広島は6日、原爆投下から70年となる「原爆の日」を迎える。午前8時から広島市の平和記念公園で平和記念式典が開かれ、核保有国の米、英、仏、ロシアを含む過去最多の100カ国の代表らが参列する。韓国などで暮らす在外被爆者・遺族も10年ぶりに出席し、松井一実(かずみ)市長が平和宣言で「核兵器は非人道性の極みだ」として廃絶を訴える。

 被爆者の平均年齢は80歳を超えた。亡くなる人も相次ぎ、被爆者健康手帳を持つ人は最も多かった約37万2千人(1981年3月時点)から約18万3500人(今年3月時点)まで減少。被爆者の体に配慮し、6日の式典は暑さ対策として参列席のほとんどをテント式屋根で覆う。

 原爆の日に先立つ5日、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は広島市内で集会を開き、「人類が平和で安全な地球に生存できるよう、被爆者は命ある限り市民社会と連携して訴えつづける」とした「被爆70年 広島・長崎宣言」を発表した。(岡本玄)

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 原爆ドーム(広島市)のそばを流れる元安川の水面に5日夜、「核と人類は共存できない」という文字が浮かんだ。哲学者で被爆者の故・森滝(もりたき)市郎(いちろう)さん(1901〜94)が生前に遺(のこ)したメッセージ。「広島原爆の日」を翌日に控え、市民団体がプロジェクターを使って投影した。森滝さんの次女・春子さん(76)は「広島で一番大切な場所で発信でき、父も喜んでいると思う」と話した。

思えば つい先日の事のようだ.日月は人を待たず あの日あのときから 70年は白夜の夢のごとく わたしの 脳裏を

通り過ぎていた. 「新型爆弾が 廣島に落ちた.」入隊前に 血遊学の先生から ほぼ聞いていたので

アメリカは原子爆弾を発明したのだ と総毛だつ思いがした.

それから 魔をおかず 長崎にも投下された 当時 暫定的に配置が決まって 長崎の世知原に配置されていた

そのとき 早稲田出身の 分隊士は 一日 我々を山中に連れ出して 沖縄戦の戦訓やら ボツダム宣言のことやら

原爆投下について 話していただいた 結局はわが国は ボツダム宣言を混ざるわ得ないだろう

しかし お前たちの 命が そのときまで 残っている事を祈る  そんな話和された 

終戦の詔勅は海兵団で利いた 

若い士官たちが 日本刀で 兵舎の柱をきりつけていた しかし, 開戦の日から時を得ずして敗戦である

『わがく煮の軍部も なんと言うことをしでかすのだ  連合国相手に勝つと思っているのだろうか

したがって 我々の海軍の志願は 祖国の勝利を信じてのことではなかった 自分の最後をどう受け止めるか

そのことだけだった 大義名分がなかった  あの大都市の無差別爆撃を体験しているからいかなる戦争も大儀はない

ということだ  破壊 無秩序の中から飛び出してきたのが テロであるという事実われわれは向き合わねばなせない