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ペトラ・ルイスコワのプラハの三十年がどんなものだったか、イゴールもわたしも想像するほかはない。下宿屋の人びとなら、あらましは知っているだろうが、わたしが知っているペトラは聖ペテロ教会の裏道で出会った日からのペトラだった。それ以後三カ月ばかりのあいだに、二度ほど身近い言葉をかわしたただけだ。イゴールにまさか、最初は物乞いされて二十コルナを恵んだのがきっかけだとはいえなかった。普通であれば、それきりで二度と会いもしない縁であったろうに、ペトラの後ろをついて歩いた酔狂が、いまブルノへむかう自分につながっている。そんなことを車中で思っていたが、《縁》とか《えにし》などというチェコ語は知らなかった。そもそもそういう言葉があるのだろうか。
「ビル・ト・オスート・・・・」
と、ふいにイゴールがつぶやいた。すぐに、わたしがドイツ語のほうがわかると気づいたらしく、言いなおした。
「ダス・ヴァール・シックザール(これも運命だったのですね)」
なるほど、縁とは運命(シックザール)ともとれるわけだ。ふたりとも、同じような思いにかられていたようだった。
「オスート?」
「アノ・オスート(そうです、運命です)」
それからしばらくはふたりとも無言で、ボヘミアの風景が後方に流れていくのまかせていた。ボヘミア。わたしにははじめての土地だった。少年の日から、ベルドジハ・スメタナの交響詩『わが故郷』とか、この土地が語源になったボヘミアンという言葉でぼんやりと、異郷のなかの異郷であり、実際にそんな土地に行くことなんて考えもしなかった。長じて、ボヘミアンという仏語が、ボヘミア地方から流れてきた放浪の民であるロマをさしていた由来も知った。ボヘミアニズムという芸術的・生活スタイルがあるけれども、精神としての漂泊ならその素質はありそうだった。それがいまのわたしを動かしているのだろうか。
すでに幽冥境を異にした、この世にいない女性や、はるかに遠ざかって消息の知れない女性の幻想にからめとられているだけでもなさそうだ。つまりは魂の漂泊か。
「それで、どちらまで行きますか?」
イゴールがふいにそういったので、すこしばかりまごついた。すっかり漂泊の気分になっていたからだ。
「ブルノの町を歩いてみたいんです。目的といえるほどのものはないのですが」
「それはいいですね。そういうときにこそ、探し物がみつかるものです」
イゴールはなにか感じているふうな物言いだった。すこしまえにイルゼビル・メ―リアンに話したようなことはなにも知らぬはずなのに。
「ブルノは通り道だし、いそいでもいませんから、市内の適当なところまで送ります」
ありがたい申し出だった。都市をはなれたのでは、宿をさがすのも厄介だとおもっていたところだった。まさかペトラの遺骨とともに彼女の故郷を訪問するのもおかしなことだ。過去の経緯があったのであれば、イゴールとてひっそりとペトラ叔母さんを連れてもどりたいはずだ。
「観光客むきでない宿を紹介しますよ。町を歩くのにも便利な場所です。郊外に足をのばすならバスがいいです」
さすがにライブツィヒに留学していただけあって、イゴールはドイツ語で丁寧に教えてくれた。わたしも、ドイツ語のほうが饒舌になっていくようで、チェコ人はドイツ語やロシア語がかなりできても、好んでは使いたがらぬことをすっかり忘れてしまっていた。気がついて、申し訳ないというと、イゴールは笑った。
「年配の人たちはドイツ嫌いでしたが、わたしたちの世代はロシア嫌いが多いですね。どのみち、この国はヨーロッパの大国の通り道だったのですよ。カレル四世だって、プラハで生まれたけれど、ルクセンブル家の人間ですからね。カレル、カール、シャルル、だんだんお里が知れてきますよね」
イゴールは、自分のことをモラビア人だといった。