中部・近畿=文学の旅
(新潟・長野・山梨・静岡県を除く)
<中部・近畿>北陸本線・高山本線とその周辺
- 北陸本線に沿って
北陸路への入口である米原駅で下車すると駅の西側左には琵琶湖がみえる。
駅前から旧中山道に出てすぐ国道人号に入ると行く手に天野川がある。
この川の手前を琵琶湖に向かって進む。
米原町朝妻筑摩には「伊勢物語」にみえる鍋冠り万知られる筑摩神社がある。鳥居を入る左手に、
「近江ならつくまのまつりとくせなむ」
の歌碑が建っている。
米原から坂田・田村を経て至る長浜は「浜ちりめん」で有名な琵琶湖北岸の商工業地であるが、古くは水上勉の「湖笛」に描かれる水軍の根拠地でもかった。ここから湖上遊覧や竹生島巡りもあり、海津・大崎への最短コースでもあるため人出の多い町となっている。
江戸期の人で、遠州流茶道の祖小堀遠州は、更にここより東八キロの市浅升郡浅井町の生まれである。ここへは長浜より一つ目虎姫駅下車が近い。清楚な庭園をもって茶道の神髄に迫ると説いた。
永浜の東北を流れるのは姉川で元亀元年(一五七〇)浅井長政・朝倉義景連合軍が信長と対陣したところである。
長政・享政・久政の菩提寺は長試駅の南一キロの平方町生駒の興福山徳勝寺で、ここには父子三人の墓もある。小谷城址は小谷山上にあるがこの小谷山は谷崎潤一郎の「盲目物語」(一九三二)の舞台でもある。
左に琵琶湖を眺めながら木之本につく。ここに北国街道の渓口集落でもある。雪の深いここは家並みも構造も独特なものがあるが、驛の西にみえる賤ケ岳の新雪は江琵琶湖八景の一つでもある。
賤ケ岳には駅からバスで六分の大音からリフトが頂上近くまである。歩いても頂上へは四○分である。
ここ賤ケ岳は柴田勝次と秀吉とが戦った古戦場で、秀吉麾下の加藤虎之肋清正が活躍した七本槍三振太刀の譚は今に伝えられている。
頂上に立つと北に「万葉集」の歌枕、余呉(よご)湖が見下ろされる。
琵琶湖北端の塩津浜から余村・疋田を通り山中に延びる塩津街道はその名の如くに敦賀湾から京・大和へ塩を運んだ生活の要路であった。
敦賀へ入る。
昔と変わった海港らしい雰囲気の中を敦賀湾に向かうと途中曙町に越前一ノ宮気比神宮がある。戦国末期に信長に
よって火をかけられたこともある。
気比神宮境内には「奥の細道」に因んだ芭蕉の句碑
「なみだしくや遊行のもてる砂の露」
が建てられている。この句は「奥の細道」の句とは異なるものだがこの句碑の方が初案の句という。
本膳寺の句碑は「奥の細道」にもみえるように
「等栽に筆をとらせて寺に残した」ものを刻んだものである。
敦賀は西鶴も興味をもっていたが、その影響著しいのは近松で、「傾城反魂香」はここを舞台にしている。
金ケ崎より福井に至る敦賀街道を海岸沿いに北上するこの湾曲には「万葉集」で、
気比の浦(人麿)・田結(たい)の浦(金村)・五幡(いつはた 家持)などの歌枕が続いている。
この海岸を歩きながら、かつて琵琶湖を越えて北陸へ入った万葉歌人が、三方(みかた)五湖で代表される女性的な敦賀の海を川の当たりにして、京を偲んだ感慨が味わえる。
武生(たけふ)駅から東に延びる私鉄南越線で行く五分市駅一帯は、
万葉の歌枕の味真野で、世阿弥の謡曲「花がたみ」の中で、大跡辺皇子(継体天皇)と照日との悲恋物語の舞台として登場する所でもある。駅の目元〇〇メートルの高瀬町の芳春寺は紫式部が住んだ所と伝えられるが、これに因んで紫式部歌碑が建っている。
鯖江駅から鯖浦線一〇分で西田中駅につく。駅の北西の丹生郡朝日町には平安時代の盲目歌人蝉丸の墓がある。蝉丸の遺言に従ってこの地に埋葬したと伝えられている。
米原から急行八○分で福井に出られる。谷崎潤一郎の「盲目物語」の舞台でもある福井は城下町として発展した。駅から西え一○分で行かれる福井城跡は、今は県庁として利用されているが、かつては足利高経以来秀康、松平氏一七代の居城であった。天守閣跡にはこの福井の地名の起こりである「福の井」がある。市内を流れる足羽川にかかる幸橋を渡ると右側の左内町は、安政の大獄で刑死した橋本左内の生地で左内の宅跡は春山町二にあるが左内公園には左内の墓がある。
足羽(あすわ)山公園の裏の足羽山の中腹には新田義貞ほか新田一旋四名を祀った藤島神社がある。南北朝時代にはここ足羽山は南朝方の北陸地方の拠点となった所であり、後年は北陸に振るった前田氏を抑えるために徳川親藩の桧平氏が本拠とし、城下町として一段と発展した町である。
越前松平氏の祖は家康の二男結城秀康だが、その長子忠直の史伝に沿い生活模様を描いたのが菊池寛の「忠直郷行状記」(一九一八)である。忠直卿の居城である福井城がその舞台の中心となっている。
福井駅の機関区を克明に描いた中野重治の「汽車の罐焚き」(一九三七)がある。重治は坂井郡京椋村一本田(今の丸岡町一本田)の生まれである。また、江戸末期の歌人で「ひとりごち」や「草径(そうけい)集」の大隅言道や近世の万葉調歌人橘曙覧(あけみ)もこの福井の生まれである。曙覧の歌碑は足羽山の歴史館前と市内照手町の旧定跡や、更に九頭竜川と目野川の合流する同市田谷町の大安寺に建てられている。
福井駅より東に延びる美濃街道に沿う越美北線で一乗谷に着き、越前守護斯波氏から朝倉氏五代義景までの住居朝倉氏館跡は、一見して映画のセットにも似た場所にあるが、館跡の正面の四脚門は文明三年(一四七一)このものだが桃山様式の優雅さがあり、北国の武威の一端をみる思いのする構築である。
福井駅から京福電鉄三〇分で永平寺につく。永平寺は吉田郡永平寺町にある曹洞宗大本山で、寛元二年(一二四四)に道元禅師を開基とし、完全な禅宗式の姿をとどめており、現在でなお百余名の衆憎が修業を行なっている寺院である。吉井勇の「人間経」(一九三四)や山口誓子の「福井行」(一九六一)はいずれ永平寺を訪れた時の歌句であるが、ここを舞台とした作品以外に少ない。なお永平寺には一度に千人を泊める宿坊もある。
北陸線金津から西に三田線で行く芦原駅は温泉地で有名だが、駅の北にある北潟湖は井上靖「蘆」の舞台で、景勝の地である。ここから更に円本海岸の終点三国港駅は九頭竜川の河口に当たるが、駅前から沿岸沿に北上する三国町米ケ崎は、三好建治が「砂の砦]を詠んだ場所である。達治は一九四四年から五年間ここ米ケ﨑に隠棲していた。また米ケ崎から一キロの沿岸が福井県の観光の白眉である東尋坊である。義経も奥州への途次平泉寺からここに立ち寄り、山伏姿に身を変えて安宅の関へ向かったという。
また、三国町に生まれの高見順の「おれは荒磯の生れ」の詩碑が建治や虚子子の碑とともにここに建っている。探勝の海岸に立って寄せる波を眺めていると、山東京伝の「三国小女郎物語」の人魚を食った八百比丘尼伝説や東尋坊の名の起こりの伝説がまざまざと思い出される。
東員訪から再び金津に戻り石川県に入る。
加賀市は山代・片山津などの温泉街を偕行北陸随一の温泉町でもある。
田山花袋の紀行文「温泉めぐり」(一九一三)や泉鏡花の「鷭狩」(一九二三)にはこれらの温泉街がよく描かれている。片山岸温泉の西にある柴山潟の西方の老松茂る丘陵は、
芭蕉が「あなむざん甲の下のきりぎりす」と詠んだ梶原の古戦場跡である。
木曽義仲に追われた平維盛はここに陣をはり義仲に向かったがこの攻防戦は義仲の勝利であった。
斎藤別当実盛が白髪を染めて義仲と戦ったことは謡曲「実盛」にみえる。
芭蕉は多大神社を訪れてこの宝物を見、先程の句を吟じたものである。同社の拝殿横には自然石にこの句が刻まれている。
小松駅より西ヘバスで十五分程行くと梯(かけはし)川がある。この川口の左岸の小高い砂丘には世阿弥の謡曲「安宅」で知られる安宅の関跡がある。古来北陸の重要な関であったここは「勧進帳」によっても周知のところである。この関所で関守富樫左衛門尉泰親にとがめられた弁慶が白紙の勧進帳を披露するという歌舞伎十八番の一つの舞台である。今もこの譚によって富樫・弁慶の銅像が松林の中に建っている。その横には與謝野晶子の歌碑がみえる。
小松市から北上して松任(まっとう)で下車する。ここは江戸中期の女流俳人、加賀千代女の生没の地である。千代女の遺稿や愛用の手文庫はここ石川郡松任町の聖興寺に保存されている。
また同寺境内には千代女の辞世の句「月みてもわれはこの世をかしくかな」を刻んだ句碑がある。
米原より急行三時間三〇分で加賀百万石の城下町金沢につく。
金沢は前田別家がこの地に移ってから一層発展した町で、今でも町の家並みにその城下町の悌を偲ぶことができる。城下町ばかりではなく九谷焼や加賀友禅などの美術工芸も盛んな町である。金
沢は、北を流れる浅野川の北岸の卯訳出の丘陵と、南を流れる犀川の南岸の野田山の丘陵に囲まれた街である。自然の環境の良さは多くの文学者を生んでいる。泉鏡花をはじめ徳田秋声、室生犀星などはこの町に生まれた。鏡花は下新町二三で生まれ、生活に困り食わんがために小説を書き師とした紅葉の許に送った。これが「義血侠血」 (一八九四、翌年「滝の白糸」と改む)である。
今も浅野川大橋の挟から南に行き坂道を右に折れた所にその生家の碑「泉鏡花先生出生之地」がある。「滝の白糸」の碑は卯辰山に向かって浅野川にかかる天神橋の袂の左側の松並本の下に小説の舞台に因んで四角い一メートル程の碑に「滝の白糸碑」と刻んで建ててある。
「滝の白糸」の他、金沢を舞台にした作品には「照葉狂言」(一八九六)・「由縁の女」(一九一九、後「櫛笥集」
と改む)「竜胆と撫子」(一九二一)などがある。
秋声は今も生家路の残っている同市横山町二に生まれ鏡花と同じく紅葉を師としたが、立場の異なった作家であった。自然主義の代表的な短編小説といわれる「町の踊り場」(一九三三)をはじめ「灰皿」(一九三八)などで下新町を中心とする金沢の風俗を描いている。彼の小説にしばしば登場する卯辰山の頂上には白塀を背にした松林
の中に「書を読まざること三日……」の筆跡を刻んだ文学碑が建っている。同じ塀の左下には犀星の碑文もある。犀星は彼の処女作集「抒情小面集」(一九一八)で犀川を愛し詠じているが、この犀川べりの裏、千日町に生まれた後、近くの室生真乗の養子となって真乗の住む雨宝院に住んでいた。
この雨宝院は犀川大橋の袂にある。犀星の雨宝院と反対側の大橋の袂には芭蕉の句碑「あかあかと日はつれなくも秋の風」がある。元禄二年「奥の細道」の途中の吟という。芭蕉はこの大橋に近い片町通りの左側にある宮竹屋敷に一晩を過ごしたのである。井上靖の「あすなろう」(一九五〇)にもこの犀川が登場する。
兼六公園はほぼ市の中央にある。雁行橋やことじ燈籠は有名で、水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに日本三名画の一つで、古くは蓮池亭といわれた代表的な回遊式の庭園である。
園内には美術館もある。兼六園の北には三十三間長屋と石川門が美しい金沢城址がある。かつて尾山城と称した城で鉛葺きの瓦や真白い海鼠(なまこ)壁は四季を通じて優雅さをみせている。この城を金沢城と称した前田利家公の墓は夫人とともに駅の南東の野田山の麓にある。
犀川の川口の金石港には江戸川の廻船問屋で知られる銭屋五兵衛一族処刑の跡やその屋敷跡があり、今は、銭五会館として一般に公開している。
金沢駅から石川線で三五分の加賀一の宮には、全国の白山神社の総本社である武内社白山比咩(ひめ)神社がある。ここは「万葉集」や 「古今集」の歌枕でもある。
宇の気から更に北上し凡そ金沢から九〇分で「三千路から直越え来れば羽咋の海」と「万葉集]で家持が詠んだ羽咋(はくい)に着く。邑知(おうち)潟から流れて来る羽咋川の川口の街で歴史の古い街である。
駅から約二〇〇メートルの羽咩神社境内にある羽咩古墳と称する前方後円の大塚は垂仁天皇皇子石衝別命の茎と伝えられている。
国鉄七尾線の七尾は泉鏡花の「山海評判記」(一九二九)に登場する和倉温泉も近く混在では石川県随一の港町でもある。登戸国分寺は今では国分町に僅かに塔の礎石と土壇を残すのみだが、ここから南一帯古城町にかけては上杉謙言と畠山義隆とが争った七尾の古戦場(一五七七)址である。この合戦の勢いで上杉氏が能登へ進出することになるのである。七尾城の落ちるのをみて謙信は[霜は軍営に満ちて秋気清し」を賦したのである。七尾から七尾湾に出る。前方に浮かぶ島は能登島で、周囲七二キロの島で、万葉集に詠まれた歌枕の島でもある。ここへは七尾から能登島の港佐波へ二五分で行かれるフェリーの便がある。島の中央には武内社、伊夜比咩神社があり、毎年七月三一日の夜に催される火祭りは能登島の火祭りとして全国に知られている。
米原より急行で凡そ三時間程で列車はくりから隧道に入る。トンネルを出て国道八号と交差する時右手前方にみえる山が礪波(となみ)山で、この山の峠道は木曽義仲が平家追討のため京へ上る途次、平清盛を破った「平家物語」にみえる倶利伽羅峠である。峠の頂上には惧利伽羅不動尊がある。この峠へは石動か、礪波からが近い。
家持が「万葉集」に「焼太刀を礪波の関にあすよりは」と詠んだ礪波関歌碑は麓の小矢部市石坂に建てられている。芭蕉もこの峠を七月一五日に越えて加賀に入ったのである。
井上靖の「七夕の町」(一九四六)は北陸本線高岡が行事の七夕で賑わう場面をもって終わる作品だが、同市の関野神社の祭礼に全町を御車山(やま)がくり出すように豪華なイメージの街でもある。
文学関係では、鏡花が「取舵」(一八九五)で描き、また堀田善衛が「奇妙な青春」(一九五六)で舞台としている伏木港は駅から近い。善衛の「鶴のいた庭」(一九五七)は彼の自伝的小説であるがこれにはこの市の風情が詳しく描かれている。
駅の北西にみえる二上山の山頂には家持の銅像が建てられている。この銅像は一九五三年に高岡駅頭に建てられたものだが、六二年に家持縁りの二上山に移されたものである。この二上山一帯を現在万葉ラインとよんでいる。
同市の定塚町にある古城公園は第二代金沢藩主前田利長の築城した高岡城址である。古城公園には射水(いみず)火祭りで知られる射水神社がある。祭神は二上神で、古くから越中の総鎮護として二上山に鎮座されていたものであった。公園の南側には銅器の都高岡らしく日本三大仏の一つ高さ一六メートル余の高岡大仏がある。高岡市内から冨山湾寄りの氷見市に出ると雨晴(あめはらし)海岸は家持の歌「渋谷の崎荒磯に寄する波」にみる渋谷の崎である。この東隣りの入江に歌枕氷見の江である。また「新古今」の「わが恋は有機の海の」(伊勢)と詠まれた有磯の海は氷見の江から富山湾を望んだもので、今も地元ではこの一帯を有機の海と呼んでいる。この海岸は
英遠(あお)の浦(阿尾)や宇奈比川(宇波)など「万葉集」の歌枕が多く、万葉の旅を楽しむ絶好の場所である。
米原から急行で三時間二〇分の富山は、高山本線と交わる交通の要所でもあり、古くから薬の町として全国に知られている。
「三等重役」の源氏鶏太はこの市の泉町五七の生まれである。井伏鱒二は広島県の生まれだが、冨山港線の終点岩瀬浜を出帆した長者丸を中心として「漂民宇三郎」(一九三八)を書いている。
富山から滑川へは海岸沿いに行くのもよい。滑川より北へ四キロの魚津昭の山手で国道人号を横切ると天神橋に出る。この橋上に立ち下を流れる行員川の伝説を叙事詩的長歌に詠んだのが長塚節の「橋」(一九〇一)である。
黒部峡谷へは魚津から正一郎鉄道が通じている。黒部を越えると信濃大町や、松本または糸魚川へも容易に通ずることができる。
泊驛よりバスで下新川郡朝日町小川元湯につく。泉鏡花の「湯女の魂」(一九〇〇)はこの小川温泉の湯女の神秘的な哀話を描いた作品である。泊駅をすぎると越後へ入ることになる。
芭蕉の「奥の細道」とはコースが逆で、市振で曽良は「翁気色不勝、暑極て甚し」と記したが、今は市振駅から真っすぐ青海町市振の長内寺に詣でる。ここの境内の杉の木立ちの下には、芭蕉の「一つ家に遊女もねた萩と月」の句碑が糸魚川を郷里とする川馬御風の揮毫で建てられている。市銀から親不知へ出るが、途中の海岸沿いに進むうち前方を遮る岸をのぼってしばらく行くと眼下に親不知がみられる。ここは「源平盛衰記」や「承久軍記物語」の舞台となっている天下の険路であった所である。ここから謡曲「山姥」の舞台糸魚川へは一〇分たらずで到着する。
- 高山本線とその周辺
名古屋から岐阜・高山・富山・米原を経由して名古屋に戻る高山本線経由北陸本線循環があるので、これから先へはこのルートを利用するのがよい。
名古屋駅を出た急行は一五分程で愛知県と岐阜県の境を流れる木曽川の鉄橋を渡る。岐阜駅より市電またはバスで長良橋でおりると、毎年五月一〇日から二〇月一五日まで鵜飼の催される長良川である。謡曲「鵜飼」にも登場する鮎は香魚(こうぎょ)とも書くがこれを素材とした「香魚鮓」(あゆずし)の話は平治の乱に源頼朝が自明という鵜匠にたべさせられたことに始まるという。丹羽文雄の「鮎」の一舞台でもある長良川に芭蕉も遊び、「あたり目に見ゆるものは皆涼し」(一六八八)と詠んだ句碑が湊町十八楼に建っている。
河畔の山は金華山で、頂上には織田信長の築威になる岐阜城(稲葉城)がある。
森旧草平が「稲葉の山はここから見ても矢張り美しい」と「輪廻」(一九二三)でのべている。
戦国時代の武将、斎藤道三父子がこの目前の長良川を挟んで戦ったが、これをテーマにして中山義秀は「戦国史記」(一九五七)を書き好評を得た。父子の戦いは道三の敗北となり遺体を葬った道三塚が今は県営グランドの北側にその供養碑と共にある。
森田草平の「煤煙」(一九〇九)には「昼なほ暗い藪の中に塚がある」と記されているが今、周囲はきれいに整地されている。草平は鷺山町の生まれで、漱石の門下生の一人だが、今日彼の生家の跡には文学碑が建てられている。
信長・信忠父子の廟は斎藤利定か明応四年(一四九五)に自分の館を寺院とした長良福光町の崇福寺にある。
「続猿蓑」の撰者であり「笈日記」の各務支考は河畔の北野で没したが、支考を中心として美濃派が全国的に広がるのであるが、支考が常住した獅子庵は、かつては北野西陣の町中にあったが、天保一四年(一八四三)には現在の地に移築された。瓦葺きの平屋である。
岐阜より二〇分損で右手の平野の中に小高い山が二つみえてくる。手前の山は犬山で、この頂上には現存する日本最古の天守閣(国宝)をもつ犬山城がある。山下の流れは木曾川である。ここより一〇分で美濃太田につく。ここから越美南線に乗り換えると打刃物の町関市へ行かれる。関の市内には至る所に刀工の菩提寺があるが、同市長谷寺町にある新長谷寺は地元では吉田観音と称され、貞応元年(一二二一)に大和長谷寺観音のお告げで建立されたもので、後堀川天皇よりの賜号寺である。本堂・七堂伽藍も整っており本尊の阿弥陀立像は寄せ木遣りで快慶の作という。
千足町植野蓮華寺の境内には宇治川の合戦で敗死した源三位頼政の首塚がある。
関市から八分、美濃紙で名高い美濃市につく。駅に近い大矢田楓谷には、
支考の句「飛ぶ鳥の羽うち焦す紅葉かな」の楓谷の紅葉で知られる小倉山公園や霊鳥、仏法僧の棲息する州原神社の杜がある。粥川(かゆがわ)うなぎの槌意地苅安沢を過ぎて二〇分で、郡上踊りで知られる郡上八幡につく。ここより更に北上し白鳥駅で降りる。白鳥町には「美濃神名帳」にもみえる白鳥伝説の発祥の古社白鳥神社が県道沿いにある。ここから先に行き、越美南緯の終点北濃より国鉄バスで、合掌造りで知られる白川村鳩ケ谷につく。
再び点出緯美濃太田駅に戻る。この太田市を流れる日本ラインの景勝は江戸の儒者斎藤拙堂の「岐蘇川舟行」 (一八三七)や、幸田露伴の「掌中山水」(一九一九)によって全国に紹介されたが、吉田松陰も嘉永六年(一八五三)にここに歩を運んでいる。
美濃太田駅から南に延びる太田線にて陶磁器で名高い多治見につく。同市新町一には鎌倉幕府打倒の口火を切った「太平記」にみえる多治見国長の邸跡が、今では市街化のために幅四メートル程の小祠として残っている。また長瀬町には、勅願寺であった夢窓国師開創の臨済宗鹿渓山永保寺があり、この付近一帯は夢窓国師が中国廬山の虎渓に似ていることによって命名したといわれる虎渓公園もある。多治見からは中央本線で恵那峡や付知峡の入口恵那・中津川を経て木曽路に出ることができる。
高山線の上麻生(あそ)から白川口に至る一二キロは車窓からみても絶景の地で、東海の耶馬渓といわれる紅葉の美しい所だが、更に北上する飛評金山から益田川沿いの下呂に至る二八キロは長谷川伸の「中山七里」の舞台となっている中山七里である。温泉の町下呂には円空上人で知られる円空窟が駅より南寄りの下呂町深谷の国道から五〇〇メートルの山腹にある。下呂から七分程の右側に国鉄線より一〇〇メートルの所にみえる寺院は臨済宗妙心寺沢の天下十刹古禅林の一つ禅昌寺である。南北朝の復円融天皇(北朝)の勅願寺であった寺だが庭が美しい。
御岳山の登山口、小坂をすぎ日本の分水嶺宮峠を越えるとすぐ左手奥にみえる四角の山が歌枕の位山である。飛騨一宮駅より一〇キロ西にある。一宮駅の東一キロには飛騏一市三郡の総社であった式内社「水無神社」がある。位山はこの神社の神領であった。この一宮は藤村の小説「夜明け前」の中にも登場する。神社境内には左甚五郎作の神馬がある。
名古屋より急行で三時間二〇分、高山につく。高山は流水が美しい町である。田中冬二はこれを「飛騨高山」の詩に詠んでいる。高山は井上靖の「氷壁」(一九五六)の舞台穂高への登山口でもある。
歴史の古い高山祭は毎年四月一日、五日、一〇月九、一〇日に市中をあげて催され、その時には飛騨の匠が腕を振るった集合美の山車(だし 屋台)二三台が井然とした町並みに曳き出される。
駅より五分の国分寺通りの入口には飛騨国分寺がある。現存の本堂は室町期の再建になるものだが、本堂には行草作の司郎如来座像と平安期の春日作の観世音菩薩立像が安置してある。境内には銀杏の巨木と三重塔がある。飛騨の国府は高山より北の国府村にその址がある。
市中を流れている神通川の上流である宮川には今でも種々の鯉が泳いでいる。宮川にかかる鍛冶橋を渡ると正面には京都の東山に因んで名づけただけあって、寺院が数多く並んでいる。「無限抱擁」の作者滝井米作は同市馬場町の生まれである。
東山の一角にある高山別院(東本願寺別院)を右に折れると高山城址に至る道である。高山城は秀吉の命によって越前大野の城主金森長近がこの趙に入り築城したものであり、今は本丸や一の丸などの石垣にその悌を偲ぶのみだが、城址公園内には白川郷より移築された後鳥羽天皇皇子嘉念訪善悛の創建になる照蓮寺や詩人福田夕咲・松日常憲などの句碑がある。千利休の長子千道安を開祖とする宗和流茶道はこの城において発祥したという。
徳川幕府直轄の天領であった陣屋跡には今も表門が残されており、代官梅村速水(はやみ)の時の米騒動、梅村騒動の根拠地もここであった。この騒動を江馬修は「山の民」(一九三八~四〇)において小説化している。
市内上一之町には郷土館や屋台会館があり、訪問者に便利な資料館となっている。
本居宣長の高弟、「竹取物語解」の田中大秀は上一之町の薬種商に生まれたが今は何も残っていない。ただ城山の
裏手の江名子町の松宮岡に多少の資料が残っている。駅の裏手の中山を越えた川上川の沿岸下林町や赤保木町は飛騨春慶塗発祥の地でもあり、川上川の下流の三枝(みえだ)地区は古事記にもみえる歌枕でもある。
高山駅から万葉集の歌枕丹生川を経て小八賀川沿いに平湯峠を上れば、夏は乗鞍岳へもまた上高地へも出られる観光ルートでもある。山本茂実の「あゝ野麦峠」で知られる野麦峠へは高山から漆垣内町を経て高根村より車で容易に行くことができる。乗鞍への国道一五八号の途中、丹生川下保(しもぼ)で下車する千光寺山腹には古義真言宗派の袈裟山千光寺がある。ここには立木仁王像や円空像が多く保存されている他、平城天皇の廃太子高岳親王(真如上人)ともいかれる伝説上の人物両面宿直儺の立像がある。
再び高山に戻り奇祭の起こし太鼓の古川町につく。町の百数キロは泉鏡花の「高野聖」の舞台天生(あもう)峠への入口でもある。天生峠を越せばすぐ白川郷である。古川から東に入ると神岡鉱山へ通ずるが、神岡鉱山への近道は猪谷駅から神岡線で入るのがよい。猪谷を過ぎると岐阜県から富山県に入ることになる。越中八尾で下車すると駅の左の婦負(ねい)郡八尾町は吉井勇が第二次大戦中疎開をしていた所でその時の詠歌は「流離抄」や「寒行」に入っている。八尾をすぎると、万葉歌人大伴家持特の任地本越中へと通ずる。
(中田武司 著)
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