天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

プラハ幻想 『サフラン通り』21

2011年02月12日 12時32分38秒 | 文芸

          

 

 

 

 霧がまいていた。

 イルゼビルがまだ眠っているあいだにわたしは彼女の家を出て、トラムの軌道をたどりながら市街にむかってゆっくりと歩いていた。長いこと歩いていると、貸してもらったヤナーチェクのレコード盤が持ち重りした。

 振り返ってみても、始発時間はすぎているはずなのに、後ろからやってくるトラムがなかった。

 河の気配がする。どこか小路におれていけば、ヴルダヴァの岸のはず。河沿いに歩くほうが迷わなくてすむだろうと、次の角を左に折れる。どこも似たような街並だが、道が下っていくのは確かだ。見慣れた橋にいきあえば、あとはかんたんのはずだ。

 舗道が湿っていて、靴の底がすべりやすく、自然と足早になった。なにもせかすものはないのに、はやく河をみたいと思う。今、この町で、時が動いているのをたしかめるためには、ヴルダヴァの流れを見おろすほかない。だが、その流れとて、十六世紀に岸辺に立っていてもおなじなのではないのか。まだ、霧が晴れていないためか、わたしは、べつの時間のなかに歩みこんでいくような錯覚にとらわれているのだった。

 四角い敷石がでこぼこと靴の底にあたる。規則的にならんでいるようにみえて、どれもがわずかにゆらぎながら道を形づくっている。ひとつずつ時の墓標のようにすらみえる。百年も、二百年も、それ以上も昔にこの町に生きていた人々も踏んでいたのであれば。

「アホーイ!」と、河の方角から人声が聞こえてきた。ボートか小舟を操る者がよばわるのだろうが、さらに遠くからも「アホーイ!」と応答している。

 ふいに視界が開け、わたしは護岸の石の手摺りのまえに立っていた。

 さきほどの声の主は、すぐ下の船着場に着岸しようとしている荷役ボートの船頭だった。野菜と果物のケースを陸揚げするつもりらしい。陸には、小さなコンテナ風の箱がふたつほど置いてある。そこにも男がひとりしゃがみこんでいた。男は吸いさしの煙草をもみけして、ボートから投げられるロープをうけとろうとしていた。なにか大声でいっている。

 わたしもポケットから煙草をとりだして、くわえた。上着の左下のポケットにいつも入れているオイルライターをイルゼビルの家においてきたのに気がついた。そのかわり、紙マッチをさぐりあてた。カフェ・ヴルダヴァのものだ。

 荷揚げがはじまった。野菜類のほかにビールが六ケース、ボートの底から出てきた。どこかのカフェからレストランの仕込みのようだ。数時間後には橋の袂や、橋下に椅子をならべて、プラハの朝がはじまる。霧がうすくなりかけ、すこし先に橋がみえた。やはり、ボートハウスのようなカフェがある。コーヒーでも飲みたいところだが、まだ時間が早すぎる。

 男たちが談笑している。ふたりとも誰かがくるのを待っているようすだ。ときどき川上のほうに顔をむけるが、そのたびにどちらかが肩をすくめた。仕事仲間が寝坊でもしているのだろう。

 しばらくして、橋下につづく石段を誰かがおりてきた。小走りやってくる。カツカツと靴音が近づいてきた。

 女だった。ダークブラウンの薄手のコートをきて、同じ色のハイヒールを穿いた赤毛の女だ。男たちになにか叫んでいる。船着場につくと、女は男の片方にたすけられながら荷役ボートに乗り込んでいった。すぐさま船頭がエンジンをかけた。軽いトルクを響かせて、船はたちまち岸をはなれていく。ボートのなかにすわりこんだ赤毛の女が、ふいに石の手摺りから見おろしていたわたしのほうを見上げた。女はみょうな顔をするでもなく、うっすらと笑って、こちらになにかいった。唇のかたちで、ドゥブリ・ラーノ(おはよう)とわかる。わたしも、片手をあげてみせた。

 ボートはすぐに霧のなかにもぐりこみ、みえなくなってしまった。       

 


プラハ幻想 『サフラン通り』20

2011年02月12日 12時32分10秒 | 文芸

 イルゼビルはタバコを灰皿のうえでクシャクシャとつぶした。くだらない記憶を押しつぶすみたいだった。

「もう一杯ついでくださらない」

 それで二本目のワインが空になる。

「そこの煙草をとってもいいかな」

 私が紙巻きを一本吸いおわるうちに、イルゼビルはグラスも空にした。それから、ゆっくりこちらにむきなおった。

「なぜなのかしらね。あなたは、ずいぶん遠くからきた人なのに、ずっと身近に感じるわ。なんだか余計なことまで話してしまいそう」

「幼なじみみたいにかな」

 その言い方がすこし気に触ったようだったが、気がつかないふりをした。

「でなかったら、そうだな」と、一息いれた。「わたしが、彗星のように近づいてきて、また、無限に遠ざかるのがわかっているからじゃないかな。なにを話しても、秘密を遠く持ち去ってくれる」

「寂しいこというわね」と、イルゼビルははじめて悲しそうな顔をした。

 そのとおりだ、とわたしも心のなかでつぶやいた。

 ふいに外の雨音が強くなった。

 ふたりして長いことそれに耳を傾けていた。ヤナーチェクのレコードはとっくにオートリターンの針を引き上げて沈黙していた。

 

 

 


プラハ幻想 『サフラン通り』20

2011年02月12日 12時31分33秒 | 文芸

 イルゼビルはタバコを灰皿のうえでクシャクシャとつぶした。くだらない記憶を押しつぶすみたいだった。

「もう一杯ついでくださらない」

 それで二本目のワインが空になる。

「そこの煙草をとってもいいかな」

 私が紙巻きを一本吸いおわるうちに、イルゼビルはグラスも空にした。それから、ゆっくりこちらにむきなおった。

「なぜなのかしらね。あなたは、ずいぶん遠くからきた人なのに、ずっと身近に感じるわ。なんだか余計なことまで話してしまいそう」

「幼なじみみたいにかな」

 その言い方がすこし気に触ったようだったが、気がつかないふりをした。

「でなかったら、そうだな」と、一息いれた。「わたしが、彗星のように近づいてきて、また、無限に遠ざかるのがわかっているからじゃないかな。なにを話しても、秘密を遠く持ち去ってくれる」

「寂しいこというわね」と、イルゼビルははじめて悲しそうな顔をした。

 そのとおりだ、とわたしも心のなかでつぶやいた。

 ふいに外の雨音が強くなった。

 ふたりして長いことそれに耳を傾けていた。ヤナーチェクのレコードはとっくにオートリターンの針を引き上げて沈黙していた。

 

 

 


プラハ幻想 『サフラン通り』19

2011年02月12日 12時30分29秒 | 文芸

           

 

 

 

「人は三百年も愛することはできないわ」

 イルゼビルは、レコード盤をひっくり返しながらそういった。もちろん、チャペックの戯曲からの引用だ。ヤナーチェクのオペラ台本にもその言葉が含まれているかどうか。なにしろ、チャペックの原作の不老長寿議論など、作曲家は根こそぎはぶいてしまっているのだ。しかし、いまは、愛の寿命の話だ。

 イルゼビルは彼女の夫のことを話していた。

「わたしのヤロスラフは、今頃、七十キロ東の町で、かれのハンナを抱いてるわ」

 わたしはヤロスラフに会ったことはなかった。ヤロスラフに愛人がいることはイルゼビルから何度もきかされていた。まるで、従姉妹のことを話すみたいに話題にしたものだ。ハンナはカレル大学の歴史学の学生で、博士論文を書いているとか、ハンナの父親もドイツ系であるとか。イルゼビルも、かつてはヤロスラフの学生だったとか。

  わたしは黙ってきいていた。どこから、そんな話になったものか。ヤナーチェクのオペラにあまりに会話が多いため、こちらも旋律に聞き入るふうにならなくて、聞きつ、語りつ、盃をかさねていた。

 ソファーにもどってきて、イルゼビルはグラスをまた傾けた。

 イルゼビルのいいたいことはわかっていた。でも、あなたの愛はまだつづいているとでも思っているのかと。わたしが話したがらないことについて挑発しているようでもあった。不滅の女。

「ひとつ話をしていいかな。昔好きだった女の子の話だ」

「あら、とうとう核心にふれるというわけ」

「それはちがう。十代の終わり頃、好きだった女の子の話だ。その娘とデートしたのは、あとにもさきにも一度きり、それも公園のベンチで三時間ほどとりとめもなく話していただけで、その後は会わなくなった。手紙は何十通も書き送ったけれど、返事は来なかったな、一度も」

「失恋の話?」

「いや、そこまでは誰にでもある話さ。だけど、いまだに時々、その娘の夢を見るんだ。それも、いつも旅にでているときにかぎってだ。日常は、すっかり忘れているのに、旅先の宿で見る夢のなかにふと現れて、いっしょに歩いていたりする。歩いているうちに、どこかの角や階段ではぐれてみつからなくなってしまう。夢のなかで、もどかしく彼女を捜しまわっているうちにいつも目が覚めてしまう」

「どう解釈するの?」

 イルゼビルは、わたしの眼をのぞきこんだ。

「いまだに納得していないからだと思うよ。つまり、肝心なことはなにひとつ話さずじまいで別れたからだろうね」

「いまのわたしたちみたいに?」

 なんだか挑発的な物言いだった。

「いまのぼくたちのほうがずっと大人だし、ずっと率直だよ。若い頃のほうが臆病で、ろくに本心をつげられなかった」

「そう?」

「そうだと思う。彼女に書いた何十通もの手紙のなかで、いちども好きだなんて言葉は書いたことがなかったし」

「それ、日本的伝統ではないの?」                      

「ちがうさ、いうならば、ぼくの性格だな。美しいという言葉を使わずに、美しさを現したいという」

「すくなくとも、率直ではないわね」

 わたしは、微笑んでみせた。そのとおりかもしれない。

「だけど、もうひとつわけがありそうだ。その相手の女性、もう死んでしまっているんだから」

「死んでいるひとの夢を見つづけるの?」

「そうだ、いまでは愛しているとか、好きだとかという感情ではなくて、夢で会うと懐かしいという感じかな。そして、昔、もっと率直にいろいろ話をしたかったとおもうだけ」

「心がかよわなかったというもどかしさかしら」

「そうだね、心残りてやつだ。あるいは、ぼくが幻想にふりまわされているということかな」

「それが答えのようね」

 イルゼビルは、テーブルの上のタバコ入れの蓋をあけた。スロバキアの紙巻きタバコ《ペトラ》が数本入っている。一本つまみあげた。

「でも、幻想のほうがどれほどよいかしら・・・」と、いって唇にはさんで、火をつけた。「幻滅にからめとられるよりはね」

 ミラン・クンデラの小説のタイトルを思い出した。なるほど、幻想にとらわれた男が、幻滅にからめとられた女と話をしているのか。

「幻想は人を生かすけれど、幻滅は人を殺すのよ」

 いかにもドイツ人の女子学生がいいそうな台詞だったが、半畳はいれずにおく。 

「だから、夫が七十キロ東の町で情事を楽しんでいても気にならないの」      


プラハ幻想 『サフラン通り』18

2011年02月12日 12時28分03秒 | 文芸

 

            7

 

 

「なぜ、プラハに来たのかしら?」

 と、イルゼビルは、もういちどおなじことをたずねた。目の前のテーブルに、ボヘミアングラスをコトリと置く。それから、九四年のブルゴーニュのシャトーワインを一瓶。コルクは抜いてある。

 わたしのまえのソファーに腰をおろすと、もういちど、

「なぜ、また、プラハにもどってきたのかしら?」

 と、いってわたしの瞳をのぞきこんだ。先週のカフェでの錬金術談義や、衒学的な書物渉猟で納得させられる問い掛けではなさそうだった。

 外では冷たい雨が降り始めていた。イルゼビルがバーツラフ広場のちかくでわたしを拾い、車を走らせてはじめたとき、すでにフロントガラスを小さな雨滴がたたきはじめていたが、彼女の家の居間に落ちついた頃には本降りになっていた。雪にはなりそうになかったが、冷たい雨の夜になった。

 わたしは、黙って微笑んでいた。もういちどきかれたらこたえるつもりだった。

「すこし暖まったら話すよ」

 と、そそがれたワインに口をつける。

「それがいいわね。いま、書斎からヤナーチェクのレコードを持ってくるから」

 イルゼビルはたちあがって、二階にあがっていった。レオシ・ヤナーチェクのオペラ『マクロプロス事件』。チェコフィルが九四年に演奏したものだという。頭の上で、彼女の足音がした。イルゼビルの紫色のハイヒールの踵に、黒い雨の染みが浮かんでいたのを思い出す。車を降りてくるときに、なんとなく眼にしたのだが、そのヒールが、書斎のあちこちをいったりきたりしている。探しあぐねているのだろうか。思いつきで今夜、家に誘ったわけでもなさそうなのに。

「ごめんなさい。ついでに、聴かせたいものがいくつかあったのよ。ルーマニアの古い民謡だけど」

「ルーマニア?」

「トランシルバニア。ヴラド・ツェペシ。ドラコン伯」

「ああ、ノスフェラトゥだね?」

 と、やりあってふたりして笑った。あなたの好きそうなものだから。それ以上悪い冗談をいわぬのがイルゼビルのいいところだ。

 雨音が強くなった。

 厚地のカーテンをひきながら、イルゼビルはふとわたしをみつめた。わたしも見返す。なにか早口でいった。ちいさな声なので聞き取れなかった。

「あなた少年みたいな眼でわたしをみたわね」

 と、ソファーに腰掛けてから、もういちどこちらの眼をのぞきこんだ。同じ言葉を聞いたことがある。いつだったか、やはりこのプラハで。

「変な人ね。目の前で大人になったり、子どもになったりしているみたい。そこに坐っているのは年齢不詳の男ね。あなたの国の人ってみんなそんふう?」

 ワインを一口飲んだ。

 こちらがなにかいうまえに、イルゼビルはたちあがって、レコードに針を落とした。テレフンケン製のずっしりとしたオーディオセット。旧友に会ったようなで懐かしい。

 たちまち部屋のなかは、なにか胸騒ぎをさせるような、テンポの速いオペラの序曲でみたされた。金管楽器が響きわたり、それをおって弦がいわば物語の地平をおしひろげていく。どの音譜にもヤナーチェクの刻印のある旋律。

 第一幕のはじまりだった。


プラハ幻想 『サフラン通り』17

2011年02月12日 02時22分35秒 | 文芸

                       

 

 

 

  わたしの書き物机の上に、オレンジがひとつ転がっている。今朝方、広場のマーケットで贖ったものだ。

  部屋の明かりをつけると、そのオレンジだけが光をうけて輝いていた。イルゼビルとカフェで別れてから、夕食もとらずに町をうろついていた。疲れて、そのまま寝台にころがりこんだほうがよさそうな気分だった。ビールを飲んだのに、なぜだが喉がひどく渇いていた。食器棚から皿をだし、果物ナイフをのせた。艶やかな果皮に、ゆっくりと切り込みをいれていく。たちまち、柑橘の芳醇な香りがたちのぼる。あの懐かしい香りだ。

 あの頃、疲れた午後に、オレンジが甘くわたしたちを癒してくれたものだ。そうだ、わたしたちだった。ひとつのオレンジをはさんで、わたしたちはみつめあっていた。わたしたちは、けっして刃物でその果実を切ることはなかった。たいていは、わたしが、爪のさきでその果実の腹をゆっくりとおしあけていく。はじけとんだ果汁がわたしの指をぬらすと、わたしのエミリアはそっと唇をおしあててそれをすすった。

 あるとき、彼女はつとたちあがったかと思うと、渇いた水彩絵の具の上にオレンジの果汁をしたたらせて、描きかけの自分の作品に筆をくわえた。わたしが笑うと、机の上の紙袋をさして、「あなたが今日、わたしの絵のためにしてくれたのはこれだけ」と、すましていったものだ。袋一杯のオレンジを抱えて彼女の部屋にかけこんできたわたしをからかったのだ。あまりわずらわしてほしくなさそうな日だった。

「いつか、この絵が火に焼かれるとき、この果物の汁でわたしがほんとうに描きたかったものが浮きでるわ」

 オレンジをふくむ。ネイブル・オレンジの太陽をしぼりとったような明るい甘味が、わたしのなかに眠っていたものを呼び覚ますようだった。そして、さらなる渇きも。

 わたしは、いつになく少年のように、その果実をむさぼり食べた。まるまるひとつ。それから、長いことわたしは放心したように椅子にすわりつづけていた。

 百の塔の聳える都市、このプラハも、三百歳の悲劇の女エミリア・マクロプロスも、机のうえに投げ出されたオレンジの実も、すべてひとつの名にむすびつく。

  それは、忽然とわたしのまえから姿を消してしまった女との決して完結することのない物語へとつながっている。カフェ《アルケミスト》でイルゼビルがたずねたことに、わたしは正直にこたえられなかった。

ユリア・マーリア・バルテス。ボヘミアの小都市生まれの画学生。ある日、ユリアはヴルダヴァ河にかかる霧のなかに溶けこむように姿を消してしまった。

 


プラハ幻想 『サフラン通り』16

2011年02月12日 02時18分58秒 | 文芸
ビールが来た。一○○コルナ札をだして、そのまま引き取らせる。しばらくして、給仕が気をきかせて小皿にチーズを数切れのせてもってきた。イルゼビルは早口でなにか声をかけた。

「ふたりの邪魔をしないでといったのよ」

 嘘にきまっていた。

  イルゼビルは気持ちよさそうに微笑んだ。グラスのピルスナーをあっというまに空にしてしまうと、わたしのグラスから自分のグラスに勝手に半分ほど奪いとった。それから、なにかおっしゃいよとでもいうふうにわたしの眼をのぞきこんだ。

「あなた、自分の気持ちをしまいこむのが上手なようね。あなたの国の人の特徴かしら」

わたしはとまどった。

「確かに、悲しい気分や、つらい気持ちを人前に晒すのは好きじゃないな。怒りや、喜びは別だけど」

「学生と話してるみたい。青年の痩せ我慢かしら」

「ずいぶんだね」

「批判してるんじゃないわ。めずらしいだけよ。ドイツ人だったら、徹底的に議論しはじめるようなことを、すっとかわしていくのだから」

「そのドイツ人が嫌いで、チェコに残ったんじゃなかった?」

「おっしゃるとおり」と、イルゼビルは残りのビールに口をつけた。「わたしは、拒絶し、逃避したのかもしれないわ」

「じゃ、わたしと似たりよったりだな」

「あら、それじゃあ、あなた、なにかから逃げ出しておきながら、いまさらのように追いかけているというのかしら」

「何のこと?」

「あなたが、この町で探しているもののことよ」

 不滅の女性のことらしかった。テーマはそれていなかったらしい。ともあれ、わたしの書物渉猟の動機のことだ。

 わたしは、なにもこたえなかった。エミリア・マクロプロス。レオシ・ヤナーチェクのオペラでは、エミリア・マーティ。三百歳のオペラ歌手。しかし、本当はその架空の人物に仮託して、さがしている女のことだ。

「チェコ・フィルの演奏の全曲レコードがうちにあるわ。ボフミル・グレゴールの指揮よ。いちばん新しい演奏じゃないかしら。九十四年のものだから。今度聴きにいらっしゃい」

 イルゼビルは助け船をだす感じでそういった。立ち入ったことを聞いたことに気づいてすまなそうにしている。

「うん、ありがたい」と、わたし。

「それ、今日は三度目」と、イルゼビル・メーリアンは、さもおかしそうに笑った。「あなた変な人。それだけは真実ね」

 イルゼビルとわたしは、ピルゼンをもう一杯飲み、タバコをふかした。日が落ちて、客が増えはじめた。イルゼビルの知人たちも何人か店の奥の常連席へはいっていった。あちこちで、皿やグラスがぶつかりあい、《アルケミスト》にも活気がよみがえってきた。そろそろの頃合いだった。

 イルゼビルがわたしの手にそっと彼女の手をおいていった。

「ほんと、一度そのレコードを聴きにいらっしゃい」

 わたしは、うなずいてみせた。全曲聴くとなれば、長い夜になりそうだった。

 

 

 

  


プラハ幻想 『サフラン通り』15

2011年02月12日 02時16分44秒 | 文芸

 ほどなく、事務室からでてきたイルゼビルは、ラズロスの写本を左の小脇にかかえ、あいている右手でわたしの腕に手をまわした。

「さ、聞かせてもらいますからね。あなたの不滅の女性について」

 わたしがエミリア・マクロプロスの幻影を追いかけているのをからかっているのだ。わたしの返答を期待しているわけでもないらしい。

 カレル大学の図書館から二ブロックほどはなれた路地にカフェ・レストラン《アルケミスト》があった。わざわざ、その店を選んでおいて、わたしをひっぱってきたのだ。イルゼビルにはそんな洒落っ気が横溢している。イルゼビルの歩調がはやいので、私は舗道の敷石に足をとられそうになった。

「拉致していくみたいね」と、彼女はくすくす笑った。「でも、七十年のプラハ事件のときは、近所のおばさんが、こんなふうに街頭で拉致されたのを見たわ」

 そのとき、きみは幾つだったの? などとは聞かぬことにした。少女であったには違いない。

 《アルケミスト》に客はまばらだった。いつもたむろしている画学生連中もいなかった。イルゼビルはこちらにことわりもせずプルゼニュスキ(ピルスナー)を二杯注文した。

「お腹がすいちゃったわね」と、煙草をとりだし、灰皿をひきよせた。紙マッチを擦る。懐かしい硫黄の臭いが鼻をついた。そのせいで、わたしがすこし眉をひそめたのに気がついて、わたしの眼をのぞきこんだ。

「泣きだしそうね、あなた」と、またからかうような口ぶり。「なにかを想い出したの? それともハイム・ヴェー(郷愁)?」

「こんな季節には、人肌が恋しいって表現があるよ。わが母国語には」

「うそおっしゃい、あなたのアパルトマン、女だらけじゃないの」

 いつだったか、ペトラからはじまって、ヴルダヴァ河畔のわが下宿の住人たちの話をしたことがあったのだ。さすがに、マレーネ・シンクレアの午後の訪問については黙っていた。そんなことを話せば、どんなにからかわれるやら。

                       


プラハ幻想 『サフラン通り』14

2011年02月12日 02時15分28秒 | 文芸

          5

 

 

 

 古びた書物の匂い。羊皮紙からたちのぼる白黴のような、うっすらと腐えた匂い。鉄錆のようなインク臭。乾ききった皮表紙の死んだ獣の臭い。図書館に充満しているのは、ふるびた時の臭いだった。

 イルゼビルが靴音を響かせながら、ときおり書庫と事務室を往復している。いくどとなく、本を抱えたり書籍カードをにらみつけたりしながらいったりきたりしている。いつもより、仕事が多いようだった。イルゼビルのからだがうっすら汗ばんでいるのがわかる。彼女のつけている香水が、こちらまで漂ってくるのだ。

 わたしは、モデストゥス・ラズロスの写本のページを開いた。『アトランティス・アトラス』と謎めいた表題がついていた。それが、もともとあったものか、写本した人物がつけたものかはわからない。最初の書きぶりからして、手記か覚書なのだから、そんな洒落た表題にするのもおかしな話だった。すこしばかり読みすすむと、アトランティスとアトラスは、伝説の大陸の地図という意味ではなくて、二人の人物の名前であるのが知れた。アトランティスという女。アトラスという荒々しい男。これは、錬金術の奥義を、男と女というふたつの原理で書き表した物語というべきだった。

 アトランティスという女は、風と水の要素があふれ、つねに姿を変え、うつろいやすく、つかみがたい。アトラスは鈍重で、口が重く、しかし火のように熱い男だった。どんなものも、近づきすぎると焼き滅ぼされてしまいそうな男。さらにいえば、アトランティスは芸術家であり、アトラスは地を耕す者のようでもあった。

〈アトランティスは七日七夜吹きわたって、アトラスの火を激しく燃え上がらせた。アトラスの熱は彼女を焦がし、地の水はすべて熱い蒸気となって空へ逃げた。すると、アトランティスはアトラスから身をはなし、その上昇気流に身をゆだねてアトラスのもとをはなれた。アトラスは身悶えしてその別離をのろった。しかし、やがてアトランティスは空のはるかたかみで冷え、こんどは甘露の雨となってアトラスのうえに降りかかり、彼を心ゆくまで潤した〉 

 そんな書き出しの数行が読めるだけだった。それでも、おおまかな訳文をノートに書きつけておく。いつ書いたのか青いインクでの走り書きがあるページを選ぶ。ニコラス・フラメルなどと、錬金術師の名前が羅列してあった。コルネリウス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイムの名前の下にプラハ市内の電話番号がついている。イルゼビル・メーリアンの自宅だ。いつかの招待のときに書きつけたのを思い出した。すこし滲んでいるのは、雨の日で、傘をささずに図書館にかけこんできたわたしの袖口が濡れていたためだ。

「さあ、その本貸してちょうだい。手続きして持ち出すから」

 わたしの頭のうえで声がした。イルゼビル。終業まえに化粧をなおしてきたのか、香水が一段と強く薫っている。

プラハ幻想 『サフラン通り』13

2011年02月12日 02時12分48秒 | 文芸

「女の子にみとれてないで、おはいりなさい」

 イルゼビルの声がした。癖のないドイツ語だが、まるで、わが家にむかえに出たふうにやわらかだった。

「お出迎えに出たわけじゃないのよ、今の学生がIDカードを忘れていったのよ。でも、いいわ。講義が終わったらとりに来るでしょう。さ、わたしたちの仕事」

 そういって、カウンターのなかにもどっていった。すぐに用意してくれていた古書を二冊だしてきた。

「これね、『錬金術の鏡』。ええと、オドアルドゥス・スコトゥス。この人、ウィザード?」

「それはミカエル・スコトゥス。よくまちがえられますが、別人ですよ。本人は謎の人物です。ドイツ人ともイタリア人ともいわれて諸説があるのだけれど」

「ほんと、こんな本がここには山のようにあるわ」

 イルゼビルは肩をすぼめてみせた。あなた作家なのによく知っているわね、とでもいうふうに。もちろん、ペダントのわたしには、こんな本のすべてを読みこなす力はないのだが、せめて実在するこの本の外観だけでも眺めておきたかったのだ。ルドルフ二世への献辞があるはずで、中身の評価はそれほどでもないのだが。

 もうひとつは、イルゼビルがみつけてくれた稀覯本だった。十八世紀の写本で、やはり錬金術の奥義書だろうということだった。

「著者はヨハネス・モデストゥス・ラズロス、ウィーンで書かれたとあるわね」

「公刊はされなかったのですね」

「そのまえに、著者が死んだらしいわ。もっとあとでの添え書きがはさんであるでしょ。本人の遺志により公刊せず、写本のみ許されるって」

「ラテン語ではないんですね。ありがたい。ちょっと古いがドイツ語だ」

「よかったわね。その本なら、オリジナルじゃないし、館外に持ち出し許可がだせるわ。ただし、司書のわたし名義で」

「ありがたい」

「その言葉二度目ね」と、いってイルゼビルは微笑んだ。「それじゃ、わたし、五時半にこの本を持って出るわ。カフェで一杯おごりなさい」

  わたしも微笑んだ。

「五時半まで、ここで読んでいてもいいんでしょう?」

「もちろん、いかなる国からの来館者でも、五時まではここにすわって読書できるわよ。ロシア人をのぞいて」

 悪い冗談だったが、ビロード革命のあとは、ただの冗談だ。

 

 


プラハ幻想 『サフラン通り』12

2011年02月12日 02時10分37秒 | 文芸

               

               4

                                      

  ルドルフ二世の宮廷侍医(ライプアルツト)、ヨハネス・クラトー・フォン・クラフトハイム、その後継者ペーター・モーナウ、ユリウス・アレクサンドリヌス、植物学者トドエンス、天文学者ハーイェク、ヴェローナの人バルトロメオ・グアリノーニ。マルティン・ルーラント父子、パラケルスス信奉者ミヒャエル・マイアー。

 高速で地下へとおりていく地下鉄駅のエスカレーターの上で、わたしは、十六世紀のプラハの宮廷に巣くっていた神秘主義者たちの舌をかみそうな名前をくりかえしていた。

 カレル大学の図書館に急いでいた。午前中に郊外まで足をのばしていたいたので、午後一時の司書との約束に遅れそうだった。とにかくフロレンツ駅までは地下鉄でもどらなくてはならなかった。そのうえ、わたしは、いつもぼんやりしていて一駅くらいは乗り越してしまう癖がある。日本人のくせに待ち合わせだけはボヘミアの人間のようだと、よく司書にからかわれた。

 回数券を一枚ちぎりとり、ホームに降りる階段上の刻印機に差しこむ。ちょうどホームに車両がはいってくるところだった。プラハの地下鉄は、エスカレーターも車両も無慈悲なくらい粗野だ。人を運ぶという気づかいがなく、地下大工場の搬送システムのよう。

 ドアが開いたとたん、革ジャンパーの長髪の青年が、わたしの肩にぶつからんばかりに勢い込んで降りてきた。ドアが開くのももどかしかったようだ。いっさんにホームを走り、上りのエスカレーターを駆け上がっていく。閉まったドア越しに、青年のブーツの踵がおどっているのがみえた。シワンクマイエルの実写映画『ファウスト』の一場面を思い出した。脱兎の如く通りに飛び出していく男がいる。それは未来の自分でもあるというようなシーンだ。

  あいている座席に腰をおろし、腕時計を見た。一時十五分前、どうにかまにあいそうだった。すっかり顔なじみになっている司書のイルゼビル・メーリアンは、二三分の遅刻でも、おおげさなボヘミア・ジョークでからかうだろう。錬金術師の十六世紀にはまにあわなくても、今世紀中には来てちょうだい、などと。

 イルゼビル。北ドイツをおもわせる名前の由来は、父親がドイツ北部のホルスタイン州の出だからということだ。彼女の父親は長くカレル大学の歴史学の教授をしていた。退官して故郷にもどっていったが、娘だけは父の大学の図書館に残った。イルゼビルの夫は、やはりカレル大学でスラブ語を研究していた。一度家に招待されたが、来客を理由に断っていた。あなたの国の有名なチェコ文学者も来るかもしれないといわれれば、なおさらだ。同胞と顔をあわせるのは御免被りたい。それが誰であろうと。

「あなたは、偏屈なのか気難しいのか、フランクなのかよくわからない人ね」

 と、イルゼビルは率直にそういったものだ。

「そのすべてだよ」と、わたし。理解されたようだった。

 図書館の入口でも、とびたしてくる女子学生にぶつかりそうになった。講義にでもおくれそうなのか、肩幅のがっしりした娘が風をおこしてすれちがっていった。ローズマリーの香水のかおりがした。