「どう思うの?」
カードをひっくりかえされた。
「まえに紅花舎に勤めていたときの赤塚さんとは違いますね」
「どんなふうに」
「若くなったような感じですかね。女を感じます」
これは率直な感想だった。
「あら、嬉しいわ」
すこし刺激的すぎたろうか。このあいだのことがあってから、やはり赤塚さんには女を感じているのは確かなのだ。十歳ほど年はちがうが、以前ほどその年齢さもうすれている。そういうものなのかもしれない。数時間まえに、彼女の旦那の相談をうけていた自分が白々しい。だが、この家は、赤塚さんにとってはもう別の世界なのだという気がしていた。この家がなければ赤塚さんは生きていられないのかもしれない。「あたしね」と、また告白調になった。「ほんとに猫だったらいいのにと思うことがあるのよ」
「飼い猫ではないですよね」
「そう、野良猫のなかの野良になりたいわぁ」
ぐいとグラスのなかのものを飲み干している。
「覚悟がいりますよね。野たれ死にするっていう」
「あら、ずいぶん大げさね」
「野たれ死にがこわいっていってるんじゃないですよ」
と、こちらも酒をあおってみせた。
「そうよね、神尾さんて野たれ死の素質があるわ」
投げやりにみえる生活態度をいっているのだろうか、言葉のなかに羨ましげな響きがある。
「寂しくても平気みたいってことなの」
「そう見えますか」
「寂しいから誰かにすがるんでしょ、人間て」
寂しいと書くより、淋しいと書いたほうが好きだな、とどうでもいいようなことを考えている。何事も突きつめて考えたら、終いには寂しくなるとわかっているだけだ。 台所のほうでコトリと音がした。すぐに、にゃあと一声した。
「あら」と、いって赤塚さんは立っていった。あんただけ帰ってきたの。なに? ミルク飲みたいの? と、子どもにでも言うように話しかけている。冷蔵庫を開け閉めしている。床にコトリと皿を置く音がした。
すぐにもどってきて、またグラスを手にとった。
「また、でかけていっちゃうのよ、あの子。どこにいってるのかしらねぇ」
「もう一匹いましたよね」
「そう。もう八歳になるわ。雌なんだけど、年をとってきたらだんだんわたしの母親に似てきたような気がするの」
「猫がですか」
「そう。座布団の上で眠っているようなとき、母親のような鼾をかいたり、なにか小言のようなことを喉声でゴロゴロいいながら、わたしの脚をひっかいたりするようなとき、はっとするわ。縁側のお気に入りの場所も同じだしね」
「面白いものですね。猫に生まれ変わって、娘のところ来たのですかね」
「そういうことも世の中にはたくさんありそうな気がするの」
「ぼくのお袋さんなんか、いまごろどこにいってるのかな」
「どこか身近なところに生まれているかもしれないわね」
「虫とかですか」
「そうね、虫とか」
「それじゃあ、知らずに御先祖様をたたきつぶしているかもしれませんね」
「神尾さんて虫嫌いだったわね」
「覚えてたんですか」
「紅花舎に入ったばかりの頃、アブラムシが一匹机の上を歩いているのをみつけて大騒ぎしたじゃないの」
そんなこともあった。確かにアブラムシは嫌いだったが、厨房ならともかく職場にそんなものが這いだしてくるのがゆるせなかったのだ。紅花舎がどんな会社かよくわかった今となっては異形なものたちが顔をだすのもあたりまえのように思えていた。「変なこと覚えていますね」
「そうよねえ、ほかの社員の影がうすかったせいかしらね。名前は今でも覚えているけど、どうも顔が思い出せない人ばかり」
「経理やってて、名前と数字ばかり気にしていたからじゃないですか」
「そうねえ、普通はその逆っていうでしょう? なんか、あの会社の人、魂のぬけているような人ばっかだったわ」
「社長にぬかれちゃうんじゃないですか」
そんなまぜっかいしに、赤塚さんはさも可笑しそうに笑った。
「神尾さんはどうなの? まだ魂ぬかれてないの?」
初めからどこかへ遊びに出ていることが多いから、ぬかれる隙もありません、といおうとしたがやめにした。どこへ遊びに出ているのとつっこまれたら面倒だ。
「本人にはわからないんじゃないんですか」
「そうねえ、調べたげようか?」
と、いって赤塚さんはまた笑った。物言いがだいぶくだけてきた。
「霊媒師みたいですね」
「レイバイシ?」
「イタコとか口よせって知りませんか?」
赤塚さんはふくみ笑いをした。
「それやってもらったことあるわよ」
「お母さんの霊を呼んでもらったことがあるんですか?」
当然そうかと思ってそういったのだが、見当はずれだったかもしれない。赤塚さんはかぶりを振って、誰を呼んでもらったかはいわなかった。
「母親なんかわざわざ呼んでももらわなくったって、いつもそばにいるような気がするわ。どうせ呼んでもらえるのなら、どうしたって会えない人じゃないかしら」
「何百光年もかなたにいってしまったような人ですか」
「・・・そう」
こんどはすこし淋しそうだった。
茶の間のレースのカーテンがゆらいだ。すこし風が出たようだ。網戸がしっかりしているので虫がはいってくるはずもなかったが、用心のためか赤塚さんは最前から蚊とり線香に火をつけていた。浅い陶器の皿に平たい石が置いてあって、渦巻き線香の五センチほど折りとってのせてある。こうしておくと時間がわかるのよ、といっていた。
「川っぷちの家に住んだことがあったけど、それはひどいヤブ蚊だったわ」
「どのあたりですか」
「江東区だっかしら。川というかドブみたいで、流れがおそいのよ」
流れのおそい川のほとりにいると、時間までゆっくり流れるような気がする。ドブとなると、むしろ滞るというべきか───もちろん、これはいつか読んだ小説のなかにあった言葉だ。同人誌に発表して、私家版でだした本だ。最初の頃てがけた本のほうが、緊張して何度も読み返したからそれだけ覚えているのだ。黒い流れは、それだけゆっくりと夜を押し流していく、と。
「でも、夏のほうが好きだったわね。冬は虫も出なくなって淋しいわ」
扇風機をとめている。蚊とり線香の煙がこちらに流れてきた。なんだか懐かしいような匂いだ。_