわらかな新芽の枝、
蓬の匂い、
あのときの車の中には、
吉祥の乳母や、
私の乳母子の浅茅がいた
浅茅は今も私の三条の邸に、
折々来て、子供たちの情報を、
もたらしてくれる
小鷹丸は元服して、
一人前の男になってしまった
私の生んだ子ではないけれど、
折々は思い出す
小鷹はいま、
則長(のりなが)という名になっている
(おれのお袋は、
中宮にお仕えして、
清少納言の君と、
呼ばれているんだ)
と人に話していた、
と聞くこともあった
私のことを、
お袋と思っているのであろうか
男の子なので、
かなり早くに、
手を離れてしまったから、
馴染みは深くなかったけれど、
私のことを人に話して、
誇らしく思っていてくれる、
とすれば嬉しかった
小鷹は父に似たのか、
気性のさっぱりした、
如才ない子で、
私のことをすぐに、
「お母ちゃん」と呼んだ
吉祥はやっと、
「うまうま」がいえる、
赤ん坊だった
あの子は私が家を出てから、
お坊さんになってしまった
長いこと会っていない
そんなことを思い続けていて、
しかし、彼らに会いたいという、
欲求もなかった
私はただいま、
この現在の境遇に、
満足しやすい女なのだ
「ここは小二条の殿の、
ご別荘でございます」
という従者の声に、
ふと見ると趣ありげな、
田舎屋だった
小二条の殿というのは、
中宮の伯父君、高階明順の君のこと
中宮をいつもかわらず、
庇って下さる伯父君で、
兄君・伊周の君や、
弟の隆家の君が都を離れて、
いらしたとき、
中宮はこの伯父君の邸に、
身を寄せられていられた
明順の君は、
風変わりな隠者趣味のある方、
として有名で、
世間の人気も悪くない
もともと中宮の母君の、
お里方、高階家は学問教養で、
すぐれていられるのに加え、
大変な野心家である、
ということなのだが、
その流れから明順の君は、
ちょっと外れていられる
だからこそ、
先年の流謫事件のときも、
この君だけは、
お咎めがなかった
いまは但馬権守でいられるが、
世俗の栄誉とかけ離れたところで、
人生を楽しむというお気持ちらしい
中宮は二条北宮が怪火で、
焼け落ちたあと、
一年ばかりこの伯父君の、
小二条邸に身を寄せられ、
明順の君もゆきとどいた、
お世話をなさった
私は明順の君を思うたび、
いつぞやの斉信の君が、
私にいわれた忠告を考えずに、
いられない
あれはまだ、
伊周の君が内大臣どので、
花山院事件をひきおこされ、
その罪科が決定される前のこと、
人心が動揺している最中だった
当時、頭の中将だった、
斉信の君はひそかにいわれる
「少納言、
あなたは里へ退っていなさい
その方が中宮のおんためである
もめごとがおきたとき、
中宮さまを外から支える、
お役目の者もいたほうがいい」
私にはそのとき、
斉信の君のお言葉が、
すっかりわかったとは、
言いにくかかった
しかし、事態は、
はからずも斉信の君の、
いわれた通りになってしまった
それゆえ、
そのあと私が出仕すると、
人々は結束して私を、
(あれは左大臣家のまわしもの)
という目で見たけれど、
私は中宮さまさえ、
わかって下さればいいと思って、
気強く押し通していた
私が左大臣家の女房の、
兵部の君やらそのほかの、
誰かれ、
また北の方の倫子の君に仕える、
女房に知り人があることが、
そして致信のような左大臣家の、
侍を兄に持っていることが、
かえって中宮をお守りする、
利点だと思うようになっている
そういう位置に、
この明順の君は、
いられるのではないか
いまも左大臣家での、
祝い事やら催しごとのたび、
明順の君は招待状が来るという
また配所から帰京された、
伊周の君や隆家の君とも、
隔意なく行き来される
痩身で長いお顔で、
人柄はひょうひょうとして、
ときにおかしいことをいわれるので、
有名である
出世や利権に関心なく、
脱俗的で、
おかしみのわかる方、
として明順の君は、
世間から好感をもたれて、
いらっしゃる
「殿はいま、
この別荘においでです」
というので、
「じゃ、見せて頂きましょう」
と車を止めた
明順の君は喜んで出てこられる
「おお、
こんな田舎屋へようこそ」
「ほととぎすを聞きに、
まいります途中ですの」
「ほととぎす?
やくたいもない
賀茂の奥まで行かれなくとも、
このへん、
かしましいばかりに、
鳴いておりますよ」
ほんとうに、
ほととぎすがのびのびと、
鳴きかわしていた
「まあ、こんなに・・・
中宮さまにも、
お聞かせしたいわ
あんなに来たがっていた人々にも」
などと言い合った
家は田舎風に質素だった
馬の絵の板障子、
網代の屏風、
ことさら古風な趣味で、
統一されている
建物も凝らずに、
まるで全体が廊下のような、
端近な感じだが、
その代りどこにいても、
屋外の自然が見え、
風はよく通り、
木々の匂いを運んでくる
私の好ましい家である
(次回へ)
・京極殿、道長の君のお邸には、
物語好きの人が多いらしかった
定子中宮をお囲みする、
女房たちには、
物語を読むよりも、
おしゃべり好きの人が多い
会話の機智や頓智を楽しむ
いつも中宮の御前では、
面白おかしい話題が、
活気をもって飛び交う
物語を読んで、
し~んとみんなが聞き入る、
といったしんみりした趣では、
ないのだ
などというのも、
私はいつの間にか、
あの越前守・為時の娘、
宣考と結婚したときく娘が、
物語を書き、
それが左大臣家のお邸の、
婦人たちに愛好されている、
ということにこだわっている
その娘への競争心もさりながら、
左大臣家のお邸には、
左大臣どのが一日一日、
ご成長を待っていらっしゃる、
彰子姫がいられる
姫はまだ十一歳でいられるけれど、
やがてそろそろ裳着のことがあり、
成人される日は近いだろう
その日には、
やがて入内されるだろう
もしそうなったら、
弘徽殿や承香殿どころの、
勢いではなくなるだろう
このところ、
私はご機嫌
中宮のいられる職の御曹司は、
人が多く集まって花やかだし、
中宮もご機嫌うるわしく、
おん年二歳になられた、
脩子内親王はますますお可愛く、
主上の一の姫宮として、
公的にもお扱いはきわめて重い
それにこのごろ、
中宮方の女房たちも、
若い小兵衛の君や、
小弁の君がしっかりしてきて、
かなりつきあい安く、
面白くなってきた
私は年輩者や、
老いこんだ気持ちの女・男と、
つきあうのはいやである
年はとっても、
心の若々しい人でないと、
つきあう気がしない
小兵衛の君は、
私よりずっと若いが、
陽気で好奇心強く、
遊び好きのところ、
よく私に似ていて、
気があっていい
男性の友人、
経房の君や行成卿など、
たくさんいるし、
私は夫や子供より、
友人で充たされる女なのかも、
しれない
寺参りや物見に出かけるとき、
車の下簾の外へ、
そっと出す着物の端、
ああいうものを見てくれる、
目のある人がいればよい
せっかく趣向をこらし、
人が、やりすぎ、
と思うくらい派手に衣をこぼして、
これ見よがしにしているのに、
誰一人にも会わない、
なんて全く悔しい
所詮私は、
見られたいという欲が、
人一倍強いのかもしれない
せっかく気取って、
外出しているのに、
注目してくれる人に、
会わぬ悔しさったらない
(そうだわ・・・
『くやしいもの』
の中にこれも入れよう)
いまの私は、
かなり何もかも充足している、
といっていい
自分の夫も子も家庭も、
ないけれど、
中宮のいられるところが、
私の家庭で、
夫の代りに友人たちがあり、
子供は世間にみちみちていた
そしてそれらすべての上に、
私の好奇心がある
退屈なんかしたことが、
なかった
五月には御精進がある
雨もよいの曇り空で、
私はつれづれのあまり、
「ほととぎすの声を、
聞きにいかない?」
というと、
右衛門の君が賛成した
賀茂の奥までいこう、
ということになった
五月五日の朝、
中宮職の役人に車の手配を頼む
五月雨の降るときは、
お咎めない慣わしというので、
牛車に乗り込んだ
私と右衛門の君、
小兵衛の君、
小弁の君、
といったいつもの遊び仲間である
ほかの女房たちが、
うらやましがって、
「もう一台仕立てて、
あたしたちも連れて行って」
といったが、
意地の悪い右衛門の君が、
「だめよ、
きっとお許しが出ないわ」
と冷たくいってもきかず、
右衛門の君は、
「さ、早く出してよ」
と従者にいって、
「意地悪・・・」
とうらめしがられている
「連れてゆくことないわ
一台でこっそり、
というところが面白いんだもの
たくさん引き連れたって、
わずらわしいばかりよ
さ、早く出しましょう」
と私もいった
ほととぎすを聞きに行こう、
という話になったときは、
「そうねえ・・・」
などと尻重で口重、
出渋っていたくせに、
いざ私たちが出るというと、
簾のそばまで出てきて、
うらやむ
私はぐずぐずの、
人うらやみというのが、
きらいだから、
(行こう!)
となったとき、
(よしきた)
と応ずるのが好きなのである
右衛門の君は意地悪だが、
そういういさぎよいところがあって、
決断力にすぐれ、
十九、二十歳の若い人は、
心に弾みと好奇心があるから、
出しゃばりである
要するに私は、
行動力があって、
うじうじしない女が、
好きなのである
西洞院大路を北へいった、
一条大路の外れに、
左近の馬場がある
人が集まっているので、
聞くと、
「今日は、
五日でございますので、
騎射競技がございます
ご覧になりませんか」
と車を止めた
従者は人に聞いて、
「左近の中将どのが、
おいでのはずです」
という
「左近の中将なら、
斉信の君でいらっしゃるわ」
と私はなつかしくて、
久しぶりに消息をことづけたい、
と思ったけれど、
そういう人も見えない
右衛門の君が、
「つまらない
六位ばかりうろうろして、
行きましょう
ろくな人がいやしない」
とずけずけいって、
車をやらせる
一条大路を行くと、
はや賀茂にちかく、
四月の賀茂祭を思い出させる
草の匂い、
目に晴れ晴れする青葉、
通る者もいない野道に来たので、
窓を開け、車の下簾をかきあげ、
「まあ、いい匂い」
と息を吸い込む
草が繁っている道、
下は水たまりで、
深くはないが歩くにつれ、
しぶきがあがる面白さ、
左右の民家の垣根の枝が、
ふと窓から入ってくる
折ろうとする間に、
車は通り過ぎる
「あら、蓬が匂うわ」
と小兵衛の君がいう
車はごろごろ野道にさしかかり、
あたりは蓬が生い茂っている
「車のわだちに・・・
押しつぶされて匂うのね」
私もなつかしい香りだった
このなつかしさ、
ずうっと前に味わった気がする
どこでかしら?
(次回へ)