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朝、それもまだ霧が巻いているような早朝。眠らずにすごした重い気分をまぎらしに外に出ることがある。夜と昼の区切りをつけるためのことではあったが。
下宿屋の向かいにある《カフェ・ヴルダヴァ》は早朝から開いていた。そこでは、かならず娼婦の一団と顔を合わせた。彼女らの朝が早いわけはない。おそらく、客を送り出したあとで、これからそれぞれの部屋に戻っていくはずだ。昨夜の客の悪口か、まだもどってこない朋輩の噂話がいいところだろうが、けだるそうに交わされるおしゃべりを聞くともなく耳にしているうちに、彼女らがたびたびマレーネというドイツ風の名前を何度も口にしていることがわかってきた。みな一様に心配そうな口ぶりだった。
「もう十日ちかくも部屋からでてこないよ」
「商売もやる気がないらしいし」
「病気でもしょいこんだのかい」
どんな職業にも問題児というものはあるようで、そのあまり商売熱心でないマレーネという娘が、みんなの不安の種であることだけはわかった。たくわえがあるわけでもないし、数日仕事を休めば部屋代すら滞るご時世なのだ。
「ほっておきな、あの子の気まぐれは昨日や今日のことじゃないよ。ビロード革命のあとの三ヶ月ばかり、里帰りといってふらりと旅に出て帰らなかったくらいだもの。わたしは、てっきり足を洗ってドイツにもどったのかと思っていた。まあ、それはそれでかまわないが、四ヶ月目の復活祭の翌日にふいに舞い戻って、何事もなかったように街に立ち始めたのには、驚いたよ。それまで何があったかも一切言わない。部屋代をためこんで荷物を倉庫にほうりこんでしまっていた大家とは、ひと悶着あったけれど、どこで稼いだのか、かなりの額をまとめて大家にたたきつけ、部屋をもとどおりさせて、おまけに壁紙まで変えさせたのには驚いたね。伯父さんが死んで遺産が入ったという噂もあったけど、それならこんな吹き溜まりにもどるのも妙な話さ」
そんな長広舌をふるうのは一番年長の姐御格のエレーナという女だ。ルーマニアから来たというが、訛りのきついチェコ語を話す。むしろイタリアのシチリアあたりが似合う女傑だ。年長であるのと、大柄であるのとでは、娼婦仲間のなかでは一段と群を抜いていた。カフェの椅子に一度腰をすえたら、いっかなことではもちあがりそうもないような豊満なからだに、いつも安香水のかおりを漂わせている。いわば、この界隈の名物のような娼婦である。
わたしは、話にでているマレーネの部屋の窓と細い通りをはさんだ向かい合わせの部屋に住んでいたから、彼女が病気などではなく、ただただ退屈そうに部屋のなかで煙草をふかしているのを知っていた。あるときなどは、窓越しに煙草の箱を投げてくれ、と手まねでねだってきたこともある。マレーネには客として会った事は一度もなかったが、いわばお隣さんのよしみで挨拶する。たまたま通りですれちがうようなときに、冗談か本気か「こんどあなたの部屋にいくわね」と、たいへんな挨拶を言ってよこすこともある。ただし、彼女を呼びもしなかったし、マレーネもドアのまえに立っていたことはなかった。わたしも煙草をめぐんでやるだけだった。彼女はわたしの吸っている強いシガーが好きらしかった。
「ねえ、そこの異国の旦那!」
と、エレーナがめずらしくわたしのほうに顔を向けた。
「おたくご近所なんだろ。たまには彼女をよんでおやりよ」
ご近所だけにとてもそんな気にはなれないのだが、そんなことを言っても始まらない。あいまいに微笑んで席を立つしかなかった。マレーネ・シンクレア。もちろん職業上の名前にちがいない。その彼女がある日の午後、ほんとうに呼びもしないのに、わたしの部屋のドアをたたいたのには驚いた。