上海下町写真館2014

ブログを始めて17年目、今でも多くの皆様が訪問していただけるので、できるだけ続けていきたいと思っています。

おおむら歴史の散歩道:長崎県大村市

2021-02-03 06:00:00 | 日帰りお出かけ
玖島城跡の北方丘陵地には武家屋敷跡が整備されています。

1.おおむら歴史の散歩道
武家屋敷街の内、3小路を1時間ほど歩いて巡りました。

2.中尾元締役旧宅
 

 
当主中尾静磨は大村藩を尊王討幕運動に導く原動力となった勤皇三十七士の一人で、
維新後は明治政府の諸役を務め、地元玖島銀行の創設にも参加しました。

3.小姓小路武家屋敷街の説明
 

 
小姓小路は築城時に丘陵地に築かれた五小路の一つの通りです。

4.小姓小路の石垣
 

 
藩主の世話をする近習が住んでいました。道の両側に屋敷跡の苔むした石垣が続きます。

5.本小路武家屋敷街の説明
 

 
玖島城から真っ直ぐ北に上る本通りです。

6.本小路の稲田家家老屋敷跡
 

 
当主の稲田利佐衛門も大村勤皇三十七士の一人。明治維新後転居するまで122年間続く旧家でした。
現在は建物は残っていません。

7.上小路武家屋敷街の説明
 

 
五小路の中でも一番長い通りでした。

8.上小路の淺田家家老屋敷跡
 

 
淺田家は藩主に従い入国した七士の筆頭でした。通りは長崎街道から1kmほどと近く37戸の屋敷が並んでいました。

関ヶ原の戦いでは東軍だった大村藩ですが、
長崎惣奉行なども歴任した藩も幕末には「佐幕派」と「勤皇派」の激闘の末、薩長土肥討幕派の中心の一藩となりました。
鳥羽伏見の戦いでは藩士の活躍が明治政府から認められ、維新後3万石の章典禄を受けています。
これは薩摩藩・長州藩の10万石、土佐藩の4万石に次ぎ、佐賀藩の2万石を上回っています。
5万石ほどの小藩には莫大な報償額で名誉だったでしょう。

吉田松陰が浦賀で黒船を見て驚愕し、鎖国論から一気に開国論を唱えたように、
当時長崎に近い大村藩の立地が、西洋の文明を身近に見聞した藩士が多く藩論がまとまったのではないかと推測しています。

案内所で配布される詳しい観光パンフレットや街頭の標識など、郷土愛と誇りが感じられる城下町でした。

撮影:CANON EOS M5 + EF-M15-45mm

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