基山公園は日本最古の朝鮮式山城「基肄(きい)城」があった基山を公園として保存しています。
1.基山(きやま)山頂
西暦663年、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で倭国と百済の連合軍は、唐・新羅の連合軍と戦い敗れました。
唐軍の来襲に備え、太宰府防衛の拠点として古代最大の堤防「水城」と背後を守る山城「大野城」「基肄城」を築きました
2.草スキー場
西斜面は春と秋には芝生の草スキー場として開放されています。
3.太宰府防衛の拠点の一つ
基山公園の全体図
「日本書紀」の天智天皇の条には665年、百済の亡命軍人を筑紫野国に派遣し、大野城と基肄城を築かせたとあるそうです。
基肄城の築かれた基山(404m)は太宰府から南へ伸びる古代官道が筑後と肥前に分岐する交通の要衝に位置します。
大野城は太宰府政庁の北、基肄城は南に築かれました。
4.基山展望所跡
昭和初期に築かれ、現在は老朽化のため解体され基礎部分のみが残った「展望所跡」があります。
5.特別史跡基肄城跡の碑
山頂付近に「特別史跡基肄城跡の碑」があります。
登山道や山頂付近には石垣遺構や土塁、米蔵跡などの礎石群が多くみられます。
6.天智天皇欽迎の碑
山頂付近には基肄城の築造を命じた「天智天皇を顕彰する碑」があります。
7.山頂より東側の眺め
基山町方面の眺めです。
8.山頂より北側の眺め
太宰府・福岡方面が見えます。
白村江の戦い以降、唐と新羅が対立するようになったため、唐軍の九州侵攻はなくなり九州が戦場になることありませんでした。
基肄城の堅固な倉庫群は米などを備蓄しておく場所となり、後世に引き継がれていたそうです。
9.基肄城で大伴旅人が詠んだ歌
万葉集に収録されています。
大伴旅人は727年に太宰府の長官として63歳で妻と二人の息子を連れ赴任しましたが、翌年に最愛の妻を亡くしたそうです。
730年、旅人は自宅の庭で「梅花の宴」を開きましたが、元号「令和」はこの時に詠まれた歌の序文から引用されました。
撮影:CANON EOS RP + RF24-105mm F4-7.1 IS STM
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