天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

プラハ幻想 『サフラン通り』11

2011年02月11日 21時25分37秒 | 文芸

その夜、アニスが暗い階段を上がってきた。

 わたしの部屋のまえで足音がとまる。ドアのまえで、しばらく躊躇っている気配がした。わたしは立っていて、ドアをあけてやる。

 アニスは黙って部屋のなかにはいってきた。リキュールの瓶を抱え、こぶりのボヘミアングラスを二つポケットからだして、わたしの書き物机のうえに置いた。それから、古びた並製の本を一冊。それをはさんで、むかいあって座った。夜の十時を回っている。

「これを読んでほしいのかい」と、わたし。

 アニスは小さくうなずきながら、二つのグラスにリキュールをみたした。どこの酒だろうか、たちまち薬草のような香りが部屋にあふれかえった。おそらく、彼女の故郷の酒なのだろう。スロバキアの田舎、むしろルーマニアに近い辺境だと聞いていた。

  手にとると、その軽さがはかなく、悲しいくらいの冊子だった。フランス語のタイトルのついた私家版の詩集のようだ。フランス語は読めないと言おうとして、ページをめくると、活字の行間や余白にドイツ語の訳のようなものがぎっしりと書きこまれていた。これをチェコ語になおせばいいのか。正確でないが、伝わる程度には訳せそうな内容だった。なに、ならんだ単語をおきかえていくだけのこと。

 

   幾千の河に橋を渡し  祝いの朝に町をたちさる

  ひとが  まだ 夢路をたどるうちに、

   孤独な鷲のように わたしは空にかえる

  祭りの日のかがやきに 堪えられるわけもないから

 

  と、そう読めた。                             

「誰の書き込み?」と、たずねようとしたがその言葉をのみこんだ。

 アニスが泣いているのだ。

 訳したあとで、ドイツ語の原文をでもういちどゆっくりと読んでやった。この部屋で、同じ言葉が響いたことがあるのだろうか。

 アニスは泣きながら、だんだんテーブルのまえにかがみこみ、明かりの影にはいって、やがて夜のなかにまぎれてしまいそうだった。

 

 


プラハ幻想 『サフラン通り』10

2011年02月11日 21時24分15秒 | 文芸

 オルガの養女、アニス。十九になるスロバキア出身の娘。髪は亜麻色。ほっそりとした白い首から肩にかけて、こまかな雀斑がある。雀斑は、鎖骨から薄い胸元まで散っている。洗い晒しの錆色のブラウスをさっぱりと着込んで、胸元をあらわにしてみせている。

 

  月曜日だった。

 週のはじめの日は、下宿屋のスープの日だった。下宿人は、管理人室の厨房にスープ皿をもっていき、そのときどきの季節のスープをもりつけてもらう。オルガの得意とするパプリカ入りの野菜スープは、年配者たちに人気があった。そのスープに黒パンの切れ端をひとつ添えてくれ、ときには丸い輪切りのチーズがついてくることもある。たいていは、聖アンナの日とか、聖霊降臨節とかの祝日のときだ。下宿人がかちあってしまうと、さながら救世軍の慈善事業のふうにみえてしまう。わたしは、そういうのはあまり好かないから、たいてい夕食時をはずして帰宅したり、外ですましてしまったりした。

 オルガが留守とあれば、スープも休みときめこみ、五時過ぎに古本屋から包みを抱えてもどってきた。自室への階段をのぼりかけていると、管理人室のドアが開いて、アニスが声をかけた。なにをいっているのか聞き取れずに、首をかしげると、こっちへ入れと手招きした。グラーシュ、グラーシュ、といっている。スープというよりはシチューのことだが、はて、今日はアニスの料理がふるまわれているのか。

 招かれるままに部屋にはいると、テーブルができていて、スープ皿が乗っていた。夕食に招待するという意味らしい。早口のチェコ語を類推でそう解釈した。あなたは、いつもうちのスープを食べないから、今日はここでどうぞ、とでも。戸惑うひまもなく、アニスはグラーシュを底の深いスープ皿にもりつけはじめた。日頃無愛想なアニスにしては、破格の待遇というべきだった。

 アニスは白パンを二切れ小皿に乗せて、こちらに押してよこした。クネードリーキといい、蒸しパンのようにもっちりとしていて、グラーシュの残りをそれですくって食べるのだ。

 どうぞ、とアニスがいった。くるりと背をむけると、自分の皿をもってきてむかいにすわる。骨董品のような厚みのあるグラスに、ワインを半分ほどそそぎこみ、これもだまって皿のそばに置いた。フランコフカ、モラビアの赤ワインだ。礼をいい、グラスに口をつける。

 バーツラフ広場の近くの古本屋へいってきた、と聞かれもせぬことをいう。あそこは高いわよ、とそっけない返事。それでも、三冊ほどつみあげた私の買い物の背表紙を読んでいる。アポリネールの詩のチェコ語訳が一冊、あとは、十六世紀に関する歴史書。もっとも、銅版画の挿絵が気に入って棚から引き抜いてきただけのものだ。なにかいっている。よくわからない。おそらく、あなたは読むことが得意なのね、とでもいっているらしい。それとも、読んでばかりいるのね、とか。アニスはドイツ語や英語はわからないようだったので、こちらは曖昧にうなずくしかなかった。ことさらドイツ語でなにか補おうとしたら、機嫌をそこねそうな気もしたのだ。味はどう?  と、いっている。なまりの強いスロバキア語だ。これには、さりげなく眉をあげてうなずけばいい。レストランで出されるグラーシュよりもよほどあっさりと品がよい。長く煮込んでいないせいでもあるようだ。玉葱にまだ歯ごたえがある。肉をこまかに刻んでいるのがわたし好みだった。

 アニスは頬にかかった髪をかきあげ、グラスから一口飲んだ。それから、じっとわたしの眼をみつめた。なんだろう、女がそんな目つきをするときは、なにかこれから切り出すときだ。

 さきほどよりもよほど低い声で、それもいくぶんかすれ気味なので、独り言のようにも聞こえる。もちろん、いくつかの単語以外はわからない。おそらく、わかってもらえていないのを承知でしゃべっているのだ。オルガという養母の名がはいった。わたしは、アニスをみつめた。懺悔を聞いている告戒僧のような気分だ。つまり、感情をまじえず、相手の言葉に聞き入るということ。

 わたしはグラーシュをかきまわしているアニスの細い手首を見た。静脈がすきとおってみえる、疵一つない美しい手首だった。

 アニスの話はとぎれとぎれながらやむことはなかった。わたしも食事にもどり、ときおり顔をあげて、アニスと視線をあわせるだけ。誰かが見ていたら、まことに奇妙な食事の図だろう。だが、アニスは彼女の大事なことを語っているのだ。

 食事が終わり、ワインのグラスも空になったので、わたしはたちあがり、アニスにむかって手をさしだした。アニスはわたしから眼をはなさず、こちらの手をにぎりかえした。

 


プラハ幻想 『サフラン通り』9

2011年02月11日 21時23分05秒 | 文芸

            

 

 

 

 オルガの養女、アニス。十九になるスロバキア出身の娘。髪は亜麻色。普段から愛想のない娘だったが、マレーネがここ一月ばかり頻繁にわたしの部屋にくるようになってから、階段ですれちがうときなど、ことさらに無愛想に顔をそむけるようになった。東洋人の作家だか、学者だか知らぬが、頻繁に娼婦を呼び込む不潔漢だとでも思われたか。無理もないことだが、オルガがすぐにそれと気づいて、わたしに紅茶を給仕してくれながら、こっそりといった。

「あの子、まだなにもわかっていないのよ。あなたのことも、マレーネのこともね。マレーネがあなたを選んだのだし、あなたは、あんな風変わりな女と話をするのが好きなだけ」

「でも、その話し相手はいずれ肺炎で死ぬのだろう?」

「ジャン・リュックのこと聞いたのね。だったら、順番がちがうわね。こんど肺炎で死ぬとしたらマレーネのほうかも」

「どっちみち、この部屋で?」

「縁起でもないわね。いいこと、いずれ誰も死ぬのよ。自分の部屋で、病院の部屋で、見知らぬ土地の路上で」

 いずれ誰もが、という言葉をきいて、わたしは次の言葉をのみこんだ。エミリア・マクロプロス。きみは決して死ねないのだ。

 オルガがわたしの眼をのぞきこんでいる。あなたなにか知っているのかというふうに。

「それで、お願いがあるのよ。アニスはあんなだけど悪く思わないで。それなりのわけもあるのよ。あの子二度も自殺未遂を起こしているの」

「それだけ聞けば、あとはわかったよ」

「この界隈では若い者から死んでいくわ。若い木は枯れやすいっていうでしょ」

「老木は腐っても、新芽をのばして生き延びるか・・・」

 すこし警句じみた。

「いやな言い方ね」

 オルガはいつにない長話をあわてて畳んで、階下におりていった。

 オルガがことさらアニスのことを話していったわけはすぐにわかった。翌日から、オルガは五日ほど所要で田舎に出て留守になったのだ。


プラハ幻想 『サフラン通り』8

2011年02月11日 09時06分42秒 | 文芸

  西の窓がサフラン色に染まりはじめた。

 マレーネが階下に降りていく。軽やかに、まるで一仕事終えたように。わたしのシガリロをくわえたまま。乱暴に入り口のドアを開け閉めする。また、いつか、よびもせぬのにわたしの部屋にあがってくるだろう。今度は、猫を川に流した話でもしてやろうか。ヴルダヴァ河とわたしの故郷の河の話。アルザスを流れる鉛色の河の話。それとも、排水溝のようなハンブルクの運河の話だろうか。

 今日は、オルガはやってこない。気をまわしてくれているのでもない。わたしがここで一人で日の暮れるのを眺めていたいのを知っているからだ。だが、その夕方にかぎって、わたしはアルメニアの石榴の実がひとつ欲しくてしかたなかった。

 

 


プラハ幻想 『サフラン通り』7

2011年02月11日 09時05分09秒 | 文芸

 わたしは、マレーネの挑発にはのらず、わたしの犬の話をした。もう一匹飼ったのが愚かな雌犬で、さんざんてこずらされたあげく、毒物を拾い食いして頓死してしまった犬の話だ。

「そんなにてこずったの?」

「わたしがまだ子どもで、犬の発情期というものをよくわかっていなかったんだな。近隣の雄犬がよってたかってわたしの犬をなぶりにきているような気がして」

「あたっているかも。犬も人間の男もおなじだわ」

 マレーネは二本目のシガリロに火をつけている。

「結局、女を抱きたいだけの男がほとんどよ。好きだとか、愛だとかといってはいるけど。錯覚だわ」

「女だって似たようなものじゃないのかな。なにかに縋りたいだけで」

「犬の話をしましょうよ」と、マレーネはすこしきつい眼をした。

「ああ、そうだな・・・わたしは自分の犬を小屋にとじこめて、夜通し見張りをしていたんだ。集まってくる雄犬たちを追い払うためにね」

「ごくろうなこと」

「まったく。おかげで翌朝は、フラフラになって登校したものさ。二週間は続いたかな」

「それで愛犬を護っていたつもりだったのね」

「うん。でも、結局、雑種の子犬がかならず生まれた。子犬は可愛かったな。それでも、もう犬は増やせなかったから、必死で貰い手を捜してまわったものさ。やっとの思いで子犬がかたづくと、庭ではあの馬鹿な雌犬があいかわらず吠えたていた」

「そして、またあの季節がめぐってくるというわけね」

 マレーネは初めて愉快そうに笑った。笑うと、ずっと若くみえる。

「その犬が、ある日逃げ出して、ゆくへ知れずになったんだ。必死で町中をさがしまわったけれどみつからない。夕方、くたびれて家にもどると、母親が出てきていったよ。犬が、家の近くの路地で死んでいるとね。家にもどってくるつもりだったらしい。頭が家のほうにむいていた。なにか毒物を食べたようだったとね」

「悲しかった?」

「そうだね」

「子どもだったから、泣いた?」

「いや、泣かなかったな」

 そのやりとりが可笑しくなって、わたしもふっと笑った。ひどくほっとしたよ、とはいえなかったが。

「やっぱり変わっているわね、あんた」

 マレーネ・シンクレアがじっとわたしの眼をのぞきこんでいる。嵐のあとの英仏海峡の色だ。

「それにドイツ語が上手よ」

 過分なほめ言葉のようだったが、意味がちがうらしい。

「あなたの国の人にも何人かあったけど、そんなふうに犬の話をする人はいやしなかった。あなたの国の人は、一生懸命対話しようとするけど、中身はどうでもいいことばかり」

「犬の話だってそうじゃないかな」

「そう思ってはいないくせに。それにあなたは対話なんてしたがらない。なにを喋っていても、みな独白に聞こえるもの」一呼吸おいて、煙といっしょに言葉をはきだした。「あたし、独白を聞いているのが好きよ」

 


プラハ幻想 『サフラン通り』6

2011年02月11日 09時03分42秒 | 文芸

「入院する二日まえに、部屋に呼ばれたわ。いってみると、ベッドに寝たきりで、なんのために呼んだのかわからなかったわ。まあ、ドイツ語が聴きたいというのはいつも同じだったけど、息苦しそうで、呼吸に雑音がまじっているのが気になったの。わたし、子どものとき、飼っていた犬が肺炎にかかって死んだときのことを思い出したわ」

 マレーネはコニャックをぐいと流しこんだ。すこし気管を刺激したのか、軽く咳きこんだ。

「そう、最初はこんな咳。それから、笛がなるような息になっていくのよ」

「その息がだんだん弱くなるのだね」

 と、わたしは静かに口をはさんだ。わたしも、少年時代に自分の足もとでしだいに死向かっていく子犬をみとったことがある。もらわれてきたばかりで、その子犬は病気になった。餌を食べなくなり、うずくまって荒い息をしはじめ、何度か咳こんだ。そのうち、咳といっしょに白いこまかな回虫まで吐き出して、もはや手遅れなのが知れた。死をかかえこんでいる子犬を、わたしは終日じっとみつめていた。毛布のきれはしをかけて温かくしてやることのほかはなにもしてやれない。蝋燭が燃え尽きるようにだんだんと命がしぼんでいくのをわたしはふるえながらみつめているだけだった。

「あのときは悲しかったわ」と、マレーネ。「父親が死んだときよりも悲しかった」

 そういってから、青みがかった灰色の瞳でわたしをじっとみつめた。そうだ、話はこの部屋のまえの住人、死んだジャン・リュックのことから始まったのだ。マレーネもそのことを思い出したようだった。「ゾー・ヴィー・ゾー(ともあれ)」と、ため息をついた。「この部屋に住む人は変わった人ばかりね」

「今度の住人は、はじめから死んでいるのかもしれないよ」

 すこし自虐的すぎる冗談であった。

「死者は女を抱かないのかしら」

 マレーネは、コニャックのなくなったグラスのふちを舐めながら、職業柄か、すこし蠱惑的な眼差しをむけてきた。わたしの諧謔への返礼である。真に受けるほどウブでもない。


プラハ幻想 『サフラン通り』5

2011年02月11日 09時01分45秒 | 文芸

 

  マレーネはこちらの戸惑いなど意に介さず、するりと部屋の中にはいりこんできた。

「きれいにしてるわね、独り暮らしにしては」

 マレーネが話すのはドイツ語だった。

  なにか言おうとして、マレーネのつけているオウ・デ・コロンの香に気押されて、ろくな挨拶もできず、椅子をすすめただけだった。

「壁紙も新しくしたわ」

「まえに来たことがあるのか」

「ずっとまえにね。でも、あなたの部屋、しばらく空き部屋だったわ」

 机の上にあったシガリロの缶をあけて、マレーネにさしだす。シンメルペニングがまだ二缶ほど残っていた。この夏ドイツに用事があったときに、このオランダ銘柄のシガーを一ダース仕込んできたのだ。

「この部屋には、ベルギー人の技師が長いこといたわ」

 シガリロに火をつけ、煙をはきだしながらマレーネは話しはじめた。

「ヴルダヴァの下手の橋をかけに来ていたそうよ。補修だったかもしれないけど。とにかく長いことこの部屋に住んでいたわね。痩せてカラスみたいに陰気な男だけれど、わたしがドイツ語を話すから親近感があったのね。アルザスの出なのよ、わたし。育ったのはドイツ。でも、フランス語もドイツ語もすきじゃないわ。・・・いい客とはいえなかったわね、あの人。なにもしないんだから。ただ、ドイツ語を喋ってくれっていうのよ。なにか世間話。プラハの裏町の噂とか、新聞記事のこととか、そんなこと。コーヒー一杯ぶんの時間がすぎると、もういっていいと言って百コルナ札一枚よこすのよ。もちろん、わたし、うけとらなかった」

 コーヒーのかわりに、わたしはコニャックの瓶を棚からおろした。タンブラーをふたつならべるのを、マレーネはじっとみつめていた。注ぎ終えると、グラスをひとつ手にとって、かるくもちあげてみせた。酒をだし、わたしが時間をかぎるつもりがないことを察したらしい。すこし微笑んだ。

「そのベルギー人、ジャン・リュックっていったかしら、二年目の冬に肺炎に罹って、あっけなく死んでしまったのよ。死んだのは病院。労働者組合のクリニックから国立センターに転送されていくうちに急に容体が悪くなったんだって」

 わたしの部屋のまえの住人、ジャン・リュックのことはこれまでオルガからもペトラ・ルイスコワからも聞いたことがなかった。

「入院する二日まえに、部屋に呼ばれたわ。いってみると、ベッド