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北巨摩郡の歴史

2023年09月06日 10時37分20秒 | 北杜市 韮崎市 地域情報

北巨摩の歴史 

 

角川地名辞典 19 山梨

 

逸見御牧 へみのみまき 逸見荘

 

この記載内容は一部誤りが見える

 

現北巨摩郡域にあった牧。速見とも書く。「蜻蛉日記」天徳2年(958)7月の記事とされる部分に藤原兼家の長歌として

「かひのくに へみのみまきに あるゝ馬をいかでか人は かけとめん とおもふものから」とある。

これは、「矢本抄」雑部に載る読人しらずの

「をがさはらへみのみまきにあるるむま(馬) もとればぞなつくなつけてぞとる」

を本歌とするもので、都までその名が知られていた。

 

また「堀河院百首」の藤原顯仲の一首に

「をがさはらへみのみまきのはなれごま いとどけしきぞ春はあれ行く」

などと詠まれるように小笠原と併記して歌われることが多く、両牧は近接していたものと思われる(×)。

 

柏前(かしわざき)牧の別名ともいわれるが(甲斐国志)、詳細は不明。建長五年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)に小笠原と並んで逸見庄がみえるところから、馬相野から逸見御牧、さらに逸見庄と発展したとの推定がある(?)。

 

逸見庄

 

 旧巨摩郡域の北部に比定される。先行地名として「和名抄」所載の巨麻郡速見郷、古歌にみえる逸見御牧があるが、相互の関係は不明。いずれにしても、その後身か近隣に成立したものとみられる。辺見とも記される。

建長五年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)に、請所として小笠原とともに逸見庄がみえ、冷泉宮領内の注記がある。

 

冷泉宮は敦明親王の皇女儇子内親王で、祖父三条天皇の養女として大納言藤原信家に嫁している。

冷泉宮領はこのとき内親王が持参したものか。敦明親王が58歳で亡くなったのは永承六年(1051)であり、遅くも11世紀初頭には当庄は成立していたものと考えられる。冷泉宮の子麗子は関白藤原師実の妻となり、当庄は麗子を経て子師通、さらにその子忠実へと伝えられて、皇室領から摂関家領となった。

 

 一方、大治5年(1130)常陸国で事件を起こし、甲斐に流罪になった源清光が逸見冠者を称しているから(尊卑文脈)、彼は当庄に拠ったものと思われる。

その子光長は逸見太郎を称し、逸見氏の始祖となる。だが武田信義との甲斐源氏の惣領争いに敗れたためか、文書・記録類にほとんど登場せず、わずかに知承知4年10月月13日の駿河に向かう甲斐源氏軍のなかに逸見冠者光長の名がみえるのみである(吾妻鏡)。

鎌倉政権下で逸見氏が地頭としての立場を保持していたかどうかは明らかではない。

 

建武4年(1337)3月7日の足利直義安堵下文写(諸家文書)によると、二階堂政頼が当庄内の上大八田村・下大八田村半分・夏焼村因狩倉(以上現長坂町)の地顕職を安堵されている。安堵の根拠は文保3(1319)正月6日の父行貞の書状などであるから少なくても鎌倉末期からは二階堂氏が当庄の一部の地頭職を保持していたことがわかる。

 

庄内の地名としては、

 

前記の上大八田村・下大八田村・夏焼村のほか、康永4年(1345)の円楽寺(現甲府市・中道町)蔵大般若経奥書(甲斐国志)にみえる「皆波郷」(現高根町箕輪)、応安2年(1369)4月26日付の現塩市野尻嶮之助氏蔽大般若経奥書にみえる塚田(現長坂町)、水和3年(1377)3月下澣の現山梨市永昌院蔵梵鐘銘の「鹿取郷」(現明野町神取)などがあるから、庄域は長坂町から高根町南部、さらに須玉川・塩川を渡って明野村西部にまで及んでいたことになる。

 

戦国期になると、「武田家日坏帳」に、永禄10年(1567)7月21日に逆修供養を行った「ヘミノ庄逸見殿」、元亀2年(1571)11月20日供養の「逸見庄大八田住人 堀内下総守」と「同庄、長坂郷住人 小林雅楽丞」などがみえるほか、その地域はさらに広がり、永禄1年5月吉日の熊野先達代官職補任状写(寺記)に藤井五郷(現韮崎市)、天正3年(1575)11月28八日の現韮崎市三之蔵諏訪神社棟札銘に小笠原郷三之蔵村(現同上)などがみえて、現韮崎市西部まで含むようになる。

 

なお慶長4年(1599)5云月9日の廊之坊諸国檀那帳(熊野那智大社文書)に「へんミ廿四郷」がみえる。本来庄域内であった地名がたまたま戦国期の史料に残ったのか、呼称の範囲が拡大して名称のみが付与されたのかは判然としない。

 

逸見は筋を示す広域名称として近世に残り、元禄15年(1702)の清泰寺梵鐘銘では片颪村(現白州町花水)までが庄内と記されていることなどから、後者である可能性は高い。

 

玉庄 たまのしょう

 

 現韮崎市穂坂町三之頭の諏訪神社頭の天正3年(1575)11月28八日、棟札名に「巨麻郡里庄小笠原郷三蔵(さんのくらと)ある。

 

「甲斐国志」では多麻庄と書き、樫山・浅川(現高根町)、津金・穴平・若神子・小倉(こごえ)・東向・大蔵・藤田・大豆生田(まみようだ 現須玉町)の諸村が属したとするが、これらの地域は逸見庄や山小笠原庄の庄域と重複することになり、併存したとは認められない。単なる地域呼称として成立したものか。

 

北巨摩の歴史 楯無堰

 

茅が岳南西麓一帯を潅漑する用水路。

 

上野山(現韮崎市)や立石原の広い原野を濯漑して美田としたので立石堰とよんだのが転化して循無堰となった。現在は延長約17キロ、濯漑面積298ヘクタールに及ぶ。

「甲斐国志」に

「寛文六年江戸ノ大野村宗貞始テ開ク、故ニ宗貞渠トモ云フ、

然レドモ漏水多クシテ下流ノ田ニ漑ギ難ギ候、

其翌未申両年ニ有司今ノ渠道ヲ通ズト云、

  発源ハ逸見筋小笠原ニ在リ塩川ノ水ヲ引ク」

とある。

 

この地域は古代の甲斐三官枚のうち最大の穂坂牧があった所で(?遺跡遺構が皆無)、火山裾野の干害地域で、住民は、濯漑用水はおろか飲料水にさえ不自由していた。

寛文(1661~73)の初め宇津谷村(現双葉町)に隠居していた江戸の浪大野村宗貞は堰の開削を願い出、許されて寛丈6年に着手した。

 

塩川の水を小笠原村(現明野町)岩根で堰止め、岩下・上野山(現韮崎市)、駒沢・宇津谷(現双葉町)まで通水した。裾野の地質は軽石質に富んだ火山灰で透水性が大きく、安山岩の巨塊が土中に横たわり、尾根や谷が多いので工事は困難であった。3年後には標高400メートルの線上を米沢・笠石・菖蒲沢・団子新居・大垈(現双葉町)を通り、谷は板堰で尾根は暗渠で流下し、竜地(現同士)まで完成した。堰の名は野村宗貞の功績を称えて宗貞堰ともよんだ。その後団子新居村の中村六郎右衛門が堰の規模を拡張した。この堰の開削により岩森村(現同上)は慶長古高帳の高98石余が文化(1804~18)初年には高378石余となり、宇津谷村でも慶長古高帳の高698石余が文化初年には1079石余となった(甲斐国志)。文化14年、塩川対岸の中条村で(韮崎市)で新堰3ヵ所を計画したため、用水不足になると反対している(「楯無堰議定書」宮久保区有文書)。訴えた10カ村組合の村々は三之蔵付・宮久保付・岩下村・上野山村(現韮崎市)、団子新居村・宇津谷村・岩森村・菖蒲沢村・大望村・竜地村であった。

 

 大正元年(1912)から改修工事が行われ、同5年に完成した。循無腰は大望で大望堰と合流して竜地溜池に貯水し、下流の潅漑に利用している。

竜地溜池は文化3年溜池設置の許可を得て同年4月起工した。しかし大事業のため遅々として進まず、関係集落が農閑期に夫役を出して30年かけて天保3年(1832)完成した。

池畔にある「石尊大乗妙典」の石碑に「自享和三年癸亥大願成就至天保三年壬辰」とある。この貯水池の水は上流地域の田植前に放出して上流地域の植付けを終え、上流地域の植え付け中は溜池の水だけで下流に配水灌漑している。

現在、堰はコンクリート化され、竜地溜池も近代化されて流量も増し、双葉町の生命線となっている。野村宗貞は天和2年(1682)に没し、墓は宇津谷の法喜院にある。

 

 


北杜市偉人伝 

2023年09月06日 09時15分46秒 | 北杜市 韮崎市 地域情報

北杜市偉人伝 小尾守彦 『北巨摩郡勢一班』(一部加筆)
 
寛政四年(一七九二)甲村五丁田(北杜市高根町)なる里正の家に生れ、通称兵之進、諱は保教、字は子孝、鳳山と号した。幼にして谷戸の祠官某に学び、其の後独学独習一家を成し又書を能くした。蕪(かぶら)庵二世蟹守に就いて俳諧を学び悟入造詣深く、同門下中の逸才で、遂に師の衣鉢を継ぎ「蕪庵三世守彦」と称する。私塾を開き子弟を教養すること千余人、弘化元年(一八四五)九月四日、行年五十三歳で病死した。『人道辨義』一冊『人道俗説辨義』二冊、
『鳳山詩文稿』二冊、『新編俳諧文集』一冊、『土鳩集』等の著書がある。其の辞世の句に曰く、
名月の名残ばかりとなる夜かな
門人師翁の徳を後世に伝えんが為、一代の詠草を蒐め『旭露集』と称して上梓した。
  春の雪少しの物の上に降る
  秋立つや夜の次第のしれながら
  置扇問はれて譯もなかりけり
  ある上にある上にあり田螺殻
  新蕎麦や味につれたる里の寂
芥子散るや蝶の力もやゝ見ゆる
  伸直る臥猪のあとや青薄
  折りおりは風の助けたる鳴子哉

峡北偉人伝 塩崎村宇津谷 有泉棔齊『北巨摩郡勢一班』(一部加筆)
 明治初年の俳壇に立ちて峡北の天地に燦爛たる光彩を放ち、而もー種独特の凰調を有して人に媚びず世に阿らず能く自然を吟じ、能く実情を描き才名を壇にしたる者は塩崎村宇都谷の有泉棔齊である。彼は同村久保寺平左衛門に就いて詩文書を学び、その傍ら武術を修めまた浄瑠璃や謡曲の諸芸を学んだ。
ある年甲府の豆々花通志が同村妙善寺に俳諧連座を開いた時、彼は書を能くするの故を以て宗匠を助け執事をなし、遂に師弟の契りを結んだ。これが俳諧入門の一歩である。而して研鑽する處愈深く、遂に俳人として頭角を現すようになった。同村には昔時芭蕉翁の句碑螢塚なるものがあったが、星遷り物変り何時しか湮減に帰せしかば、明治十八年これが再建を企て
畫見れば首筋あかき螢かな
の句を自ら揮毫して一基の碑を建てた。従游する子弟多く探志、梨柳、松逕等の高足が輩出した。明治二十二年一月四日、八十二歳の高齢を以て此の世を去った。 
門人相謀り翁自詠の句、
二日見ぬ柳青木となりにけり
の碑を建てた。
柳見に行けば雨ふる澤邊かな
菊の花数々どれも咲いたげな
薮世帯今日も時雨で日暮哉
神道を心に歩く春日哉
蔦からむ古木の蔭や蝸牛
神道の修業とて上る山路にて
夕立や高天ノ原に上る道
等が秀吟である。

北杜市偉人伝 山本閑湖 長坂町
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

名は裕、秋田村大八田(北杜市長坂町)山本甚五左衛門の長男で、文政八年(1825)六月六日に生る。峡中の歌人輿石守郷の実兄である。
權大教正に任ぜられ同村郷社建岡神社の社司を奉じた。和歌及俳句に長じ其の遺吟が少なくない。明治四十二年(1909)六月二十日逝去した、享年八十五。
  ぬれ色に晴れ間を高し五月不二
  八ケ根のふもとのさくら咲きにけり 山田のゆたね今やまくらん。

韮崎偉人伝 金井志雪(白眞斎志雪) 
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

凡俗を超越して俳諧三昧に一生を終り、巨万の富を見ても芥の如く、人の栄達を見ても羨まず、思想淡白人の褒貶を度外においたのは白眞斎志雪である。彼は元諏訪の藩士で廃藩の際官途に就き、若しくは産業に従事する事を欲せず、本郡に流れ込み円野村・清哲村、韮崎等に寄食し遂に韮崎町の馬方茶屋秋山留吉方で生涯を終った。生涯独身で邊幅を餝(かざ)らず、足らざれば受け、余りあれば輿へ、其の無慾なる蓋し稀に見る所である。彼は嘗て江戸詰をして居た際俳諧に趣味を持ち、月の本爲山に師事して、正風俳諧を習得し、本郡に来て俳道を鼓吹誘導した。
韮崎町の池田稻月が組織した天狗党の顧問として発達を助け、岡倉は大正三年(1914)十月白髭神社境内に
くれかゝる枝から明ける桜かな」
の句碑を建てた。
大正十年(1921)初冬、病に罹って起きることが出来なくなる事を知ると
今一度見たし木枯なぎた跡
の句を吟じた。これが志雪最後の吟である、其の坦懐思うべし。同年十月八日八十歳を一期として永眠した。韮崎天狗曾は厚くこれを葬り、一基の石碑を建て、其の裏面に略歴を刻み生前の徳に報いた。(現存する)

【註】七里岩の共同墓地(平和観音の筋向い)の入口に天狗会の句碑がある。

韮崎市偉人伝 伊藤松逕 穴山
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

穴山村の人。実名は勘左衛門、壮年の頃勝山享□(扌昏)斎に就き俳諧を尊び、晩年に迨(およ)んで全く俗事を擲(なげう)ち専心俳諧の奥儀を究めんと志、自然は詩歌の良師なることを思い、一葢の笠一枚の杖によつて天下を漫遊し詩嚢を肥やした。
   清見寺より三保の松原を望みて
  羽衣と見えて霞むや三保の松
   須磨の浦にて
  初花や制札かきし武蔵坊
   寧楽の舊都にて
  春寒し足のきかざる大鼓橋
 
などの句がある。明治三十八年(1905)二月十三日齢七十二にて長逝した。其の節世の句に曰く、
世に耻(はじ)をかき捨てにして春の旅
 
韮崎市偉人伝 宮澤随斎 藤井
 『北巨摩郡勢一班』一部加筆

通称を彦太郎と云い、「駒の家」又は「素堂」と号した。初め東都の此華庵鶯洲に就いて俳諧を学ぶ。後京都の花の本聴秋に入門して研鎖をつみ造詣する研が深かった。明治三十六年(1903)還暦の齢に当り四方より祝草を請い、自詠を合せて「千代見草」という一書を刊行した。其の時の自賀の句に曰く
身にあまる其の賜物や花の数
又聴秋師より立机(宗匠となること)を許された時
旭に添ふてかをり初るや薮の梅
と吟じた郷社常麻戸神社境内に
人はよき友と交れ月と梅」
の句を後昆に遺すべく石に刻し、大正九年(1920)二月十一日永眠した。齢八十歳。
 
北杜市偉人伝 輿石守郷 長坂町➡甲府 
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

物質文明の悪弊天下を風靡し、国民精神の漸く薄くなろうとするときに当り、特に県下唯一の国学の士輿石守郷翁の如きを想い起さざるを得ない。
輿石守静は本姓山本、天保八年(1837)二月秋田村大八田(長坂町)甚五左衛門二男として生れ、郷社建岡神社紳職輿石森喜の家を継ぎ、その姓を称したのである。
幼名を亀之助と云い「岡廼舎」と号した。幼にして堀秀成に師事し、後、落合直澄に就き本邦の古典及和学を学び、明治八年(1875)国幣中社浅間神社の主典となり居を甲府に移した。同十八年同社の禰宜に進み、明治十九年(1886)郷社稲積神社祠官、併せて山梨神道分局長に任ぜられ、四方の諸社を併管し山梨皇典講究分所長ミなつた。明治三十九年(1906)大教正に進み、明治四十三年(1910)病を得て職を辞し、病床に就くこと一年、明治四十四年(1911)八月享年七五にて逝去し、城北愛宕山に葬る。
性篤実撲素にして、あえて邊幅を飾らず、好んで和歌を吟詠し、雑誌「えびかづら」を刊行し、また「鶯蛙会」を設け歌道を奨励した。為に本県和歌の隆盛を見るに至った。又俳句を善くし戯曲・浄瑠璃を嗜み、能く飲み能く談じ、酔えばすなわち諧謔(かいぎゃく 機知や滑稽と同じく笑いを引起す)百出傍に人なきが如く痛快であった。或る人が守郷の草字を誤り、「馬太」と読み「馬太先生」として応答した。翁は喜び以来俳名を「岡の合馬太」と称した。
蜀山人の故事にも似て洒落想うべきである。その著す所
「甲斐古社考一巻」・「補正活語図解一巻」・「伊勢物語段解」
等世に行われている。
又山梨湯田裁縫女学校長として伊藤うた女史を援け、同校の発展に尽瘁する事前後十七ケ年、同校の今日の隆盛があるその大半は翁の力によるものと云っても過言ではない。
翁辞世の歌は実に人生観である、その数首を掲げる。
  辞世
 うきをのみかぞへてなにかなけくらむ たのしと思へば楽しかる世を
  新年 
いまになほをさな心のうせずして 年のはじめは嬉しかりけり。
  早春川 
不盡川のこほり流れて下るめり 甲斐の国原はるやたつらむ
  窓前春雨 
ほろほろと垣根のこぶし花ちりて 窓の外しろく春雨ぞふる。
  行路卯花 
うたひつつ静にゆかん卯の花の 雪の山路は寒けくもなし
  暁郭公 
ほととぎす今宵もかなとまつの戸を おしあけがたの月になきけり
  螢   
 照らさやばのがれんものを夏虫の 光りぞ遂におのが仇なる
  荻風驚夢
 昔しへにかよふ夢路なさまたげて こよひも吹くか荻の上風
  露   
 風吹かばみだれやせんと朝露の おけるかうへにおく心かな
  月  
 月見ればいよいよ丸くなりにけり 千々にくだきし秋の心も
  時雨
 引き捨し鳴子の縄もくちはてゝ とぎれとぎれにふる時雨かな
  社頭落葉
 冬もまた浅間のもりの朝風に ぬさとみだれてちる紅葉かな
  庵雪
 怠りて掃きもきよめぬ朝庭を かくすや雪のなさけなるらん
  寄簾恋
玉すだれたまたま人を見てしより ゆらぎ初めたる我こころ哉

峡北偉人伝 野村宗貞 双葉町(現甲斐市)
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

江戸の人で塩崎村宇津谷字中八戸にきて住した。彼の楯無堰はその居宅で計画したもの
で、その偉業遺徳は堰の流れとともに、千歳盡きざる大恩人と仰がれている。
野村宗貞は天和二成年(1682)二月二十日同所で没した。その家近世に至って断絶して廃家となったから、村人背謀りて碑を墓畔に建て徳を不朽に伝える。

北杜市偉人伝 助之丞、市郎右衛門 長坂町
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

昔秋田村大八田(長坂町)に助之丞、市郎右衝門という義人があつた。
元文四年(1739)四月前年よりの凶作で飢餓に迫るものが多かった。助之丞、市郎左衛門の両人これを見るに忍びず、居村は勿論近村まで多額の米を施興した。為に救われたもの大八田村に百八十人、長坂上條に四十九人・外六ヶ村に百五十人、米十二石八斗四升(但し三升桝にて)此の篤行は官に聞こえて同年五月松平左近将監、神尾若狭守外六人の連署にて御褒美白銀十枚を両人に下された。

北杜偉人伝 繁官利左衛門 小淵沢町
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

 長野諏訪郡境村並に本郷村の地籍に係る八ヶ岳の内字編笠岳、擬寶珠岳、虚空蔵岳、西岳、広原等は往古より小淵村並に諏訪郡舊上蔦木村、烏帽子村、瀬澤新田村、葛久保村、先達村、田端村、池袋村、高森村、小六村、乙事村、立澤村等の入会地であったのに、小淵澤村は距離遠き上に、証拠薄弱なるに乗じ、諏訪郡各村は小淵澤村を除外せんとした。時に繁官利左衛門総代に選ばれ江戸奉行所に訴を起し決せざること十数年、村民倦怠して費用を弁償せざるようになった。利左衛門は成果なく帰村し、自家所有の田畑は勿論世帯道具、建具等に至るまで菅売却して其の費を調べ、終にその訴訟に勝利を得、今に至るも其の入会権を継続してる。後人氏の業績を徳として字「井詰原」に石嗣を建て氏の霊を祀ってある。
常時の裁許状
 八ヶ岳山逸見筋小淵澤と諏訪領蔦木村山出入ノ事以見分遂穿鑿申付上者長谷澤ヨリ境
川迄如先規之双方可為人相若此旨相背者曲事ニ可申付者也
                坪井金太夫  印
                石川三右衛門 印
                伊奈半十郎  印
                宮城越前守  印
                  甲州逸見筋小淵澤村
                名主 惣百姓中
                    
北杜市偉人伝 丸茂忠兵衛 須玉町
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

丸茂忠兵衛は多麻村上小倉の人である。夙に公共の事莫に尽力少なからず、明治十八年
(1885)選ばれて山梨県会議員となり、県治に貴臥することもまた少なくなかった。
多麻村の北に突起する班(まだら)山は明治八年(1875)検地の時官有地に編人せられ、芻蕘雉兎の者為に困窮した。氏これを憂い諸人と謀り官にその復帰を訴願し、官縷々吏員を派遣して案検し、明治二十九年(1896)十一月七日民有地に復帰することを得た。これ氏の功績なりりて区民相謀り碑を建て其の徳を不朽に伝える。

北杜市偉人伝 三井治左衛門 大泉町
 『北巨摩郡勢一班』一部加筆

 三井治左衛門 大泉村西井出の人、明治初年(1868)西井山村の地傍、八ヶ岳山麓原野三千餘町歩の入会山に関し、境界を争って両党分立し久しく決せず、氏是れを憂い実地を歩査し、文書を勘校し官に訴え境界を正くする。是れによって諸村諧和して長く紛擾を絶つことができた。諸人之れを徳とし尊敬せざるはなかった。後八ヶ岳山峰甲信の境を正しくせんと欲し、嶮峻を凌ぎ地理を測っていた処、天色忽ち変じ急雨昏黒衆色を失う。深山寒気特に甚だしく濕衣凝氷、氏は遂に凍死する。實に明治十六年(1883)九月二十九日である。享年四十有九、郷土の人碑を建て徳を不朽に伝える。

韮崎市偉人伝 内藤朝政 
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

円野村(現韮崎市)の人、幼より書を読み、剣を学ぶ。少壮京に上り勤王の士々と交はる。明治の初、郷に掠り村吏又は郡吏となり公共の事業に力を尽くす。後感ずる所あり退職して栗原信近氏等と産業方面に従事し功績多し。
明治十二年(1879)県会議員に挙げられる。
翌年、明治天皇本県御巡幸の際に御小休の栄誉を賜い、拝謁を賜りたり。
明治二十二年(1889)九月二十七日に歿す、行年五十五歳。
明治十三年(1880)聖上陛下御巡幸の際御小憩あらせられし縁故により、明治十五年(1882)三月東宮殿下行啓の際田内侍従を派遣せられ、令旨を嗣子彦一に伝えさせ給う。

韮崎市偉人伝 千野林蔵 龍岡
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

天保元年(1830)龍岡村に生れる。天資頴悟、年壮なるに及び県の四傑と称せられ、名声県下に轟き、
明治二年(1869)十二月郡中総代となり、甲府県に出仕し、
明治三年(1870)十二月甲府県より河除掛惣代を申付けられ、
明治四年(1871)堤防取締役を拝命、勤役中帯刀差を免ぜられる。
明治五年(1872)十一月山梨県より戸長申付けられる。
明治八年(1875)一月巨摩郡二十四区長申付けられる。
明治九年(1876)一月巨摩郡二十四区長兼学区取締を申付けられる。
明治十年(1877)県会幹事に申付けられる。
明治十一年(1878)十二月北巨摩郡長に任ぜられた。
明治十八年(1885)七月、職を辞して閑生活に入るまで、公職に尽瘁すること二十年である。
明治三十二年(1899)八月長逝した。

初代郡長
郡名 初代郡長 郡役所所在地 所属町村数
東山梨 加賀美嘉兵衛 平等村 村31
西山梨 八代駒雄 甲府常磐町 町59
村15
東八代 加賀美嘉兵衛 鶴飼村 村42
西八代 名取善十郎 市川大門村 村35
南巨摩 名取善十郎 鰍沢村 村25
中巨摩 三枝七内 竜王村 村52
北巨摩 千野林蔵 河原部村 村44
南都留 斉上斉 谷村 村21
北都留 鯛淵忠常 大原村 村18

北杜市偉人伝 小松益(?)謙 長坂町 小泉
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

幼名を道三郎と云い、後に益謙と改める。別に漱石又は撫泉と称した。
文政二年(1819)十二月小泉村に生まれる。幼時、竹村淇齋に就いて書を学び、又竹村山陽に従い画を習う。
明治五年(1872)副戸長になり、区長、区長惣代理、北巨摩郡書記等を経て中巨摩郡長に任ぜられ.後山梨県会議員に選ばれ、甲府治安裁判所判事に任ぜられる等公職に尽すこと多年、遂に退きて文墨を弄ぶ。絵画は殊に山水人物に妙を得た。明治四十一年(1908)八月郷里にて永眠する。享年八十歳。
 
北巨摩郡偉人伝 綱蔵輝明 双葉町(現甲斐市)
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

網倉氏は其の本姓は平賀である。世々通称を平輔と称する。
輝明の親父平輔嗣無く竹内氏の子を養って嗣とした。これを輝基翁と云う。輝基翁思へらく、他家を継がばその家産を起すは義務であると。奮然殖産の志を起し、自ら倹素を守り日聴稼穡に勤め、遂に室内の富を致した。その子輝明、人となり温厚篤實で仁慈の心に富み、貧を憂い、窮を救い美事善行勝り数える可からず。
偶郷党に結党の事があって、父輝基嫌凝を被り獄舎に囚われる。輝明自ら絶食して神明に祈り父の難を救おうとした。
 その孝心が神に通じ難なきを得たのである。輝明また書画を好み古書画あれば、財を惜しまずしてこれを買い求めた。故に元明以下の真蹟が櫃に満つる程集めた。
惜しいかな此の人齢僅に三十七にて明治十三年(1880)三月此の世を去った。

韮崎市偉人伝 栗原信近 『北巨摩郡勢一班』
一部加筆

明治の二宮尊徳と称すべきは実にこの栗原信近翁である。翁は弘化元年(1844)九月穴山柑次第窪に生れ、幼名を希助と呼び後に傳左衛門と改め、柴山樵夫、梧園耕夫の号がある。資性温順常に意を産業の振興に致し、公金事業に尽瘁して東奔西走眞に席温まるに暇あらずの形容詞が適当している。其の事業の大要を摘めば、原野な開墾して移住の途を開き、銀行を設立して金融機関の運転を創始し、養蚕を勧め、製紙業の振作を図り、或は富士川に新水路を開鑿して運輸交通を促し、南陲の諸村三椏(みつまた 紙の原料)栽培に通ずる事を見るや、殖産社を起して民に職業を授け、市川紡績所を起してその業の発展を企て、或は養鶏、植林・勤農及四品取引の業に、或は風俗改良勤倹貯蓄の奨励に、或は葡萄の栽培に、或は信用組合の設立に、老體を忘れて奔走し、清廉潔白、世に阿らず人に衒(てら)わず、賢に勧業の木鐸であった。
編者明治の末年ゆくりなく中巨摩郡宮本村大黒屋で信親翁と同宿した。時に十二月末にて筧の水も氷柱を垂れる寒さであるにも関わらず、翌朝未明齢七十に垂たる翁の水垢離をとっていったには少なからず感激した。而して其の日は無言の日とて終日啞の如く一言も発せず、筆にて一ケ月に一日無言日のあることを告げたその修養想うべきである。
明治三十七年(1904)十二月六日勅定藍綬褒章を賜はり、明治四十五年(1912)東宮殿下本県行啓の際(四月一日)御旅館に召され、波多野東宮太夫より多年実業に奮励の段御満足に思召さる、御令旨を伝え、且つ茶菓を賜わる事の光栄に浴せり。大正十三年(1924)六月十四日多大の功績を遺して此の世を去られた。行年八十一歳、泉龍寺に葬る。

北杜市偉人伝 長坂町塚川 三井松軒 
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

通称将監後に松軒と改める、諱は栄親、文政元年(1818)十二月、日野春村塚川に生れる。資性温厚、幼にして学を好み研鑽克く力め、後に医を業として貧者に施療した。また地域の子弟に謹書習字を教授し、教えを受ける者数百人、元治元年(1864)武田耕雲斎当国に乱入の聞あるや甲府勤番に従い長澤口(高根)を警衛した。明治元年(1868)上野原関門の警衛に当り、同年総督府参謀入国護国隊編成に付其の取締役となり、後戸長区長の職に就き信州往還関通の事業、小学校創立等に貢献するところがあった。特に日野春開拓の時にはその世話係りと功績が少なくなかった。明治十年(1877)郷社の祠官なり、同十五年(1882)八月十三日、八十五歳を以て病歿し神道管長より樺少教正を贈られた。

参考記事 杉浦醫院四方山話: 5月 2014

韮崎市偉人伝 八代駒雄 穴山
『北巨摩郡勢一班』一部加筆

八代駒雄は穴山村(韮崎)に生る。学を堀秀成に受け.後権田直助に師事し、国学の造詣深く、和歌を能くした。彼の家世々医を業とした。初め家業を継ぎ、医を業としたが、壮年に及び信州諏訪神社の宮司及び国幣中社浅間神社の宮司を歴任し、後郡長に任ぜられ西山梨、中巨摩、南巨摩、東西八代、南都留等の郡行政に従い、其の功績が少なくなかった。明治三十一年(1898)南都留郡長在職中逝去した(11月、徴兵問題にからんで、自殺(58))。資性誠実厳直尊王愛国の念深く、至誠人を率いた。
四子ありいずれも俊秀、
長男を秀雄と云う、医学専門学校を卒業し、祖業を継ぎ居を甲府に移した。
次男を澄雄と云う、医科大学を卒業の業を卒へ医学博士の単位を授けられ、侍医に登用される。
三男を建男と云い、陸軍砲兵少佐となる。
四男を春雄と云い、これまた医科大学を卒業し医学博士の学位を授けられる。
 山高神代桜の和歌 明治時代(『武川村誌』一部加筆)
   甲斐 八代駒雄
七ひろにあまる桜は七国を たつねてもまたあらしとそ思う

郡名 初代郡長 郡役所所在地 所属町村数
東山梨 加賀美嘉兵衛 平等村 村31
西山梨 八代駒雄 甲府常磐町 町59
村15
東八代 加賀美嘉兵衛 鶴飼村 村42
西八代 名取善十郎 市川大門村 村35
南巨摩 名取善十郎 鰍沢村 村25
中巨摩 三枝七内 竜王村 村52
北巨摩 千野林蔵 河原部村 村44
南都留 斉上斉 谷村 村21
北都留 鯛淵忠常 大原村 村18

北杜市偉人伝 古屋傳(徳)兵衛 

『北巨摩郡勢一班』一部訂正と加筆

鳳来村(現在の白州町上教来石)の人、横浜の開港に際し、将来発展すべき場所の予想を抱き、明治2年(1869)横浜に出て、鶴屋呉服店を開く。明治二十二年(1889)東京神田今川橋に松屋呉服店を経営し、明治四十年(1907)欧米式百貨店とする。大正年間更に時代の進歩に伴い、益々資本金を増加し、五百万円とし、業務を拡張すると共に、新店舗を京橋区銀座三丁目に開設し、帝都に於ける模範的百貨店となる。爾来商運益々盛にして以て今日に至る。
翁は四十四年(1911)七月三十日病死す、行年六十二歳。横浜市元町増徳院に葬る。
 
韮崎市偉人伝 小野金六 
『北巨摩郡勢一班』一部加筆 訂正

韮崎町の人、夙に殖産興業の大志を抱き内外実業の発展を計り、諸種の興業会社を発起経営し、或は銀行の首脳となって経財金融の機関を円滑し、或は鉄道事業の経営に任じて運輪交通の利便を拡張し、進んで朝鮮軽便鉄道の経営に任じ或は水力電気の應用を主として電力事業を起すこと一二に止まらず。日露戦争の折り日本練炭会社の製品を軍実に供し功あり、勲六等に叙せられ、また濟生会翼賛の功により黄綬賞を賜はる。郷里韮崎の小学校の講堂は地方としては其の大を誇るべきものなり、其の建築費は翁の寄贈であった。
大正十二年(1923)三月十一日病で没する。年七十二。
事天聴に達し特に従五位動五等双光旭日賞を授けられる。墓所は東京市外堀之内妙法寺に在り。

韮崎市歴史上の人物 小野金六
 『韮崎市誌』下巻 文芸・芸術所収<山寺仁太郎氏著> 一部加筆

 幼名金六郎。嘉永五(一八五二)年八月一八日韮崎町に生まれる。父、小野弥左衛門富郷(通称伝吉)、母、藤井町保坂源兵衛の娘「うら」。小野家は屋号を富屋と称し、酒造業・呉服商を営む豪商で、併せて名主職をつとめる名家であった。長兄は弥左衛門(千萬吉、彼は三男であった。若くして聡明、寺子屋にて漢籍を学び、また甲府の坂本一鳳の門に学んだ。青年時代、若衆名主に推された。一五歳の時、番頭に連れられて、江戸見物に上ったが、この時の見聞が後年、大実業人となる刺戟となった。
 家業に精励し、諏訪地方の蚕業を見て、自家に桑園を開き、蚕室を設け、製糸工業を興し、韮崎の後年の製糸業の草分けとなった。また甲州に不足する塩の移入に努力するなどの、発想もあった。
 上京
 明治六(一八七三)年、志を立てて上京、東京において幾多の辛酸を嘗めたが、その間、栗原信近、渋沢栄一・安田善次郎等の知友を得た。
 明治一三(一八八〇)年栗原信近に請われて、第十国立銀行東京支店の支配人として明治二九(一八九六)年まで在職することもあった。勃興期日本資本主義時代の実業人として多くの会社、事業の創立に関与し、自ら、社長・会長となることが多かったが、彼の事業は大別すると、機械製造・鉄道事業・石油・石炭・電力等の基幹産業・製紙・銀行・食品・観光開発に及んだ。基幹産業において、日本鉱油会社を創立し、初期の石油採掘精製に先鞭を附けたことは注目されねばならぬ。九州炭鉱汽船、加納鉱山等にも関係したが、ペルーのカラワクラー銀山に着目したことは、その成否は別として、彼が、国際的視野を持っていたことを実証できよう。炭鉱の開発から当時日本海軍の必需燃料であった煉炭製造のために日本煉炭株式会社の経営に努力した。電力関係においては、桂川電力、東京電燈に関与し、北巨摩においては、小武川電力を創立した。製紙事業においては、富士製紙株式会社を創立、銀行関係においては、第十国立銀行の他、九十三銀行副頭取、東京割引銀行頭取を歴任した。
 鉄道事業
しかし、彼が最も力を入れたのは、甲信鉄道の計画から始まった鉄道事業であって、両毛鉄道会社の設立・台湾縦貫鉄道計画、朝鮮の京釜鉄道、小倉鉄道等に関係し、特に、東京市電の前身、東京市街鉄道株式会社の創立は、東京の交通網形成上、極めて意義の高いものであった。
 富士身延鉄道
 中でも、甲府と静岡を連結しょうとして企図された富士身延鉄道は、彼の最大の事業であって、明治四五(一九三)年、富士身延鉄道会社を創立し自ら社長となった。
 富士山麓の振興
また、鉄道事業に関連して、富士山麓の産業・観光開発に早くより注目、この事業は堀内良平の継承するところとなった。
 食品事業
さらに食品関係で、東洋製罐抹式会社を大正六(一九一七)年創立して社長となった。彼は、甲州財閥形成の中心人物の一人として、甲州系各種企業の指導者であったと見られる。
 文化活動と信仰
 反面、後輩の育成に努め、和歌・狂歌を嗜む風流なところがあり、日蓮宗に帰依することも厚かった。
 故郷へ
韮崎として忘れがたいことは、大正一四(一九二五)年四月完成して、当時県下一といわれた韮崎小学校講堂を寄附したことである。三万余円の額であったという。
また、彼の遺志をついで嗣子耕一が、県立韮崎中学校敷地を寄附した。
 逝去
 大正十二(一九二三)年三月十一日没。七二歳。法名「帰正院殿諦観錦麓日通大居士」。従五位勲五等雙光旭日章・頌徳碑は若宮八幡宮にある(資料編「金石文」参照)。
 有隣会編集の伝記「小野金六」は昭和三年刊、白瀧幾之助岱揮毫の肖像画は、今も韮崎小学校講堂に掲げられている。<山寺仁太郎氏著>

北杜市偉人伝 大芝惣吉 高根町
『北巨摩郡勢一班』一部訂正・加筆

 大柴翁は明治元年9月熱見村村山西ノ割(現高根町)に、大柴治貫の長男として生まれる。
翁は文官として身を起し地方長官正四位勤三等に昇進した。実に君を以て本県の囁矢とする。
 天資英敏にして、夙に明治二十三年(1890)、和仏法律学校を卒業。代言人試験に合格。明治法律学校に入り法律を学び、弱冠(20才)にして弁護士試験に及第し甲府に出て業を開く。居ること数年、明治二十七年(1894)弘前区裁判所判事に任官。以後司法官として各地に歴任した。後に方向を転じて行政官となり以後、佐賀県事務官・警察部長、富山県事務官・警察部長、福島県警察部長、同内務部長などを務める。富山県警察部長より福島県内務部長となり、大正二年(1913)には群馬県知事に昇進したが、大正三年(1914)大隈内閣出現と共に罷められ、大正四年(1915)三月、第十二回衆議院議員総選挙で福島県郡部区に立憲政友会から出馬し当選。衆議院議員を一期務めた。大正六年(1917)年十二月、佐賀県知事に発令された。以後、大正八年群馬県知事(第18代:1913~1914 ・第21代:1919~1922))、大正十二年(1922)宮崎県第十七代知事(1922-1923)等の知事に任用せれる。翁は原敬の知遇を受け、政友会の色彩が鮮明で、常に政海の波涛と共に浮沈せざるを得なかった。
大正十四年(1925)十月七一日、郷里に帰り、閉居中俄かに病を得て逝去した。享年五十有五。

韮崎市偉人伝 穴水要七 
旭村、小野八左衛門の二男、甲府市穴水家に養子す。夙に実業に志し明治三十四年、横浜に出で米穀、肥料、食塩商を営み、明治三十九年には四品取引所、五品取引所、繭仲買店を開業し、更に上京して富士製紙株式会社に入り累進して取締役となり、其他諸会社の重役になり実業界に雄飛す。大正六年衆議院議員に挙げられ爾来其の任にありて政友曾の総務たり。昭和四年一月三日病殺す。行年五十五歳、鶴見(横浜)総持寺に葬る。


韮崎市穴山 大賀の蓮 白洲正子「道」大賀の蓮について

2023年08月06日 17時53分47秒 | 北杜市 韮崎市 地域情報

『道』白洲正子氏著 新潮社版

 

 一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 私は小田急沿線の鴨川に住んでいるが、家の前の田圃道を、「鎌倉街道」といった。

いった、と書くのは、現在は家が建てこんで、昔の面影を失っているからである。

 その道は、東の丘を尾根伝いに来て、谷戸へ下り、家の前をはすかいに横ぎって、再び山へ入って行った。わずか一間足らずの山道であるが、よく踏みかためられた歩きよい道で、尾根の上の雑木林からは、富士山が望めた。今はびっしり家が並んでいるが、ところどころに古い道が残っていて、私はよく犬を連れて散歩に行く。そこから先はどこへつづくのか、また、なぜ「鎌倉街道」と呼ばれるのか、長い間考えてみたこともなかった。

 

だが、鎌倉街道は、そこだけとは限らなかった。鶴川村は、十数年前に、町田市に合併されたが、かつての村の北のはしに「小野路」と称する宿場かおり、平安時代には小野氏の荘園で、小野篁を祀った神社が建っている。その社の前も、鎌倉街道と間いていたし、小野路の南にそびえる「七岡山」にも、同じ名前の峠道があった。峠の頂上からは、たたなわる丘のかなたに、富士、秩父、筑波の山山が見渡され、「七岡」の名にそむかぬ雄大な眺めである。’

 そればかりではない、思いもかけぬ遠くの国、たとえば上州や信州などでも、鎌倉街道の名を耳にすることがあった。その度に私は、なつかしい心地、がしたものだが、それらの古道が、どこでどういう風に結びつくのか、想像することもできなかった。そのまま何年か、いや何十年もすぎてしまい、鎌倉街道の名は、次第に記憶からりすれて行った。

 

この夏、新聞に「鶴川日記」というのを連載していた時、私は再びその古道と出会うことになった。鶴川の周辺は、どこを歩いても鎌倉街道につき当る。そういうことがわかったが、それらは点として存在するだけで、線にはつながらない。ついに書くことができずに終ったが、ある偶然の機会に、大体の道筋を知ることができた。

 それは八月はじめの暑い日であった。町田市史を編纂している方たちが、遠くの村で温泉があるの

を、見に行かないかと誘って下さった。ちょうど新聞に連載をしている最中ではあり、そうでなくても好奇心は強い方だから、二つ返事でついて行くことにした。先に記した小野路の宿から、西へ行くと、「小山田」という村に至るが、市役所の方たちは、私のためにわざわざ旧道を通って下さった。小山田の集落は、町田にもまだこんなところが残っていたのかと思われるほどのどかな山村で、田圃の両側に、緑したたる多摩の横山がつづいて行く。その聞に点々と建つ農家や、神社のたたずまいには、どっしりとした風格があり、私どもの住んでいる部落とは感じがちかう。モれもその筈、ここは平安末期から室町時代へかけて、豪族小山田氏の館があった場所で、町田のほぼ全域が彼等の領地であったらしい。「あれが城跡です」と指さされた方角には、大木の繁る丘陵が望めたが、今日はよって行くひまはない。下小山田から、上小山田へぬけて、私たちは間もなく町田街道へ出た。

 この街道は、武蔵と相模の間を流れる「境川」にそっており、国道十六号を渡って、国鉄横浜線の踏切を越えると、相原という駅がある。明治村へでも移したいようなひなびた駅で、。改札口のかたわらの傘たてに、こうもり傘がたくさんさしてある。村の奇特な老人(たしか中村さんといった)が、こわれた傘を丹念に修繕し、急雨の時に用立てるために置いてあるのだが、一本もなくなったことはないと聞く。その一事だけでも、土地の気風が知れるというものだが、田園をへだてて、なだらかな丘陵がつづき、その向うの丹沢山の彼方に、富士山を望む風景は、自然と人間の心の間に、たしかに共通するものがあるように思われる。

 「大賀さんの蓮を見て行きませんか」

 市役所の方に、突然そういわれた時はびっくりした。大賀博士が、縄文時代の蓮の実を発見し、みごとに開花させたことは、新聞で読んでいた。特に多摩川版では、毎年夏になると、美しい蓮の花の写真がのらぬことはない。いつか見に行きたいと思いつつ、場所がわからないので、ついそのままになっていた。ぜひ行って見たいというと、車をとめて下さったが、そこから五分とかからぬところ にある街道筋のお寺であった。

 

蓮の寺 大賀の蓮

 

 それは円林寺という天台宗の寺で、山門をくぐったとたん、目ざめるような蓮の花園が現れる。その蓮は、今まで見たことがない大きく、美しい花であった。頑丈な茎は三メートルほどもあるだろうか、勢よくのびた葉の問に、紅の花が無数に咲き、真夏の目先をあびて光り輝いている。蓮の花が、なぜ仏様を象徴するのか、私にははじめて合点、が行くような心地がした。特に花の落ちたあとの緑の萼(かく)は美しく、蓮のうてなとは、正にこのことだと思った。

 昭和二十六年四月、千葉市旭ヶ丘の検見川遺跡で、縄文時代の丸木舟岸土器のかけらとともに、蓮のカラがたくさん出土した。大谷一節博士は、カラがあれば、実も必ず出て来るにちがいないと思い、多くの反対や困難を押し切って、更に深く掘りさげて行った。そして、ついに二十六日目に、地下四メートルの寺沢の中から、三粒の蓮の実を発見した。それは千五百年~二千五百年前のものと鑑定され、

「蓮の実は、摂氏一〇度でコンスタントなら、二五〇〇年の生命を存続するから、きっと発

芽するど思う」

と、博士は当時の千葉新聞に語っている。

 それから約三ヵ月役に、三粒の実のうち、一粒だけが発芽した(そのうち一つは失敗し、あとの一つは天然記念物として保存されている)。新聞で、世界最古の亘の花が開いたのを知ったのは、数年経った役のことであるが、千の生命力の強さと、大谷博士の信念に、感動したことを覚えている。

 円柱寺の住職にうかがうと、そこには人知れぬ苦労があったようである。贋物だという学者もいたし、発芽などする筈がなしときめっける人もいた。大賀博士はそういう非難の中で、黙々と蓮の生長を見守り、美しい花を咲かせて行った。博士は府中に住んでいられたが、夏の来明に、はじめて花が開いた時には、嬉しさのあまり、近所の人々を叩き起して知らせた。が、見に来るものは一人もなかったし、気違い扱いにされるの、が落ちだった。唯一の話相手は、円柱寺の和尚さまだけで、それから役は、しばしば寺へ遊びに来られるようになった。博士はクリスチャンであったが、ここの風景が気に入って、「死ぬときは、こういう所で終りたい」と、しじゅう口にされていたという。晩年には、

「自分が死ねば、蓮の面倒をみてくれる人はいないから、ぜひ後をついで貰いたい」と、住職に托した後、間もなく亡くなられたそうである。

 それは今から十四、五年前のことで、二千年の眠りからさめた蓮の花は、年々子孫をふやし、北は北海道から、南は九州の果てまで普及している。それらはすべて円林寺から根分けしたもので、大和の唐招提寺や、京都の苔寺にも分けたといい、「縄文の蓮」、「大賀の蓮」といえば、今では知らぬ人とてない。大賀博士の苦心は、死後にはじめて報いられたといえよう。博士のみたまは、円林寺に祀ってあり、蓮にかこまれて安らかに眠っていられる。

そういう話を聞きながら、私はしきりに、「一粒の麦もし死なずば……」という聖書の言葉を思い出していた。

 蓮の花はひらく時、音を立てるというのが通説になっているが、住職にたずねると、そんなことはないそうで、一枚、一枚、花びらが、はらはらとこぼれるように咲くという。たしかに仏の草は、そうあってほしいし、そうあらねばならないと思う。拈華微笑の故事は、伝説かも知れないが、それは音もなく咲く花の笑みから生れた思想ではあるまいか。

今年はもう枯れてしまったが、来年は花がひらく時、ぜひうかがいたいというと、その時は寺へお泊りなさいと、住職はいって下さった。


穂坂牧『山梨県の地名』

2023年08月04日 05時49分32秒 | 北杜市 韮崎市 地域情報

穂坂牧『山梨県の地名』

 

「日本歴史地名大系19」平凡社刊 一部加筆

 

 茅ケ岳山麓、現韮崎市穂坂町地区付近にあった御牧(勅旨牧)。「延喜式」左右馬寮に載る甲斐国の三御牧の一つで、毎年の貢馬数三〇疋は同書所載牧中で最大である(ただし承平元年に四〇疋貢進の武蔵国小野牧が成立する)。

「日本紀略」延喜四年(九〇四)八月一七日条の「御南殿、覧穂坂牧馬」という駒牽記事が当牧のみえる早い史料であるが、

天長六年(八二九)には甲斐国御馬の貢馬が行われ(同書同年一〇月一日条)、また同四年には甲斐国の牧主当を改めて牧監を置いているから(同年一〇月一五日「太政官符」類聚三代格)、甲斐の御牧の成立は少なくとも九世紀初頭までさかのぼるのは確実である。

ただ八世紀後半に令制下の牧を転入して設置されたとみられる卸牧の多くが、牧馬の押印に「官」字を用いているのに、穂坂牧が「栗」字であるのは(延喜式)、他の御牧と当牧との成立事情の相違を反映したものといわれる。牧域を具体的に示す史料はないが、当牧での生育頭数八五三疋との一志茂樹氏による計算数字があるように(官牧考)、毎年三〇疋の貢馬を維持するためには広大な面積を要したと思われ、現北巨摩郡双葉町の赤坂台地から同郡明野村小笠原方面にまで広がっていたとの推定がある(韮崎市誌)。 

御牧から貢進される馬は前年に検印され、翌年八月までに中央に送られて駒牽行事が行われた。甲斐国貢上の馬は左馬寮の所管とされたが、駒牽日は牧ごとに定められていて、当牧は八月一七日であった。

前掲の延喜四年をはじめ、

同七年(日本紀略)・同一〇年(政事要略)は規定の一七日に駒牽が行われており、

延喜五年(政事要略)・延長五年(九二七、「西宮記」)には八月二〇日と若干遅れるが、

一〇世紀前半にはほぼ期日が守られ、

貢馬数も延喜五年・同一〇年の例のように定数三〇疋が厳守されていたらしい。

承平三年(九三三)八月一七日の建礼門において分与された甲斐国御馬(樗蕪抄)は穂坂の牧馬であろうし、

前九月一七日に藤原忠平が下賜された「穂坂四鹿毛」も(貞信公記抄)、その年の定例日に真上された馬のなかからであろう。

ところが天慶四年(九四一)にはすべての御牧の貢馬が遅延する。

これは前年の平将門の敗死によって終焉した将門の乱の影響とみられるが、これを契機に遅延するケースが目立ってくる。当牧においても天慶四年の貢馬は二月四日で、数も二〇疋にすぎなかった(本朝世紀・政事要略)。

同九年には規定どおりの八月一七日に貢進できたものの(北山抄)、

天暦元年(九四七)には九月四日二〇疋(政事要略)、同二年一〇月一〇日一六疋(日本紀略)、同三年九月二二日〈同書)、

同四年一一月四日(北山抄)と違期・減数が続く。

 こうした事態は当牧だけではなかったものとみえ、天暦六年、太政官は御牧の所在する甲斐・武蔵・信濃・上野の国司に対して、「今後違期と定数を欠くことのないよう」厳しく命じ、違反すれば牧監は解任、国司は減給に処することとした(同年九月二三日「太政官符」政事要略)。その効果であろうか、

翌七年の貢馬は八月一八日に行われ(樗蒙抄)、

同八年は九月二七日であったものの(北山抄)、

同九年には八月一七日(西宮記)、

天徳四年(九六〇)八月一一日(同書)、

応和三年(九六三)八月一七日(樗嚢抄)、

康保元年(九六四)八月十七日(同書)、

しばらくは所定の期日が守られていたが、

天元元年(九七八)には貢進が遅れ、九月二六日に武蔵国秩父牧とともに駒牽が行われた(「小右記」編年小記目録)。

以後貢馬時期は大きく崩れて、

同二年には一〇月六日(同目録)、

永観二年(九八四)は一一月九日(小右記)、

以下、正暦元年完九〇三」月一四日(「本朝世紀」、三〇疋)、

長保元年(九九九)一月一四日(権記)、

同二年一〇月二八日(同書、真衣野とともに)、

同四年一一月一八日(本朝世紀)と一〇月・一一月が恒例となり、

寛弘三年(一〇〇六)の場合は翌年にずれ込んで同四年正月九日に駒牽が行われ(同書)、

同六年は一〇月五日であった(小右記)。

そうしたなかで、長保四年は珍しく八月一七日に駒牽が行われたが、この時は貢進したにもかかわらず「不中延期逗留状」をわざわざ奏上している(権記)。規定の駒牽日に貢進が

行われないことが多かったため、延期逗留の解文を奏上するのが恒例化しつつあったことを示すものであろう。

 駒牽遅延は個別の責進時にも問題にされたが(「権記」長保元年一一月一四日条)、寛弘九年(一〇一二)四月一三日には甲斐国司に対して太政官符が発せられ(小野宮年中行事)、

定数(穂坂三〇疋、真衣野・相前三〇疋)を書上げたうえ、続発する違期・未進を厳しく咎め、期日および定数の遵守と良馬の喜進を強く求めている。しかしその効果はほとんどみられず、長和五年(一〇一六)四月二三日の駒牽は前年分であり、藤原実資をして「去年八月御馬牽進、今年四年希有事也」と慨嘆させている(「小右記」同年五月三日条)。寛仁元年(一〇一七)は前年分の貢進が当該年の規定日を過ぎた九月一三日に行われるという異常事態となり(左経記)、甲斐守源保任を召問して怠状を提出させるなどの措置を取った(「御堂関白記」同年九月二六日条)。

だが状況は一向に改善されず、

治安二年(一〇二二)も年越しの二月二日であったのをはじめ(左経記)、

万寿元年(一〇二四)一二月一日(樗嚢抄)、

長元元年(一〇二八)二月一〇日(日本紀略)、

同三年一二月二日(同書)、

長暦三年(一〇三九)一二月二七日(樗嚢抄)と年末の駒牽が続き(本章世紀)完治二年(一〇八七)八月二一日条の記事が最後の貢上記録となる。

長暦三年と寛治元年は真衣野牧と一緒の貢馬であるが、

その間の永承三年(一〇四八)二月二二日(樗嚢抄)、

および応徳三年(一〇八六)一〇月一〇日(後二条師通記)の甲斐国御馬の真上も両牧によるものであろう。

「延書式」にみえない組合せでの貢進は貢馬数を確保しようとする意図からであろうが、応徳三年には一〇疋しか貢進されていない。記録のうえで定数を満たした貢進は三度しかなく、減数の場合が多かったようである。ただ長暦三年の「真衣野・穂坂六十疋」の記事(樗嚢抄)が実際の貢馬数を反映したものだとすれば、甲斐の三御牧が定数を完納した唯一の事例となるが、当時の状況からは疑わしい。

 「中右記」寛治八年(一〇九四)八月一七日条には「甲斐国穂坂御馬逗留解文」の奏上記事が載るが、この後駒牽が実際に行われた様子はなく、以降は八月一七日が逗留解文奏上の儀式の日として、永く宮中の年中行事に残されるのである。このように駒牽は一一世紀末には姿を消すが、馬生産地としての牧の機能が完全に消滅したからではなく、現地においてはその後も牧経営が維持され、甲斐源氏の勢力基盤の一翼を担ったとみることは可能であろう。

小笠原牧は当牧を併呑して大きくなったとする説もある。なお貢進された馬は競馬などでも活躍している。天慶七年五月六日に行われた競馬では一番が穂坂対穂坂、五番および八番は穂坂対真衣野、一〇番は穂坂対小野と、全一〇番二〇疋のうち五疋が当牧出身馬であり、永延元年(九八七)五月九日、右近馬場での競馬第三番では穂坂七葦毛に乗った左府生下野公里と同九鶴毛に乗った右近衛三宅忠正が対戦、敗れた鶴毛が翌朝目に涙を浮べて死んだという挿話が「古今著聞集」巻二〇に残されている。