天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

猫迷宮 19(パイロット版)

2011年02月23日 23時43分37秒 | 文芸

「いただきまあす」いつものように、語尾をのばしてそういった。

 レストランなどで対面して人と食事した覚えはなかったので、こんなふうに安直な食堂で誰かと飯になると、食べているあいだはいつも無言でそれぞれの食べ物にむかうことになる。後ろのテーブルにすわっているサラリーマンも食べはじめて無言になった。動物がおとなしく餌を食べているような気がしてきた。こちらはさしずめ、メスとオスのつがいだな、とつまらないことを連想する。

「胡椒つかいますか?」

 ミドリちゃんが金属の容器をこちらにすこしおしてきた。

「うん」と、いってすこしふりかける。荒挽き胡椒だった。ラーメンには昔ながらのSBの胡椒が一番だと思っている。ほかの胡椒ではラーメンの雰囲気がでないとさえ思っていた。

 ミドリちゃんはいっしょうけんめいラーメンを食べている。うなじの生え際に汗が浮かんでいた。大型の換気扇でも厨房の熱をにがせず、カウンターのあたりには湯気の熱気がまともにくる。冬場はいいが、冷房をいれない今頃の季節がいちばん暑いのだ。六月に入ったのだからもう冷房してもよさそうなものだったが、客がすくないので切ってしまったのかもしれない。

「暑いわ」と、ミドリちゃんはハンカチをだした。

「湿気もあるしね」と、紙ナプキンをぬいて口をぬぐった。

「お水もらってくる」と、からになったコップを奥の冷水器のところに持っていった。「これ、ただの水道のお水かしら」

 自分でも新しい水をふくみながらそういった。

「だろうね。中にフィルターがはいってるかもしれないけど」

「水道のお水は一度沸かさないとダメね」と、生活者らしい口ぶりになった。なんだか年に似合わない物言いをする。

 ラーメンのスープをのこらず飲み干してから、自分も汗をぬぐった。

「ラーメンもいいけど、夜中にお腹が減るんだよなあ。いつまでも起きているせいかもしれないけど」

「あたし、夜中に茹でタマゴつくるんです」

「茹でタマゴ?」

「そうです、一個だけことこと茹でてあったかいのをほくほく食べるのがすきなんです」

「一個だけなの」

「はい。四分くら茹でて、あとは火をとめておくの。そうすると、黄身が半熟になるんです」

 誰にもこだわりがあるものだ。ミドリちゃんは夜中に練馬のアパートの一室でタマゴを一個コトコト煮ている。茹でたての殻をつるつるむいて、てかてかしたタマゴの肌があらわれたとき無上の喜びを感じるのかもしれない。

「そんなこときくと茹でタマゴが食べたくなるね」

「そうですね」

 ラーメン屋を出ると、ミドリちゃんは、「ごちそうさまでした」と、ちょこんとお辞儀をした。

 飯田橋から地下鉄に乗り換えるといって、ミドリちゃんは水道橋の駅のほうにおりていった。またすこし雨足が強くなってきて、途中で赤い傘を開いている後ろ姿がみえた。

 


猫迷宮 18(パイロット版)

2011年02月23日 23時40分27秒 | 文芸

 社屋を出て、傘を開き壱岐坂下のほうへ降りていこうとしていると、後ろから声がかかった。ミドリちゃんだった。今朝からなんべんも会うことになった。

「神尾さん帰り?」

「いや、まだだけど」と、会社に泊まるつもりのことはいわなかった。

「島ちゃんは?」すこしくだけてみた。ミドリちゃんは真っ赤な傘をさしていた。なんだか、アパートな帰るのが気味が悪いといった感じで帰りをおくらせていたようだった。ミドリちゃんは、唇をきつくむすんで、すこしだけ頷いてみせた。

「夕飯食べにいくとこ。つきあう?」

 ラーメンくらいならおごってやってもいいと思う。普段からずいぶん助けてもらっているのだ。フトコロはニワカ成り金だし。

「いいんですか」

「ああ、いいよ。ラーメンくらいならおごってやるよ」

「ほんとですか。あたしなんだかまっすぐアパートに帰るの嫌だったんです」

「誰かが片づけているよ」

「でも、暗くなっちゃったし」

「雨だからね」

 ミドリちゃんが喜んでいるようなのでほっとする。すくなくとも稲葉氏とハムサンドを食べるよりどれだけいいか。それに、ラーメンくらいで、ずいぶん嬉しそうなのだ。

「あたし、誰かと夕御飯食べるのひさしぶりだわ」

 ラーメン屋のカウンターに並んですわったとき、ミドリちゃんはそういった。

「お昼ごはんどうしてるの?」

「お弁当作ってきます。たいしたものじゃないけど。外で食べるとお金かかっちゃいますから」

「へえ、えらいんだな」

「印刷所の人ってみんなそうしてますよ。時間どおりに昼休みにならないし。手のあいたときに食べられるでしょ」

 そうだった。昔、母親が作ってくれた握り飯の包みがあれば、どこにいても空腹の心配をしなくてすんだのだ。

「でも御飯の時間てあっというまに終わっちゃうんですよね」

 ミドリちゃんがポツリといった。

 あとから店に入ってきたサラリーマンらしい二人連れがうるさく椅子をひいた。テーブルの下のスポーツ新聞を漁っている。

「三連敗だってよ」

「ナカハタも気合ばっかだしな」

「今年入れたガイジン選手なってったけ」

「なんとかトマソンっていったな。あれは打ちそうだな」

「あーあ、今夜は雨で中止かあ」

 ひとりが欠伸をしている。                         

「神尾さんはどこに住んでるんですか?」

 ラーメンがなかなかこないので、ミドリちゃんは手持ち無沙汰のように割り箸をもてあそびながらきいてきた。返事をまつようにこちらに顔をむけている。

「ぼくも練馬だよ。江古田からすこし北にはいったほう」

「あら、ずいぶん近所だわ」

 と、ミドリちゃんはびっくりしている。驚くこともないのだけれど、住まいが近いと親近感がわくらしい。奇妙なことだが。同じテリトリーに生息する小動物のヨシミだろうか。ミドリちゃんはまだなにか聞きたそうだったが、ラーメンが運ばれてきて、話は途切れた。

 


猫迷宮 17(パイロット版)

2011年02月23日 23時39分13秒 | 文芸

 文体が昼間会った稲葉氏の口調とまったくおなじなので、読んでいるうちに稲葉氏が耳もとで喋っているような錯覚に襲われてぞっとした。青黒い蟷螂のような面差しがふっと浮かんでくる。本の著者などに会うものではないと言っていた人がいたがそのとおりだろう。仕事ととはいえ難儀なことだ。稲葉氏は不気味なほど穏やかだったが、些細な誤字や誤りを指摘したら突然逆上した人もいた。世の中には明らかな誤りでも他人から指摘されるのが癪でたまらない人間がいるのをそのとき知った。だが、稲葉氏の文章にちりばめられている古文書などは、こちらではどこがどう誤っているかもわからない。原稿を丁寧につきあわせていく。稲葉氏の原稿は楷書で几帳面な文字だ。長らく事務員でもやっていたのか、どこかの教員であったのかもしれない。長い差し込み文はゲラとは別の用紙に書き込んで、欄外に糊ではりつけてあったりする。指定はきちんとしているので印刷にまわすのに手間がかからない。ときどき、旧カナづかいがまじりこんで、本人は直しているつもりらしいが見落としが多かった。

 それにしても、どれだけの時間をかけて書き下ろし、私家版にしてどんなところに配るのだろうか。好事家仲間やごく親しいところに配ったあとは、図書館に寄贈するのが普通だ。紅花舎の自費出版物は必ず国立国会図書館に寄贈することになっていた。印刷物の著作者は誰でもそうすることができるのだが、知らない人はなんだか特典のように勘違いして、これがなかなか効果があるそうだ。図書コードのISDN番号を表四に刷り込むのがツボだった。紅花舎は、別の版元からそのコードの割り当てをもらうことになっていた。むこう十冊分はすでに番号をもらってある。

 三分の一ほどチェックを終えて顔をあげ、また手提げ金庫を見た。いつもは気にならなかったが、まとまった金を入れたのでどうしても気になってしまう。ロッカーの奥にしまって帰ろうかと思う。ロッカーにもカギをかければいいか。もうひとつの白い封筒はどうしたらいよいか。所番地に問い合わせの手紙でもだそうか、それともしばらくほっておくか。あとのほうを選ぶ。

 外はまだ雨だった。湿気が階段をはいあがってくるような気がする。しばらく止まないな。そうなると、また地下鉄を乗り継いで帰るのが面倒になってきた。     

 近くのラーメン屋にでもいって、今夜はここに泊まってやれと決めたとたん。また、手提げ金庫が気になった。ラーメン屋にいっているあいだは置いていくのか。我ながら度胸のないことだ。けれども、うっかり紛失したり盗難にあったら、大曲泰蔵をはじめ稲葉氏など面倒な人間関係がよけいおかしくなりそうだった。六十万とは中途半端な額だ。持ち逃げでもしてやろうと思うにはもうすこしのところだが、盗まれたら始末が悪い。結局、また金庫をあけて封筒をつかみ上着の内ポケットにねじこんだ。ついでに例の白い封筒も重ねた。

 六時。ちょうどいい頃合いだった。社にもどったら、またすこし仕事をして、ラジオでも聞きながら寝てしまおうと思った。


猫迷宮 16(パイロット版)

2011年02月23日 23時36分25秒 | 文芸

 

                                                 5

  

 

  ひとりになり、三つの封筒と睨み合う。 それぞれが厄介なことになりそうだった。ひとまず金は手提げ金庫にしまい、稲葉氏の校正刷りをとりだした。ざっと見たところでも、赤字で書き加えたところが毎ページのようにあった。それぞれ差し込んで、行をおくっていったら、そうとうページ数に変化がでそうだった。再稿だけではすまないかもしれなかった。

 

  ある朝、私の家の裏庭に、奇妙な果実がふたつころがっておりました。茶色の毛糸玉のようにもみえます。それが、近頃、家の縁の下で野良猫が産み落とした三匹の子猫の首であるのに気がつくまで、時間はかかりませんでした。昨日まで、無邪気に走り回っていたのを知っていました。何者がそのような残忍な行為におよんだのでしょう。人であるならば、私の家の裏庭にしのんできたか、または外から投げ入れたものか、いずれにしても私への脅迫、あるいは警告であるかもしれません。私は、その奇妙な果実をひろいあげ、裏庭の片隅に穴を堀って埋めました。子猫たちの首塚からは、怨みをふくんだ毒草がやがて生えるにちがいありません。

  それにしても、もう一匹いたはずの子猫の姿はどこにもなく、どこぞへ逃れ去ったか、それとも、人知れぬ物陰で横死しているのでしょうか。                  『猫文書』

                                       

 最初に校正したときは、とくに気にもとめなかった部分が目に飛び込んできた。今朝のミドリちゃんの話があったからだ。猫の首が落ちいてることは、よくあることなのか。稲葉氏の著作は、自分の体験に史実や古文書などの文献からの引用、さらには風評や風聞などをつきまぜ、どれがオリジナルからわからぬほどに錯綜して書きつらねてあったので、よくよく照合してみない「私」がいったい誰なのかわからなくなる。あるいは、稲葉氏の頭のなかですでに朦朧となっているのかもしれなかった。

 

 猟奇的な異常者の行為とも疑われますが、おそらくは、猫による猫殺しではなかったかとも考えられるのです。猫の習性として、オス猫は、他のオスの子孫をかみ殺してしてしまうものらしい。おのれの遺伝子を残そうとする本能に由来する行為といえそうで、サルにもそのような習性があるようです。

  同族の子どもすら惨殺するという猫が〈魔物〉であるという風評は、仏教的伝統のなかにあり、釈尊の涅槃のおりに、百獣が悲嘆にくれていたのに、ひとり猫だけがにんまりと笑っていたともいわれます。また、一説には、釈尊が入滅の知らせが天上のマヤブニン(ママ)に伝わると、夫人は悲しまれて薬袋を天上から投げ落としになったが、それが沙羅の木の枝にひっかかってとれなかくなった。おりしも、一匹の鼠が枝にのぼっていって、薬袋の紐を食いちぎろうとしたところ、その鼠を見た猫がとびかかって餌食にしてしまったために、ついに薬は釈尊に届かず、釈尊は入滅されてしまったというのもあります。したがって涅槃絵に猫は描かれることはないというのが定説なのです。しかるに、日本の絵師が描いた涅槃絵には室町時代以後には、京都、東福寺( 三毛猫) 、大阪、浄土院( 虎猫) をはじめ、涅槃図に猫が描かれている例は頻繁にあって、絶対的禁忌ともいいかねるようであります。『マヌの法典』にしろ、『ジャータカ』にしろ、猫の本性からくる評判は、あまりかんばしくないのは事実であります。それに比べると、ヨーロッパ中世の魔女と黒猫などは、まだ魔の歴史が浅いといわねばなりますまい。

〈貪欲ニシテ美徳ノ旗ヲ誇示シ偽善者ニシテ世人ヲ欺キ、悪事ヲナスコトニ余念ナク、スベテノ人ノ美徳ヲ誹謗スルハ猫ノ如ク振ル舞ウ者ナリト知ルベシ。( 『マヌの法典』第四条一九五) まったく、そんな者の譬えにされては猫もたまったものではありません。 

                                       『猫文書』 

 


猫迷宮 15(パイロット版)

2011年02月23日 23時28分16秒 | 文芸

 

「誰の名前。その子の?」

「住所とお名前教えてちょうだいっていったら、そう」

「シラネアキラ君だったわけだ」

「探しているお父さんの名前かもしれませんよ」

「電話は?」

「きいたんですけど、わからないって」

 どうしたものか考えこんでしまう。もちろん依頼を受けるわけにもいかないし、わけがわからない。手付金のつもりなのか現金まで入っていては、なんとか返金しなくてはならないだろう。

「また来ますっていってた?」

「なんにも言わずに帰っちゃいました。だから、わたしのほうは帰れなくなっちゃって」

「どうしたらいいのかな。この住所に送り返そうか。それにしても子どもひとりで杉並から本郷までひとりで来たのかな。学校のある日なのに」

「悪戯でしょうか」

「お金を残していく悪戯なんてないよ。二万円も入ってるし。子どもなりに本気だったのかもね」

「ほんとうはこの近所の子で、住所はお父さんのところってこともありますよね。父親が女をつくって出ていった先とか」

「ミドリちゃん、すごいこと想像するね」

「いやだぁ」と、ミドリちゃんは頬をふくらませてみせた。

「でも、推理としてはそっちのほうが自然だよね」

 もっと想像を超えることがありそうな気がしたけれど、いくら考えても白い封筒の残している手掛かりからではいたしかたない。

「まあ、本気ならまた来るさ。今度は母親同伴で」

「そうですよね。ほんとに、今日は朝から変なことばかり」

 ミドリちゃんは、また子猫の死骸のことを思い出したのか神妙な物言いになった。こちらは、稲葉氏のよこした二つの封筒にくわえて、もうひとつ厄介な封筒が舞い込んだことになる。

「そうだ、丸尾印刷から請求書出せるかな。猫本の著者が半金持ってきてるんだけど。いつもはどうしてるの」

「大曲社長からうちの当座に振り込んでもらってます。印刷見積の半金ですけど」

「そう、これはうちの社長をとおして払ったほうがいいよね」

「はい」と、ミドリちゃんはいってから、またすこし悩ましい顔をした。

「どうしたの?」

「ここだけの話ですけど。紅花舎から二か月ほど入金ないんです。小さい広告の仕事をうちでやったんです。丸尾社長は話はついているといってましたけどなんだか心配なんです」

 経理もやっているミドリちゃんは、小さなお金の流れにも敏感に異状を読みとっているらしい。

「このお金を大曲さんに振り込んでも、そちらに回ってくる保証はないよな」

 かといって、会社の金を従業員が勝手に支払いにまわす権限はない。稲葉氏が勝手に振り込んでくれていればこんなことにはならないのだが。三日前に稲葉氏が初稿をもって来社すると知らせてきたのだから、大曲氏も入金の可能性はわかっている。こちらからお伺いをたてなくとも、なにか指示してくるはずだ。社の当座に入金しろとか、丸尾さんに払えとか。こちらもすこしひねくれた気持ちになる。

「わかった。とにかく指示があるまで金庫に入れておくよ。仕事の進行状況を報告しろっていってくるはずだしね」

 こちらが困りながらいっているのを察してか、ミドリちゃんもそれ以上いわずに頷いてみせた。

「上の人がちゃんとしてくれればいいんですよね」

「ああ、上の人がね」

 上も下もあるかい、と思いながら「今日は午後だけで六十二万円也の入金だよ。紅花舎として半年ぶりの大繁盛だね」と、おどけてみせた。二万円は謎の封筒の中身だったけれど。

「神尾さんて変わってますね」

 と、ミドリちゃんは言い置いて階段をおりていってしまった。

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猫迷宮 14(パイロット版)

2011年02月23日 23時24分58秒 | 文芸

                                       

 持ち重りのするゲラ入り封筒と、六十万円の入った封筒を抱え込んで事務所にもどると、ミドリちゃんが待っていた。二時半になっていた。

「お客さんだったんだ。猫本の人」

「やっと来たんですね」

「話が長くてね」

 ミドリちゃんは可笑しそうにすこし舌のさきをだしてみせた。新しい校正刷りがデスクの上に置いてある。置き手紙でもよかったのに。

「あの」と、ミドリちゃんが白い封筒をさしだした。「お留守中に《山名興信所》にお客があったんです。ちょうど、あたしが来たときなんですけど」

「追い返してくれた」

 ミドリちゃんは渡した封筒をみつめながら、困ったような顔をした。

「はい。今はやってないっていったんですけど」

「どんな人?」

「それが、子どもなんです。誰かに頼まれてこの封筒を届けにきたようなことをいってました」

「子どもって、どのくらいの?」

「十歳かそこらのようでした。中学生ではないようみえましたけど」

 ミドリちゃんは、その少年から白い封筒を受けとらざるをえなかったらしい。封筒をあけてみると、奇妙な依頼文と現金で二万円が入っていた。

 

    ボクノ父親ヲサガシテクダサイ。

 

  と、鉛筆で大きく書いてあった。名前はない。

 封筒をひっくりかえすと住所と名前が書いてあった。

「それ、わたしがその子に聞いて書いたんです。わたしだって子どもの使いじゃないんだし」

 こっちが笑った意味がミドリちゃんはわからなかったようだ。すぐに自分のいったことが変なのに気がついて眼だけ笑った。

                               

    杉並区松庵○丁目○○番  白根晃

                               


猫迷宮 13(パイロット版)

2011年02月23日 23時23分15秒 | 文芸

「やはり変質者なんかでしょうかね。鴨をボウガンで撃ったり、毒団子を蒔いて野犬や野良猫を殺そうとしたするような」

「子猫が殺されていたんですか」と、稲葉氏は落ちついた口調で、自分に興味のあるところだけとらえてきた。

「人間の仕業じゃないかもしれませんな」

「というと?」

「同族です。たいていは同族のオスの仕業なのですよ。猿なんかは、交尾の相手を得るためにほかのオスの子どもをかみ殺したりしますからな。子どものいるうちはメスは交尾行動をとらないでしょう。自分の遺伝子をのこそうという本能だということですが、なにやはり交尾が目的です。猫だって平気で子猫をかみ殺します」

 話に熱がはいってきた。稲葉氏に好きな餌に食いついたわけだ。しばらくは蘊蓄を拝聴しなくてはならなかった。氏の原稿に書いてあったことと重複することがほとんどだったが、校正するそばからわすれていたことに気がついた。

「・・・残酷といえば、人のほうがもっと酷いことをするものです。黒猫の黒焼きを薬として売りさばいてたりする輩もいましてね。喘息の薬だったというのですが、いくらなんでもそんなのは御免こうむりますね。明治よりまえの話ですが。呪いの一種で、猫を首から下を土の中に生きながら埋めて、首のまえに食物を置き、食わせずに飢え殺しにしたうえで首をはね、その首の怨念を利用して呪法にもちいることも行われたようです。まあ、これは犬神といって、犬のほうが有名ですが、猫もそうされたようです」

  稲葉氏の眼が光りはじめた。あぶない兆候のような気がした。

「呪いですか」

「その首を木箱のなかにおさめて邪神として使ったりもしたようです。犬神使いは知られていますが、猫神使いは文献にもあまりないです」

 稲葉氏はコーヒーを一口すすった。ハムサンドには手をつけないので、パンがすこし干からびてきたのが気になった。

「今年の春先に生まれた子猫がよく犠牲になるのですよ。野良なんかは藪のなかでよく死んでいます。町なかだとぎょっとしますが」

 子猫の話にもどった。

「動物の死骸なんてめったにみませんからね」と、話をすこしズラしてやる。

「そうです。あんなにガアガア飛びまわっている鴉だって滅多に死骸をさらしませんですよ。たいしたもんです、屍を人目に晒すのは恥とでも思っているのでしょうか。畜生には畜生の意地というものがあるのではないですかな。それでも、あなた、一昨年であったか、道を歩いていたら、にわかに頭のうえからドサリと黒い物が落下してきて、見たら鴉でしたな。頭のところから血を流して死んでいました。誰かが空気銃で撃ったのかもしれません。寿命や病気で死んで落ちてきたようには見えませんでした」

「どこでですか?」

「池袋の路上です。繁華街ではなくて住宅地のあたりですが」

「めずらしいんでしょう?」

「そう。ふつうは営巣地の森で死ぬんでしょう。鴉の森にいけばいくらも死骸が落ちているはずです。悪食だから死ぬそばから仲間がついばんでしまうかもしれませんがねえ」

「雀などは軒下に落ちていることがありますね」

「たいてい若鳥ですね。毒性のある木の実なんかを食べてるんですな。若いうちは人も鳥も覚悟がありませんから、そんなふうに死骸を人目に晒すんです。年を経れば人も獣も死に場所は自分でさがしますよ」

「象の墓場みたいですね」

 そんな月並みなあいの手をいられて白んだのか、稲葉氏は苦笑いした。こんどはコップの水で口をしめらせている。我慢できなくなってハムサンドに手をつけた。この喫茶店のハムサンドはカラシがよく効いていて旨いのだ。今朝からはじめて口にした固形物だ。

「あぁ、よかったら食べ物のほうはみんな召し上がってください。わたしはいろいろ食べられない物がありますから。処方されている薬との相性があって、脂肪の多いものや肉類は控えています」と、こちらの食欲をみすかしたようなことをいってきた。「もっとも昔から食は豆腐やめん類、野菜といった精進物で生きてきたみたいなものです。病気をしてからはますます食は偏りましたね。ほとんど菜食ですよ。まあ、年寄りにはそれでいいらしいのです。穀類だってタンパク質は含まれていますから。動物性タンパクといったらタマゴくらいのものですかな」

 ミックスサンドにしてやればよかった。この店のタマゴサンドも悪くないのだ。奥の調理場でどんな人が作っているのか知らないが、パンのカットの仕方が熟練している。コーヒーのほうはとても不味い。稲葉氏はかってに喋っている。

「麺類はよくとりますね。夏場は蕎麦か冷麦。冬は饂飩。煮込み饂飩・・・」

 なにごとにも蘊蓄を持っているようだった。独り者だろうか。自分でずいぶん料理もするみたいだ。

「すいません、朝からなにも食べてなかったもので」

 サンドイッチの大半を片づけてしまってから、いまさら詫びをいってもはじまらなかった。会話はほとんどなりたたなくなっている。

「いや、なに」と、また水を飲んでいる。「この二日、あんまり暑くて食欲も減退いたしました。本来なら一昨日お伺いするつもりでしたが、家を出ることができませんでね」

「お宅はどちらでしたっけ」

「荻窪のあたりです」

 すこし不快そうな返事だった。身辺のことをきかれるのは嫌いらしい。腕時計を見ている。時間が気になるらしい。

「お時間はだいじょうぶですか」

「はあ、出かけたついでに廻るところがありましてね。神田の奥のほうに訪ねるところがあって、今日は涼しいので歩いていこうかと」

「そうですか、では事務所で受け取りをつくりますから」

 面談が終わるのでほっとする。

「いやいや、領収書はあとで再稿といっしょにでも送ってください。大曲社長に宜しくお伝えくださいませんか。雨が小止みのうちに歩いていきたいので」

 と、腰を浮かしかけた。

「わかりました。なにかありましたら電話でも葉書でもご連絡をいただければ」

 わざわざ葉書といってやる。葉書に細かな文字で書いてくるタイプの男のような気がしたのだ。

 そのまま辞去していくのかと思ったが、稲葉氏はまた座りなおしてしばらく神田界隈の神社の縁起をひとくさり話してそれから二十分以上もねばっていたのには呆れた。その手の話ならいくらでも話しつづけるようだった。久しぶりに人と話すのかもしれない。

                          

猫迷宮 12(パイロット版)

2011年02月23日 12時46分29秒 | 文芸

                                      

「たいへん御無沙汰申し上げてすみませんでした」

 喫茶店で座るなり、稲葉氏はまたおなじことをいった。いえ、と返事をまつのももどかしそうに、手にした茶色の革鞄から校正刷りのはいった封筒をとりだした。

「細かく赤字がはいっておりまして、お直しいただきたくぞんじます」と、恭しく差し出すのを、うけとり中身をぬきだすと、なるほど赤いボールペンでいろいろ書き込んであった。校正するというより書き加えたというべきだった。

「それから、ゲラの最後にあたらしくつけたい文章が五十枚ばかありまして。これで最後になります」

 なるほど、手書きの原稿が五十枚ついていた。二十ページほどふえることになる。「〈あとがき〉はどうされますか?」

「はっ? それはいりません」

「そうですか」

 稲葉氏はまた鞄のなかをごそごそさせはじめた。その間にコーヒーとハムサンドを注文する。接待費としておとしてやれと思う。

 稲葉氏は茶封筒をひとつとりだしてテーブルに置いた。

「えー、遅れてたいへん申し訳ございません。ここに御請求の半金が入っておりま

すのでお受けとりを」

 札束の入った封筒に面食らった。しばらくそんな厚さの札束は見たことがない。

「六十万きっかりでございます」と、こちらの請求書をだし、テーブルの上でのしてみせた。確かに、こちらから送ったものだ。赤塚さんの筆跡の数字に見覚えがあった。金額は忘れていた。

「振込みでもよろしかったんですよ」

「いや、校正をお戻しするついでがありましたから。それに、こんなにおくれてしまって」と、封筒をぐいとこちらに押してよこした。静脈のうきでた骨ばった手だった。

「つくりは並製でしたよね」と、あまりお金のことをいいたくなかったので話題をかえた。

「あの、中をおあらためくださいませ」

 話はそれなかった。

「いえ、あとで領収書をさしあげに社にもどりますからそのときにあらためさせていただきます。それより、召し上がってください」

 ちょうど運ばれてきた誂え物をすすめた。

「恐縮です」

「つくりは並製でいいんでしたよね」と、もういちど確認してみる。本はハードカバーのものしかないと思い込んでいるとあとでトラブルの原因になる。

「はあ、確か最初にフランス装と申し上げましたら、いくらか値が張るということで、並製でカバーをつけるということで」

 稲葉氏は本には詳しい様子だった。猫に関する古い文献を渉猟したらしい本文からも読書家であるにはちがいない。

「ページが増えますといくらか見積もりよりも費用があがりますでしょうか。いや、それはかまわんのですが」

「一割くらいかもしれません」

「かまいません」

 と、いってコーヒーに口をつけた。すこしむせたようで、「ええッ」と咳ばらいをしている。どうも、肺か気管支が悪いようだった。タバコはやめておいたほうがいい。

「それで、出版時期をそろそろ決めていただけますか。もちろん再稿が出た時点でだいたい決めてもらえば」

「どれくらいですか再稿まで」

「新規の原稿が入りますから、二週間くらいでしょうか」

「はあ、それなら秋口には本になりますね」

「ええ、奥付原稿と発行日を決まればすぐです」

「それは、最終ゲラをおもどしするときでよろしいでしょうか」

「はい、今度でる再稿で最終ゲラになります。それからまた再々稿までだすとなるとまた手間がかかりますけど」

「次のゲラできちんといたします」

 稲葉氏はまた「ええッ」と、咳払いをした。痰がきれないらしい。それから、すこしばかり咳き込んでしまった。

  なにか適当な話題で場をもたせなくては。

「急に暑くなったり、今日みたいに雨になったりで気温の変化が大きいとわたしのように喘息のけがある者はつらいです」

 と、ハンカチをだして口をぬぐっている。なんだか長く結核をわずらってすっかりヤツレてしまったような面差しだ。度の強い眼鏡の奥で、眼球が揺れている。すこし脈拍がはやくなっているようだ。それでも、なにか話したそうだ。

「気候がへんだと頭のおかしな人が出てきますよね。今朝も、知り合いのアパートの前に子猫の死骸を捨てたやつがいたんです」

 とっさにミドリちゃんの話を思い出してつないだが、刺激的すぎたかと思う。相手は『猫文書』の男だ。


猫迷宮 11(パイロット版)

2011年02月23日 12時43分38秒 | 文芸

                                              

 

                                    

 翌日も翌々日も暑い日が続いた。予告のあった依頼主は訪ねてこなかった。そのかわりに《山名興信所》への問い合わせの電話が一本、実際に階段をあがってきた五十歳くらいの婦人がひとりいた。婦人の依頼は縁談の調査だったが、会社が変わっていることを説明してひきとってもらった。

 三日目は雨だった。

 しばらくやみそうもなかったので、自転車をあきらめて池袋まで歩き、そこから地下鉄に乗った。本郷三丁目で降りて歩いていると、郵便局からミドリちゃんが出てくるのにであった。十時を過ぎていた。

「おはようございます」と、頭をさげたミドリちゃんの顔色が悪かった。なんだか気分が落ち込んでいるようなふうだ。

「あの、『戯文集成』新しい原稿はいってきてます。かなり多いですけど」

「お終いまで送ってきたの?」

「まだまだのようです。だいぶ厚い本になるって」

「だろうな・・・集成っていうくらいだからな」

「猫の本のお客、きませんね」

 と、ミドリちゃんも気になっていたらしい。来るといって来なかったり、払うといって払わなかったりが日常だから気を揉むのもばからしい。

「島村さん、どうかした?  元気ないね」

 悪いかなと思ったが、ついたずねてしまった。

「今朝、嫌なことがあったんです」

「また、社長がわけのわからないことをいったの?」

 見当はずれだったらしい。

「ちがうんです。今朝方、アパートから出ようとしたら、アパートの出口のところの地面に子猫の死骸が転がってたんです。それも、頭だけなんです」

「頭だけって?」

「この頃、近所を走り回っていた野良の子猫なんだけど。三匹いたうちの一匹みたいなの。犬に襲われのたか、変質者の仕業かわからないけど」

「それはひどいなあ。気味が悪いね」

「アパートの近くに変な人がいるらしいんです」

「どこ? 島村さんのとこ」

「練馬です。氷川台のほう」

 なんだ、うちの近所じゃないかと思ったが黙っていた。

「ほんとに変な人多いんです。夜中に包丁持って裸で走っている男の人見たことあるんです」

「すごいな。事件になったの」

「二階の窓から外を見たとき偶然見ちゃったんです。近所の中華屋のおじさんだって噂だけど。酔っぱらうと裸でおもてにとびだしていくんですって」

 ミドリちゃんの恐怖体験はいくらもありそうだったが、話しているうちに事務所についてしまった。

「すいません。あとで新しい校正刷り持っていきます。二時頃にはあがってくると思いますから」

 子猫の死骸はどうしたのだろうと思いながら、事務所のカギをあけた。今日はちゃんと締まっていた。濡れた傘をたてかけ、窓をすこしだけ開けた。ふきこむほどの雨ではない。なんだかタバコの臭いが湿気をふくんで重たく漂っていたのだ。空気を入れ換えたい。

 

 ミドリちゃんが新しいゲラを持ってくるまで、これといって仕事がなかった。事務所の奥でも掃除するしかない。応接用のキャンバス地のソファのホコリを掃除機ですいとることにした。もうすぐ自分のベットになるかもしれない。しばらく掃除もしていないのでダニでも発生していると気味が悪い。一度日に晒したほうがいいが、今日の雨降りではどうしようもない。掃除機も調子が悪く、開けてみるとダストボックスがいっぱいになっていた。ぎっしりとつまったホコリやゴミがこの紅花舎につもりつもった塵芥の象徴のような気がした。中からグロテスクなゴミ虫などが這いだしてこないともかぎらない。ゴミ袋をだしてきてすべてほうりこんで、袋の口をしばりあげた。思いなおして、また袋を開き、灰皿にたまった吸殻を捨てる。用心にコップ一杯の水をふりかけてから袋をとじた。積んであるダンボール箱のいくつかを点検すると、反故の書類やゲラばかりだったので、ゴミの日にだしてしまおうと入口近くに移動させた。燃えるゴミの日は明後日だった。

 事務所内がこざっぱりしてきた頃、昼になった。さて、どうしようと考えているところに来客だった。事務所のドアをコツコツとたたいている。またぞろ興信所の客かと思っていると、初老の痩せた男が顔がかすれ声であいさつした。。

「稲葉でございます」

 イナバ? そうきいてピンとこなかった。それが、あの『猫文書』の著者であると気づくまでにしばらく間があいてしまった。

「あっ、はい。わたしが担当の神尾です。慌てて引き出しのなかの名刺入れをさぐった」

 相手は名刺は持ち合わせず、こちらの名刺を押しいただいて、頭をさげた。

「たいへん御無沙汰申し上げてすみませんでした。体をすこし悪くいたしまして、通院などしておりましたので」

 稲葉氏はそこまで挨拶して、何度か咳き込んだ。掃除をしたばかりで事務所内に舞っている細かなホコリに敏感に反応したような感じだった。即座に近くの喫茶店に連れていこくことにした。

「いま昼どきで人がいませんから、向かいの喫茶店のほうで話しましょうか」と、ほかに社員がいるふうを装ったのは大曲氏から伝授の客あしらいだ。

「いえ、わたくしはどちらでも」

「まあ、お茶でも」と、先にたって階段をおりた。稲葉氏があわててあとを追ってくるかっこうになった。

猫迷宮 10(パイロット版)

2011年02月23日 12時39分15秒 | 文芸

 デスクにすわると電話が鳴った。

「丸尾印刷です」と、ミドリちゃんの声だった。「さっき頼むのわすれてしまって。午前中に見てほしい刷りだしがあるんです。折り込みのチラシなんですけど文字数が多いので神尾さんにお願いしたいんです。直でたのまれた仕事なんですけど、いいですか」

「ああ、これからとりにいくよ」

 そういって電話を切り、すぐに階段をおりていった。

 ミドリちゃんのいうとおり、現物はB版の折り込みチラシだったが、なるほど文字がぎっしりつまっている。〈金運をあげる奇跡の護符!〉、〈買った翌日に宝籤に当選〉、〈縁遠かった娘に良縁が〉といったゴシックの見出しと、幸運をつかんだ体験談が細かな文字でつらなっている。中国の風水の聖人の揮毫による黄金招来の文字を彫り込んだ金の御札だという。写真はまだアタリをつけただけの空欄になっていたが、体験者の顔写真がはいっているところがミソのようだった。名前をだしておきながら、山本弘子さん(仮名)と、なっているのはいかにも奇妙だ。ときどき新聞のチラシにはいってくるのを見たことがある。

「原稿は?」

「以前のチラシと差し替え原稿がこれです。上段の宣伝文に変更はないです」

 ミドリちゃんの言葉が、〈冗談の宣伝〉の駄洒落に聞こえたが、そんなことをいう娘ではない。

「差し替え分だけ見ればいいの?」

「まえのものにもけっこう誤字がはいっているようです」

「で、いつまでに」

「四時頃には版をつくりたいんですけど。金曜日の折り込みなんですって」

「じゃ、いそいで見るよ。午後からお客がくるようだし」

「すみません」と、ミドリちゃんはまたちょこんと頭をさげた。

 

 午後になって臨時の仕事はすぐに片づいた。内容についてはことさら考えないことにした。鰯の頭も信心からだ。『昭和戯文集成』のつづきは、まだはいってきていなかったから、とりあえずは中等学校同窓会の記念文集のゲラをひっぱりだして最終チェックをいれることにした。終わったら丸尾印刷から発送してもらえばいい。なんだか、客待ちのゆるい仕事になったが、夕方になっても客は来なかった。朝からさわがせられて、結局なにもない一日になった。普段どおりということだ。

 『猫文書』の依頼主は来なかったが、五時をすぎたとき、以前に経理をやっていた赤塚さんが階段をあがってきてドアをたたいた。赤塚さんは、砂土原町の奥に住んでいるといっていたから、なにかのついでに寄ったらしい。

「社長さんいる?  いないわよねえ」

 と、なにしにきたのか曖昧な物言いでいくらでもある椅子のひとつに腰かけた。

「ほんと、だあれもいなくなっちゃったんだって? 神尾さんだけ? そう、さびしいわねえ」

 ずっと冷蔵庫にはいりっぱなしだった麦茶をだした。五月の連休頃につくったやつだ。赤塚さんはあまり水物は飲まないから、まあ愛想だ。「悪いわね」といいながら、案の定口をつけるようすはない。お酒好きな赤塚さんは、夕方お茶を飲むとビールがまずくなるわ、といつもいっていたのだ。

「それで、お給料はちゃんとでているの?」

 いちばん興味があることを聞いてきた。歩合制になって半額になっているとこたえてやる。

「ほんとなの?  困るわねーぇ」と、ながく語尾をのばして、そのあとにつづける言葉を言いよどんでいるようすだった。

「赤塚さんにも未払い分があるんですか? 辞めたのが急だったから」

 ぐっと腰をのりだしてきた。あたりのようだった。

「そうなのよ、いくらでもないんだけど、急に来なくていいっていわれて腹がたったから、日割りの分受けとりに来てないのよ」

「いくらぐらいなんですか」

「二万三千円よ。あたし経理でしょ。数字だけはしっかりつけてんのよ」

 すこし迷った。赤塚さんは、二万三千円が気になって、わざわざ来たらしい。

「出勤簿ありますよね」

「ほら、後ろのキャビネットの青いファイルよ。出勤簿に八日分の判が捺してあるからまちがいないわ。もっとも自分で捺したんだけどさ」

 いわれたファイルを引っ張りだすと、四ヵ月前の出勤簿があった。一日から土日をはさんで十日まで赤塚さんの印が捺印されている。十日目の日のあとに斜線が引いてあって退職とインクで書かれていた。

「それもあたしの字よ」と、首をのばしてきた。赤塚さんの化粧の匂いがうっすらとした。昔、授業参観に来た母親の匂いのようだった。

 もういちど考えた。

「いいっすよ。仮払いで出してあげますよ。社長にはぼくから言っときます。小口の支払いは任されていますから。受け取りだけいただければ」

「悪いわねえ」

 赤塚さんは、思いがけなかったのか、すこし顔を上気させた。二万円といえど主婦のパートさんには大きいのだ。かまいはしない。沈みゆく船で救命ボートを降ろしてやるのとおなじだ。

 手提げ金庫から二万三千円をとりだして、適当な封筒にいれているあいだ、赤塚さんは安心したのか「あなた、ちゃんと御飯はたべているの?  独り者じゃ野菜がたりないんじゃない」などと、こちらを心配するような口ぶりになった。あまりたちいられたくなかった。適当にあしらっていたが、むこうもただの愛想のようだった。

「今度なにかご馳走してあげるわよ」と、さらに愛想をいいながら、赤塚さんはほくほくしたような顔をして出ていった。こちらは、出金票に記入して金庫をしめれば、この件はお終いにしたかった。残金七万あまり。自分のポケットの中身とおなじだ。来月あたり結論をださねばな、と呟いた。独りでいると、つぶやきの数が多くなる。