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十返舎一九 善光寺草津道中記 甲斐関係記述 豊年の冬には雪の貢物  載せるしら木の台ヶ原なれ

2020年12月14日 06時12分42秒 | 白州町見て聞いて

十返舎一九 善光寺草津道中記 甲斐関係記述

去年の金の草鞋身延まで著わしたれは、今年、版元の注文により身延よりすぐに善光寺・草津までの道

中を書くなり。欧州の二人の狂歌師、今年はこの道へ出かけ、まず甲州の府中より始まり、韮崎の宿に至りける。この甲斐道より木曽の諏訪へ出るまで平道にして、至って良し。結局江戸より甲府へ行く道中よりこの道中は山坂も無く宿やなども綺麗にて、満ちの景色も至ってよし。

 

是もまた楽しみなれや旅の者 

牛に牽かれて善光寺行

 

韮崎の宿に休みたるに、茶屋の女の汚げなるが、遠慮もなくべらべらと口を聞くを、

 

くさいもの身しらずなれや韮崎の

茶屋の女の嫌味絡みは

 

「あの田に居る奴は忌々しい。女が好きだと見えて、他人の聞いているのも構わず、女のことばっかり云っていやがる。おいらはあいつらの様なしみったれじゃあない。どんな美しい女が来ても振り返っても見やあしないが、その替わり直に腰が抜けて立たないには困り果てる。

 

 「今日はとんだ温かな日で、歩くといっそ汗を掻いて着物が腐る。いっそのこと、この背負っている桐油(とうゆ)を、着物の下へ来て行こうか。」

 「ほんにそれが良い。しかし貴様の桐油は薄いから汗を上通すだろう。わしの桐油(とうゆ)を貸してやろうから、貴様の桐油(とうゆ)と二つ重ねて着るが良い。そしてもし雨の降る時は、又その替わりかはりわしが二つ重ねて着て、やりましょう。

【桐油 きりゆ アブラキリの種を摂油して得られる。これを麻の着物に浸した着物 雨除け】 

「これをしまったら昼飯にしよう。貴様、甲府で弁当をつかっている内、俺はちょっと嬶衆(女衆)の顔を見てきたい。

 「さっきから馬の尻を嗅いで気持ちが悪くなった。おらが嬶衆(女衆)は馬の糞の臭いがする。

 「宿六殿は、何を戯言云うやら。こなたより俺には家の嬶衆(女衆)が惚れていて、俺が太鼓を打つ度に、涎を垂らして嬉しそうに見ていらァ。

 

韮崎の宿より、野道を過ぎ行くに、四里行きて台ヶ原の宿。ここに御関所あり。まるや弥源治という宿に泊まる。明ければ二里半ほど行きて蔦木の宿に至る。この宿にも大坂屋源右衛門という良き宿屋あり。

 

豊年の冬には雪の貢物 

載せるしら木の台ヶ原なれ

 

名にめでて蔦木の宿や旅人に 

からみつきたる留め女ども

 

「今後の宿で、若井女の抜け参りが三人、どれも渋川の剥けた奴らであったが、路用が尽きて晩の泊り錢もないと云うから、あんまり可哀想だと、一人前錢に百づつやってきたが、大きな功徳をしたと、雲助どもへ話したら、それは旦那の成り形、顔つきまで悪党めいて御座るから、ひょっと、取り付かれようかと思ってわざと錢のないようにいったものさ。遠い国から出てくる女は皆そうさ。金はたんともって出ても、わざと汚いなりをして錢のないふりをして歩くは、寝るものが恐ろしい故、それを本当だと思って錢を百づつやったとは、お前よっぽど鼻毛の伸びたお方だと、笑いぁがった。忌々しい。


〔白州の民話・伝説〕馬八節(民謡) 大坊『白州町誌』一部加筆

2020年12月13日 12時53分16秒 | 白州町見て聞いて

〔白州の民話・伝説〕馬八節(民謡) 大坊『白州町誌』一部加筆

 

 オーヤレヨ~ 

田の草取りにたのまれて 

行くもいや 行かぬも義理の間の悪さ

 

戦国の昔、武田家の家臣に黒田八右衛門という者が巨摩郡大坊村の組頭として赴任して、一年足らずでありましたが、当時村小町と呼ばれる美貌の「お定」と呼ばれた、吉右衛門の娘とねんごろになり、二人は恋の闇路をたどっていました。

しかし、八右衛門は別の任地に行かねばならず、身を切るような、悲しい別れをしました。お定は間もなく、一人の男の子を産み落し「馬八」と、命名しました。

その後、お定の情熱はさめやらず、日夜八右衛門に焦がれたが、所詮手は届かず、ついに狂い死してしまいました。

ひとりぼっちの「馬八」は、祖父に育てられ、十五才の時白須村の豪農徳右衛門の馬子として雇われ、一生懸命に立ち働いたので、たいそう可愛いがられました。馬八は馬と唄が大好きで、愛馬の手綱を引いては、米穀を韮崎まで運ぶのが、日課のようでした。

彼は持ち前の美声に物を言わせて、唄いながら街道を上り下りしました。沿道の人々は、馬八の唄を聞くのが、なにより楽しみのようでした。

「カラスの鳴かぬ日はあっても、馬八の唄声を聞きてえもんだ」

と、馬八の来ぬ日は寂しがったといいます。

馬八は母親に似て、美男子そして美声とあって、年頃の娘たちを湧き立たせ、思いを馳せる人たちが多勢いました。

そのうち横手村の名主庄右衛門の娘「お政」の情には、かた気の馬八も、ついほだされて、二人は相思相愛の伸となりました。

二十五才の春、かれは庄右衛門に夫妻にしてくれと頼んだが、頑として拒まれたので、二人は手を取り合って、尾白川の千ケ渕に身を投げてしまいました。

驚いた庄右衛門始め村人は、なきがらをねんごろに弔い、馬八在世中の唄に合わせて、踊りもつくり、追善供養をしました。これが今日唄われている、武川筋の郷土民謡であります。(村のあゆみ)

 

 

白州町指定文化財 無形民俗文化財 馬八節(『白州町誌』)

大坊保存会 昭和五六年指定

 ****「田の草節」から「馬八節」へ ****

平安時代末期~戦国時代、大武川筋一帯は、甲斐源氏の名馬の産地「甲斐駒」の牧の里であったといわれ、武田家の家臣、黒田八右衛門を父とし、大坊村(現白州町大坊)に生をうけた八兵衛は、大の馬好きで、成人して馬子となった。彼は聡明で美声の持主、侮日河原部村(現韮崎市韮崎町)まで産物を馬で運びながら「田の草節」を唄って通った。街道筋の人々は美声の馬子の唄を聞くのを楽しみに名物馬子となった。

いつしか「田の草節」は「七、五、五、七、四」の調べの詩型と独得のテンポとリズムに変っていった。誰いうとなく「馬八節」と呼び、道中唄となった。

それ以来白州町、武川村、韮崎市などで歌い継がれてきた。

昭和五十六年一月に大坊区民を中心として「馬八節保存会」を結成し、

同年八月には白州町文化財保護条例により民俗芸能に指定された。それを機会に「馬八節レコード発表会」も行なわれた。

  オーヤレヨー 大川端で ハコーラ  

葦よ刈れば 葦やあなびく

よしきりや ないて

コーラからまる

  オーヤレヨー 馬八馬鹿と ハコーラ

おしれども 馬八の唄聞く奴は

コーラ なお馬鹿

  オーヤレヨー 韮崎出ては ハコーラ

日の七つ 白須へな 着いたが夜の

コーラ 九つ

  オーヤレヨー わたしの生まりゃ ハコーラ

入り大坊 薮の湯へ 来たらお寄り

コーラ くだされ

  オーヤレヨー 新田大坊 ハッコーラ

江戸なれば さしやあたり 油屋前は

コーラ 吉原

  オーヤレヨー わたしのうまりゃ ハコーラ

入り大坊 朝起きて かぐらの山を

ハッコーラ

 

民謡緊急調査報告『山梨の民謡』手塚洋一氏著

(山梨ふるさと文庫 一九八七)

ここに山梨県教育委員会が昭和五八年に行った、民謡緊急調査報告『山梨の民謡』手塚洋一氏著(山梨ふるさと文庫 一九八七)に収録されている「馬八節」を紹介する。また類似の囃子を持つ「田の草取り」も合わせて紹介する。

 八、馬八節

 オーヤレヨ一 馬八や馬鹿と

  ハコラ おしゃれども

 馬八の 唄聞く奴は

  ハコラ なお馬鹿

 わしの生まれは 入り大坊

  藪の湯へ

来たらお寄り 下され

 雨降り空だ お急ぎあれ

  韮崎へ 

  はよつけ諏訪の 馬方

 田の草取りに 頼まれて

  行くも行かぬも 義理の悪さよ

 大川端で 葦刈れば

  葦やなびく

  葦切や鳴いてからまる

 田の草取るは 暑けれど

  秋作が

  当たれば銀の かんざし

 嫌がるとこへ 親がやる

  やらばやれ

  お命や川の 瀬に住む

 五月がくれば 思い出す

  お色子は

 水かけ論で 討たれた

①入大坊……旧駒城村。現白州町大坊。

②薮の湯……鳳凰山の北麓、大武川畔の鉱泉。大坊の南にあたる。

③韮 崎……旧河原部村表韮崎市韮崎町。韮崎は峡北地方の物資の集散地と

して栄え、特に天保年間に舟山河岸が築かれて富士川舟運がこ

こまでのびると、米、塩、雑貨等の輸送の拠点となり、ここから

諏訪・佐久方面へ陸路運送された。

 

「馬八節」は、馬子の通称「馬八」によってはじめられたものといわれ、旧駒城村(現白州町と武川村の一部)が発祥の地といわれる馬子唄である。

馬八の出自については、次の様な伝説がある。

 

彼はこの地方の代官と豪農の娘との間に生まれたが、故あって父は故郷を 出奔し、母はそれを苦にして狂死してしまった。天涯の孤児となった彼は、成長して馬子となり、活計を立てた。

「馬八」は通称で、馬子の八なにがしの名をこの様に略して呼んだものという。天与の美声に恵まれた彼は、この地方の物資の集散地である韮崎宿との間を、馬を索いて往復しながら、唄によって無聊を慰めた。人々は誰いうとなく彼の唄を「馬八節」と呼ぶようになったという。そのうち、彼の美声に心ひかれた横手村の庄右衛門の娘お政と恋仲になったが、代官の手代助定のために邪魔をされ、愛馬「しののめ」は毒殺され、馬八も大武川畔で刺殺された上、死体は激流に流された。

これをはかなんだお政は、馬八の後を慕って自ら大武川に身を投じたという。

民謡研究家町田嘉章は、日本放送協会編『日本民謡大観』の中で、「馬八節」を紹介し、

「この唄は、最初馬子唄として登場した訳だが、広く国中地方へ進出するに従って『田の草取り唄』に転用されることになったらしく、この方面では『馬八節』として田の草取りの歌詞が多く採集される」

とし、

さらに

「この唄は甲斐独特の、 オーヤレヨー という諷い出しで出る七五五七四という詞型を持つ歌群の中の最も古い曲であるかも知れない」

といっている。

「田の草取り唄」を「馬八節」の発展とみるこの説は、その後の山梨の民謡紹介誌に踏襲され今日におよんでいるが、昭和五十六年、五十七年の二年にわたって行われた民謡緊急調査によれば、この考え方は検討を要する様である。

椎橋好がその著『甲斐民謡採集』(昭和十一年刊)の中で指摘しているとおり、「馬八節」は「追分調の馬子唄と異なって悠長な独特な調7丁を持っている」もので、国中一帯から河内にかけて広く伝承されている「田の草取り唄」「田植唄」「草刈唄」と呼ばれる唄との共通点が多く認められるものである。

しかし、両者の関係は、「馬八節」が「田の草取り唄」に発展したのではなく、事実はその逆で、古くから甲州で歌われていた労作唄を、馬八が、いわゆる「馬八節」に仕上げたのではないかと思われる。

この度の調査によれば、

一、「田の草取り唄」が国中・河内と広範囲に伝承れているのに対し、「馬八節」

の伝承は駒城村を中心に武川筋の一定範囲に限られていること。

二、特に、その北限が白州町の流川(釜無川の支流)を境に、南の荒田地区で

は「馬八節」を伝え、北の下教来石では「馬八節」と称しながら「田の草唄」

の曲節を歌っていること。

三、馬八なる人物は、前掲の伝説とは関係なく、江戸時代末頃実在した人であるといわれていること。

等のことが明らかであることから、前述のように考えた訳である。

この唄の発祥の地白州町の白州中学校では、採譜・振り付けを行い、生徒たちが伝承につとめている。

  • 参考資料

 民謡緊急調査報告書『山梨県の民謡』山梨県教育員会 昭和五八年

「馬八節」に類似する「馬八節」「田の草取り唄」

  • 馬八節(その一)

             通称・異称 田の草節

             伝承地 北巨摩郡白州町下教来石

 オーヤレヨ一馬八や馬鹿とコラおしゃれども

馬八の唄聞く奴は エーコラ まだ馬鹿だ

 藤田の稲荷や田圃なか

下教の氏神様は宿のなか

 表じゃ太鼓 裏じゃ三味

中の間じゃ 忠臣蔵の三段目

 巡礼娘 国ほどこ

国や四国 生れは阿波の徳島よ

 律気な女 初花は

勝五郎車に乗せて箱根山

〔文註〕昔から北巨摩、中巨摩地方の田方(稲作地帯)でうたわれた田の草取り唄が元唄である。嘉永年問(一八四八~一八五四)山高村の馬子馬八がうたってから道中唄となったという。

  • 馬八節(その二)

         伝承地 白州町荒田

 コラオーヤレヨ 馬八馬鹿だ コラ仰れども

コラ馬八の唄聞く奴や コラなお馬鹿

 田の草取りに頼まれて

行くも厭行かぬも 義理のまの悪さ

 大川端で葦よ刈れは

なびく 葦きりや 鳴いてからまさる

  • 馬八節(その三)

             伝承地 武川村柳沢

武川村山高

    コリヤオーヤレヨー

 私の生れ入大坊

薮の湯に来たら お寄り下され 

アーゴン アーゴ

 田の草取りに頼まれて

行くも嫌行かぬも 義理の悪さよ

 馬八や馬鹿と おしゃれども

馬八の唄聞く奴は なお馬鹿だ

 田の草取りは 暑けれど

秋作が当れば 銀のかんざし

 私や縁なくて 出て行くが

姑さん又来る 嫁と仲よく

 大川端で 葦刈れは

なびく葦きり 鳴いてからまる

 オーヤレヨ一 馬八馬鹿と

コリ おっしゃれども

馬八の唄きくやつは コリなお馬鹿

 田の草取にたのまれて 行くもいや

行かぬも 間の悪さ

 大川端で 葦刈れば

なびく よし切り 鳴いてからまる

 韮崎の宿は 馬糞宿

雨降れは 馬糞の水で まゝを炊く

 御嶽は三社杉の森

中条の新府様は 松の森

  • 馬八節(その四)伝承地 峡北地方 韮崎

   演伝

〔文註〕馬八という馬子によって唄い出されたという。元唄は田の草節である。馬八が馬を追いながらうたったので道中唄と変化した。おそらく弘化、嘉永の頃からと思われる。   

  • 馬八節(その五) 伝承地 中巨摩都白根町
  • オーヤレヨ一馬八ア馬鹿だと 

コラおしゃれども

馬八の唄きく奴は コラなお馬鹿

 大川端で 葦刈れば

なびくよしきり鳴いて からまる

 下高砂のお政女は かつがれて

役所となりて もめやす 

  • 「田の草取り唄」
  • 甲府市相川町・中巨摩郡甲西町

 オーヤレナー

  田の草取りは オーヤレ 暑けれど

  秋作あたれば オーヤレ 銀のかんざし

  • 南巨摩郡増穂町
  • ヤレヤレヨー 

  田の草取りに頼まれて

  いくもいや

  いかぬも義理の悪さよ

  • 中巨摩郡櫛形町

  ヤレヤレヨー 

田の草取りに ドッコイ 頼まれて

いくもいや いかぬも義理の ドッコイ 悪さよ

いかぬも義理の ドッコイ 悪さよ

  • 武川村山高
  • オーヤレヨー

   田の草取りに頼まれて

  行もいや 行かぬも義理の悪さよ

  ソリャマコト 行かぬも義理の悪さよ  


峡北新報 馬八節

2020年12月13日 12時50分54秒 | 白州町見て聞いて
  • 『峡北新報』

 最近、『峡北新報』に伝説として、また馬八物語が連載きれている。

それによると、天正年間の始め、武田家の家中に黒田八右衛門という人があった。この人が巨摩郡大坊村の代官として赴任してきた。

黒田代官は赴任後約一年足らずで、この在所を去ったが、この村の吉右衛門の娘お定に手をつけて妊娠きせてしまった。そして出た子が馬八であるとしてあるが、「田作馬八物語り」は武田浪人になっているが、ここでは黒田代官ということになっている。人物の名前が多少違っているだけで、内容はあまり変っていない。

 地元の武川村や、白州町の人達の間では、黒田代官が生ませた子供であるという人が多く、八右衛門を、八左衛門とも云い、八左衛門の八と、駒ヶ岳の駒は馬を意味するので、馬八と名付けたとも云っている。

****年代の相違

 これ等の馬八物語は、何れも年代が天正年間ということになっており、馬八は武田の家臣、或は代官、黒田八右衛門、又は八左衛門子供となっている。

 伝説であり、民話であるから、あまり年代のことを、とやかく言ぅことは大人気ないが、天正年間と云えば、大半は武田勝頼時代であって、この時代は、韮崎から信州境迄、釜無川の右岸は武川衆と云う。一条忠頼からの郎党が割居していた処で。柳沢村には柳沢兵部函信俊(柳沢吉保祖父)が、山高村には山高越後守信之等が居を構えておったので、ここに武田が代官を赴任させるわけがない。

 また、その時代、馬八が韮崎通いをしたというけれど、天正年間の韮崎は七里岩の鼻先で、釜無川と塩川の合流点であったらしい。

『韮崎町制六十年誌』によると、

 「武田勝頼が新府城を営むにあたり、七里岩突端地新府に出丸を設け、新府城の防衛陣地として築城の縄張りに計画されたが、僅か三ケ月で亡びたので、その築城を見るに至らずして廃城となった。

当時の韮崎町は、恐らく氾濫の中に点在して居った一小にすぎなかったであろう」としてある。

 韮崎が、甲州道中の宿駅となったのは、慶長年間の後期のことで文化文政の頃から繁栄がはじまり、最も賑いを極めたのは天保六年(一八三五)、富士川水運に舟山河岸が設けられてから、明治三十六年中央線開通までの間の事で、天正年間とでは約二百五十年くらい年代の相違がある。こう考えると、馬八は架空の人物であったかと云うことになる。

 

****馬八供養碑建立

甲府市中央一丁目、風月堂の溝口家の祖先は、代々山高村にあって、山高越後守信之を祖とする山高家の縁者でもあり、家老職をつとめた程の名家である。代々六兵衛を名乗っており、現在も山高に六兵衛屋敷の跡がある。

故溝口豊氏の話によると、何代か前の六兵衛義憐の時代に馬八を雇ったということである。義憐は、文久元年(一八六一)七月一日五十六才で死んでいるので、逆算すると文化二年頃の生れではないかと推定される。

 昨年(昭和五四年)十二月十三日、NHKが放映した「白州町おらが村の馬八節」が縁になって、豊氏未亡人寿子刀自が、菩提寺の鳳凰山高竜寺の境内に、馬八供養之碑を建立することになった。

 これは、寿子刀自の善寿の祝をかねて、馬八の供養をするためであって、撰文並に書は、高竜寺住職清水球道師によるものである。

****馬八供養之碑 碑文

馬八節の主人公馬八は、巨摩郡大坊村の生れで、見廻りに来た時の代官黒

田八右南門と、村娘お定との間に生れた子である。母は早世し、祖父庄右衛門に育てられ、長じて山高村の郷土溝口六兵衛政方の家に馬子として奉公した。天性美声であり、農作業中や、韮崎通いの途中でうたう歌声は、近郷近在の人にもてはやされた。それが馬八節の源流である。

馬八には、お政という恋人があったが、政敵の助定の嫉みの刃に倒された。

これを知ったお政も大武川の淵に、身を投げて死ぬという悲恋の結果となった。これは今を去る二百年以前の江戸時代の物語だが、往年の主家である溝口家の子孫、甲府風月堂の溝口寿子刀自が喜寿を記念して、馬八供養のためこの碑を建立した。

    維時昭和五十五年庚申歳仲秋吉祥日

    鳳凰山高竜禅寺 二十八世 守塔琢道撰並書

としてあるが、施主の都合で来春に建てることになった。

 供養碑の中にある六兵衛政方は、義憐の子供であって、馬八と大体同じ年頃と考えられるから、政方かたに、馬子として奉公したと、清水球道師は語っていた。

 馬八と、政方が同年輩だとすると、義憐が二十才前後で緯婚したと考えて、馬八の出生は文政の終りから、天保年間にかけてではないかと思う。すると馬八もその頃生まれたのではないかと推定される。

 従って、馬八が韮崎へ馬を追って通ったという頃は、弘化から、嘉永、安政年間と考えてよいと。

 その頃の韮崎は、

 「韮崎の四ツ前ではあるまいし馬すぎる」と云はれたくらい、諸所から馬が出てきて繁栄を極めていた。馬すぎて、どうにもならないで、時には馬の交通整理に、ご陣屋から役人が出動したというくらいだから、その雑踏ぶりが察しられる。

 その雑麟の中に、馬八も馬を追ってきていたのではないか、若しそうだとしたら韮崎の何処かに、また街道筋にも、彼を語る何かが残っていそうなものなのに、何も残っていないし、古老から何も語りつたえられてもいない。

 僅か百二三十年そこそこの昔である、何かが残っていてもよさそうなものなのに不思議でならない。

 こう考えると、馬八は矢張り伝説や物語りの中だけに生きていた人に思えて、実在の人物と判断するのも六ケ敷(むずかし)くなる。

 

 参考資料 植松逸聖氏著『中央線』第19号 終わり

 


浪曲 『哀調馬八物語』浪曲家二葉百合子

2020年12月13日 12時49分39秒 | 白州町見て聞いて

浪曲 『哀調馬八物語』浪曲家二葉百合子

 これは韮崎市文化協会が、女流浪曲家二葉百合子に頼んで、昭和三十八年十月十一日、市制九週年記念祝賀行事の一つとして、口演して貰ったもので、浪曲の台本は房前友光という、その道の専門家が、平田作「馬八物語」を参考にして書いたものだから、内容に

大した変りはないが、出てくる人の名前が変っていることと、前者が、悲恋であるのに反して、こちらは、ハッピーエンドに終っている。なかなかの名調子で。

 さしのぼる朝日は山の端に出て、夕べの月は松のかげ…中略…

見わたすかぎり弊の、八ヶ岳と駒ヶ岳、山と山とに囲まれて、

水清らかな甲州の、北巨摩郡駒城在、無心に遊ぶ里の子の、

お国訛りのなつかしや 

とはじまって。

 「オーイ、みんな来い、よって来い。ヤイ馬八、お前は向え行け

お前えなんかと誰も遊ぶもんか、馬八の泣虫毛虫…」と、

ここで近所の悪童どもの、馬八いじめを演出している。

 馬八が泣く泣く家に帰って、祖父の清右衛門に、

 「お祖父、俺りゃ本当に親なしっ子け?」と、すがりついて泣く馬

八に、祖父の清右衛門は、

 「馬鹿こけ、親が無くて何で子供が出来る。お前が大きくなったら話してやろうと思ってたが、実はな、お前の親は立派な侍だ」

と云って、父親の黒田八右衛門が、清右衛門の家に来るまでの経過を、浪花節はこんなふうに語っている。

時は天正十年の呑まだ浅き如月の、戦国時代の名将と世に謳われた武田家も、時制あらず勝頼は、新府の城も緒と切れて天目山の朝露と、はかなく消えたある日暮、無惨な傷を全身に受けてのがれきて、雨戸を叩いた武士一人 

 その雨戸を抑いで、救けを乞うたのが黒田八右衛門だった。当時俺は娘の「おあき」と二人きりの暮しだったので、刀傷を負った武士など匿うことはできぬと言ったが、武田の武士というので断りきれずにおいてやった。

 八右衛門は、春の終りごろになると傷もなおって、再び立派な武士となって、「おあき」を迎えにくると云って、小刀を証拠として残して去った。その時、すでにおあきは八右衛門の子を宿していた。

月みちて「おあき」に男の子が生れた、それが馬八お前だ。だからお前は武田武士の血をうけついだ男の子だと、馬八を納得させた。

 おあきは馬八を生んで三日目に病気で死んだ。お乳欲しがる嬰児(みどりご)のお前を抱いて、俺あ泣くような毎日だったと。

 二葉百合子は、この泣き場をうまく演出して聴衆の涙を誘った。

  武田は滅びても、戦国時代のつねならば、再び立派な武士になって、

    いつかは必ず戻ろうと、心待ちする祖父と孫に、十幾年の歳月が流れ、

今現在の馬八は、韮崎通いの馬子衆だったと語って来て、

  オーヤレヨー 韮崎よいとこ どこの馬鹿

    西も川東も川の瀬にたつ

 

ここで馬八節を朗々とうたって、宿場の喝釆を博した。

 

馬八には、幼友達の「おきぬ」という庄屋の娘があって、成長するにつれて恋仲になり、末は夫婦と固い約束を交していたが、身分の違いから結ばれずにいた。

或日の暮れがた、馬八が韮崎からの帰り道を、おきぬは待っていて、どうしてもこの世で一緒になれないのなら、いっそ死んであの世で仲よく暮らしませうと、抱きあって大武川の淵に、あわや飛び込もうという矢先、一人の旅僧が現われて二人を抱きとめてしまった。

旅僧は、二人から色々の事情を聞いたうえ、庄屋を説得して夫婦になれるよう取図った。この旅僧こそなにあろう。実は馬八の父親である、黒田八右衛門の変りはてた姿であった。ここで、

 オーヤレヨ一馬八や馬鹿とおしゃれども  

馬八の唄きくやつはなお馬鹿し

と、馬八節が入って、

 「今は似合の夫婦雛、これも仏の導きか、かっては武田の忠臣で、その名も黒田八右衛門、姿は変る旅姿、同じ親子と知らず今は二人の生雛に、哀調おびた馬八の唄もろともに釜無の、川が伝える物語。川が伝える物語と」、

浪曲哀調馬八物語りは結んである。