ドアを開けて、案内された部屋はわずかに芳香剤の臭いがした。安っぽいビニールレザーのソファーセットのリビングだったが、きちんと片づいていた。むしろそっけないくらい清潔な感じだ。旦那が掃除をしているのか、いつもそうなのかはわからない。すぐにクーラーが静かに動きだした。
「お茶などよりこちらにしましょう」
といって、ビール瓶をテーブルに置いた。
「わざわざ来ていただいて」と、いまさらの挨拶をしながら、グラスに注いでくれる。「ビールだけはいつも冷蔵庫に絶やしたことがないんです」
自分のことではなく赤塚さんのことらしい。
「冷蔵庫の中はどうでしたか?」と、探偵じみた質問をしてみる。
「別にかわったところはありませんでした。古くなった牛乳パックもないし、残り物もありませんでしたが」
「家をあけるつもりだったらしいですね。その、猫にはいつもミルクぐらいやるんでしょうから」
あまり気が乗らぬのに、訳知り顔の推理だけはスラスラ出てくる。いい気なものだと自分でも思うが。それでも、相手はそこまで気がまわらなかったらしく、感心したように頷いた。
「なるほど、やはりしばらく家をあける覚悟で出ていったのですね。あっ、どうぞ口をつけてください」
遠慮なく半分ほど喉に流しこむのを見て、旦那は自分もすこしグラスに口をつけた。「わたしはあまりやらぬほうなのです」
「運転が仕事だからですか」
「いえ、すこし飲むだけで朦朧としてしまって、翌日頭が痛くなるたちなんです」
「そうですか、無理に飲むこともありませんよね」と、どちらが主かわからない応答になった。
「それで、気になる手紙というのは」
早々に本題にはいることにした。
「いま持ってきます」
そういって、赤塚さんの旦那は隣の部屋に入っていった。勝手にビールをつぎたして、もう一杯飲み干す。トラックのなかでずいぶん汗をかいていたのだ。部屋のクーラーは弱くしてあるのかすこしも効いてこない。そういえば、赤塚さんは冷房嫌いだったことを思い出した。紅花舎にいたころ、いつも薄手のカーディガンを膝にかけていたものだ。
「これです」
と、茶色い事務用封筒が目の前に差し出された。裏返すとどれも差出人は同じで、印刷文字だ。「庚申研修会事務局」とある。住所は神奈川県内だった。
「中は?」
「やはり印刷物です。なにかの研修会の通知のようです」
「見てもいいですか?」
「はい」
四つ折りの手紙を開いてみると、どれも期限のすぎた研修会の案内で、どれも木曜日だった。いちばん新しいものも五月末のもので、それだけは木金と二日間にわたる研修会だった。神奈川県内のセミナーハウスの住所が記されている。その案内の末尾に、ボールペンで「次回は当番ですので宜しくお願いいたします。宮澤」と、追伸が添えられていた。
「この宮澤って人はご存じですか?」
「いえ、さっぱり。こんな集まりに加わっているのも知りませんでした。何の集会なのですかね」
「庚申ていえば、庚申塚とか、方位とか、古い信仰や習俗の研究ですよ」
このあたりは、あの稲葉氏なら詳しいだろうなと思いながら、知っているだけのことはならべてみせた。いつだったか、風水を扱った私家版も編集したことがある。
「なんだか占いの団体みたいな名前ですね。研究でなくて研修ですから、なにか勉強してたんじゃないですか」
宗教団体ではないのかと思ったが、いたずらに心配させてもいけないので黙っていた。
「この住所のところにあたってみることもできますね」と、つい口にだして、自分がすでに興信所の所員の口ぶりになっているのがおかしかった。
「でも、案外と俳句かなにかの同好会ってこともありますから」
「そういうものですか」と、赤塚さんの旦那は首をひねった。「どうも私などにはよくわかりません。そんな教養がないものですから」
赤塚さんの旦那は、若い頃から自動車一筋できたのだと自分の経歴を話しだした。工業高校の機械科で、自動車修理からはじめて、修理工場が潰れたのを機会に大型の免許をとって運送屋に再就職したのだという。こうして、自営になってもなんとかやっていけるのは、車検をのぞいてたいていの修理は自分でできるからだという。
「ほかになにか手掛かりのようなものはないのですか。あまりこの手紙にこだわっていると、とんでもない勘違いをして無駄な動きにもなりますから」
いつかテレビで見た刑事物で覚えた台詞だ。
「あとは、吊るしたノートにいくつか知らない電話番号が書いてあるだけです」
「当たってみました?」
「いえ、見ず知らずの人のところにいきなり電話はできませんから」
というよりも赤塚さんの旦那は電話嫌いらしい。紅花舎にだって電話もせずに顔をだしたくらいだ。その気持ちはこちらにもよくわかった。ふとみると、飲めないという酒をむりやり飲み下している。ビールがグラス半分ほどになった。
わずかなアルコールでほんとうに酔いがまわるらしかった。どちらかというと酒飲みたちを相手にしてきたので、すこし信じられなかった。ひょっとしたら酒を飲んだという暗示で、酔ったような状態になってしまうのかもわからない。
「あの不躾なことばかりですみません」と、もつれはじめた舌で赤塚さんの旦那はいままで黙っていたことまで話しだしそうだった。
「でも、こうして神尾さんにお会いしてよくわかりました。頼子もあなたのことを頼りにしてちょくちょく出かけていっていたわけがです」
なんだか女房の浮気相手を遠回しに責めているようにも聞こえる。
「はじめは妙なことも疑っておりまして、会社にいったときには厭味のひとつもいってやろうかと思っていたのです」
やはりそういうことかと思ったが、まだ話はつづくようだった。
「神尾さんは変わった人ですね」
どこかで聞いたことのある台詞だ。
「しばらく話していると、なんでも洗いざらい打ち明けたくなる雰囲気があります」
さしずめカウンセラーむきといいたいのか、それとも刑事にでもなれば、落としの名人にでもなれそうだ。すこし皮肉な気分になったが、黙って聞いていた。
クーラーがあまり効いてこず、赤塚さんの旦那のシャツは汗で色が変わるほどになっている。酒のせいでもあるようだ。
「暑いですか? いっそ窓あけたほうが風がはいるんじゃないですか」
と、いって腰をうかせた。
「いいんです。トラックのなかはもっと暑いときもあります。窓を開けても排気ガス臭い風しかはいりませんし」
なるほど大久保通りに面しているマンションだ。空気がいいわけがない。座りなおして、こちらもビールをあおる。しかたがない、とことんつきあうほかなさそうだった。
「そうなんです。そういうところがいいのですね」
と、得心したような物言いになった。
「よくわかりませんが」
「ご自分ではそうでしょう。こだわりがなくて、その場でまともにむかいあってくれるようです」
突然大変なことを言いだしたものだが、昔からこんなたちだ。
「赤塚さんの消息の話ではないのですか?」
それた話を本線にもどすことにした。だが、どのみち迷路のなかで右左を変えただけかもしれなかった。本線だと思っていると、とてつもない迷路の入り口にだったりすることだってある。庚申研修会などという団体をさぐっていけば、いずれはそこにな引きずり込まれるにちがいない。
「梶尾さん」と、初めて姓名でよびかけた。相手がとろんとした表情になって、眠りかけているような気がしたからだ。意識の薄れそうな人には、名前をきちんと呼びかけたほうがいいというのは応急処置の基本だ。
「梶尾さん」と、もう一度名をよんだ。
「はい」と、すこしだけ顔をあげた。「すみません。朦朧としてました」
「いいですよ、そのままでも。でも、赤塚さんのことはすこし調べておきます。東北からお帰りなったらご連絡ください。それまでに赤塚さんがもどってきているかもしれませんし」
「はあ」
「明日からお仕事ですよね」
「はい」
「だいじょうぶですか?」
「はい、早朝から出ます。東北道の下りですから混まないと思います。八王子で一件荷物を受けて、すぐにそこのインターから入ります」
そんなやりとりをしてから、それではまた、といって辞去しようとした。赤塚さんの旦那は、立ち上がれずに頭だけさげて「お願いします」と一言だけいった。こちらがいよいよ立ち上がると、とりすがるように上着のポケットのなかに封筒をねじこもうとした。紅花舎にいるときにすでに断っていた十万円の必要経費だ。なんどか押し問答をしていて、とうとうこちらが折れて受け取った。交通費などか生じたら明細を書いておき、残った分はいずれ返すつもりだ。このところ使うに使えない金ばかりつかまされる。たまったものではない。
階段を降りて、マンションを出るとまだ宵の口だった。八時を回ったところだった。腕時計の革ベルトが汗ばんでいたのではずしてズホンのポケットに入れる。出入口の郵便ボックスに「梶尾・赤塚」と連名で表示がさしこまれていたのをいまさらのように確認した。