また『昭和戯文集成』の難儀な校正がはじまった。今度の章は新興宗教の冊子ではなく、新聞記事の抜粋が連なっていた。主として、広告記事や猟期事件の報道、超能力者の実験報告やら、霊能力者列伝みたいな雑誌記事もまじっていた。帝国大学教授某氏の論文が記事にちりばめられている。
東京市中、下落合の教授私邸にて本実地見聞はなされたり。実験の参観者として、帝国大学理学部、渡邊良平教授、同平田義宗助教授、本誌記者、大山儀平の三名が立ち会うなか、帝国大学文学部教授、広重雄三による霊能者、菅野ヤイ(仮名38歳)の降霊術が見聞を開始される。菅野ヤイは和歌山県出身の寡婦にて、齢十六の頃より種々の故人の霊が降りて、遺族に先祖供養を訴える。近年は遠隔地の人間の生霊も現れるにいたりて近隣の評判となりしも、一方虚言として退ける者も多く、毀誉褒貶女史の周辺に溢れたり。 『昭和戯文集成』
明治から昭和初期にいたる超心理学実験については聞いたことがある。いずれも女性の超能力者が透視や読心術の実験をし、いずれも詐欺よばわりされて学界からはしりぞけられたらしい。イタコや霊媒の実験も数多くあったようだが、当時の記録を眼にしたのははじめてだった。『日本心霊協会会報』という雑誌からの引用だった。この種の話は嫌いではなかったが、ときとして外国人の霊を降ろしてくるのはいいが、霊の言葉が日本語だけで、霊媒がいきなり流暢に未知の外国語を喋りだすようなことがないのが不思議だった。霊になると、どこの言葉でも話せるのか、それとも言葉を超えた意識を霊媒にあたえるためなのか、屁理屈はいくらでもいえそうだが、有名人の霊だけ降ろすというのも腑に落ちない。むしろ恐山のイタコのお婆さんたちが、先祖の霊を降ろして、いつも決まり文句のように「兄弟仲良く、墓守よくせよ」などと説教でしめくくるほうが愛嬌がある。それで人は癒されて泣くのだ。
菅野ヤイ、この日ふたつの霊体を降ろしたり。一人は浮遊せし無縁仏といい、恨みごと様々つらねて去る。いまひとつは、立ち会いの本誌記者の母親の霊なり。本誌記者、驚天動地の思いいたしが、やがて滑稽千万との皮肉なる感想を抱くにいたる。彼が母堂いまだ郷里尾道に健在なり。さは、生霊を降ろしかと密かに嗤う。しかるに菅野ヤイ曰く「汝、いそぎ帰郷しませ」といふ。一同暫時休息せしとき、教授宅の電話にわかに鳴りたるに、博士応対に退出せり。すぐに奥より、本誌記者の名を呼ばわりて告げる。記者の郷里より本社に電報あり。「ハハ危篤、急ギカヘレ」
『昭和戯文集成』
菅野ヤイは、スガノヤイと読むらしい。様々な霊というか思念が、彼女をとおしていわば受信機かラジオのようにメッセージを送ってきていた。霊たちは一方的に話をして、こちらの問いかけには一切応えなかったらしい。ヤイが時々誤植でヤエになっていたので赤を入れる。一か所だけヤヨイになっていた。原稿のほうもそうなっている。昔は戸籍上の名前でなく通称をしるしたものが多かったから、本当菅野弥生という名であったかもしれない。弥生というと上代の土器のような神さびた感じがする。 三分の一ほど校正し終わったところで、電話が鳴った。丸尾印刷の社長だった。手が空いていたら来てほしいという。いつだって手は空いている。どの仕事も緊急ではないのだ。すぐ行きますよ、と電話を切った。
印刷所の二階の事務所にはいっていくなり、丸尾社長は「おう」と。いつものような声をあげた。「呼び立てちまって悪いな」と、破格の挨拶だ。
「まあ、すわって」と、いわれるままに開いているスチール椅子をひっぱった。
ミドリちゃんが、すぐにお茶のはいった湯飲みを目の前に置いた。社長は夕方には茶など飲まないくちだ。自分の机にもどってから、ミドリちゃんがじっとこちらを見た。わざと視線をあわさぬようにして茶をすするまねをする。ミドリちゃんがまだ眼をはなさない。なにか話があるらしい。
「それでなんだけど」と、さっそく社長は用件をきりだした。「丸尾印刷の営業の仕事をしばらくスケてくれないかな」
「営業ですか」
「うん。ここんところ動けなくなっちまってな。なに、納品と集金くらいのもんだ。校正刷りの受け渡しなんかも頼むよ。色物の校正だって大丈夫だろう?」
美術印刷でもないかぎり、先方とのやりとりに支障があるわけでもない。そのへんは門前の小僧ですっかり覚えている。赤を強くしろとか、色指定だとか、先方が詳しければそのまま伝達すればいいし、相手がシロウトならの曖昧な希望をこちらなりに解釈すればそれですむ。面倒なのは依頼主にデザイナーがついていて、細かなことをうるさく言いだすときだが、それもむこうの指定を書き込んでもらえいい。相手も印刷屋の営業の力量くらい知っているはすだ。ほんとうに気になるなら、印刷所まで足を運んで担当者と打ち合わせるのがプロというものだ。
「な、それでな、集金はしっかりたのむよ。配送の内山にはまかせられねえんだ。あいつは請求書を置いてくるのはいいが、入金の期日をしっかり念を押してくるのができねえらしい。即金でもらってくることもあるから、二人で行ったほうがいいしな。なあに、内山は運転と納品だけだ」
内山とはこの春に入社した青年だった。印刷助手と配送担当で、いつも軽トラックで走り回っていた。
「いまやってもらってるやつの校正が終わったら、ここの住所に届けて、最終見積もりを渡して、仕上がり期日を決めてきてくれないか。もう一年ちかくひっぱられてるからな。あとどれだけ原稿がはいるのかちゃんときいてな」
これ以後さらに原稿が増えるのなら分冊をすすめる。いまある原稿でも四百ページにはなっている。
「いいか、分冊でも箱入りにすれば見栄えがいいっていってくれよな。箱代はかかるが、いまさら経費をねぎってくる相手じゃないよ。なにしろ宗教法人の関係者らしいからな。金はあるさ」
「最初の見積書ありますか?」
「おう、島ちゃん、神尾君に『戯文集成』の見積書だしてやってくれ。はじめは三百ページってことで計算してある。な、わかるだろ。それが一・五倍にはなってるわな」
「じゃあ、きちんと話をつけておいたほうがいいですね」
「おう、そうしてくれるか。月末までに行ってきてくれるといいんだが。校正は終わるよな」
「二三日で終わりますよ」
ミドリちゃんが書類を持ってきた。先方の所番地もついている。
「大森ですか?」
「うん蒲田の近くらしんだが、内山が一度行ったことがあるからわかるだろう」
ミドリちゃんが、もどりぎわに、人にわからぬようにこちらの背中を指で軽くつついた。仕事が終わった後で紅花舎にくるつもりらしい。席にもどってから、またこちらをチラリと見た。
「ほかに集金なんかは?」
「うん、小口が二件ほどあるな。どれも折り込みのチラシだ。こいつは直接取りにいってくれ、電話はこちらがしておくから。明日でもいい」
「はい」と、いって二件の伝票を受けとった。どちらも千代田区内で近い。
いうだけのことをいってしまうと、丸尾社長は巨体をゆすって大きな欠伸をした。それから、低く唸って、すこし苦しそうな顔をした。
「背中が痛くてな、腰もそうだけど、肝臓のせいらしいや」
肩をぽんとたたいて、首筋もこっているようだった。
「酒をすこしひかえますか」
「うんにゃ」と、曖昧な返事をしている。「一杯だけにするよ」と、いって時計を見ている。いつも五時すぎに焼酎のお湯割りをつくらせるのが日課だ。まだ、それには早い。一杯だけといっても、誰か客がくれば話はべつだろう。丸尾社長は飲めるうちは飲みつづけるくちだ。嫌でも飲めなくなるときがそのうちくる。飲むと一時的に体が楽になったような気がするのかいけないらしいが、そんなことをいっても聞くような相手ではなかった。
紅花舎にもどると五時を過ぎていた。すぐにミドリちゃんが手提げを持って上がってきた。なんだかさそってほしそうな雰囲気だ。
「ご飯食べますかあ?」と、いつものように語尾をのばしてくる。なんだか嬉しそうだ。 丸尾印刷から仕事をだしてもらえたので当座はしのげそうだと安心したらしい。それはいいけれど、今日の社長の様子ではだいぶ体が悪そうだ。丸尾印刷の社長が倒れでもしたら、ことは紅花舎の校正係の生活どころでない。経理は奥さんがしっかりやっているが、中小の印刷屋は営業力が生命線だ。社長の顔でとってこれる仕事がほとんどなのだ。
「うん、ちょっとまってて。片づけるから」
デスクに書類をしまっていると、ミドリちゃんはかいがいしく窓をしめたり、湯呑みを洗ったりしてくれた。
「明日からまた雨になるんですって」
手をふきながら振り返ってそういった。
「朝からかあ。また自転車使えなくなるな」
「でも、あたし雨も好きですよ」
と、いつかの晩のことを思い出したのか、ミドリちゃんは悪戯っぽく笑った。結局あの夜の謎は解けないままだ。
「どこへ行こうか」
「たまには池袋のほうへ行きませんか?」
レストランか、と池袋近辺の地理を思いめぐらした。駅の東口も西口も不案内だ。駅構内の異常な人混みにも気後れする。
「首都高の下に何軒か知っているお店があるんですけど」
「洋食?」と、いってしまってから、よせばよかったと思う。
「イタリアンとかいろいろです」
ミドリちゃんはうれしそうにイタリアンといってみせた。なるほど、女の子はいつもラーメンやカツ丼では嫌のようだ。