「出店」は、住友史料館によると、江戸時代の通例で「でみせ」または「でだな」と呼ぶ。1)支店、出張所である。「出店」は泉屋が付けた呼称であろう。ただ天満の出店の仕事状況については、活字になって公表されている住友史料中に見つけられなかった。天満村では「でみせ」と呼ばれていたことは、現在でも出店があったとされる地区は「出店」(でみせ)と呼ばれていることから推定できる。
「元禄8年8月覚留帳」によれば、1)2)の天満にいた泉屋手代は4人で、庄右衛門(阿州)、徳右衛門(大坂)、惣兵衛(紀州)、作兵衛であった。「出店」に常駐していたのであろう。また「11月中頃外財人数改覚」には、乙地中持180人、天満中持200人と書かれている。
「口屋」とは、本ブログで明らかにしたように3)、石見銀山の柵の出入り口に設けた家屋のことで、人の出入りを厳重に管理すると共に、幕府(大久保長安)が「銀・米」の量をチェックし税を算定する役目を担わせたことに由来する(元和年間(1615-1623)の絵図)。その後佐渡金山では港に「口屋」が設けられたのである(天和年間(1681-1684)の絵図)。これが別子銅山にも適用された。よって「口屋」は、幕府側の仕事からつけられた呼称であり、銀金銅山に出入りする銀金銅・米・炭などの数量をチェックし、課税算定をするのが第一の最も大切な仕事である。
しばしば「口屋(浜宿)」と書かれるが、宿は口屋に付随した建物であり、泉屋などの民間がしたのである。筆者としては、「口屋(浜宿)」の表示は、口屋本来の仕事を誤解させるので好ましくないと思う。石見銀山では、柵の出入り口だけでなく、そこに行く道筋にも口屋が設けられて、物流、人流から税をとったのである。なお時代を経て、「口屋」から「番所」に名称が変わったところもある。
新居浜口屋(口家)の初出は宝永7年(1710)である。この時は、「立川口家」も書かれている。4)それ以前の宝永4年(1707)では「新ゐ浜役所」と記録されている。このことから、元禄の天満村で「口屋」と呼ばれていたかはわからない。
しかし、川之江代官所の現場詰役人の1~2人が天満村にいたはずで、その場所および役職を本報では「口屋」と仮に呼ぶことにする。
1. 出店はどこにあったか。
寺尾勉氏の娘さんが「父から聞いた話」では、出店は寺尾勉氏宅(天満451)に南北の道路に面してあった。 →図1
大きさは、5間×3間位。証拠になる遺物はない。荷馬の両側に粗銅を掛けて運び、出店で銅量をチェックし、押印したと伝わる。向かいにも関連施設があったかもしれない。
この四辻には、水神地蔵(寛政元年(1789)己酉4月吉日)と水神祠、「金 奉燈」の常夜燈(江戸末期~明治?)があるが、5)元禄当時のものではない。→写
なお図1には、筆者が推定する粗銅が運ばれた道を赤線で示したが、詳細な検討は後日にしたい。
これらのことを参考にして筆者の推理は以下のとおり。
「泉屋の出店において、荷馬で運んできた粗銅を泉屋手代がチェックし押印した。道路を挟んで東向かいの屋敷には、物品倉庫、宿、飯屋があり、荷馬を停め、人が集まる広場があった。」→図2
2. 口屋はあったか、どこにあったか。
地名としては残っていない。川之江代官所の現場詰役人が、徴税のための粗銅や米などの物流をチェックするには、出店近くにいるのが一番便利で確実である。数量調べなどの実務は泉屋手代がやるので脇でそれをチェックすればよいからである。よって口屋は、出店の家屋の一室又は隣にあったと筆者は推測する。→図2
1~2人の役人詰め所は小さいので、有名ではなく、出店の名前だけが残ったのであろう。天満浦に口屋を設けて常駐するのは役人にとって負担が大きすぎる。
3. 粗銅倉庫はあったのか。
粗銅倉庫が海岸沿いにあったという話もあるが、証拠がない。
出店から伝馬船に載せる天満浦まで約1.8kmある。元禄14年(1701)の産銅量1322トンなので一日あたり1322トン/365日=3622kg/日となる。荷馬に掛けて運べる重量は一駄(2丸 36貫=135kg)であるので、6)一日あたり(3622/135=)27駄となる。大坂への銅廻船(弁財船)の大きさには2種類あるようで、積んだ粗銅の重さが8~9トンの船と15~16トンの船である。7) 銅廻船に粗銅15トン積むには(15000/135=)111駄必要となる。日数でいえば、(111/27=)4.1日分である。
筆者は、銅廻船が出帆するまでの流れを以下のように推測する。
出店で通過する荷馬に積んだ粗銅の重さ(紙に書かれている)を記録→そのまま荷馬で天満浦に到着→伝馬船に積み込む→銅廻船に運ぶ→銅廻船で所定重量に到達→大坂へ向けて出帆
銅廻船そのものを、粗銅倉庫とすると最も効率がよいのである。よって、海岸には粗銅倉庫はなかったと推測する。悪天候や突発事情発生の場合は、粗銅を一時保管する小さな倉庫は必要なので、それは、出店の向かいに設けていたのではないかと推測する。
まとめ
1. 元禄8年天満の出店には泉屋の手代が4人いた。天満中持は200人いた。
2. 川之江代官所の現場詰役人1~2が、課税算定の銅量をチェックするため、出店隣の口屋にいたと推測した。
3. 粗銅倉庫は海岸にはなく、小倉庫が出店近くにあったと推測した。
住友史料館様には、回答をいただきお礼申しあげます。
注 引用文献
1. 住友史料館よりの回答(2023.7.25)
2. 「別子銅山図録」p29「元禄8年亥8月覚留帳」の豫州手代覚の内・天満(別子銅山記念出版委員会編集・発行 昭和49年 1974)
3. 本ブログ「口屋の名の由来」(2019-3-24)
4. 本ブログ「新居浜口屋といつから呼ばれたか」(2019-4-17)
5. 「天満・天神学問の里巡り」(2021)44番(岡本圭二郎 館報173号(2005))
6. 本ブログ「別子荒銅1丸の荷姿は?」(2020-1-16)
7. 本ブログ「元禄期に別子銅を天満浦から大坂へ運んだ銅船の船主は?」(2020-8-23)
図1 天満の出店の位置(明治39年測図41年発行の5万分1地形図(国土地理院)に記入した。赤線は粗銅が運ばれた道)
図2 出店まわりの配置想像図
写 出店四辻の水神地蔵と常夜燈
「元禄8年8月覚留帳」によれば、1)2)の天満にいた泉屋手代は4人で、庄右衛門(阿州)、徳右衛門(大坂)、惣兵衛(紀州)、作兵衛であった。「出店」に常駐していたのであろう。また「11月中頃外財人数改覚」には、乙地中持180人、天満中持200人と書かれている。
「口屋」とは、本ブログで明らかにしたように3)、石見銀山の柵の出入り口に設けた家屋のことで、人の出入りを厳重に管理すると共に、幕府(大久保長安)が「銀・米」の量をチェックし税を算定する役目を担わせたことに由来する(元和年間(1615-1623)の絵図)。その後佐渡金山では港に「口屋」が設けられたのである(天和年間(1681-1684)の絵図)。これが別子銅山にも適用された。よって「口屋」は、幕府側の仕事からつけられた呼称であり、銀金銅山に出入りする銀金銅・米・炭などの数量をチェックし、課税算定をするのが第一の最も大切な仕事である。
しばしば「口屋(浜宿)」と書かれるが、宿は口屋に付随した建物であり、泉屋などの民間がしたのである。筆者としては、「口屋(浜宿)」の表示は、口屋本来の仕事を誤解させるので好ましくないと思う。石見銀山では、柵の出入り口だけでなく、そこに行く道筋にも口屋が設けられて、物流、人流から税をとったのである。なお時代を経て、「口屋」から「番所」に名称が変わったところもある。
新居浜口屋(口家)の初出は宝永7年(1710)である。この時は、「立川口家」も書かれている。4)それ以前の宝永4年(1707)では「新ゐ浜役所」と記録されている。このことから、元禄の天満村で「口屋」と呼ばれていたかはわからない。
しかし、川之江代官所の現場詰役人の1~2人が天満村にいたはずで、その場所および役職を本報では「口屋」と仮に呼ぶことにする。
1. 出店はどこにあったか。
寺尾勉氏の娘さんが「父から聞いた話」では、出店は寺尾勉氏宅(天満451)に南北の道路に面してあった。 →図1
大きさは、5間×3間位。証拠になる遺物はない。荷馬の両側に粗銅を掛けて運び、出店で銅量をチェックし、押印したと伝わる。向かいにも関連施設があったかもしれない。
この四辻には、水神地蔵(寛政元年(1789)己酉4月吉日)と水神祠、「金 奉燈」の常夜燈(江戸末期~明治?)があるが、5)元禄当時のものではない。→写
なお図1には、筆者が推定する粗銅が運ばれた道を赤線で示したが、詳細な検討は後日にしたい。
これらのことを参考にして筆者の推理は以下のとおり。
「泉屋の出店において、荷馬で運んできた粗銅を泉屋手代がチェックし押印した。道路を挟んで東向かいの屋敷には、物品倉庫、宿、飯屋があり、荷馬を停め、人が集まる広場があった。」→図2
2. 口屋はあったか、どこにあったか。
地名としては残っていない。川之江代官所の現場詰役人が、徴税のための粗銅や米などの物流をチェックするには、出店近くにいるのが一番便利で確実である。数量調べなどの実務は泉屋手代がやるので脇でそれをチェックすればよいからである。よって口屋は、出店の家屋の一室又は隣にあったと筆者は推測する。→図2
1~2人の役人詰め所は小さいので、有名ではなく、出店の名前だけが残ったのであろう。天満浦に口屋を設けて常駐するのは役人にとって負担が大きすぎる。
3. 粗銅倉庫はあったのか。
粗銅倉庫が海岸沿いにあったという話もあるが、証拠がない。
出店から伝馬船に載せる天満浦まで約1.8kmある。元禄14年(1701)の産銅量1322トンなので一日あたり1322トン/365日=3622kg/日となる。荷馬に掛けて運べる重量は一駄(2丸 36貫=135kg)であるので、6)一日あたり(3622/135=)27駄となる。大坂への銅廻船(弁財船)の大きさには2種類あるようで、積んだ粗銅の重さが8~9トンの船と15~16トンの船である。7) 銅廻船に粗銅15トン積むには(15000/135=)111駄必要となる。日数でいえば、(111/27=)4.1日分である。
筆者は、銅廻船が出帆するまでの流れを以下のように推測する。
出店で通過する荷馬に積んだ粗銅の重さ(紙に書かれている)を記録→そのまま荷馬で天満浦に到着→伝馬船に積み込む→銅廻船に運ぶ→銅廻船で所定重量に到達→大坂へ向けて出帆
銅廻船そのものを、粗銅倉庫とすると最も効率がよいのである。よって、海岸には粗銅倉庫はなかったと推測する。悪天候や突発事情発生の場合は、粗銅を一時保管する小さな倉庫は必要なので、それは、出店の向かいに設けていたのではないかと推測する。
まとめ
1. 元禄8年天満の出店には泉屋の手代が4人いた。天満中持は200人いた。
2. 川之江代官所の現場詰役人1~2が、課税算定の銅量をチェックするため、出店隣の口屋にいたと推測した。
3. 粗銅倉庫は海岸にはなく、小倉庫が出店近くにあったと推測した。
住友史料館様には、回答をいただきお礼申しあげます。
注 引用文献
1. 住友史料館よりの回答(2023.7.25)
2. 「別子銅山図録」p29「元禄8年亥8月覚留帳」の豫州手代覚の内・天満(別子銅山記念出版委員会編集・発行 昭和49年 1974)
3. 本ブログ「口屋の名の由来」(2019-3-24)
4. 本ブログ「新居浜口屋といつから呼ばれたか」(2019-4-17)
5. 「天満・天神学問の里巡り」(2021)44番(岡本圭二郎 館報173号(2005))
6. 本ブログ「別子荒銅1丸の荷姿は?」(2020-1-16)
7. 本ブログ「元禄期に別子銅を天満浦から大坂へ運んだ銅船の船主は?」(2020-8-23)
図1 天満の出店の位置(明治39年測図41年発行の5万分1地形図(国土地理院)に記入した。赤線は粗銅が運ばれた道)
図2 出店まわりの配置想像図
写 出店四辻の水神地蔵と常夜燈
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