その夜、アニスが暗い階段を上がってきた。
わたしの部屋のまえで足音がとまる。ドアのまえで、しばらく躊躇っている気配がした。わたしは立っていて、ドアをあけてやる。
アニスは黙って部屋のなかにはいってきた。リキュールの瓶を抱え、こぶりのボヘミアングラスを二つポケットからだして、わたしの書き物机のうえに置いた。それから、古びた並製の本を一冊。それをはさんで、むかいあって座った。夜の十時を回っている。
「これを読んでほしいのかい」と、わたし。
アニスは小さくうなずきながら、二つのグラスにリキュールをみたした。どこの酒だろうか、たちまち薬草のような香りが部屋にあふれかえった。おそらく、彼女の故郷の酒なのだろう。スロバキアの田舎、むしろルーマニアに近い辺境だと聞いていた。
手にとると、その軽さがはかなく、悲しいくらいの冊子だった。フランス語のタイトルのついた私家版の詩集のようだ。フランス語は読めないと言おうとして、ページをめくると、活字の行間や余白にドイツ語の訳のようなものがぎっしりと書きこまれていた。これをチェコ語になおせばいいのか。正確でないが、伝わる程度には訳せそうな内容だった。なに、ならんだ単語をおきかえていくだけのこと。
幾千の河に橋を渡し 祝いの朝に町をたちさる
ひとが まだ 夢路をたどるうちに、
孤独な鷲のように わたしは空にかえる
祭りの日のかがやきに 堪えられるわけもないから
と、そう読めた。
「誰の書き込み?」と、たずねようとしたがその言葉をのみこんだ。
アニスが泣いているのだ。
訳したあとで、ドイツ語の原文をでもういちどゆっくりと読んでやった。この部屋で、同じ言葉が響いたことがあるのだろうか。
アニスは泣きながら、だんだんテーブルのまえにかがみこみ、明かりの影にはいって、やがて夜のなかにまぎれてしまいそうだった。