「やはり変質者なんかでしょうかね。鴨をボウガンで撃ったり、毒団子を蒔いて野犬や野良猫を殺そうとしたするような」
「子猫が殺されていたんですか」と、稲葉氏は落ちついた口調で、自分に興味のあるところだけとらえてきた。
「人間の仕業じゃないかもしれませんな」
「というと?」
「同族です。たいていは同族のオスの仕業なのですよ。猿なんかは、交尾の相手を得るためにほかのオスの子どもをかみ殺したりしますからな。子どものいるうちはメスは交尾行動をとらないでしょう。自分の遺伝子をのこそうという本能だということですが、なにやはり交尾が目的です。猫だって平気で子猫をかみ殺します」
話に熱がはいってきた。稲葉氏に好きな餌に食いついたわけだ。しばらくは蘊蓄を拝聴しなくてはならなかった。氏の原稿に書いてあったことと重複することがほとんどだったが、校正するそばからわすれていたことに気がついた。
「・・・残酷といえば、人のほうがもっと酷いことをするものです。黒猫の黒焼きを薬として売りさばいてたりする輩もいましてね。喘息の薬だったというのですが、いくらなんでもそんなのは御免こうむりますね。明治よりまえの話ですが。呪いの一種で、猫を首から下を土の中に生きながら埋めて、首のまえに食物を置き、食わせずに飢え殺しにしたうえで首をはね、その首の怨念を利用して呪法にもちいることも行われたようです。まあ、これは犬神といって、犬のほうが有名ですが、猫もそうされたようです」
稲葉氏の眼が光りはじめた。あぶない兆候のような気がした。
「呪いですか」
「その首を木箱のなかにおさめて邪神として使ったりもしたようです。犬神使いは知られていますが、猫神使いは文献にもあまりないです」
稲葉氏はコーヒーを一口すすった。ハムサンドには手をつけないので、パンがすこし干からびてきたのが気になった。
「今年の春先に生まれた子猫がよく犠牲になるのですよ。野良なんかは藪のなかでよく死んでいます。町なかだとぎょっとしますが」
子猫の話にもどった。
「動物の死骸なんてめったにみませんからね」と、話をすこしズラしてやる。
「そうです。あんなにガアガア飛びまわっている鴉だって滅多に死骸をさらしませんですよ。たいしたもんです、屍を人目に晒すのは恥とでも思っているのでしょうか。畜生には畜生の意地というものがあるのではないですかな。それでも、あなた、一昨年であったか、道を歩いていたら、にわかに頭のうえからドサリと黒い物が落下してきて、見たら鴉でしたな。頭のところから血を流して死んでいました。誰かが空気銃で撃ったのかもしれません。寿命や病気で死んで落ちてきたようには見えませんでした」
「どこでですか?」
「池袋の路上です。繁華街ではなくて住宅地のあたりですが」
「めずらしいんでしょう?」
「そう。ふつうは営巣地の森で死ぬんでしょう。鴉の森にいけばいくらも死骸が落ちているはずです。悪食だから死ぬそばから仲間がついばんでしまうかもしれませんがねえ」
「雀などは軒下に落ちていることがありますね」
「たいてい若鳥ですね。毒性のある木の実なんかを食べてるんですな。若いうちは人も鳥も覚悟がありませんから、そんなふうに死骸を人目に晒すんです。年を経れば人も獣も死に場所は自分でさがしますよ」
「象の墓場みたいですね」
そんな月並みなあいの手をいられて白んだのか、稲葉氏は苦笑いした。こんどはコップの水で口をしめらせている。我慢できなくなってハムサンドに手をつけた。この喫茶店のハムサンドはカラシがよく効いていて旨いのだ。今朝からはじめて口にした固形物だ。
「あぁ、よかったら食べ物のほうはみんな召し上がってください。わたしはいろいろ食べられない物がありますから。処方されている薬との相性があって、脂肪の多いものや肉類は控えています」と、こちらの食欲をみすかしたようなことをいってきた。「もっとも昔から食は豆腐やめん類、野菜といった精進物で生きてきたみたいなものです。病気をしてからはますます食は偏りましたね。ほとんど菜食ですよ。まあ、年寄りにはそれでいいらしいのです。穀類だってタンパク質は含まれていますから。動物性タンパクといったらタマゴくらいのものですかな」
ミックスサンドにしてやればよかった。この店のタマゴサンドも悪くないのだ。奥の調理場でどんな人が作っているのか知らないが、パンのカットの仕方が熟練している。コーヒーのほうはとても不味い。稲葉氏はかってに喋っている。
「麺類はよくとりますね。夏場は蕎麦か冷麦。冬は饂飩。煮込み饂飩・・・」
なにごとにも蘊蓄を持っているようだった。独り者だろうか。自分でずいぶん料理もするみたいだ。
「すいません、朝からなにも食べてなかったもので」
サンドイッチの大半を片づけてしまってから、いまさら詫びをいってもはじまらなかった。会話はほとんどなりたたなくなっている。
「いや、なに」と、また水を飲んでいる。「この二日、あんまり暑くて食欲も減退いたしました。本来なら一昨日お伺いするつもりでしたが、家を出ることができませんでね」
「お宅はどちらでしたっけ」
「荻窪のあたりです」
すこし不快そうな返事だった。身辺のことをきかれるのは嫌いらしい。腕時計を見ている。時間が気になるらしい。
「お時間はだいじょうぶですか」
「はあ、出かけたついでに廻るところがありましてね。神田の奥のほうに訪ねるところがあって、今日は涼しいので歩いていこうかと」
「そうですか、では事務所で受け取りをつくりますから」
面談が終わるのでほっとする。
「いやいや、領収書はあとで再稿といっしょにでも送ってください。大曲社長に宜しくお伝えくださいませんか。雨が小止みのうちに歩いていきたいので」
と、腰を浮かしかけた。
「わかりました。なにかありましたら電話でも葉書でもご連絡をいただければ」
わざわざ葉書といってやる。葉書に細かな文字で書いてくるタイプの男のような気がしたのだ。
そのまま辞去していくのかと思ったが、稲葉氏はまた座りなおしてしばらく神田界隈の神社の縁起をひとくさり話してそれから二十分以上もねばっていたのには呆れた。その手の話ならいくらでも話しつづけるようだった。久しぶりに人と話すのかもしれない。