萩城城下町は江戸時代の地図と同じ町並みが残っており、世界遺産「明治日本の産業遺産」の構成要素となっています。
1.萩城城下町「伊勢屋横丁」
南から北へ三本の道筋に史跡が集中しています。
西から高杉晋作誕生地のある「菊屋横丁]、中央の「伊勢屋横丁」、木戸孝允旧宅がある「江戸屋横丁」となります。
2.萩城城下町の地図
中央公園駐車場から橋を渡って城下町の入り口に地図があります。
地図は西が上となっています。
3.晋作広場の立志象
菊屋横丁と伊勢屋横丁に挟まれた南側に「晋作広場」があります。
幕末、長州藩内も倒幕の「尊王攘夷」派と幕府恭順の「公武合体」派に揺れ動いていました。
文久3年(1863年)幕府が朝廷から要請され制定した攘夷(外国人打ち払い)期限が過ぎ、長州藩は関門海峡を通過する米仏の軍艦をいきなり砲撃しました。
翌年準備万端の4か国の報復に逢い惨敗します。(下関戦争)
その後の講和使節に藩が抜擢したのが高杉晋作でしたが、当時彼は脱藩の罪で牢につながれていました。
4.高杉晋作住居
菊屋横丁にある高杉晋作誕生地。菊屋横丁は日本の道100選に選ばれています。
下関戦争後の4か国連合軍(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)との講和会議に臨んだ高杉晋作の終始毅然とした態度を
「魔王のようだった」とイギリス司令官の通訳が評しています。
5.木戸孝允誕生地
伊勢屋横丁にある木戸孝允誕生地。
幕末、木戸孝允は「桂小五郎」の名で京都で公家や他藩との外交役を務めました。
坂本龍馬の仲介で長州の代表として京都で西郷隆盛らと面会し、薩長同盟を承諾しました。
薩摩藩とは「禁門の変」の怨讐を超え倒幕のために前進しました。
薩摩藩は同盟の証として薩摩藩名義で外国商人から銃器・軍艦を購入し長州へ渡すことを提案、長州藩は後日藩主の親書を薩摩に送り両藩は和解しました。
6.木戸孝允旧宅の説明
維新後は太政官制度の参与・参議・文部卿などを兼任しました。
薩摩の大久保利光・西郷隆盛と並び明治の三元勲と謳われています。
7.夏ミカン
萩の夏ミカンは明治維新後の廃藩置県で職を失った武士の副業として始まりました。
夏ミカンの発祥の地とされています。
今では秋から冬の間、武家屋敷の庭に実る夏ミカンは風物詩となっています。
8.史跡萩城城下町の碑
萩城城下町は国指定の史跡となっていました。
9.萩城城下町の説明
上級武士の屋敷は萩城の外堀内にあり、この地域は商人も近くに住む中級武家屋敷が並んでいました。
10.中央公園駐車場にある久坂玄瑞進撃像
安政6年(1859年)に吉田松陰が江戸で刑死しました。
その後の久坂玄瑞は松陰の意思を継いで長州・水戸・薩摩などの尊王攘夷派の結成に向け尽力します。
長州藩は朝廷に「攘夷御親征」の建白書を出し、文久3年(1863年)「大和行幸、御親征」の詔勅を得るなど幕府を追い詰めましたが、
幕府は長州の独断攘夷を問題視し、攘夷親征の延期と長州派公卿の更迭が行われました。(八月十八日の政変)
長州藩は京都御所の宮門警衛を解かれ、禁裏への出入りを禁じられます。
元治元年(1864年)4月玄瑞は薩摩藩・福井藩・宇和島藩の藩主が京都を離れたのを好機とし、長州藩世子の上京を要請しました。
6月に長州では進発令が発せられ、玄瑞は長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し朝廷に奉りました。
ところが7月に薩摩藩兵が京都に到着すると形勢が急変し、幕府は諸藩に数万の京都出兵を要請します。
玄瑞の制止を聞かず藩の急進派が2000名の兵を連れ京都へ発信しました。
結局、蛤御門で西郷隆盛が指揮する薩摩藩兵と戦闘となり長州藩は敗走し、玄瑞も戦闘に巻き込まれ自刃しました。享年24歳。
久坂玄瑞亡き後、華々しく表舞台に登場するのが高杉晋作でした。
撮影:CANON EOS RP + RF24-105mm F4-7.1 IS STM
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