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霧がまいていた。
イルゼビルがまだ眠っているあいだにわたしは彼女の家を出て、トラムの軌道をたどりながら市街にむかってゆっくりと歩いていた。長いこと歩いていると、貸してもらったヤナーチェクのレコード盤が持ち重りした。
振り返ってみても、始発時間はすぎているはずなのに、後ろからやってくるトラムがなかった。
河の気配がする。どこか小路におれていけば、ヴルダヴァの岸のはず。河沿いに歩くほうが迷わなくてすむだろうと、次の角を左に折れる。どこも似たような街並だが、道が下っていくのは確かだ。見慣れた橋にいきあえば、あとはかんたんのはずだ。
舗道が湿っていて、靴の底がすべりやすく、自然と足早になった。なにもせかすものはないのに、はやく河をみたいと思う。今、この町で、時が動いているのをたしかめるためには、ヴルダヴァの流れを見おろすほかない。だが、その流れとて、十六世紀に岸辺に立っていてもおなじなのではないのか。まだ、霧が晴れていないためか、わたしは、べつの時間のなかに歩みこんでいくような錯覚にとらわれているのだった。
四角い敷石がでこぼこと靴の底にあたる。規則的にならんでいるようにみえて、どれもがわずかにゆらぎながら道を形づくっている。ひとつずつ時の墓標のようにすらみえる。百年も、二百年も、それ以上も昔にこの町に生きていた人々も踏んでいたのであれば。
「アホーイ!」と、河の方角から人声が聞こえてきた。ボートか小舟を操る者がよばわるのだろうが、さらに遠くからも「アホーイ!」と応答している。
ふいに視界が開け、わたしは護岸の石の手摺りのまえに立っていた。
さきほどの声の主は、すぐ下の船着場に着岸しようとしている荷役ボートの船頭だった。野菜と果物のケースを陸揚げするつもりらしい。陸には、小さなコンテナ風の箱がふたつほど置いてある。そこにも男がひとりしゃがみこんでいた。男は吸いさしの煙草をもみけして、ボートから投げられるロープをうけとろうとしていた。なにか大声でいっている。
わたしもポケットから煙草をとりだして、くわえた。上着の左下のポケットにいつも入れているオイルライターをイルゼビルの家においてきたのに気がついた。そのかわり、紙マッチをさぐりあてた。カフェ・ヴルダヴァのものだ。
荷揚げがはじまった。野菜類のほかにビールが六ケース、ボートの底から出てきた。どこかのカフェからレストランの仕込みのようだ。数時間後には橋の袂や、橋下に椅子をならべて、プラハの朝がはじまる。霧がうすくなりかけ、すこし先に橋がみえた。やはり、ボートハウスのようなカフェがある。コーヒーでも飲みたいところだが、まだ時間が早すぎる。
男たちが談笑している。ふたりとも誰かがくるのを待っているようすだ。ときどき川上のほうに顔をむけるが、そのたびにどちらかが肩をすくめた。仕事仲間が寝坊でもしているのだろう。
しばらくして、橋下につづく石段を誰かがおりてきた。小走りやってくる。カツカツと靴音が近づいてきた。
女だった。ダークブラウンの薄手のコートをきて、同じ色のハイヒールを穿いた赤毛の女だ。男たちになにか叫んでいる。船着場につくと、女は男の片方にたすけられながら荷役ボートに乗り込んでいった。すぐさま船頭がエンジンをかけた。軽いトルクを響かせて、船はたちまち岸をはなれていく。ボートのなかにすわりこんだ赤毛の女が、ふいに石の手摺りから見おろしていたわたしのほうを見上げた。女はみょうな顔をするでもなく、うっすらと笑って、こちらになにかいった。唇のかたちで、ドゥブリ・ラーノ(おはよう)とわかる。わたしも、片手をあげてみせた。
ボートはすぐに霧のなかにもぐりこみ、みえなくなってしまった。