ぐうたら主婦 きっとの暮らしと遊び

ヘタレな主婦の山歩きとぐうたらな生活の中で思ったことなどを書き連ねてみました。

退却コース

2015-01-29 17:42:21 | むかしむかし
むかし話のお師匠さま、と言うと叱られるかもしれない。
が、お師匠さまのブログを読みながら
ちょいちょい頭に浮かぶ疑問について考えていた。


「勝頼公が長篠戦から退却していった時、どのルートを通ったのか?」

ずーっと浮かんでは消え、浮かんでは消えている。
勝頼公の前備えであった望月氏(勝頼のいとこ、北信濃の望月氏へ養子に出た)
は柴田勝家に攻められて落ち延びるのに、東栄町の御園地区から峠を越えて
豊根村に抜け(豊根村役場の裏に延びる旧道は、そのまま信州新野への近道となっている)
信州経由で帰ろうとしたのだろう、と思われる。
伊那高遠は勝頼のかつての居城であり、武田の領地であったこともあるし。
もっとも昔の道はほとんど尾根道ではなかったかと思えば、旧道でさえも遠回りに
なるかもしれない。
しかし、豊根から新野に入ると馬頭観音やお地蔵さまが街道沿いにたくさんあるということは遠い昔から街道であったのではないかと思わせる。


ところで勝頼公は田峯城に立ち寄ったものの拒否され、やむなく武節城(稲武町)で
休憩したあと退却していった、とさまざまなところに書かれているが、

田峯城ー武節城のルートがどうしてもわからない。
今現在ある旧道、新道からはちょっと考えづらい。
武節城からは根羽村に抜ける中馬街道が現在の国道と平行するように走っていて
そのまま行けば無難に帰還できたのかもしれない。

明治生まれの祖母がいつも子供たちを寝かせるとき
「さあ、根羽ねへ行くぞ」
と言っていたことを思い出した。

「根羽ね」=根羽 =「武田信玄終焉の地、とも言われる土地」=「寝場=信玄が寝付いて亡くなった場所」???
(信玄は設楽町田口の福田寺で亡くなったという説もあり)
「根羽ねってなんだ?」
とよく疑問に思っていたが、まだまだ若かった自分はそのままにしてしまった。
大事なことを聞き忘れたと今になって思う。残念なことをした。
最近、というかちょっと前に「はっ、」と。
ひょっとしてそうなんじゃないか、そこから来てるんじゃないだろうかと
思い至ったりして。

そして勝頼公は父信玄の終焉の地を通って落ちのびてったのではなかろうか・・・。

また妄想してしまった。

ただ、武節城からは恵那(美濃)も高遠もどちらも行けるんだなあ。
実際車で走っても実感している。
毎回言うが尾根道を行けば、現在の国道を走るより最短距離で行けそうだ。
何だかまとまりません。