ぐうたら主婦 きっとの暮らしと遊び

ヘタレな主婦の山歩きとぐうたらな生活の中で思ったことなどを書き連ねてみました。

終戦の日

2020-08-15 21:18:00 | 日記
戦争が終わって75年。

原爆、大空襲、戦後の混乱(一言では言えないほどのいろいろ)。
昭和の戦中戦後を生き抜いた人たちもどんどんいなくなっていく。
オババは戦時中小学生だった。
父は豊川の海軍工廠に行っていた。海軍航空少年兵だったかなんだったかの試験を
豊橋まで受けにきて、落ちたので海軍工廠へ行ったとか言っていた。
前にも書いたが、父より10歳近く年上だった伯父は沖縄戦に召集され生き残って帰ってきた。
子どもも奥さんも大事にして戦後は働き通しだった。そして、時々バスツアーで旅行したり
それなりに楽しみも見つけて大往生した。

ある日沖縄戦の話を聞きたいと思って、聞いてみたが何も話してくれなかった。

父は空襲の日、たまたま家に帰っていて(うーんと山奥だったので空襲の被害は無い)
仕事に戻ろうと思って駅へ行ったが電車が来ないので、線路を歩いて豊川まで来たら(それもえらい長い距離だ)
大変なことになっていてぶったまげたそうだ。

その頃母親は小学校3年生で、空襲のサイレンに怯えてはいたが山の上から
遠くの空が赤く焼けたり、日本とアメリカの戦闘機の空中戦などを眺めていたそうだ。

相方の父親も潜水艦乗りで(伊号だったかロ号だったかもはや忘れた)
病気で船を下ろされ、療養しているときに潜水艦が出撃してしまった。
その後いろいろあって終戦時には豊川海軍工廠に居たという。
それも、空襲で命拾いしている。

私たちが結婚した時、すでに義父は亡くなっており
父とその当時の話をする事は出来なかったのは残念だった気がする。
昭和の時代は、まだ戦争当時の話もちょいちょい出ていたから。

しかし、もっともっと悲惨な戦中戦後を送った人たちは数知れない。
中でも親を亡くした子どもたちの事は、小学生の頃から話を聞かされていたので
胸が締め付けられる。
(母親が戦後中学を卒業して初めて名古屋駅に降りた時、まだ戦争孤児たちが寒い寒い駅で暮らしていたと言う。
可哀想でしょうがなかった、と言っていたが自分にもどうすることもできず見捨てるしかなかったそうだ。
その光景だけは忘れられないそうだ。そして、あの子たちは大きくなれたんだろうか?と終戦の日が来る度に
言っていた。)

原爆にしろ空襲にしろ遠く南の島での戦闘や満州から引き上げて来るまでの出来事など、
色々と記事を読んだりするとますます辛くなる。
もう、戦時中の話を生で聞けたり読めたりするのも残りの時間が少なくなっているせいか
戦争の話を「最後に」と言って話始める方もいると聞く。

あの時代を生きて亡くなった方々のおかげで今の生活がある。
広島と長崎の原爆の日、そしてきょう、うちの線香立てにお線香を3本立てて
感謝を捧げ ご冥福をお祈りした。
たまにはこんな日もある。