猫 迷 宮
天沼 春樹
春まだ浅い夜のことです。ふいにおとずれたなまめかしい晩。月がぼうっと霞んで中空に浮かんでいます。あたりに漂っているのは、なにかの花のかおりか、それともいましがた遅い夜道を通り抜けた女の安物の香水でしょうか。
そんな夜に、わたしはある妄想にとりつかれるのでした。わたしは、目覚めているのか、それとも夢のなかにいるのか、はっきりわからぬまま、褥(しとね)に伏して薄闇をにらんでいます。寝返りをうつと、すこしばかり開いたままの窓に気がつきました。おや、閉めたはずではなかったろうか。それとも、何かが出入りしたものでしょうか。
けれども、次の瞬間に、わたしはからだのなかに、あのなれ親しんだ疼きがよみがえってくるのを知ります。そうか、今夜なのかと。
くるりと、からだをまわして、寝床のなかではいつくばると、わたしは、みるみる一匹の猫に変身していくのでした。
そうなるともう、わたしは、狂ったように夜のなかに飛び出していくしかありません。水気を含んだ地面から、ほんのり香気がたちのぼっています。いつのまにかわたしの両手は、大地をつかんでいます。やわらかな毛がはえそろった、しなやかな四肢が、わたしの体を面白いように先へ先へと運んでいきます。いまや一匹のけもの本能が、わたしの体のなかをかけめぐり、耳をそばだて、鼻をひくつかせ、垣根をくぐったかとおもうと、わたしは人の背丈よりもたかい塀をとびこえて疾駆していくのでした。
やがて、わたしは、ひとつの暗がりに、自分のもとめている相手が、ひっそりとうずくまっているのを嗅ぎつけます。同類の雌が。
この際、慎重な振る舞いが肝心です。静かにすりよって、合図をおくらねばなりません。相手は警戒と、期待で、身を固くしています。わたしは、低く、甘く唸りながら、彼女の鼻先に近づきます。怯えさせてはいけません。やさしく、しかし、たくましく、自分の雄を誇示しながら、しだいに相手の気持ちをとらえていくのです。
やがて、相手が、おわあおわあと喉を甘ったるく鳴らしはじめたら、しめたものです。相手は警戒をとき、わたしはどんなに大胆に振る舞ってもかまわぬことになります。わたしは牝猫の臭いをかぎながら、彼女の体をゆっくりと愛撫しはじめます。牝猫の陰部からは、わたしを狂おしくひきつける濃密な臭いが発散しています。が、焦ってはなりません。肝心なところで爪をたてられることも少なくありません。その匂いのあたりをわたしが、やさしくなめてやりますと、牝猫はつぎの行為を催促するように腰をあげてうずくまり、ちいさく鳴いてよこします。そこで、わたしは自分の体を、牝猫の背後からかさねていき、彼女の敏感な首筋を軽くひと咬みすると、暗がりのなかで、ひっそりと交わるのです。いままで、一度も会ったことのない二匹が、じっと闇をみつめながら交尾するとき、その毛並みの下では、どのような感情が育つのかは思いのほかです。
ときがきて、わたしたちは身はなすと、まるではじめから約束していたかのように、いっさんに夜のなかに尻尾をならべて走りだしていくのです。
『猫文書』1
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本郷三丁目の地下鉄駅から路地をぬって、三河神社の赤い幟を横目に、昔懐かしい風情を残す大横丁通りを突っ切る。さらに細道をたどると、そこは壱岐坂である。本郷通り、白山通りを折れてこの坂に入るのは、人も車もただ坂を通過するだけのこと。
壱岐坂を目印に、そこからさらに先の脇道に入り込んでくる者たちがいる。地番は二丁目あたり。水道局界隈の雑多な老朽ビルや木造二階家に社屋をかまえる各種の業者が多い地区だ。たいていは、印刷屋だの版元だの、看板もろくにでていない零細な事業主が多い。曲がり角のひとつで、ときには野良犬のようにふとたちどまる人がいる。その日の界隈の空気に鼻をきかせでもしているかのよう。つまりは、よそ者の仕種だ。用向きを終え、壱岐坂下に出てくると、たいていほっとしたような顔つきになるものだ。
だが、それは昼間だけのこと。日の高いうちは、なにごともよそよそしく過ぎてしまう。日ぐれて、近隣の猫たちがいつもの集会所にあつまってくる頃、この町界隈の本音が顔をのぞかせ、風変りな場所に明かりが灯るのだ。
本郷二丁目の奥にある雑居ビルの二階。「紅花舎」と号した怪しげな出版社に転がり込んで一年。二十九にもなるのに、転職のふとしたはずみで、未経験のままこの業種に入るとは思いもしなかった。出版社といっても、自費出版の編集を請け負い、取次ぎの口座を持つ知り合いの小出版社の名義を借りて本にし、印刷した本のほとんどを依頼主に送り出せばそれで仕事が終わる。依頼主には初稿と同時に、出版費用の半金の請求書を送る。半金が振り込まれ、赤字入りの著者稿がもどってきた時点で、こちらも印刷所に半金を送ることになっていた。通常は印刷と製本が終了してから、請求書をまっての支払いなのだが、紅花舎は印刷屋の信用をつなぐために「良心的支払い」をしていると、社主はのたもうていた。なに、この種の自費出版の依頼は、版元よりもまず印刷屋に話がもちこまれることが多いから、払いがよければ逆に仕事をまわしてもらえるのだ。そのあたりに零細な企業同士の阿吽の呼吸がある。
・・・きみは、校正だけきちんとやってくれればいい。本の装丁などは印刷屋と相談して、これまでの見本を真似すればいい。それから、あきらかな誤字のほかは、たとえ「てにをは」がおかしくても、「である」と「です」がごちゃまぜであろうと、勝手に直してはいけない。「?」をつけて、相手のプライドを傷つけてはいけない。鉛筆書きで、「ここはいかがしますか」とへりくだって質問するだけにしなさい。いいかね、こういう出版物は売り物ではないのだ。たいていは配り物だし、もらった人もまず読まない。著者が満足すればいいのだ。たとえ、太陽が西から昇ると書いてあっても、それはそういう頭のおかしい人間がいたという記録文書として後世に残る資料になる。いや、後世にはまず残らんだろうがな・・・
社主の大曲泰蔵氏の訓示はそれだけだった。はじめの三月ばかり、こちらの仕事ぶりを監督するつもりか、三日に一度くらいは社に顔をだしていたが、二つばかりこなした本に誤植がすくなかったことに安心したのか、社主の出社はだんだん間遠になった。一度、自宅に報告の電話をいれたときの言葉がふるっていた。
「きみ、本の前半に誤植のないことはいいことだ。十ページも読めば、たいていみんな頭がぼんやりとしてきて、いつ本をとじてもおかしくない。五十ページからさきなら、大抵のミスはわかりはしない。しかし、奥付だけは気をつけろよ。著者の名前を間違えたら命取りの刷りなおしだ。シールで誤魔化そうなんて考えるな。それから、よほどのことがないかぎり、本社には電話をしてくれるな。わたしはほかの事業で多忙なのだ」
本社といっても自宅にきまっていた。事業といったが、そのほかに手掛けている不動産仲介やら、あやしげなブローカー業のことらしい。いってみれば、昼日中から喫茶店で額を寄せ合って話し込んでいる初老の紳士連の仲間ではなかろうか。〈コノアイダ、麻布ノ中古ビルヲ一本仲介シタガ、アイダニヒトリイレテ、片手ホドモウケサセテヤッタヨ〉などと小耳にはさむことがある。おそらくは、その類だ。
入社してから数カ月で三人いた社員のすべてがいなくなった。ひとりは経理のおばさんでパートできていた人だ。辞めさせたという。「赤塚さんは字をよう知らんからなあ」と、社主はいっていたが、それまでパートのおばちゃんにまで校正をみさせていたらしい。一人いた営業担当は、ほかの事業に配転された。残っていた年配の男は、腎臓を悪くして入院して、そのまま来なくなった。そのうえ、社長とも家主ともつかぬ男が出社してこなくなってから、もうふた月になる。
まかされた業務といえば、印刷所からまわってくるゲラ刷りのチェックと、著者とのやりとりだけだ。さらに、この頃では、印刷所とどう話をつけたのか地域のチラシ広告や新聞折り込み広告の校正までまわってくるようになった。チラシ類のほうが、数字や品名をまちがえると、地域を混乱におとしいれるので気骨が折れた。依頼主に校正刷りをもどすのだから、ミスは依頼主の責任なのだが、そんな理屈がとおる世界ではなかった。まず、誤植のない初稿を依頼主にもどすことが信用につながるというわけだ。
しかし、そんなことよりも閉口していたのは、事務所の窓にペンキ文字で書かれた以前のテナントの広告だった。葬儀屋や風俗ならまだしも、〈『山名興信所』調査一般〉と、いまだにくっきりと通り沿いの窓にはりついているのだ。おまけに、電話番号が後をついだ紅花舎とおなじだった。社主はなにも言わなかったが、この稼業のまえは本当に興信所をやっていたのかもしれない。
舵をうしない、燃料も底をつきかけた老朽船にひとり取り残された気分だった。広さだけはじゅうぶんすぎる事務所で、ポツネンとしかたなしに、印刷屋からまわされてきた校正刷りとにらめっをしている日々だった。
そして、わけがわからない文書がとぎれなくやってくる。短波無線の受信機に、ときどきどこの国の言葉ともわからぬ通信がとびこんでくるのに似ていた。近頃の著者たちは頭がどうかしてはいないか? 業務でなければ、とてもつきあう気にはなれそうもない。
ひとしきり続いた『猫文書』なる本の校正が、依頼人行方不明で頓挫中断し、やれやれと思っているところに、またしても怪しげな私家本の仕事だった。明治から昭和の初期に民間に流布していた怪しげな冊子の蒐集という大部な仕事だった。ただし、原稿は一時に出されてくるのではなく、章ごとに送られてくる。それも当初は紅花舎宛に送られていたが、スタート時に組版のレイアウトを決めてからは、大曲氏の不在以後、印刷屋のほうに直接送られている。だから、こちらは、初稿ゲラになったところではじめて原稿にお目にかかれるわけだ。編集の技術もクソもない。編集者というよりは、校正係なのだ。
しかたなく、また校正刷りに眼を落とす。
天王堀を越えると世界が変わる。堀というか川というか、正体の知れぬ泥水が、どこからともなく地のおもてに流れ出て、この町界隈をすぎると、また暗渠に姿を隠す。隠れたさきは、大川だろうと、冥土であろうと知らぬこと。三途の川が、どうかして、この界隈に長蛇の一節を浮かび上がらせているのかもわからない。この堀を越えてこちらでは、死ぬる者が生者となり、越えてむこうでは、生くる者が死者となるめかした念仏師などが、そんなふうに詠いもする。いずれが冥土かは知れぬ。どのみち、向こう側は〈彼岸〉である。
江戸開府から三百余年、亜細亜の大都、北京、南京、西京の、いちばん若き東京が、紅毛天狗の助産婦の、毛深い手で誕生し、戸籍台帳整いて、臣下臣民だれひとり、帳簿に載らぬ者のなき、近代国家とあいなれど、小役人が眼の、まさかの節穴あざむいて、この世にあらぬ界隈に、人別帳にも関わらぬ、天晴れ生神様が養育されたるは、まことにめでたく、面白きことならん・・・。
さても大正八年春卯月、この地に独居せし三室ヤエ、三十歳にて男児ひとり出産す。父親不詳。男児は三室耿二郎と命名されしが、もとより通称なり。ヤエはさきにひとり男児をもうけたり。しかるに死産で幼名耿一郎とのみ名づけて埋葬す。耿二郎は二番目の子なり。耿二郎もとより戸籍にのぼらず、七歳まで秋津大明神の社殿脇の仮寓にて養育さる。乳母は橋本イクなり。三室耿二郎、七歳より社殿にのぼり御神様、秋津之命、庚申塚守護などと呼ばれて幼年の教主となる。教育係は、界隈の漢学者天野芳國某があたる。もとより教壇の幹部なりしか。母親、三室ヤエ、教主十四歳の年、町内を出奔す。あるいは病死せしとの風評あるが詳らかならず。かくて、御教主秋津之命は天上天涯縁者なく、その後八年磐城山中での修行精進して、神おろしの業を授かりしと聞く。
『昭和戯文集成』抜粋