天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

猫迷宮  72 Copyright by Haruki Amanuma

2011年02月26日 01時38分48秒 | 文芸

                                                         17                                     

 

 

  なにもかも焦がすような夏がやってきた。

 空調の壊れた事務所の湿度はあがりにあがって、体を動かすと、とろりと空気をひきずるような重たさがある。なに、それは気分のせいで、けだるいだけのことだとはわかっている。それでも、日が落ちればなんとか一日をやりすごしたようで、片づかない仕事を蛍光灯の下で開いてみたりもした。

 炎暑のせいか誰も訪ねてこなかったし、こちらも外へ出ない。

 八月がちかづいて、暇な季節がきたわけだ。丸尾印刷のほうも、二週間ほどして内山君が戻ってきてからは、営業でよばれることもなく、呼ばれなければ出向きもせず、うかうかとさらに一週間がすぎていた。電気料金の月末検針の通知が来て、あまりに安いのに呆れた。ほとんど基本料金だった。電話だっておなじことだ。こちらからはあまりかけたりしない。手提げ金庫の残金もわずかとあって、支払いが少なければほっとする。いつまでもつのかとも思わぬわけにはいかなかったが、いよいよとなれば、大曲泰蔵氏の家に下駄をあずけるしかない。こちらは二ヵ月あまり小遣い程度の収入しかない。九月にでもなれば、アパートを引き払わねばならなくなりそうだった。アパートを追い出されたら、このビルの一角を不法占拠してやれと腹をくくったり、不安になったり、すぐにまたそんなことを忘れたり、暑さのために考えはまとまらなかった。

  ミドリちゃんが、ときどき食べ物を差し入れてくれる。そんなときだけ人心地がつくのだった。

「赤塚さん、まだ帰ってないんですか?」

 と、夕方、大きな夏みかんをひとつ持ってミドリちゃんが階段をあがってきた。ミドリちゃんは、流しのところで、刃物をいれながら思い出したようにそんなことをいっている。柑橘類の清涼なかおりしてくる。

「うん、このあいだ旦那さんから電話があったよ」

「お家から?」

「いや、地方からみたいだった。公衆電話のコインが落ちるおとがしたからね。もう東北からは帰ってきているはずなんだけど」

「赤塚さんがお家にいないんですって?」

「電話にでないらしい」

「失踪かしら?」

 赤塚さんが砂土原町にもう一軒家を持っていることはミドリちゃんには言っていなかった。旦那が帰らないので、砂土原町のほうに居つづけているのかもしれない。

「捜してくれっていってるの?」

「そこまで切羽詰まったようではなかったな」

「お金あずかったままなんでしょ?」

 そういわれて、最後に会ったとき十万円の入った封筒をおしつけられたのを思い出した。返すつもりで手提げ金庫に入れたままだった。

「捜索もしないんじゃもらうわけにもいかないしね」

「捜してあげたら。あのお金、あると助かるんでしょ?」

「そうだね」と、曖昧に笑って、「あとでよく考えてみるよ。迷惑にならないといいんだけど」

「赤塚さんの?」

「うん」

 ミドリちゃんは、なんだか釈然としないようだった。

「赤塚さんは猫みたいな人だからね。気が向かないと帰らないかもしれない」

 ますますわからなくさせてしまったようだった。

「お金といえば、シラネアキラの封筒もそのままだな」と、話を変えた。

 ミドリちゃんはそれには応えなかった。小さな皿にむいた夏みかんを盛り上げてこちらにくる。

「夏みかん食べると、子どもの頃を思い出すなあ」と、ひとりごとのように言う。

「そういえば、よく食べたな」

「皮が厚くていつも大人にむいてもらうの。むいてもらったのを頬ばると、ふるえるほど酸っぱくて」                               

 そうだった。ほかの果物とはすこしばかりかってがちがった。食べたいとも思わなかったが、夏になると母親がむいてくれた。ひどく酸っぱくて、砂糖をかけてほしいというのだが、聞き入れられたためしがない。夏はこの酸っぱさが体にいいのだといわれて。

 一房口にふくんで、あとはもういいような気がした。タバコに手をのばそうとしていると、ミドリちゃんがすぐそばにたっていた。すわっている膝のうえに乗ってきて、唇をかさねてきた。夏みかんの香りがする。そんな大胆なことは、ミドリちゃんらしくなかった。

「ねえ」と、奇妙なくらいねっとりした声でささやいた。「ずっとここにいてね」

 どういう意味なのだろう。紅花舎を見かぎって転職したら、会えなくなるとでも思っているのだろうか。

 ミドリちゃんは猫のようにひらりとからだをはなして、ちらりと振り返ると階段を降りていった。姿が見えなくなっても、ミドリちゃんのにおいが鼻のおくに残っているような気がした。

 そのとき、電話が鳴りはじめた。

「はい、紅花舎・・・」

 いつものように、はぎれよく応対する。電話の応対は陰気ではいけない、と大曲氏にさんざんいわれていた。誰のせいで陰気になるのやら。

「もしもし・・・」と、つづける。無言電話のようだった。つながっているのに、むこうがなにも話さないのだ。息づかいもしないかわりに、電話の周囲の雑音をひろっていて、数羽のカラスの泣き声が聞こえていた。

「あのお、電話がとおいのですが」と、いちおうそれは礼儀だ。

 無言電話は根負けしたほうが切るのが〃作法〃というか、勝負どころだ。個人の家ならともかく、会社にかかってくる無言電話はこわくなかった。じっと聞き耳をたててしばらくまってやる。微かだが、相手の息が聞こえた気がした。また、鴉の鳴き声がした。受話器をぎゅっとにぎりしめたかんじが伝わって、プツリと切れた。

 電話機の回線のぐあいが悪かったのなら、すぐにかけなおしてくるはずだったが、それっきり電話は押し黙ったままになった。

 


猫迷宮  71

2011年02月26日 01時37分11秒 | 文芸

           ∴

                                       

 病院の長廊下はしんと静まり返っていた。面会時間ではなかったが、すこしだけと断って内山君の病室にむかった。

「奥にエレベータがあるの」

 ミドリちゃんがさきにたって、リノリウムのフロアをぺたぺた歩いていた。五階建ての総合病院だったが、一階の待合室を通りすぎると看護婦も患者の姿も見えなかった。昼前だし、安静の時間なのかもしれない。回診がはじまっているはずだが、べつの階なのかもしれない。

「四階なの」

 と、またミドリちゃんがいった。エレベータのボタンをおしこみ、こちらを振り返った。

「あたし、こんな大きな病院はじめて。あんまり病気もしないし」

 めずらしそうに、あたりを見回している。

  こちらが霊安室にでも寝てたらそれどころじゃなかったろうな、と思ったが黙っていた。悪い冗談だ。

「病室は?」

「四○八よ。奥から三番目」と、いってからミドリちゃんはなにか思い出しようだった。「いけない、内山さんに雑誌たのまれたの忘れてたわ。地下の売店にいってくる。先にいって下さい」

 廊下を小走りにもどっていってしまった。

 降りてきたエレベータに乗り込んで「4」のボタンを押しこむ。すうっと持ち上げられた感じがして、ほかの階にはとまらず、すぐに四階に停止した。扉が開いて、四階のフロアーに出た。いれちがいにエレベータに入っていく者がいた。子どもだった。いや、少年だ。エレベータのなかに入ると、くるりとこちらに振り返った。その瞬間に扉が閉まった。顔は見えなかったが、こちらを見たのだけは感じた。

「あっ」と、思ったがもう遅かった。エレベータは下の階にむかって降りていってしまった。あの少年、もしかしたら、と思うのだが、追いかけるわけにもいかなかった。エレベータが移動していくランプが一階からまた上昇してきた。

「あら、まだ病室にいってなかったんですかあ」

 ミドリちゃんが雑誌をかかえて出てきた。

「行こうか」

「はい」

「下で誰かに会わなかった? 子どもが一人降りていったけど」

「子ども?」

「うん。小学生だな」

「誰も乗ってなかったわ。途中で降りたのかしらね」

 確かまっすぐ一階までいったはずなのだが。

「どうかしたの? 狐につままれた?」

 ミドリちゃんが、また古臭いことをいうので思わず苦笑いした。

「またツママレたらしいよ」

 なんのことがわからないらしかった。いましがたすれ違ったのがシラネアキラらしいなどといえるわけもない。そんな気がしただけなのだ。しかも、途中の階で降りたようだ。

「ここよ」

 ミドリちゃんは怪訝そうな顔をしながら、内山くんの病室のドアをそっとあけた。

 内山君は片手を吊った姿でベットに起き上がっていた。携帯ラジオをイヤホーンで聞いていた。

「神尾さん、すいません。とんだ目にあっちゃって」

 イヤホーンを耳からはずし、すこし大きな声で挨拶した。すぐに、変だとわかったらしく、声を落としてスミマセン、とくりかえした。

「さきに帰したのがいけなかったね」と、いうと。内山君は自由なほうの手を団扇のように大きく振ってみせた。

「運がなかったです。ほんのすこし、早いか遅いかですよ。一回の信号待ちが入ったらきっと相手のトラックに出会わなかったはずだし。交通事故って、ほんとそんなもんです」

  それでも、ぶつかるときはぶつかってしまうのだ。

「ほんと、怖いわ」と、黙って立っていたミドリちゃんが持ってきた雑誌と新聞を内山君に手渡しながらそういった。

「相手のほうは怪我もしなかったんですよ。午前中にもう一度現場検証に立ち会ってるみたいです。両方の助手席どうしがメチャクチャでしたけど」

「むこうも一人?」

「ええ、長距離一人旅ってやつですよ。なんかハデなデコつけてたなあ」

 内山君は明日まで入院しているという。ほんとうは今にも外に出たいらしかった。今日の午後に精密検査の結果が出てから《釈放》されるのだ。

「丸尾社長がしばらく休んでいいって言ってたから、ちょうど行きたいとこがあったんで、まあいいかって」

「病気じゃないしね」

「寝てても起きてても回復には変わらないでしょ」

「どこへ?」

「都下の市営球場ですよ。高校野球の地方予選が始まってますから」

「野球かあ」

「そうです、甲子園なんかより、予選のほうが面白いんです。今もラジオで聞いてたんですよ」

「二回戦で負けても泣くよね、高校球児は」

「それで引退ですからね。短い夏です」

 内山君はなにか思い出しているようだった。

「さっき誰か病室をのぞかなかった?」

 やはりシラネアキラのことが気になって、聞いてみた。

「子どもがひとりドアをすこしあけてたな。部屋間違えたんじゃないですか」

「どんな子?」

「小学生の男の子だったな。パジャマじゃなかったから患者ではないし。そういえば、学校のある時間ですよね。それから、むかいの病棟の屋上から猫がこちらを見てたな」

「猫が?」

「ええ、白いやつ。ノラにしてはいい毛並みしてましたよ。なんで病室なんかのぞきこんでたのかなあ。こっちの屋上にハトかスズメでもいたんでしょうかね」

 内山君はもらった新聞のほうに眼を落とした。みるからに退屈そうだ。

「映画も観にいこうかな。『ダーティ・ハリー』の新作来てるんですよね」

「好きなんですか、映画?」

 ミドリちゃんが、はじめて会話に入れて嬉しそうだった。

「イーストウッドのファンなんです。それに、どでかい銃を使うでしょ。こんどのなんか、44オートマグナムってすげえの撃つらしいんです。七連発だって」

「七連発って中途半端だな」

「ですね」

 また話題にはいれなくなって、ミドリちゃんは黙りこんだ。男の人ってヘンという顔をしている。

「暴走トラックだって撃ち抜いちゃいそうな勢いですよ」

「アブナイね」

「アブナイっすね」

 内山君との話はいまひとつもりあがらなかった。

 三十分ほどして、ミドリちゃんとふたりでエレベーターに乗って降りていく。ふたりとも考えているのは同じことのようだった。

「やっぱり、あの子、ここにも来ていたようですね」

「気味が悪いね。なんのつもりかな」

「神尾さんにつきまとっているんですよ」

「なんで?」

「わかりませんけど。ただの人探しじゃなさそう」

「でも、ぼくが事故ったかもしれないって、なんでわかるのかな」

「超能力?」

 と、いって笑っている。超能力なんかがあれば、興信所なんぞに依頼するわけがない。それも低能力の興信所に。                         

 病院を出ると、だらだらとした坂道だった。自然に足ばやになって、無言で駅へ歩いていると、ミドリちゃんが腕をつかんだ。

「ほら、あそこ」と、指さした。

 さきにある電柱の陰に白い尾が消えていくところだった。ミドリちゃんは、そいつが道を横切るのを見たのだ。同じように歩いていたが、こっちはまるで気がつかなかった。

「白猫だね」

「なんだかあの子、神尾さんのことつけまわしているようにもみえるわ」

 ミドリちゃんは、そういってこちらの顔をしげしげとみつめた。

                  


猫迷宮  70

2011年02月26日 01時35分38秒 | 文芸

                                     

  銭湯へゆく元気もなく、アパートにもどったなり布団にころがりこんで、たちまちひきずりこまれるように眠ってしまった。眠りというより、なまぬるい水のなかだ。水草をさかんに繁茂させ、緑の水をふんだんにたたえた沼のなかにだ。

 その水をくぐって、ふと浮かんだように、夢のなかにでた。

 見知らぬ家の奥座敷で、寝ていた。夜更けにわけあって、にわかに泊めてもらうことになったのだとは合点している。自分が追われていて、かくまわれているのだという気もしていた。家の主は女だった。顔は見えないが、襖のむこうから声をかけられ、朝まで部屋にいるようにといわれた。

 ほどなく、その家の玄関がたたかれて、訪ねてきた者がいた。また、女の声が襖のむこうからした。

「出てきてはだめよ」

 引き戸があけられ、女が応対する声が遠くきこえる。

 二部屋ほどへだてた居間のところに人が入ってきた気配がする。低い声でなにか言っている。男だった。

 誰かは見えないはずなのに、襖を透視しして居間のようすが見えた。男は、夕方に池袋の飲み屋にいた男だった。開襟シャツの袖口から這い出ている刺青が同じだ。体つきはわかるのだが、顔がよく見えない。

「今日はお仕事じゃなかったの」

「ああ、このあたりで終わったんだ」

 と、懇ろな男女の会話になっている。自分がここに隠れているのが、ひどくまずい状況だと思う。しかし、身動きはならない。抜け出すにも勝手がわからない。

 女は開襟シャツを脱いだ男の背をぬれたタオルでふきはじめた。たくましい背中いっぱいに双頭の龍の彫物があった。ふたつの龍の頭が背の左右で睨み、胴から尾が肩口から二の腕にまで続いている。

 気押されているところに、さらに重ねてまずい事態になっていく。男女の情交がはじまってしまったのだ。女はこちらを匿っているひけめからか、いやともいわず男の勢いに従って、受け入れていた。唐突で激しい情交のために、部屋が揺れて、その震えがこちらにも届いてくる。自分は、なんだか檻のなかの野獣の交尾を見ているような気分で、それを見ていた。

 あたりがまた、ふっと暗くなって、音の世界だけになった。この夢もそろそろしまいだ、と納得しはじめている。いつか、こんなことがあったな、と思っている。

「あっ」と、おんなの甲高い声がし、体をよじらせて転げた拍子に、襖にぶつかったような物音がした。その瞬間、目が覚めた。

 転げたような音に思ったのは、実際アパートの部屋のドアをたたいている本当の音だった。

 とんとん、とんとんとん。

 何時だろうかと、目覚まし時計のほうへ寝返りをうつ。朝の七時前だった。

「神尾さん、神尾さん・・・」

 ミドリちゃんの小さな声がした。ミドリちゃんにまちがいない。朝一番で訪ねてきたのだ。とび起きてドアをあける。

「神尾さん」と、ミドリちゃんが、泣きそうな顔をして立っていた。

「神尾さんたら・・・」

 とびこんできて、抱きついた。

「死んじゃったかと思ったわ」

 なにか言おうと思うが、言葉がみつからなかった。死に損なったとはいえ、本人としては、道に迷いながら帰ってきたらそんなことになっていたのだ。

 ミドリちゃんは、病院に着くまで、トラックの助手席が大破したということだけしか聞かされていなかったのだという。それは、婉曲に「神尾さんはだめだった」ということをいっているのだと思ったという。

「よかった」と、いってミドリちゃんはまた泣きはじめている。

「ここがよくわかったね」と、すこしずれたような物言いしかできなかった。

「所番地で見当をつけたの。歩いてきたけど、近かったわ」

「心配かけたね」

「だって、丸尾社長たら、ほんとに覚悟しとけみたいなことをいって、わたしと奥さんを送りだすもんだから。病院で内山さんは麻酔を打たれて眠っていたし。もうひとりは、て聞いてしまったわ。看護婦さんに、トラックに乗ってらしたのはこのかただけですよ、と言われたときはなにがなんだか」

「そうなんだ。トラックをさきに帰してしまったからね。帰り道に夕立に遭って、てまどったし。電話をいれりゃよかったね」

「ほんと、ほんとに」

 自分のようなものでも、事故に遭わなかったことを心から喜んでいくれているのが嬉しいような、申し訳ないような気になってきた。

 ミドリちゃんは、またしっかりと抱きついてきた。汗をかいて、甘酸っぱい匂いがする。そのまま抱きすくめてしまいたいような衝動にかられたが、静かに髪を撫でてやるだけにした。はや強い日差しが射しこんできて、今日一日すべきことを思い出させたのだ。

「病院にいかなきゃね」

 ミドリちゃんは顔をあげてうなずいた。

「内山さんの着替えを持ってくのを頼まれてるの。社長の奥さんは警察のほうに行くって」

「じゃあ、いっしょに行こう。目黒の近くだったよね」

 こっくりしたあとで、ミドリちゃんは、ふいに力がぬけたような表情をした。

「どうした?」

「お腹がすいちゃったわ」

 きまり悪そうに笑ってみせた。

「駅のちかくでなにか食べような」

「はい」

 と、いつものような素直な返事がかえってきた。

 


猫迷宮 69

2011年02月26日 01時34分16秒 | 文芸

 

  路地をまわって紅花舎の社屋のまえに出る。戸締りをして、すぐに外に出た。シャッターをおろしていて、ふと自分の自転車が気になった。自転車をゆっくりこいで帰りたい気分だった。このあたりでも一雨あったらしく、だいぶ涼しくなっていた。路地にたてかけておいた自転車はどこにもなかった。誰かに乗っていかれたらしい。もとよりカギなどついてはいない拾った自転車だ。いつ盗まれてもしかたがない代物だったが、ずいぶん長いこと重宝していたものがなくなるのはイタかった。環八で死に損なったのもいやな気分だったが、それに自転車までなくなっている。軽トラに乗せてもらい賃を千円はらったこともいまさらのように愉快ならざることのように思い出す。三つ悪いことが重なったから今日はこれでしまいだろう。いつだったか、母親が二つ悪いことが続くと、わざと古い湯呑み茶碗などを流しで壊して、厄払いしていたことがあった。地下鉄の本郷三丁目駅の方角にとぼとぼあるきながら、そういう厄払いのマジナイをいつく知っているか数えてみた。エンガチョ切りや、ナンマンダブツの呪文はさすがにやらないが、自分なりに験なおしの仕草は持っている。右足から歩きだすとか、いつもの道をわざと使わないとかはやってみる。ただし、通りすがりにある祠に賽銭を投げ込むようなことはしない。ついで参りはかえって神にからまれそうで嫌なのだ。

 ホームにすべりこんできた赤い車両の二両目に乗り込む。網棚の新聞は朝刊だったが、池袋までの暇つぶしにはなる。九時をすぎた地下鉄はすいていて、腰をおろして新聞のページをめくった。

 

  池袋で降りた。

 西口ちかくの居酒屋の戸口にふらりと入り込んだのは、そのまま帰りたくなかったからだ。ひとりで飲み屋にはいることなどついぞなかったが、験なおしのつもりなのだ。今日一日、本郷を出発してから、どこがどうなって今にいたったのか、自分の部屋にもどるまえにきちんと反芻しておきたかったのだ。それも、シラフで反芻する気にはなれなかった。

 どこでおかしくなったのか。道に迷ったきっかけがタバコ屋からのことか、それとも内山君のトラックを帰してしまったときからか。

 ビールとやきとりを頼んでしまってから、ほうけたように店の壁にかかったポスターを凝視した。水着の女の子が笑っているビール会社の宣伝だ。彼女の背後に沖縄の海が広がっている。海の色がライトブルーからマリンブルーにグラデーションしていく。そのライトブルーの色調が、あの神社の参道をのぼっていく少年宮司の袴の色を思い出させた。白根晃。いったいなんのつもりなのか。そのほそい首ねっこをつかまえて、問いただしてやりたい。いったいなんのつもりなのか。

 ビールがきた。

 どこでおかしくなったのか。今日一日だけのことではない。ビールをグラスにそそぎながら、もういちど問いかける。そもそも、投げやりな転職人生が、こんな場所に自分を連れてきたにはちがいない。いかげんに振ったサイコロの目のままに、スゴロクのうえを進んできたからだ。そのスゴロクというのが、盤上の遊戯のように道筋があるものならまだしも、自分が進んでいるのはまさしく迷路のスゴロクのようだ。自分がどこに連れていかれるかかいもくわからない。それでも、サイコロだけは自分で振った思いはある。どんな目がでるかはしらんが、自分は盤上のゲームのような人生の岐路で賭け事のような選択をしていた。我ながら殊勝な覚悟とも、意地ともみえるのだが、自分で選んだ結果だといわなくてはならない。あのいかがわしい社長にしろ、いかがわしい会社にしろ、捨ててしまおうと思えばとっくに放棄できたのだ。また、どこかの倉庫番にもどってもかまいはしなかった。

「おにいさん、ちょっとすまないな」

 と、後ろをすりぬけ、カウンターの奥に座り込んできた者がいた。ガタイのいい、みるからに筋者らしい風体の男だった。柄物のシャツの袖口から二の腕に彫物が黒々とおりてきていた。龍の鱗に唐草がからみついているような模様が見えた。常連らしい物言いで、腰をすえると、冷や酒をコップで誂えた。店主が愛想をいっている。はなから聞いていないようすで、「う」と、うなるような返事をすると、ハイライトをくわえて火をつけた。そちらを見ないようにしながら、いそいでビールをあおった。しばらくすれば、ああいう連中が二三人はいってくるにちがいない。一人で呑むような男ではなかった。男が入って来ただけで、店のなかの空気がはりつめたようだった。家畜の小屋に、獰猛な野獣がのそりと入り込んできたようだ。

「あと一人連れがくるよ」

 と、酒を運んできた店主にいったきり、灰皿をひきよせて煙草の灰を落とし、じっとそれをみつめている。なかなか酒に口をつけない。

 こちらが、ヤキトリをたいらげた時分に連れがきた。予想に反して、みすぼらしい初老の男だった。さかんに頭をさげながら、男のとなりに腰をおろした。この暑いのに、ネズミ色のよれた背広を脱ごうともしない。

「呑むか?」と、男がいっている。

「いえ、どちらでも」と、遠慮がちに返事が聞こえてきた。

「まあ、呑んでもいいさ」

 と、いったなり、男は自分のコップに残った酒をカラにした。ビールを追加してから、ようやく本題にはいるようすだった。

「それで、どうなったんだ」

「はあ、昼間電話しましたあとで、すこし・・・」

「できたのか・・・」

 言葉のしまいのほうは聞き取れなかった。金のことだか、品物のことだかわからないが、聞かれたほうは「耳をそろえてはできなかった」と詫びている。

「まあ、しょうがないけどな」

 男は低い声で、怒るふうでもない。静かに話しているが、かえって凄味がある。なんだか、もう聞きたくない話だった。

「蒲田のほうへはいってみたかね」

「はい、ひととおりは」

「まわるだけは、やっときな」

「はあ」

 こういう展開をいつか傍で聞いたことがあった。やはり似たような組み合わせで、静かに呑んでいた男たちの片方が、突然、声をあらげてスゴミだすのだ。なにか、ひとつ言葉尻が気に食わなかったらしく、まるで人が変わったように怒鳴りつけた。校正をした心理学の本に、《情緒ゲキヘン》という言葉があった。それをまのあたりに見たような気がした。男の静かさが、そのゲキヘンのまえぶれのような予感がする。男が酒をあおるスピードも異様にはやい。だまって、次々にグラスをからにしていく。ビール二本がたちまちカラになっていた。背広の男のほうは、もっぱら酌係のようでもある。

「だから、蒲田のほうをもっと押してみろ」

 もういちど、低い声がした。蒲田というのが、地名なのか人名なのかはわからなくなった。そんなことはどうでもよかったが、はやくビールを飲みおえて店を出たかった。交差点からぬっと現れる暴走トラックも災難だが、いつか激変しそうなヤクザ者の隣にいるのも災難だろう。おい、さっきからヒトの話を聞いてんじゃねえぞ、などと因縁をつけられそうだ。亡くなった母親がよく「かかわりあいになっちゃいけないよ」と、口癖のようにいっていたのが思い出された。世の中はかかわりあいでできあがっているけれども、悪因縁だけは御免だった。

「だから、さっきからいってるだろう。オレやオジキの立場を考えてるのかってことだぞ。蒲田がだめなら、もっとそのまわりをあたらないとな」

 男の語気がすこし強くなった。いよいよ潮時かもしれない。もうひとりは、声をあげずにうなずいているばかりだった。話は金のことばかりではなさそうで、何かを探しているようでもあった。二の腕の鱗の入れ墨が男の所作といっしょに動くので、大きな蛇が鼠でもしめつけにかかっているような感じがする。

「五十と四十にわけろよ」と、また男。

「はあ」との返事。

 二本のビールがはやカラになっている。

「オヤジ! 酒! おんなじものな」

 と、こんどはすこし明るい調子で店主に声をかけている。

 奥からビールが運ばれてきたタイミングでたちあがった。千円にもならない勘定を投げ出すように支払っておもてに出た。なんの気持ちの整理にもならなかったわけだ。 空耳だろうか、店からはなれて歩きだした後ろで、ビール瓶がコンクリの床で砕けたような音がした。空耳であるわけはない、ガラスが砕け散った音だった。

                              

             


猫迷宮  68

2011年02月26日 01時33分20秒 | 文芸

            

                                         

 本郷界隈にたどりついたときには八時をすこし回っていた。集金した金もあるので、丸尾印刷には顔をださねばならない。その日のうちに届けておいたほうがよいにきまっている。社長もそんなには体調がよくないのだから飲んではいまい。飲んでいたら、奥さんに渡してしまえばいい。

 丸尾印刷の二階の事務所にあがっていくと、社長は飲んでいるふうでもなくデスクのむこうに座り込んでいた。こちらの顔をみると、一瞬ぎょっとしたようだった。

「神尾くんよぉ」

 と、安堵とも困惑ともつかぬ声をしぼりだしている。

「どうかしましたか」

「内山が環八のちかくで事故ちまってさ」と、また一息ついた。

「事故?」

「そうだよ、大型トラックが左折してきてさ、直進の内山のトラックにそのままつっかかっちまったらしい」

「で、内山君は?」

「運転席のほうはたいしたことなかったらしい。そんでも、頭と首をやられちまって、救急車さ」

「重傷なんですか?」

「いや、さっき自分で電話してきたよ。打撲に鞭打ちくらいですんだらしい。いまかみさんと島ちゃんが病院に行ってるんだ」

「どこの病院ですか?」

「目黒のちかくだっていってたな。まだ、くわしいことは知らせがないんだ」と、丸尾社長はいった。「それよか、神尾君、危なかったなあ」

「はあ」

「はあ、じゃないぜ。助手席はメチャメチャに潰れちまったって話だよ。誰か乗ってたらまちがいなく即死だってよ。よくまあ・・・」

「・・・ですね。手間どりそうだったので、先に帰ってもらったんです」

 社長は、こちらが九死に一生をえたとでも思い込んでいるようだ。

「警察からの一報だと、神尾君も同乗していたような感じだったから、てっきりダメかとな。なにしろ、車は助手席が大破してますなんていってやがった」

 こちらがあまり驚いていないのが不満げのようすだった。

「まあ、なんだ。そのうち怖くなってくるさ。相手はかなり無謀運転だったらしいからな」

 安心したせいか、社長はいつもより能弁になっている。内山君と帰るとしたら、もっと後の時間帯になるから、そのトラックとも出会わないはずだが、そういう冷静な判断はおいておくのがいい。

「死に損ないましたね」

「まったくだ。とんでもないことになるところよ。内山だってしばらくは使いもんになんねえよ」

 電話が鳴った。社長はとびつくように受話器をとった。

「おう、神尾くんは今帰ってきたとこだ。死に損なって声もでやしねえよ。内山は? 入院か。左手首にもヒビがはいってる? まあ、それだけで済んだから不幸中の幸いだな。おまえ、これから警察にまわるか? うん、そうか、明日な。わかった。もう遅いから神尾くんにも帰ってもらうよ。・・・それも明日でいいんだろ? うん。島ちゃんも帰してやんな。おう、おう、ご苦労さん・・・」

 あらためて聞くまでもなさそうだった。内山君はしばらく入院。事故処理や警察での手続きは明日ということらしい。

 丸尾社長が、ほうっと一息ついているのを見計らって、

「あの、これ、集金分です」と、入金を差し出した。

「あ、そうか。それか」と、札の入った封筒を受け取った。

「請求書どおりです」

「うん」

 中身を確かめようともせず、手提げ金庫にほうりこんでしまった。

「まったく、これが香典にならなくってよかったぜ、神尾くんよぉ」       

 金庫の蓋をしめながらそんな軽口が出た。

 当面運転手がいなくなる。こちらは免許がないから、どうにもならないが、ますます手が足りなくなって、紅花舎の業務どころではなくなるはずだった。

「で、どうします?」

「う?」と、丸尾社長はそこまで考えがまわっていないらしい。

「明日からの納品やなんかは?」

「ああ、月末から来月あたままでは小口ばかりだから運送屋に頼めるだろう。でも、なんやかや面倒なことがありそうだから、明日からこっちに来てくれないか。紅花舎のほうは閉めといてもかまわだろうさ」

 丸尾社長は唾をゆっくりのみこんでから、またこちらをのぞきこんだ。

「こっちも明日は病院だよ。いつものな。検査の結果によっちゃあ半月くらい入院だとさ。なに、入るつもりはないけどね。ここんとこ酒は控えてるし、食事にも気をつけてるからなあ」

 自分にいいきかせているような口調だった。

「ああ、そういやあ、島ちゃんがいってたけど、夕方ちかくに紅花舎の電話が鳴ってたっそうだぜ。事故の知らせを聞いて、とりあえず神尾くんの連絡先なんかを調べにやらせたのよ。そしたら、電話が鳴っていて、受話器をあげたらきれたんだと」

 思い当たるふしはなかった。公共料金の払い込みは金のつづくかぎり律儀にやっているし、請求のくる予定もなかった。

「新規の客であるわけもねえよな」

 厭味とも冗談ともつかないことをぼそりといってから、丸尾社長は奥にあがっていってしまった。

「じゃあ、明日来ます!」

 と、その後ろから声をかけて退散することにした。

「おう」と、小さく返してよこした。

 それで今夜はしまいだった。


猫迷宮 67

2011年02月26日 01時32分20秒 | 文芸

 神社の杜をあとにして、車道に出る。そのまま右に折れて、しばらく歩くと、タバコ屋があった。店番のお婆さんがいるので、販売機でなく店に入って道を聞くことにした。

「ハイライトひとつ」

「あい」

 と、いって、すっとパッケージを押してよこした。千円札をだす。ツリをだしてくるタイミングで道をたずねるつもりだ。

「すいません、いちばん近い駅へはどう行ったらいいですか」

 駅はどこですか、と短く聞けばよかったかもしれない。長いフレーズだと、相手が理解するのに時間がかかる。いちばん近い、ということにこだわって、混乱することもある。

「ええと、駅ねえ」と、やはり考えこんだ。釣り銭をてのひらにのせたまま、固まっている。「駅はねえ」

 釣り銭に意識がもどって、はい、とこちらによこした。

「だいたいでいいんですけど」

「ええと、この道をまっすぐいって、鉄塔があるあたりを左に折れてください。そのあたりでまた聞けば、わかりますよ」

「遠いですか」

「そうだねえ、あたしはいつも車にのっけてもらって行くだけだから。娘の家に行くときだけね。蒲田のほうだけど」

 駅まではかなり遠いらしい。

 どうも、と礼をいって店をでる。                      

 歩きだして、お婆さんのいっていた鉄塔をさがした。至近距離の畑のなかに高圧線の鉄塔が立っているが、まさかこれではあるまいと、次の鉄塔をめざしていくことにした。だが、高圧線は道を斜めに横切って続いていて、道をまっすぐいったところにはそれらしきものがなかった。それでも、線路の走っている方角にまちがいはないので、線路につきあたればそれに沿って歩けばいい。遠回りになるかもしれなかったが、タバコをふかしながらのんびり歩いてやれと思う。バスでも走っていればと思うが、幹線道路でもないし、もうすこし交通量のあるところに出なくてはなるまい。

 呑気にかまえていたのがいけなかった。いけどもいけども、鉄塔などなかった。ひょっとしたら、最初の鉄塔のことをいっていたのだろうかと臍をかむ思いがした。大げさなようだが、失敗した予感がする。なんだか、畑がだらだら続き、その先は農家のような屋敷杜が見えている。あんなところに駅はあるのか。

 時計を見ると、十五分は歩いたようだった。道は両側に生け垣がある大きな農家のあいだに入っていった。数軒の農家をすぎたあとで、小さな神社にでくわした。その隣に町の消防団の倉庫があり、その隣に昔懐かしい火の見櫓の鉄塔が立っていた。鉄塔? タバコ屋のお婆さんのいっていたのが、火の見櫓のことだとしたら、この辺りのことをいってたいたことになる。鉄塔などといわずに、火の見櫓といえばいいのだが、お婆さんの語彙のなかにその言葉がなかったのかもしれない。確かに鉄塔は鉄塔だ。しかも、その先に十字路があり、左折することができる。曲がるしかなさそうだった。折れても、さきほどの道と大差のない田舎道にかわりはなかった。ただただ先が長い。誰かに聞くにも、人影がない。わざわざ辺りの家にはいって道案内を乞う気力もなかったので、かまわず左折した道をどんどん行くことにした。

 そこから、さらに十五分ほど歩いて、いよいよヤケクソになってきた。人家が途絶えて、道はただの農道になっており、農道のつきあたりがなんと用水路になって途絶えていた。行き止まりということだ。浅い流れの用水路を見下ろして、いつもながらの自分の適当さが可笑しくなった。やれやれ、また迷子か。迷子になったとたん、喉の渇きがひどくなった。あのタバコ屋でジュースでも買えばよかったと思う。あたりには、自販機はおろか、なにかの店さえもなさそうだ。とにかく引き返すほかはない。 

 火の見櫓まで引き返し、小さな神社の境内にはいりこんで、水道をさがしたが、水の出るところはなかった。日陰にペンキのはげたベンチがひとつ。思わず腰を下ろして休むことにした。胸ポケットからハイライトをとりだして、封を切った。新しいたばこの匂いですこしは元気が出るような気がしたのだ。ライターをさぐりあて、火を点ける。辛くて重い煙が舌にしみた。なにをしてるのだろうとひとりごつ。ベンチにひっくりかえって、しばらく休みたいくらいだ。

 二本目のタバコをふかしていたとき、目の前をトラクターで過ぎていく人がいる。近くの農家の人にちがいない。

 あわてて、トラクターに歩みよった。もとより、のがしてしまうほどのスピードではなかったが。

「すみません、駅に行きたいですけど」と、声をかけた。乗っていた男は、トラクターをとめた。別に怪しむふうでもなく、農協のマークのついた帽子をすこし持ち上げてみせた。

「駅ねえ。駅ったって、あんた。ずいぶん遠いよ。三、四十分は歩くな。ほれ、この道をまっすぐいって、鉄塔があるでしょ。そう、高圧線の。あのあたりで、右のほうへ行くと県道があるから、そこのバス停まで行かなきゃね」

「え」と、いって息を呑みこんだ。すべての原因は、お婆さんのいった「まっすぐいって」にこだわったからだった。

「遠いわなあ」と、トラクターの男はもう一度そういった。それから、すこし黙っていたが、「ちと、待ってみな。隣の家がこれから軽トラで町まで行くっていったてから、乗せてってもらいな。聞いてみてやるよ」

 トラクターが始動した。同じ速度で後に続いた。

「俺もあそこんちに買い物頼むことになってるからね」

 と、親切そうな物言いだ。

 男はトラクターを垣根のわきにとめると、目の前の農家の庭先に入っていった。のぞき見ると、なるほど幌付きの軽トラックが一台とまっていて、ランニングシャツ姿で、クビにタオルを巻いたその家の主人らしい男が荷台にダンボール箱を積み込んでいた。トラクターの男は、なにか話していたが門外に立っているこちらを手招きした。

「駅まで乗せてくれるとよぉ。千円でいいってなあ」

 親切だが、金はきちんととるつもりのようだ。

「ガソリン代だあね」

 トラクター男はそういうと、すたすた出ていって、トラクターの発動機をかけると、カタカタと先に走り出ていってしまった。

「すみません。よろしくたのみます」

 そういって、財布をだそうとすると、その家の主人は、

「あとでいいよ。どうせあのオヤジサンの飲み代だからね」

 と、タオルで汗をぬぐった。                        

「まあ、いいやね。だいぶ雲が出てきたから早めに出かけたほうがいい」

 軽トラの助手席のほうにあごをしゃくってみせた。

「お願いします」と、頭をさげて乗り込んだ。

 バタンと運転席のドアをしめると、男はタバコをだしてくわえた。

「仕事かね、こんなところへ」

「印刷屋なんです。この先の神社の社務所に来たんですが、乗ってきた車をさきにかえしちゃったら、帰り道がわからなくなって」

「田舎の道は遠いからね。俺たちだって、ほとんど歩いてでかけるなんてことはないよ。神奈川ったって、ここは東京とはちがうんだな」

 タバコには火をつけずに、エンジンをかけ、軽トラは走り出した。屋敷杜のあいだを無茶なスピードで走り抜けていく。さきほどのトラクターはどこにもみあたらなかった。

「神社っていったけ」

 と、しばらくしてから、たずねてきた。

「あの山の上ですけど」

「さあてね。鎮守様は無人のはずだがな。社務所っていったけど、あれはほかの宗派の事務所だよ」

「はあ」

「何年かまえから、どこかの宗教法人のプレバブが建って、人の出入りはあるけど、俺たちとは関係がないよ。うちらは鎮守様の氏子だからね」

 高圧線の鉄塔の下までくると、軽トラは右折して、バイパスにむかっていく。車ではたいしたことはなかったが、歩いたらそうとうの距離になる。

「東京の印刷屋さんかね」

「本郷です」

「へえ、そんなところから」

 べつに驚いたようすでもないが、言葉だけはそんな言いようだった。

「でも、あんたいいときに拾われたよ。ぐずぐずしてたら、あんなところで雷に逢うところだ」

 前方に迫ってきた灰色の雲のなかで稲光が始まっていた。神社の坂を下りはじめた頃は、はるかかなたにあった雲だ。本格的に降ってきたら、もらったビニール傘では心もとないようだった。

「来るね、このぶんじゃ。ダーッっと来るな」ハンドルを切りながら、男は空をにらんでいた。フロントガラスにポツポツ雨粒が落ちてきている。

「バイパスに乗ればじきだがね」

 天気の話をひととおりしてしまうと、男はだまりこんだ。もう共通の話題もないわけだ。

「あの、悪いんだけど」と、町が近くなってから、男はちらりと横を見た。「商店街の入口まで乗せてくけんど、降ろしたとこに酒屋があるんだ。すこし車止めとくから、そこで焼酎一本買ってきてくれないかな。なんでもいい、一升瓶でね」

 その金も払わされるのだろうか。

「商店街の奥が駅だかんね。すぐわかる」

 雨がひどくなってきた。遠くだが、落雷の閃光が見えた。

「やっぱり来たな」

「たすかりました」

 あまり気の入らないやりとりをしているうちに、十五分ほどで町中に入っていた。「じゃ、頼むわ」

 と、軽トラが停車して、こちらが降りたときには滝のような雷雨になっていた。ビニール傘を盾のようにして、舗道を走り、酒屋に飛び込んだ。千円見当の焼酎の瓶を買い込んで、走りもどると、男はタバコに火をつけて待っていた。

「おう、これはいつもより上等なやつだな」と、運転席から受けとると、「それじゃ、乗り賃はこれでいいよ。かえって悪かったかな」と、はじめて愛想をいうと、走り去っていった。

 駅に着き、路線図をにらんで、いったい何度乗り換えをしたら本郷にもどれるのかため息をついた。蒲田から池上線をつかって五反田あたりへ出るのがよさそうだった。どちらにしても、はじめての土地柄だった。


猫迷宮 66

2011年02月26日 01時31分29秒 | 文芸

              ∴

                                      

 次の客は、『昭和戯文集成』の依頼主だった。長いこと原稿と校正刷りのやりとりがあったが、著者本人と会うことになるのだろうか。依頼主は、団体名できていたのだが、いずれ著者か編者はいるはずだ。

「道がわかりにくいっすね」

 と、内山君は正直にそういった。川崎の町中を出て、ゆるい坂道になり、どうやら小高い丘とも森ともいえる方角へむかうことになる。都内でいえば、御殿山とか大岡山といった「山」でよばれる地勢だ。

「道路がなくなりそうですよ」

 内山君が不安そうにいった。一般道から私道らしい上り坂の先は、どうやら神社へつづく参道らしく、階段ならぬ石のごろごろした山道になっていた。最初の鳥居のところで駐車してしばらく考える。

「この先にまちがいないっすけど」

「いいよ、歩いていくよ。ゲラを渡して相談するだけだから」

「ここで待ってます」

 トラックのなかで小一時間も待たせるのは気の毒な気がした。

「道路マップを見てくれないか。ここから最寄りの駅さがしだしてみてよ」

「電車で帰るんですか。待ってますよ」

「時間が読めないんだよ。長びくかもわからないし。遅くなったら道路混んじゃうし、こっちは直に帰ったっていいんだから」

 内山君は道路地図に顔を近づけている。

「この坂を下って右手に二キロくらいのところに線路が走ってますけど」

「何線?」

「わかりません」

「いいよ。線路があれば駅もみつかるさ。途中で聞けばいいし」

「大丈夫ですか。いいかげんだけど」

「いつも、こんな感じだよ」

 内山君は笑っていた。

「神尾さん、いい感じですね。じゃあ、お言葉にあまえて、先に工場にもどります。ほかに仕事があるかもしれないし」

 トラックを降りたとたんに熱気と蝉の鳴き声がどっと襲ってきた。仰山な蝉が森の木立で狂気のように鳴いている。蝉時雨というよりは騒音だった。

「じゃ、すんません」

 と、一声かけて、内山君のトラックはUターンして坂を下りていった。すぐに左折して見えなくなった。蝉たちの騒音のなかに残されてみると、暑さがあらためて身にこたえるようだった。どっと汗がふきだしてくる。手拭いでももってくればよかった。参道の木立の下に入ればそれでも涼しかろうと攀りだした。なにたいしたことない山だ。登っていけば、すぐに事務所か社務所があるはずだった。それより、足もとにごろごろしている石を踏みあやまって足首を捻挫しないことだ。そんな用心がさきにたって、ゆっくりと歩きはじめた。

 最初の鳥居を潜ると、なるほど日陰はいくらかしのぎやすかった。木漏れ日が黄金のように降っている。いつか、こんなことがあったような気がした。

 そこからは、数段石段があるものの、再び山道となり、雨でも降れば難儀しそうな勾配だ。さて、どれくらあるのか上のほうを仰ぎ見たとき、自分より先に登っていく人がいるのに気がついた。最前は視野に入らなかった。山道の傾斜のせいだろうか。小柄な人だ。白い着物に薄青の袴。宮司か神官のいでたちのようだった。

 小柄なわけだった。いでたちからてっきり大人と思ったけれど、どうも子供らしい。子供というよりは少年。はて、若い女の子が袴をはいて巫女姿でいるのは見たことがあるが、小坊主ならぬ少年宮司はめずらしい。すこしばかり、距離が縮まって、少年らしく刈り上げたうなじが見えた。どこかで見たような少年だ。そこまで考えて、思い当たった。本郷二丁目界隈にときどき出没していた白根晃、シロネコ少年ではないか。こんなところで自分を先導するように山道をあがっていくということがあるのだろうか。もうすこし近づいてやれ、と歩みをはやめたときだった。少年宮司は、右手の藪にふいと姿を消した。道があるのだろうか。気味が悪くなる。

 すこしおくれて、少年が曲がった藪につくと、はたして笹の葉が覆いかぶさるような横道があった。山の崖を切り崩して造成した集落があるらしい。

 その藪をわけて追っていくわけにもいかず、本道を登るほかはなかった。額ににじみでた汗をぬぐう。仕事をはやくすませて、帰りには中腹の集落をのぞいてみたいような気がした。

 二の鳥居をくぐると、社務所のような小さな家と、プレハブの事務所がならんで立っていた。本殿は三の鳥居の奥だった。

 依頼主の連絡先の所番地と事務所が一致している。開け放たれた窓から中の様子がまる見えだったが、人はいなかった。出かけに電話したときは男が応対に出てきたのだから、誰かはいるはずだった。やむなく、社務所のほうの呼び鈴を押してみた。古めかしいブザーだった。錆びついたようなカタカタという呼出し音がした。

 広い社務所でもなさそうだったが、しばらく待たされた。

「はい、おまたせを」と、いって事務員ふうの男が出てきた。電話に出た男のようだった。

「丸尾印刷ですが」

「はいはい、うけたまわっております。ま、事務所のほうへ」

 と、暑そうなプレハブのほうに導いていく。昼寝でもしていたような感じだった。「お暑くて恐縮ですが」

 事務所にはいるなり、古めかしい扇風機をまわした。これも、カタカタ音をたてて首をふりはじめた。

「遠い所をわざわざすみませんです」

 小さな冷蔵庫から麦茶を出してきた。スチールの事務机をはさんで向かい合わせにすわると、「さ、どうぞ」と、コップをさしだした。

「先生はご病気がちなので、印刷一切はわたしが任されています。校正はわかりませんが、お支払いとかそのほかの御相談はうけたまわります」

 校正刷りの封筒を恭しく受けとるなり、男はそういった。ページ数の増加のことや、丸尾社長のいっていた分冊の勧めを手短に伝えた。男は手帳に逐一書き込んでいる。「わかりました。費用はいかようにでも。分冊の件は先生と相談しませんとなんとも申せませんが。一応は再稿が出たときに半金をということでごさいましたから、半金というよりは内金ということで御請求願えますか。七月末には入金させていただきます」

 そのつもりで、丸尾社長が出してきた請求書を差し出した。ミドリちゃんの字で数字が入っていた。科目は「内金」と但し書きがあるからかまわないだろう。

「はい、これで結構です」

 奥の机の上にある手提げ金庫を開けにいった。

「あの、これくらいの額でしたら、今、現金でもお渡しできますが」

 すぐに現金が出てくるとは思わなかった。

「領収書を後ほど送るのでよければお預かりします」

「ええ、ここに仮領収書を書いていただければ」                

 男は手慣れたふうに仮領収書の書式をつくって、こちらによこした。サインとシャチハタの判を押して返す。

「山を下りて銀行に行くのもこの暑さでは一仕事ですから、助かります」

 それほどの山とも思えないが、町なかまではかなりありそうだ。

 麦茶を飲みながら、それとなく聞いてみた。

「この下にも家がありますよね」

 男は、一瞬、なにか呑みこんだような顔をした。意外なことをたずねられたというふうだ。

「ええ、いくらかあります」

「こちらの御関係の住まいじゃないんですか」

 すこし詮索しすぎだったが、あの少年宮司が気になったのだ。

「いえ、以前には住んでいたようですが、いまはどうですか」

 と、曖昧な物言いになった。

 こちらがまだなにかたずねるのを嫌うように、また金庫のほうへもどっていって、現金と白い封筒を出してきた。

「ちょうどあると思います。ご確認いただいて」

 四十五万ほどの現金だった。ゆっくりと数えながら、出してもらった白い封筒をちらりと見た。いつか、紅花舎の郵便受けに投げ込まれていた白根晃の封筒とおなじものだった。どこにでもある封筒だろうが、同じ場所から出てきたような気になる。

「はい、確かに」と、いって封筒をもらって札束をおさめる。集金カバンにそれをおさめてしまうと、もう話すことがみつからなかった。

「では、先生のご意向をうかがったうえでご連絡申し上げます。八月中は無理かと存じますので、秋口になると思いますが」

「はあ」

 と、生返事をして立ち上がり、頭をさげる。

「ご苦労さまでございました。お気を付けて」と、さっぱりと送り出されてしまった。帰りの駅への地理をたずねるタイミングを失ってしまったが、麓におりてからどこかできけばよかろう。

「あの、もし」

 坂をおりかけた後ろから声がかかった。社務所の男だった。

「夕方、雷が来るそうです。歩いてもどられるようでしたら、これを」

 と、いって、安物のビニール傘を差し出している。

「夕立ですか」

 と、晴れわった空をみまわした。西の方角にたしかに灰色の雲がわだかまっている。だが、それほどあやしげな雲行きでもなさそうだった。

「どうぞ、お使い捨てになさってください」

 いらぬとも言えないので、頭をさげてうけとり、あらためて「では、失礼します」と背をむけた。しばらく後ろで見ている気配がしたが、振り返らずスタスタと坂道を下りはじめた。じっと見送られていては、あの横道の様子をうかがうわけにもいかなかった。こちらが、下の集落のことを気にしていたので、わざわざ傘など持ってきて、牽制したのかもしれない。いよいよ、横道のところにさしかかり、思いきって振り返ってみると、坂や段々の勾配のせいで、もう二の鳥居のほうは死角になって、見上げても、見下ろしても見えない位置だった。

 集落のあたりをすかしてみたが、人の気配もなく、生活臭も希薄だった。横道に踏み込んでいってそこが廃屋だったら、さしずめ昼の幽霊でも見たことになる。

 そのとき、藪から一匹の白毛の猫が細道を横切っていくのが目に入った。カサリと音もさせず、上の藪にまぎれこんでしまった。いずれそこにも、獣道のようなものがあるのだろう。

 笹をかきわけて、踏み込んでいく気にもならず、また坂道を下りだした。油蝉にまじって、ヒグラシも鳴きだしている。まだ暮れそうにもない夏の夕方だが、これから駅をみつけるまでの道のりを考えるとうんざりしてきた。シャツが汗まみれになっている。