天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

猫迷宮 65

2011年02月25日 23時53分47秒 | 文芸

                    

                                      

「神尾さん、お願いしますよ」

 トラックのエンジンを始動させながら、丸尾印刷の内山君は真顔でそういった。「俺、話すのが苦手だし、こうして、運転してるほうがラクなんです」

 相手は五つ六つ年下だが、ことさら年長者ぶるわけにもいかなかった。

「いいさ、社長にもいわれてるから。営業はこっちの仕事だからね」

「そのかわり、荷物は自分が全部運びますから。あの・・・」

「なに?」

「先方の事務所やなんかには入らなくてもいいですよね」

 内山君は、そうとう人見知りか、軽度の対人恐怖症のようだ。仲間のうちでは平気なのだから、そんなわけでもないのだろうが、丸尾社長のまえでは縮こまって働いているようすだった。

「車の運転は好きだけど、タクシーなんかは嫌だな」

 と、聞かれもしないのにハンドルをまわしながらつぶやいた。

「お客さんと世間話しなきゃならないときも多いでしょ」

「話題についてかないといけないしね」

「そうそう、野球の話題なんか嫌だな。ヒイキのチームが負けてたりすると気まずいし」

「タクシーやったことないんでしょ?」

「大きな会社の専属運転手を半年やったことあるんですよ。重役はみんな巨人のヒイキだったな」

「すぐにヤメちゃったの」

「ヤメましたよ。深夜に料亭や銀座にお迎えにいくんですから、キツクて」

「生活が不規則になるからね」

「それより、乗せる相手はみんな酔っぱらってイバリちらしているんですよねえ。黙っているだけでも、叱られるんですから。巨人が負けた夜に、おい、今日は野球どっちが勝ったんだ、って聞かれるし。野球ってのは巨人戦のことだし、巨人が負けていたら、ふん、といって機嫌が悪くなるですよねぇ。そんなに好きなら後楽園にでも行けばいいのに」

 笑っていると、内山くんは真顔でこちらをむいた。

「神尾さんはどうなんです? 野球のヒイキは?」

「あんまり関心ないなあ。ボクシングのほうが好きだな」

「そうそう、そんな受け答えしようものなら、即クビか配置転換だな。変ですよね、どのチームが好きだってかまやしないし、野球なんかキライだっていいじゃないですか。毎朝のように新聞をにらんでは、あの監督の采配が悪かったなんだってしたり顔で講釈するのなんてうんざりでした」

「そうという嫌だったんだ」

 内山君は苦笑いして、ハンドルを右にきった。白山通りを皇居方面にむかう。都内

をつっきって川崎の近辺まていくのだ。

「ラジオつけます。高校野球の地区決勝なんかやってますけど」

「また、野球?」

「これでも高校までは野球やってたんです。地方大会三回戦どまりでしたけど」

「関西だったっけ?」

「ええ、三年生の夏、二回戦で広島商業にボロ負けしました」

「ポジションは?」

「レフトの控え。守備のときキャッチボールしたり、バット引きしたり」

「試合に出られなくていいの?」

 内山君は、すこし黙っていた。

「よくいわれますけどね。野球やったもんじゃなきゃわからないところがあるんですよ。野球は九人でやっているもんじゃないんです。練習や、グランド整備から、洗濯や合宿の炊事当番や、負けて泣くことまで全部ふくめて野球なんです。だから試合の勝ち負けにこだわる野球なんて犬に食われろ、です」

「そうだよね、野球やってるからって、誰もがみんな甲子園やプロをめざしてやってるわけじゃないものね」

「能力のない者のたわごとみたいにいわれますけどね」

「そうじゃないさ」

「神尾さんも変わってますね」

 トラックが渋滞をぬけて、スピードがあがった。中小企業の自家用車だから、一般道をひたはしるしかない。車内のエアコンもあまりきかない。内山君のようにランニングシャツだと楽そうだったが、得意先と応対せねばにらぬので開襟シャツは必須だった。

 最初に納品予定の川崎の商事会社につき、駐車場にトラックを入れおえたとき、内山君は、こっそりといった。

「ここの経理課長は広島カープ贔屓ですからね。俺と同郷。同郷だからあんまりあいたくないんすよ」

「いいよ、車からでなくても。PR誌三百冊くらいだし。伝票おいてくれば済むことだから」

「すみません」

 内山君は、またペコリと頭をさげた。

 


猫迷宮 64

2011年02月25日 23時51分56秒 | 文芸

                                      

 池袋駅の東口までのろのろと歩いて、西武線で「桜台」まで乗っていった。各停はすいていた。家で夕餉の人はとっくに帰り、外で飲食する者はまだ店から腰をあげていないすきまの時間らしかった。

 乗客がすくなく、車両の隅っこの三人掛けの座席にふたりして座ったとき、ミドリちゃんは体をあずけるように寄り添ってきた。なんだかいつもとすこしちがっている。こちらもすこし大胆になり、肩をだいた。

 南長崎の駅に停車した。

 降りる人はない、そのかわりに女がひとり荷物をさげて乗ってきた。大きなバスケットだ。黙ってわたしの肩に頭を乗せていたミドリちゃんがビクッと反応した。乗ってきた女のバスケットのなかに猫が一匹入っていて、こちらに目を光らせたからだ。褐色のシャム猫のようだった。ミドリちゃんが飼い主と猫を交互に観察しているのがわかる。派手なところはないが長身で身なりのよい女だった。シャム猫と対にして豪奢な家具の間におけば似合いそうだ。三十代半ばで、独身。これは指輪をひとつもしていないところからの推測だが、電車に乗るくらいだから大泉学園のマンションかなにかの住人だろう。夜に猫を連れて移動とは、旅行で知人にでも預けてあったのだろうか。                                   

「あの猫」と、小さな声で耳打ちしてきた。「なに考えてるのかわからないわ」  

 こちらが不躾にみつめているので、女のほうは視線をさけて横をむいてしまった。バスケットのなかの猫だけは、じっとこちらをみつめている。池袋の公園にいた野良もいれば、貴婦人のような生活をしている猫もいるわけだ。もっとも王侯貴族なら電車になんぞ乗るわけはないと思うとすこし可笑しくなった。

「なにがおかしいんですかぁ」と、ミドリちゃんがまたいった。

「降りてから話すよ」と、いってやる。

 振動がして、桜台の駅に着いた。開いたドアから生暖かい外の空気がはいってきた。湿気をふくみ、夜半からはまた降ってきそうな雲行きだった。

「ねえ、なにがおかしかったんですかぁ」

 ホームに降りるなりよほど気になるのか、めずらしくミドリちゃんがたたみかけるようなたずねてきた。

「猫と飼い主の顔があんまりよく似てたもんだからね」

「あら、そういえば」と、思い出したのかミドリちゃんもお腹をおさえて笑いだした。

 

           ∴

                                      

「神尾さん、眠っちゃったんですか」

 と、ミドリちゃんが腕をゆすっていた。深夜だった。ミドリちゃんのアパートへ来て、そのまま部屋で抱きあった。いつかの夜のように遠慮がちにではなく、むしろミドリちゃんのほうがもとめるように激しくすがりついてきた。ミドリちゃんを抱きながら、ふと自分たちが獣のようだと思いもした。そして、あっというまに眠りに落ちてしまった。

「ねえ」と、いつになく執拗にこちらを揺り動かしているので眼をあけずにはいられなかった。どれくらい時間がたったのだろう。ミドリちゃんも眠っていたはずだ。

「なに?」と、半身を起こすと、ミドリちゃんは正座してこちらをみつめている。

「今夜のうちにお願いしておきたいことがあるの」

「うん」と、こちらもあらたまった。なんだか、他人行儀なやりとりになる。さきほど部屋のなかでころげまわったことが嘘のような気もした。

「神尾さんにこれを預かっておいてほしいんです」

 そういって、大ぶりの布でつくった袋を差し出した。

「なに?」と、また短くきく。

「大切なものです」ミドリちゃんの眼が光った。

「中を見ないほうがいいのかな」

「どちらでもいいですけど」

「じゃ、預かるだけにしておくよ。それで、いつまで持っていればいいの?」

 ミドリちゃんはすこし考えているようだった。

「今年の秋口くらいまで」

 妙なものだな、と思ったが黙っていた。

「後で中身を見たりしちゃいけないよね」

「かまいません。神尾さんに預けたんですから。変な物ではないです」

 袋を受けとると、ミドリちゃんはすこし安心したような顔をして、立ち上がると電灯のコードをひっぱった。

 暗くなった部屋のなかで、ふたりとも横になった。

 しばらく無言で闇をにらみながら、ふとミドリちゃんはどこかへ出かけるつもりなのだろうか気がついた。それをきくタイミングはのがしてしまったが、明日の朝でもよいことだ。ミドリちゃんは子猫のようにまるまりながら、顔をこちらによせて寝息をたてはじめている。

 ミドリちゃん。ほんとう名前は島村沙代なのだが、サヨという名前で一度も呼んだことがないし、思いうかべたこともない。なんだか架空の人間とつきあっているような気さえする。沙代と考えた瞬間に相手が見知らぬ者のように思えてきそうだ。すぐそばで寝息をたてている女が誰なのかわからなくなってくるようだった。ミドリちゃんという名前でようやくつなぎとめておけるような存在なのだ。そんな妙なことを考えるのも夜のせいも知れなかった。赤塚さんもマンションに帰ったのだろうか。今頃猫たちと眠っているかもしれない。彼女の来歴だとて知るわけもないのに、このあいだはまぢかでその寝息を感じていた。それがほんとうのことだったのかも今では疑わしくなってくる。子どものころの一時期、深夜に眼をさまして、そのまま朝まで眠れなくなることがあった。そんなときは、決まって、自分はなんでここにいるのだろうと思ったものだ。この家、この町、この国、自分がこれまで過ごしてきた場所ではないような気がしてくるのだ。自分はもっとべつのところにいたのではなかったか。自分のまわりにいる人間も、見知ってはいるが、それ以前にもっとごく親密な人たちがいたような気がしてならなくなる。父親は、はやくに亡くなっていてよく覚えておらず、母親の昔語りをたよりに思い描くばかりだったし、その昔話が得意な母親にしろ、幼児からの記憶がなかった。すっかり忘れてしまったといえばそれまでだが、幼児の頃あやされたり、肌で感じたぬくもりや、匂いのようなものはなにひとつ残っていなかった。小学校の初めての参観日にいつもより化粧の匂いを強くさせて、着物でやってきた姿が強く思い出されるだけだった。

 ミドリちゃんがすこし動いた。夢でもみているようだった。色白で、鼻がちいさくて、小動物のような寝顔だ。どこで生まれて、育ってきたのか、まだ聞いたことはない。親元のこととか、学校時代のこととか、誰しもがもっている来歴を知らぬまま、その寝顔を眺めているというのも不思議な気がした。いきずりでもなんでもなく、もう長い知り合いで、毎日顔をあわせてきたというのに。そのうえ、今夜はもっと秘密めいた荷物を託されてしまった。わたしが神尾さんを選んだのだもの、といいそうな顔をしていたものだ。

 そんなことを寝入りばなに考えていたせいだろうか、それから長い奇妙な夢を見つづけた。

 


猫迷宮 63

2011年02月25日 23時50分34秒 | 文芸

七時を過ぎているのに、その店はすいていた。東池袋の駅に近く、昼間はオフィスの客もランチにくるようだが、池袋の東口からはかなりあるので夜は客足がとだえがちのようだった。すぐ近くには都電荒川線の停車場があるが、その乗降客は店の客にはなりそうもなかった。一組だけ若い男女の客がいて、静かにパスタを食べていた。無言で熱心に食べている。

 店のなかをみまわして、ミドリちゃんは可笑しそうにしている。

「なに?」

「ずっとまえに来たときは、もっと混んでいたの。なんだかさびれた感じ」

「おいしくないの?」と、声を潜めた。ミドリちゃんは首をふった。「駅から遠いから。それにここのお客、あまり長居はしないんですって」と、友だちから聞いた話をうけうりで話しだした。「この裏のほうに何軒かラブホテルがあるんですって。カップルできて、食事して、すぐにそっちのほうへいっちゃうらしいわ」

 なんとも返答のしようのない話題だ。

「あたしも、そんなところへ一度いってみたいわ」

「じゃあ、あとで行こうか」と、お茶でも飲みにいくみたいにいってやった。

 ミドリちゃんは、また可笑しそうに笑ってから、「うん」と、嬉しそうにうなずいてみせた。

 

 レストランを出て夜の町を歩きだした。すくそばに小さな公園があって、そのむこうにはラブホテルのネオンがいくつか光っていた。ミドリちゃんが先にたっていく。公園にはいっていく。なにかと思っていると、どうやら公園内に猫が何匹がいるのをみつけたらしい。

「神尾さん、こっちよ」と、手招きする。

 野良猫らしい毛皮の汚れた猫が三匹なにか食べていた。捨てられたゴミを漁っているようすだ。弁当ガラなのか、近くの料理屋の裏から引きずってきたのかビニールのゴミ袋が裂けて散乱していた。

「みんな飢えてるみたいだね」

 と、しゃがみこんで見ているミドリちゃんに声をかけた。あまり触らないほうがいい。一匹は若い猫で、すこしはなれて様子をみながら、ニャーニャー鳴いていた。なかなかおコボレにあずかれないようだ。

「あんたもお腹すていんのねえ。なにか持ってるとよかったわ」

 と、その若い猫に手をさしだしている。

「やせているね」

「なんか、かわいそうだわね」

「公園に住んでるのかな」

「このあたりがシマなのね」

 ミドリちゃんはとりわけ若い猫のことが気になるようで、いつまでたっても腰をあげようとしない。近くのベンチにさがって煙草に火をつけて待つことにした。ミドリちゃんは猫たちにさかんに話しかけている。なんだか話し込んでいるような風情にもみえた。猫たちもたいして食べるものがなかったのか、顔をあげてミドリちゃんのほうをみあげていた。

 公園に誰かがはいってきた。腕をくんだ男女がもつれるように歩いてくる。猫たちはビクリと反応して、近くの藪のなかに走りこんでいった。しゃがみこんでいるミドリちゃんだけが残された。近づいてきたアベックは、そこにいるミドリちゃんに気がつかなかったらしく、ぶつかりそうになって、女のほうがキャッと小さな声をあげて男のほうにしがみついた。「ばか、そんな声だすなよ」と、男のほうがいっている。ミドリちゃんは、猫のような視線でそのふたりの後姿をみていた。アベックは公園を通りぬけてラブホテルのほうにむかっていくようすだった。

「逃げちゃったかな」

 と、声をかけると、やっと立ち上がってベンチのほうに走ってきた。

「逃げちゃたわ。もっとお話してたかったのに」と、真顔でそういった。

「帰ろうか」と、立ち上がってミドリちゃんを見下ろした。

「はい」と、ミドリちゃんはまだ猫のような眼つきをしたまま、こちらの腕に手をまわしてきた。

「送ってくださいね」

「うん」

「すこし話したいことあるの」

「うん」

 と、そういって、まだ宵の口の町を歩きだした


猫迷宮 62

2011年02月25日 23時49分01秒 | 文芸

  また『昭和戯文集成』の難儀な校正がはじまった。今度の章は新興宗教の冊子ではなく、新聞記事の抜粋が連なっていた。主として、広告記事や猟期事件の報道、超能力者の実験報告やら、霊能力者列伝みたいな雑誌記事もまじっていた。帝国大学教授某氏の論文が記事にちりばめられている。

 

  東京市中、下落合の教授私邸にて本実地見聞はなされたり。実験の参観者として、帝国大学理学部、渡邊良平教授、同平田義宗助教授、本誌記者、大山儀平の三名が立ち会うなか、帝国大学文学部教授、広重雄三による霊能者、菅野ヤイ(仮名38歳)の降霊術が見聞を開始される。菅野ヤイは和歌山県出身の寡婦にて、齢十六の頃より種々の故人の霊が降りて、遺族に先祖供養を訴える。近年は遠隔地の人間の生霊も現れるにいたりて近隣の評判となりしも、一方虚言として退ける者も多く、毀誉褒貶女史の周辺に溢れたり。                   『昭和戯文集成』 

                                          

 明治から昭和初期にいたる超心理学実験については聞いたことがある。いずれも女性の超能力者が透視や読心術の実験をし、いずれも詐欺よばわりされて学界からはしりぞけられたらしい。イタコや霊媒の実験も数多くあったようだが、当時の記録を眼にしたのははじめてだった。『日本心霊協会会報』という雑誌からの引用だった。この種の話は嫌いではなかったが、ときとして外国人の霊を降ろしてくるのはいいが、霊の言葉が日本語だけで、霊媒がいきなり流暢に未知の外国語を喋りだすようなことがないのが不思議だった。霊になると、どこの言葉でも話せるのか、それとも言葉を超えた意識を霊媒にあたえるためなのか、屁理屈はいくらでもいえそうだが、有名人の霊だけ降ろすというのも腑に落ちない。むしろ恐山のイタコのお婆さんたちが、先祖の霊を降ろして、いつも決まり文句のように「兄弟仲良く、墓守よくせよ」などと説教でしめくくるほうが愛嬌がある。それで人は癒されて泣くのだ。

                                      

 菅野ヤイ、この日ふたつの霊体を降ろしたり。一人は浮遊せし無縁仏といい、恨みごと様々つらねて去る。いまひとつは、立ち会いの本誌記者の母親の霊なり。本誌記者、驚天動地の思いいたしが、やがて滑稽千万との皮肉なる感想を抱くにいたる。彼が母堂いまだ郷里尾道に健在なり。さは、生霊を降ろしかと密かに嗤う。しかるに菅野ヤイ曰く「汝、いそぎ帰郷しませ」といふ。一同暫時休息せしとき、教授宅の電話にわかに鳴りたるに、博士応対に退出せり。すぐに奥より、本誌記者の名を呼ばわりて告げる。記者の郷里より本社に電報あり。「ハハ危篤、急ギカヘレ」

                                    『昭和戯文集成』

 

 菅野ヤイは、スガノヤイと読むらしい。様々な霊というか思念が、彼女をとおしていわば受信機かラジオのようにメッセージを送ってきていた。霊たちは一方的に話をして、こちらの問いかけには一切応えなかったらしい。ヤイが時々誤植でヤエになっていたので赤を入れる。一か所だけヤヨイになっていた。原稿のほうもそうなっている。昔は戸籍上の名前でなく通称をしるしたものが多かったから、本当菅野弥生という名であったかもしれない。弥生というと上代の土器のような神さびた感じがする。 三分の一ほど校正し終わったところで、電話が鳴った。丸尾印刷の社長だった。手が空いていたら来てほしいという。いつだって手は空いている。どの仕事も緊急ではないのだ。すぐ行きますよ、と電話を切った。

 印刷所の二階の事務所にはいっていくなり、丸尾社長は「おう」と。いつものような声をあげた。「呼び立てちまって悪いな」と、破格の挨拶だ。

「まあ、すわって」と、いわれるままに開いているスチール椅子をひっぱった。

 ミドリちゃんが、すぐにお茶のはいった湯飲みを目の前に置いた。社長は夕方には茶など飲まないくちだ。自分の机にもどってから、ミドリちゃんがじっとこちらを見た。わざと視線をあわさぬようにして茶をすするまねをする。ミドリちゃんがまだ眼をはなさない。なにか話があるらしい。

「それでなんだけど」と、さっそく社長は用件をきりだした。「丸尾印刷の営業の仕事をしばらくスケてくれないかな」

「営業ですか」

「うん。ここんところ動けなくなっちまってな。なに、納品と集金くらいのもんだ。校正刷りの受け渡しなんかも頼むよ。色物の校正だって大丈夫だろう?」

 美術印刷でもないかぎり、先方とのやりとりに支障があるわけでもない。そのへんは門前の小僧ですっかり覚えている。赤を強くしろとか、色指定だとか、先方が詳しければそのまま伝達すればいいし、相手がシロウトならの曖昧な希望をこちらなりに解釈すればそれですむ。面倒なのは依頼主にデザイナーがついていて、細かなことをうるさく言いだすときだが、それもむこうの指定を書き込んでもらえいい。相手も印刷屋の営業の力量くらい知っているはすだ。ほんとうに気になるなら、印刷所まで足を運んで担当者と打ち合わせるのがプロというものだ。

「な、それでな、集金はしっかりたのむよ。配送の内山にはまかせられねえんだ。あいつは請求書を置いてくるのはいいが、入金の期日をしっかり念を押してくるのができねえらしい。即金でもらってくることもあるから、二人で行ったほうがいいしな。なあに、内山は運転と納品だけだ」

 内山とはこの春に入社した青年だった。印刷助手と配送担当で、いつも軽トラックで走り回っていた。

「いまやってもらってるやつの校正が終わったら、ここの住所に届けて、最終見積もりを渡して、仕上がり期日を決めてきてくれないか。もう一年ちかくひっぱられてるからな。あとどれだけ原稿がはいるのかちゃんときいてな」

 これ以後さらに原稿が増えるのなら分冊をすすめる。いまある原稿でも四百ページにはなっている。

「いいか、分冊でも箱入りにすれば見栄えがいいっていってくれよな。箱代はかかるが、いまさら経費をねぎってくる相手じゃないよ。なにしろ宗教法人の関係者らしいからな。金はあるさ」

「最初の見積書ありますか?」

「おう、島ちゃん、神尾君に『戯文集成』の見積書だしてやってくれ。はじめは三百ページってことで計算してある。な、わかるだろ。それが一・五倍にはなってるわな」

「じゃあ、きちんと話をつけておいたほうがいいですね」

「おう、そうしてくれるか。月末までに行ってきてくれるといいんだが。校正は終わるよな」

「二三日で終わりますよ」

 ミドリちゃんが書類を持ってきた。先方の所番地もついている。

「大森ですか?」

「うん蒲田の近くらしんだが、内山が一度行ったことがあるからわかるだろう」  

 ミドリちゃんが、もどりぎわに、人にわからぬようにこちらの背中を指で軽くつついた。仕事が終わった後で紅花舎にくるつもりらしい。席にもどってから、またこちらをチラリと見た。

「ほかに集金なんかは?」

「うん、小口が二件ほどあるな。どれも折り込みのチラシだ。こいつは直接取りにいってくれ、電話はこちらがしておくから。明日でもいい」

「はい」と、いって二件の伝票を受けとった。どちらも千代田区内で近い。

 いうだけのことをいってしまうと、丸尾社長は巨体をゆすって大きな欠伸をした。それから、低く唸って、すこし苦しそうな顔をした。

「背中が痛くてな、腰もそうだけど、肝臓のせいらしいや」

 肩をぽんとたたいて、首筋もこっているようだった。

「酒をすこしひかえますか」

「うんにゃ」と、曖昧な返事をしている。「一杯だけにするよ」と、いって時計を見ている。いつも五時すぎに焼酎のお湯割りをつくらせるのが日課だ。まだ、それには早い。一杯だけといっても、誰か客がくれば話はべつだろう。丸尾社長は飲めるうちは飲みつづけるくちだ。嫌でも飲めなくなるときがそのうちくる。飲むと一時的に体が楽になったような気がするのかいけないらしいが、そんなことをいっても聞くような相手ではなかった。

 紅花舎にもどると五時を過ぎていた。すぐにミドリちゃんが手提げを持って上がってきた。なんだかさそってほしそうな雰囲気だ。

「ご飯食べますかあ?」と、いつものように語尾をのばしてくる。なんだか嬉しそうだ。 丸尾印刷から仕事をだしてもらえたので当座はしのげそうだと安心したらしい。それはいいけれど、今日の社長の様子ではだいぶ体が悪そうだ。丸尾印刷の社長が倒れでもしたら、ことは紅花舎の校正係の生活どころでない。経理は奥さんがしっかりやっているが、中小の印刷屋は営業力が生命線だ。社長の顔でとってこれる仕事がほとんどなのだ。

「うん、ちょっとまってて。片づけるから」

 デスクに書類をしまっていると、ミドリちゃんはかいがいしく窓をしめたり、湯呑みを洗ったりしてくれた。

「明日からまた雨になるんですって」

 手をふきながら振り返ってそういった。

「朝からかあ。また自転車使えなくなるな」

「でも、あたし雨も好きですよ」

 と、いつかの晩のことを思い出したのか、ミドリちゃんは悪戯っぽく笑った。結局あの夜の謎は解けないままだ。

「どこへ行こうか」

「たまには池袋のほうへ行きませんか?」

 レストランか、と池袋近辺の地理を思いめぐらした。駅の東口も西口も不案内だ。駅構内の異常な人混みにも気後れする。

「首都高の下に何軒か知っているお店があるんですけど」

「洋食?」と、いってしまってから、よせばよかったと思う。

「イタリアンとかいろいろです」

 ミドリちゃんはうれしそうにイタリアンといってみせた。なるほど、女の子はいつもラーメンやカツ丼では嫌のようだ。


猫迷宮 61

2011年02月25日 23時46分02秒 | 文芸

                            

 

 次に眼を覚ましたときには赤塚さんは出かけていた。朝から仕事のある日だったようだ。卓袱台の上に書き置きがあり、戸締りと鍵を頼むとあった。寝床はそのままにしておいて、とある。そんなわけにもいかないので、蚊帳をはずし、寝具をたたんだ上に置いた。赤塚さんと寝た一組だけの布団を始末するとき、なんだか妙にかたづかないような気持ちがした。肝心のことは聞けずじまいだった。

 流し台で水を一杯だけ飲んで引き上げることにした。九時をすこし過ぎている。曇って蒸し暑い朝だった。ひと雨ほしい頃合いだが、ひとしきり続いた雨降りが近頃では嘘のような空梅雨になっていた。

 赤塚さんが洗って干していってくれたシャツも下着もすっかり乾いている。シャツを着込み、下着はそこらの紙袋をもらってそれにいれた。

 戸締りをして、植木鉢の下に鍵をすべりこませると、家のまえの路地を歩きだした。路地から車道が見えたのだ。細い石段を下りるとすぐに通りだった。そんな小さな段々にも袖すり坂という名前があるらしく、石の標識のようなものがたっていた。なるほど袖をするほど狭いわけだ。

 通りをくだっていけば外堀通りにぶつかるはず。陽射しに眼がくらみながら、とぼとぼと朝帰りならぬ出勤だった。水道橋まで歩く元気はないので、一駅でも乗ろうかと思っていると、ふとしばらく自転車を使ってないことに気がついた。雨が続いて地下鉄でしばらく通っていたせいだが、自転車を使わなくなって生活のテンポがすっかりみだれてしまったような気がした。

 飯田橋駅のホームに立ち、すべりこんできた電車とのあいだに大きな暗い淵が口をあいていて、そこに呑み込まれそうな妄想がわいた。この駅のホームが弧を描いているためなのだが、これまで幾人かは落ちたにちがいない。油断をして人にこづかれて落ちることだってありそうだった。

             ∴

「神尾さん、どうしちゃったんですかぁ」と、呼びかけている声がした。「タマシイぬけちゃったんですかぁ」

 紅花舎のデスクに肘をついてぼんやりしていたのだ。赤塚さんと、旦那の行く末を考えていた。東北から北海道まで長距離の仕事に出ている旦那のほうから問い合わせがあったらなんとこたえるべきだろうか。昨夜の赤塚さんとのことは話さぬにしても、なにもしないでいるというわけにもいかない。赤塚さんのほうは、そのあいだにマンションに戻っているだろうし、やはり夕べ正直に話しておくべきだったような気がした。どのみち赤塚さんと口裏をあわせることになるだろうが、そのほうが穏便のような気がした。

 ミドリちゃんがじっとみつめている。すこし頬をふくらませていた。

「うん、暑くてボケたかな」と、曖昧に笑う。

 なんだか腑に落ちないといった顔をして、「お仕事よ」と、分厚い封筒をさしだした。

「何?」

「『昭和戯文集成』です。このあいだに送られてきたぶんです」

 またぞろ頭を悩まされそうだ。

「それから、うちの社長さんが用事があるので、手があいたら顔をだしてほしいそうです。この仕事の件のようです」

「急ぐの?」

「なんだか、神尾さんにうちの仕事手伝ってほしいらしいんです」

「営業ってことかな」

 おおかたは想像できた。丸尾印刷は、営業はもっぱら社長ひとりがやっていて、あとは印刷工が三人、そのうち一人は配送にあたっていた。事務員はミドリちゃんだけだし、経理は社長の奥さんだ。年度末などの繁盛期には手がたりなくなることは想像できた。

「社長、体でも壊したの?」

 ミドリちゃんはデスクのほうにまわってきて、隣の椅子に腰をおろした。

「調子がよくないっていうので、このあいだ病院で検査してもらったら肝臓のなんとかって値が高くなってたんですって」

「飲み過ぎだよね」

「はい」と、ミドリちゃんはこっくりした。「なんか腰の調子もよくないって」

「太りすぎだよね」

「はい」

 そのうけこたえが可笑しくてふたりして笑った。

「でも、うちの社長、なんだか神尾さんのこと信用しているみたいなところがあるんです」

「そうかな」

「お金の処理を任せても大丈夫ってことかしら」

 そういえば、例の稲葉氏からの預かり金を丸尾社長に相談にいって、きちんと始末していた。結局、印刷半金として丸尾印刷が受け取り、校正料としてこちらに二割戻してくれた。最終支払いのときに、印刷代金を清算し、残りを紅花舎の手数料としてもどしてくれることも話がついた。校正料は給与として支払われると大曲社長と約束してあるから問題はないともいってくれた。そのとき、丸尾社長がいっていたことがを思い出した。大口の集金にいったきり姿をくらましてしまう従業員がこれまでに二人いた。神尾くんは真面目だね。いっちゃあなんだが、この六十万を未払い給与や退職金がわりにいただいてドロンされてもしかたがないところだ、と。大曲氏のいいかげんさに丸尾社長もあきれているようすだった。

「夕方になって、こっちが一段落したら顔をだすよ」

 ミドリちゃんは帰っていった。 


『猫迷宮』について。memo

2011年02月25日 02時35分42秒 | 文芸

           

 

 

『猫町∞』の約10年後の物語として、本郷二丁目の零細出版社に転がり込んだわたしの漂流者的、いってみれば猫的な生活が語られていく。その猫が、猫にまつわる奇妙な人々の事件にまきこまれていく。ときどき姿をみせる謎の少年もいる。梅雨時から、真夏にかけてのあいだに、目の前に現れた人間たちがつぎつぎに失踪していくのはどうしてか。それもこれも、記憶の一部が欠落した10年前に鍵がありそうだった。『猫町∞』で迷い込んだ猫の町での記憶が。

『水に棲む猫』(パロル舎刊)は1964年の物語。

『猫町∞』(同上)は1974年の東京の街で。

『猫迷宮』(未刊)は1984年あたりの本郷である。

連作として考えていたわけではないが、どうやら10年ずつ、時を隔ててこの猫小説はつづいていくようだ。


猫迷宮 60

2011年02月25日 02時23分37秒 | 文芸

 ガラスの引き戸をあけて、湯殿をのぞいてみた。タイル張りの小さな風呂場だった。洗面器と石鹸箱のほかはなにも置いていない。湯船のフタはない。

「はい、これね」と、後ろからタオルを渡された。すぐに引き戸をしめられてしまった。狭い脱衣場で服を脱ぐ。お湯よりも、冷たい水を浴びたかった。

 洗面器で湯をすくって浴びる。湯はぬるかったがそれが心地よい。石鹸を手のひらで溶かして、体のうえに丁寧にのばしていく。腋からはじめて、局部に手がのびたとき、これからの展開に思いがおよんだ。そうなるだろうし、そうするだろうなと思いながら、また湯を浴びる。その後のことは思いのほかだ。いい気なものだが、男の妄想がわいてくる。だが、そうなるまえに、赤塚さんはまた茶の間でつぶれてしまっているかもしれない。

 ガラガラと、ガラス戸が開いて、赤塚さんの声がした。

「これ着てね。みんな新品だから」と、下着と浴衣だ。まさか用意していたわけのものでもあるまい。すこしだけ後ろめたい気がする。あっと思うまもなく、こちらの脱いだものを全部持っていかれた。

 しばらく湯船のなかにクラゲのように浮いていた。自分はなにしに来ているのだという思いが浮かんでは消えた。いつもこんなふうなクラゲみたいだな、と独りごつ。いつから、クラゲみたいに漂うようになったのか。いつかしら、巨大な越前クラゲのような化け物じみて大海に浮かぶ日があるのかもしれないな、とまた妄想がわいてきた。

 浴室にシャワーなどなかった。蛇口から水を出して三杯頭からかぶった。<斎戒沐浴>、まるで水ごりだなと思いつつ体を拭いて、衣類を手にするとなるほど新品ばかりだった。旦那に教えていない家になんでこんな準備があるのか不思議だった。赤塚さんにはもっと秘密があるのかもしれない。ただ、浴衣だけは洗ってあるらしく着心地が柔らかだった。

「さっぱりしたでしょ」と、赤塚さんはにこにこ笑いながら茶の間に座っていた。

「服みんな洗って干しちゃったわよ」

 と、いたずらっぽくまた笑った。すこし酔いがさめているのか。

「さ、これ」

 と、いって卓袱台の上に氷を入れたグラスを置いた。

「水?」

「そ」

 そのまま一気に飲みほした。

「水だと、のみっぷりがいいわね」

 おかしくてたまらなそうだ。

「お酒もいいけど、最後は冷たい水よね。これが飲みたくて、わざわざお酒を飲むみたいなことってない?」

 そこまでの思いいれはないが、確かに水はありがたかった。

「それから、また飲むんでしょ」と、いってやる。

「そうよぉ、あとはいくらでもいただくわ」と、返事。それから、うなじのあたりを薬指でさすりながら、「わたしも浴びてこようかな」と、いっている。

 黙っていると、こちらをしげしげとみつめて、

「その浴衣わけありなの」と、タネ明かしのような口調になった。「変でしょ、そんなものがこの家にあるなんて」

 なんとも言いようがない。

「それ本当に誰も袖をとおしたことのないものよ。だけど、買ってから何年にもなるけれど、夏になると一度水洗いしてたたんで置くの」

 おそらくこの浴衣を着るはずだった人のことを思い出しているのだろう。今の旦那ではない別の男。この家に通ってこなくなった誰かだ。

「よかったんですか、ぼくなんかが借りて」と、いまさらの応対だ。

「いいのよ、神尾さんに着てもらえれば」と、すこしだけしんみりした。

「あたし」と、すこし言いよどむ。「あたしが神尾さんを選んだんだもの」

 この際、なにか言わないほうがよさそうだった。

「あたしも、お湯を浴びてくるわ。いいでしょ? 神尾さん、隣に蚊帳が釣ってあるの。お布団でやすんでいて。いいのよ寝ちゃったって」

 と、言い置くと、すっと立っていってしまった。冷たい水を飲んで、すこし酒もさめかけていた。これからまた飲むのもつらい気がした。言われるままに、ひとりで隣室にいくと、いったとおり六畳間に昔懐かしい緑の蚊帳が吊ってあった。これも、赤塚さんの母親の残していったものなのだろう。自分も子どもの頃になじみがある。蚊を入れないように蚊帳の裾を用心してもぐらねばならない。そんな所作を思い出した。赤塚さんは徹底して母親との暮らしを踏襲していたのだ。

 もう遠慮もなにもなく、蚊帳の裾をたぐって中に転がりこむ。布団はひとつしかない。枕がひとつというのは、こちらが訪ねてくる前からの仕度であったのかもしれない。

 湯殿で水音がしていた。

 それが遠くの雨音のようにも聞こえる。

 いつかこんな晩があったような気がしてきた。やはり夏の晩だったようだ。疲れ果て、薄れていく意識のなかで、雨音だけが聞こえていた。そんな遠い記憶だ。

  蚊帳のなかに人が入ってきて、自分の隣に寝そべる気配がした頃には、すっかり眠りこんでいた。眠りからほんのすこし浮き上がった。

「眠っちゃったの」と、耳もとでささやいている。うん、といって体だけめぐらすと。こちらの胸もとに顔をよせてきた。なにも言わない。腕をまわして、頭を抱えこみ、肩を抱いた。だが、それ以上は動けなかった。

「神尾さんて、やさしいのね」と、これもどこかで聞いた台詞だ。そんなわけでもないのはよくわかっている。万事なりゆきまかせなだけだ。

 赤塚さんもじっと動かずにいたが、すぐに寝息をたてはじめた。あれだけ飲んだあとだ。すぐに眠りにひきずりこまれても不思議ではない。男女の情熱が発火するにしても潮時というものがあるわけだ。

 眠りにおちてすぐに夢を見た。やはり赤塚さんの家にいて、ひとりで畳のうえに寝ころんでいる。縁側に猫が二匹いて、日向であやしくじゃれあっている。一匹は見たことのあるこの家の猫だ。片方は真っ黒な精悍な牡猫だ。牡だとわかるのは、さかんに交尾をしかけているからだった。相手の首のあたりを咬んでみたり、陰部の臭いをかいでみたり、相手の発情を誘っているのが見てとれた。人が近くにいるのに大胆だな、と思ったが、自分は眠くて身動きもならないのだ。ただ、薄目をあけて眺めているだけだ。やがて雌のほうも発情したらしく、牡に背をむけて動かなくなった。黒猫は、背後から覆いかぶさるようにして雌の背にのしかかり、そろそろと腰を入れはじめた。二匹が重なり動かなくなった。牡だけはときおり、ブルッと体をふるわしている。それにしても、あんな明るいところで交尾するとは無警戒なものだなと思う。いつか昼日中にみかけたのは、誰にも見とがめられない屋根の庇の陰だった。

 ふいに、部屋に人がはいってきた。「あら」と、赤塚さんの声だ。「こんなところで寝ていてはだめよ」と、縁側の猫たちに気づかないのか、もっぱらこちらが気になるようすだった。ああ、と返事をしようとしても動けなかった。金縛りにあったよう。「ねえ」と、耳もとで吐息が聞こえた。「あたしたちもよ」

 体になにかがのしかかってきた。胸が苦しいので、あらがう。金縛りをはやくときたい。声をだそうとするが、喉もつまっている。

 はっとして眼を覚ました。体か動かぬわけだ。隣の赤塚さんはこちらの腕を枕にして眠っている。腕は痺れたようなに重くなっていた。

 


猫迷宮 59

2011年02月25日 02時18分52秒 | 文芸

                                            

                                                                             

 一息風がきて、すぐにまたがやんだ。夏の夜の気まぐれな吐息だ。この界隈をひとわたり遊び歩いて、またどこか場末の町に流れていったのか。

 蚊とり線香も燃え尽きていた。

 赤塚さんはもうほろ酔いをとおり越している様子だった。それでも、話すことが支離滅裂にならないところは、よほど酒が強いのだろう。このあいだみたいに突然つぶれてしまうのだろうか。

「猫、帰ってきませんね」

 同じことをまたいった。

 しばらく返事がなかった。なにか考えごとをしているのか。溶けかかった氷をにらんでいた。

「気をきかせてるのじゃないかしら、ねえ」と、こちらを見た。「神尾さんが来ているから」

  なにか軽口をいおうとしてやめにした。

「猫には猫の夜があり、人には人の夜があるわけよね」

 赤塚さんのほうがよほど気のきいたことをいった。

 すこし暑そうなしぐさをみとめられたのだろうか、「あら、シャツなんか脱いじゃったら」と、立ち上がってきて、否やもいわせず、後ろから袖をひいた。後ろからふきかけられた息がそうとう酒くさい。

「これ、洗っといてあげるわねえ。すぐに乾くわ。水洗いして干しておけば朝には乾いているわよ」

 と、脱がせたシャツを奪って奥へいってしまった。しばらく、独りにされる。ほんとうに水洗いしているようすだ。間がもたず、ひとりで酒をつぎだしてあおっていると、ようやくもどってきた。すみません、といおうとすると「水臭いわ」と、言葉をかぶせられた。

「あなた、お湯を浴びてきたら」

 と、さも当然というふうにいってくる。                   

「ほら、こっちよぉ。せまいけど」

 と、手招きするので、立ち上がる。

「台所暗いから気をつけてね」と、先にたって奥に入った。

 こざっぱりした古風な台所だった。板の間に、昔家にあったようななまこ石の流し台と、ガス台。ガスレンジなどではなかった。つかいこんだ薬罐がぼうっと光っていた。

「こっちね」と、声がして、歩みよると、赤塚さんの体とぶつかってしまった。そのまま、赤塚さんはしっかりと抱きついてきた。このあいだと同じだ。どうしようかと思うまに、ふふっと笑っている。すぐに体をはなして、「タオルと着替え持ってくるわ。汗流してぇ」と、言い置いて茶の間のほうにもどっていった。


猫迷宮  58

2011年02月25日 02時16分37秒 | 文芸

「どう思うの?」

 カードをひっくりかえされた。

「まえに紅花舎に勤めていたときの赤塚さんとは違いますね」

「どんなふうに」

「若くなったような感じですかね。女を感じます」

 これは率直な感想だった。

「あら、嬉しいわ」

 すこし刺激的すぎたろうか。このあいだのことがあってから、やはり赤塚さんには女を感じているのは確かなのだ。十歳ほど年はちがうが、以前ほどその年齢さもうすれている。そういうものなのかもしれない。数時間まえに、彼女の旦那の相談をうけていた自分が白々しい。だが、この家は、赤塚さんにとってはもう別の世界なのだという気がしていた。この家がなければ赤塚さんは生きていられないのかもしれない。「あたしね」と、また告白調になった。「ほんとに猫だったらいいのにと思うことがあるのよ」

「飼い猫ではないですよね」

「そう、野良猫のなかの野良になりたいわぁ」

 ぐいとグラスのなかのものを飲み干している。

「覚悟がいりますよね。野たれ死にするっていう」

「あら、ずいぶん大げさね」

「野たれ死にがこわいっていってるんじゃないですよ」

 と、こちらも酒をあおってみせた。

「そうよね、神尾さんて野たれ死の素質があるわ」

 投げやりにみえる生活態度をいっているのだろうか、言葉のなかに羨ましげな響きがある。

「寂しくても平気みたいってことなの」

「そう見えますか」

「寂しいから誰かにすがるんでしょ、人間て」

 寂しいと書くより、淋しいと書いたほうが好きだな、とどうでもいいようなことを考えている。何事も突きつめて考えたら、終いには寂しくなるとわかっているだけだ。 台所のほうでコトリと音がした。すぐに、にゃあと一声した。

「あら」と、いって赤塚さんは立っていった。あんただけ帰ってきたの。なに? ミルク飲みたいの?  と、子どもにでも言うように話しかけている。冷蔵庫を開け閉めしている。床にコトリと皿を置く音がした。

 すぐにもどってきて、またグラスを手にとった。

「また、でかけていっちゃうのよ、あの子。どこにいってるのかしらねぇ」

「もう一匹いましたよね」

「そう。もう八歳になるわ。雌なんだけど、年をとってきたらだんだんわたしの母親に似てきたような気がするの」

「猫がですか」

「そう。座布団の上で眠っているようなとき、母親のような鼾をかいたり、なにか小言のようなことを喉声でゴロゴロいいながら、わたしの脚をひっかいたりするようなとき、はっとするわ。縁側のお気に入りの場所も同じだしね」

「面白いものですね。猫に生まれ変わって、娘のところ来たのですかね」

「そういうことも世の中にはたくさんありそうな気がするの」

「ぼくのお袋さんなんか、いまごろどこにいってるのかな」

「どこか身近なところに生まれているかもしれないわね」

「虫とかですか」

「そうね、虫とか」

「それじゃあ、知らずに御先祖様をたたきつぶしているかもしれませんね」

「神尾さんて虫嫌いだったわね」

「覚えてたんですか」

「紅花舎に入ったばかりの頃、アブラムシが一匹机の上を歩いているのをみつけて大騒ぎしたじゃないの」

 そんなこともあった。確かにアブラムシは嫌いだったが、厨房ならともかく職場にそんなものが這いだしてくるのがゆるせなかったのだ。紅花舎がどんな会社かよくわかった今となっては異形なものたちが顔をだすのもあたりまえのように思えていた。「変なこと覚えていますね」

「そうよねえ、ほかの社員の影がうすかったせいかしらね。名前は今でも覚えているけど、どうも顔が思い出せない人ばかり」

「経理やってて、名前と数字ばかり気にしていたからじゃないですか」

「そうねえ、普通はその逆っていうでしょう? なんか、あの会社の人、魂のぬけているような人ばっかだったわ」

「社長にぬかれちゃうんじゃないですか」

 そんなまぜっかいしに、赤塚さんはさも可笑しそうに笑った。

「神尾さんはどうなの? まだ魂ぬかれてないの?」

 初めからどこかへ遊びに出ていることが多いから、ぬかれる隙もありません、といおうとしたがやめにした。どこへ遊びに出ているのとつっこまれたら面倒だ。

「本人にはわからないんじゃないんですか」

「そうねえ、調べたげようか?」

 と、いって赤塚さんはまた笑った。物言いがだいぶくだけてきた。

「霊媒師みたいですね」

「レイバイシ?」

「イタコとか口よせって知りませんか?」

 赤塚さんはふくみ笑いをした。

「それやってもらったことあるわよ」

「お母さんの霊を呼んでもらったことがあるんですか?」

 当然そうかと思ってそういったのだが、見当はずれだったかもしれない。赤塚さんはかぶりを振って、誰を呼んでもらったかはいわなかった。

「母親なんかわざわざ呼んでももらわなくったって、いつもそばにいるような気がするわ。どうせ呼んでもらえるのなら、どうしたって会えない人じゃないかしら」

「何百光年もかなたにいってしまったような人ですか」

「・・・そう」

 こんどはすこし淋しそうだった。

 茶の間のレースのカーテンがゆらいだ。すこし風が出たようだ。網戸がしっかりしているので虫がはいってくるはずもなかったが、用心のためか赤塚さんは最前から蚊とり線香に火をつけていた。浅い陶器の皿に平たい石が置いてあって、渦巻き線香の五センチほど折りとってのせてある。こうしておくと時間がわかるのよ、といっていた。

「川っぷちの家に住んだことがあったけど、それはひどいヤブ蚊だったわ」

「どのあたりですか」

「江東区だっかしら。川というかドブみたいで、流れがおそいのよ」

 流れのおそい川のほとりにいると、時間までゆっくり流れるような気がする。ドブとなると、むしろ滞るというべきか───もちろん、これはいつか読んだ小説のなかにあった言葉だ。同人誌に発表して、私家版でだした本だ。最初の頃てがけた本のほうが、緊張して何度も読み返したからそれだけ覚えているのだ。黒い流れは、それだけゆっくりと夜を押し流していく、と。

「でも、夏のほうが好きだったわね。冬は虫も出なくなって淋しいわ」

 扇風機をとめている。蚊とり線香の煙がこちらに流れてきた。なんだか懐かしいような匂いだ。_


猫迷宮  57

2011年02月25日 02時14分38秒 | 文芸

「ねえ、聞いてるのぉ」と、耳もとで赤塚さんの声がした。いつのまにか、新しいビールの瓶を運んできていた。脇にすわって酌をしてくれる。

「なにか考えてたでしょ」

「ええ」と、いって一口飲んだ。「犬は飼ったことがあるけど、猫はないなって」

「そう」と、あまり関心のない返事だ。

「猫は嫌いじゃないですけど、気心が知れないというか、いっしょに暮らす相手ではないような気がするんです」

「そうねえ、飼い主を主人だとは思わないみたいね。犬みたいに尻尾もふらないし」赤塚さんは手酌でビールをそそいだ。日本酒なら酌のしあいもいいが、ビールだけは自分のペースで飲みたい、と会社でいっていたことがある。飲みさしにまた注がれるのって嫌なのよ。ビールは瓶のがいちばん美味しいわ、といって。

「気心がしれないのはおたがいさまじゃないしらねえ」

 さきほどの言葉尻をとらえて、そういわれた。

「でも、誰でも心の奥までは見せないわよね」

 黙っていた。今、赤塚さんに隠していることが多すぎる。正直に昼間のことを話してしまったらどういうことなになるのか。「あら」で、終わってしまうのか、それとも今度は赤塚さんのほうに引きずりこまれるのか。たぶん後のほうだろう。

「お腹空いてるのかしら? なにも出してなかったわね」

「いいですよ、しばらく飲みましょう」

「そういうところがいいわね、神尾さんて」

 そういながら、冷蔵庫から漬物をだしてきた。

「これ自分で漬けているのよ。母親の代から使っている糠床があるの。相続したのは、この家とそれだけ。それに郵便貯金がすこしだけあったわね」

 浅く漬けた胡瓜の色がみずみずしかった。

「夏場は糠床も冷蔵庫に入れておくの。ときどきかきまわしてやりに来ることもあるわ。糠床をかきまわしただけで、またすぐ帰ったりして、変でしょ?」

 かぶりを振ってみせた。自分の母親も冬に沢庵を漬けるのがうまかった。天火に干した大根を塩漬けするのだ。小さな樽でたくさんは作れなかったが、その味にならされたせいか、母親がなくなってからこのかたあれ以上に旨い沢庵にあったことはない。売っている沢庵はどれも甘すぎるのだ。

「家で作ったものが一番よ。あたし、この家では、昔母親がやってたとおりのことをするの。蚊とり線香だって、蚊帳だっていまだに使ってるのよ」

 そういえば、うっすらと蚊とり線香の匂いがしているような気がした。近くに藪や、川がないからそんなに蚊もでないようだったが。夜中に闇のなかに一匹蚊が飛んでいると気になって眠れない。そんな話をすると、赤塚さんは喜んだ。そういえば、夏になると、蠅とりリボンを天井からさげておいたものだ。そのネバネバしたリボンが髪にからまって往生したことを思い出す。あれはもうどこにもないのだろうか。

「この家にいると、時間があの頃にもどっているような感じね」と、赤塚さんは、あらためて自分の家の天井をみまわしている。「母親がいないだけだわ」

 すこししんみりしてきた。もうビールというわけにもいかなくて、赤塚さんはこの

あいだのよう焼酎のロックをつくってくれた。夜が更けてきて、強めの酒をなめるような時刻というわけだ。

「あたしねえ」と、赤塚さんはじっとこちらをみつめながら、すこし真面目な顔つきになった。「どうしてもこの家から離れたくないのよ。まるで猫よね。ここにいると、ほんとうの自分にもどれるような感じなの」

 ふだんはなにかに化けているというのだろうか。なるほど、他人のまえにいる自分は、ほんとうの素の自分でないのは確かだ。なにかを喋るまえに、それを口にすべきか一瞬考えている自分がいる。思ったままを話さない。みすかされるのが嫌だからではない。他人と妙な心のずれが生まれて、気まずくなるのが嫌だからだ。心を開かないというのでもない。不用意なことをいって、怖がらせたくないためかもしれない。赤塚さんがいうほんとうの自分とは、いま目の前にいるその人なのか。

「いまの赤塚さんて、ほんとうの赤塚さんなんですか」

 いろんな含みをもった質問だった。こちらを見ている眼の光が強くなった。

「どう思うの?」