天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

猫迷宮  58

2011年02月25日 02時16分37秒 | 文芸

「どう思うの?」

 カードをひっくりかえされた。

「まえに紅花舎に勤めていたときの赤塚さんとは違いますね」

「どんなふうに」

「若くなったような感じですかね。女を感じます」

 これは率直な感想だった。

「あら、嬉しいわ」

 すこし刺激的すぎたろうか。このあいだのことがあってから、やはり赤塚さんには女を感じているのは確かなのだ。十歳ほど年はちがうが、以前ほどその年齢さもうすれている。そういうものなのかもしれない。数時間まえに、彼女の旦那の相談をうけていた自分が白々しい。だが、この家は、赤塚さんにとってはもう別の世界なのだという気がしていた。この家がなければ赤塚さんは生きていられないのかもしれない。「あたしね」と、また告白調になった。「ほんとに猫だったらいいのにと思うことがあるのよ」

「飼い猫ではないですよね」

「そう、野良猫のなかの野良になりたいわぁ」

 ぐいとグラスのなかのものを飲み干している。

「覚悟がいりますよね。野たれ死にするっていう」

「あら、ずいぶん大げさね」

「野たれ死にがこわいっていってるんじゃないですよ」

 と、こちらも酒をあおってみせた。

「そうよね、神尾さんて野たれ死の素質があるわ」

 投げやりにみえる生活態度をいっているのだろうか、言葉のなかに羨ましげな響きがある。

「寂しくても平気みたいってことなの」

「そう見えますか」

「寂しいから誰かにすがるんでしょ、人間て」

 寂しいと書くより、淋しいと書いたほうが好きだな、とどうでもいいようなことを考えている。何事も突きつめて考えたら、終いには寂しくなるとわかっているだけだ。 台所のほうでコトリと音がした。すぐに、にゃあと一声した。

「あら」と、いって赤塚さんは立っていった。あんただけ帰ってきたの。なに? ミルク飲みたいの?  と、子どもにでも言うように話しかけている。冷蔵庫を開け閉めしている。床にコトリと皿を置く音がした。

 すぐにもどってきて、またグラスを手にとった。

「また、でかけていっちゃうのよ、あの子。どこにいってるのかしらねぇ」

「もう一匹いましたよね」

「そう。もう八歳になるわ。雌なんだけど、年をとってきたらだんだんわたしの母親に似てきたような気がするの」

「猫がですか」

「そう。座布団の上で眠っているようなとき、母親のような鼾をかいたり、なにか小言のようなことを喉声でゴロゴロいいながら、わたしの脚をひっかいたりするようなとき、はっとするわ。縁側のお気に入りの場所も同じだしね」

「面白いものですね。猫に生まれ変わって、娘のところ来たのですかね」

「そういうことも世の中にはたくさんありそうな気がするの」

「ぼくのお袋さんなんか、いまごろどこにいってるのかな」

「どこか身近なところに生まれているかもしれないわね」

「虫とかですか」

「そうね、虫とか」

「それじゃあ、知らずに御先祖様をたたきつぶしているかもしれませんね」

「神尾さんて虫嫌いだったわね」

「覚えてたんですか」

「紅花舎に入ったばかりの頃、アブラムシが一匹机の上を歩いているのをみつけて大騒ぎしたじゃないの」

 そんなこともあった。確かにアブラムシは嫌いだったが、厨房ならともかく職場にそんなものが這いだしてくるのがゆるせなかったのだ。紅花舎がどんな会社かよくわかった今となっては異形なものたちが顔をだすのもあたりまえのように思えていた。「変なこと覚えていますね」

「そうよねえ、ほかの社員の影がうすかったせいかしらね。名前は今でも覚えているけど、どうも顔が思い出せない人ばかり」

「経理やってて、名前と数字ばかり気にしていたからじゃないですか」

「そうねえ、普通はその逆っていうでしょう? なんか、あの会社の人、魂のぬけているような人ばっかだったわ」

「社長にぬかれちゃうんじゃないですか」

 そんなまぜっかいしに、赤塚さんはさも可笑しそうに笑った。

「神尾さんはどうなの? まだ魂ぬかれてないの?」

 初めからどこかへ遊びに出ていることが多いから、ぬかれる隙もありません、といおうとしたがやめにした。どこへ遊びに出ているのとつっこまれたら面倒だ。

「本人にはわからないんじゃないんですか」

「そうねえ、調べたげようか?」

 と、いって赤塚さんはまた笑った。物言いがだいぶくだけてきた。

「霊媒師みたいですね」

「レイバイシ?」

「イタコとか口よせって知りませんか?」

 赤塚さんはふくみ笑いをした。

「それやってもらったことあるわよ」

「お母さんの霊を呼んでもらったことがあるんですか?」

 当然そうかと思ってそういったのだが、見当はずれだったかもしれない。赤塚さんはかぶりを振って、誰を呼んでもらったかはいわなかった。

「母親なんかわざわざ呼んでももらわなくったって、いつもそばにいるような気がするわ。どうせ呼んでもらえるのなら、どうしたって会えない人じゃないかしら」

「何百光年もかなたにいってしまったような人ですか」

「・・・そう」

 こんどはすこし淋しそうだった。

 茶の間のレースのカーテンがゆらいだ。すこし風が出たようだ。網戸がしっかりしているので虫がはいってくるはずもなかったが、用心のためか赤塚さんは最前から蚊とり線香に火をつけていた。浅い陶器の皿に平たい石が置いてあって、渦巻き線香の五センチほど折りとってのせてある。こうしておくと時間がわかるのよ、といっていた。

「川っぷちの家に住んだことがあったけど、それはひどいヤブ蚊だったわ」

「どのあたりですか」

「江東区だっかしら。川というかドブみたいで、流れがおそいのよ」

 流れのおそい川のほとりにいると、時間までゆっくり流れるような気がする。ドブとなると、むしろ滞るというべきか───もちろん、これはいつか読んだ小説のなかにあった言葉だ。同人誌に発表して、私家版でだした本だ。最初の頃てがけた本のほうが、緊張して何度も読み返したからそれだけ覚えているのだ。黒い流れは、それだけゆっくりと夜を押し流していく、と。

「でも、夏のほうが好きだったわね。冬は虫も出なくなって淋しいわ」

 扇風機をとめている。蚊とり線香の煙がこちらに流れてきた。なんだか懐かしいような匂いだ。_


猫迷宮  57

2011年02月25日 02時14分38秒 | 文芸

「ねえ、聞いてるのぉ」と、耳もとで赤塚さんの声がした。いつのまにか、新しいビールの瓶を運んできていた。脇にすわって酌をしてくれる。

「なにか考えてたでしょ」

「ええ」と、いって一口飲んだ。「犬は飼ったことがあるけど、猫はないなって」

「そう」と、あまり関心のない返事だ。

「猫は嫌いじゃないですけど、気心が知れないというか、いっしょに暮らす相手ではないような気がするんです」

「そうねえ、飼い主を主人だとは思わないみたいね。犬みたいに尻尾もふらないし」赤塚さんは手酌でビールをそそいだ。日本酒なら酌のしあいもいいが、ビールだけは自分のペースで飲みたい、と会社でいっていたことがある。飲みさしにまた注がれるのって嫌なのよ。ビールは瓶のがいちばん美味しいわ、といって。

「気心がしれないのはおたがいさまじゃないしらねえ」

 さきほどの言葉尻をとらえて、そういわれた。

「でも、誰でも心の奥までは見せないわよね」

 黙っていた。今、赤塚さんに隠していることが多すぎる。正直に昼間のことを話してしまったらどういうことなになるのか。「あら」で、終わってしまうのか、それとも今度は赤塚さんのほうに引きずりこまれるのか。たぶん後のほうだろう。

「お腹空いてるのかしら? なにも出してなかったわね」

「いいですよ、しばらく飲みましょう」

「そういうところがいいわね、神尾さんて」

 そういながら、冷蔵庫から漬物をだしてきた。

「これ自分で漬けているのよ。母親の代から使っている糠床があるの。相続したのは、この家とそれだけ。それに郵便貯金がすこしだけあったわね」

 浅く漬けた胡瓜の色がみずみずしかった。

「夏場は糠床も冷蔵庫に入れておくの。ときどきかきまわしてやりに来ることもあるわ。糠床をかきまわしただけで、またすぐ帰ったりして、変でしょ?」

 かぶりを振ってみせた。自分の母親も冬に沢庵を漬けるのがうまかった。天火に干した大根を塩漬けするのだ。小さな樽でたくさんは作れなかったが、その味にならされたせいか、母親がなくなってからこのかたあれ以上に旨い沢庵にあったことはない。売っている沢庵はどれも甘すぎるのだ。

「家で作ったものが一番よ。あたし、この家では、昔母親がやってたとおりのことをするの。蚊とり線香だって、蚊帳だっていまだに使ってるのよ」

 そういえば、うっすらと蚊とり線香の匂いがしているような気がした。近くに藪や、川がないからそんなに蚊もでないようだったが。夜中に闇のなかに一匹蚊が飛んでいると気になって眠れない。そんな話をすると、赤塚さんは喜んだ。そういえば、夏になると、蠅とりリボンを天井からさげておいたものだ。そのネバネバしたリボンが髪にからまって往生したことを思い出す。あれはもうどこにもないのだろうか。

「この家にいると、時間があの頃にもどっているような感じね」と、赤塚さんは、あらためて自分の家の天井をみまわしている。「母親がいないだけだわ」

 すこししんみりしてきた。もうビールというわけにもいかなくて、赤塚さんはこの

あいだのよう焼酎のロックをつくってくれた。夜が更けてきて、強めの酒をなめるような時刻というわけだ。

「あたしねえ」と、赤塚さんはじっとこちらをみつめながら、すこし真面目な顔つきになった。「どうしてもこの家から離れたくないのよ。まるで猫よね。ここにいると、ほんとうの自分にもどれるような感じなの」

 ふだんはなにかに化けているというのだろうか。なるほど、他人のまえにいる自分は、ほんとうの素の自分でないのは確かだ。なにかを喋るまえに、それを口にすべきか一瞬考えている自分がいる。思ったままを話さない。みすかされるのが嫌だからではない。他人と妙な心のずれが生まれて、気まずくなるのが嫌だからだ。心を開かないというのでもない。不用意なことをいって、怖がらせたくないためかもしれない。赤塚さんがいうほんとうの自分とは、いま目の前にいるその人なのか。

「いまの赤塚さんて、ほんとうの赤塚さんなんですか」

 いろんな含みをもった質問だった。こちらを見ている眼の光が強くなった。

「どう思うの?」


猫迷宮 56

2011年02月24日 23時36分39秒 | 文芸

「この家に母親とずっと住んでいたのよ。実は、もう一軒家があるの」

「もう一軒?」

 そらぞらしい応対だ。そういったてまえ、旦那にあったことは言えなくなった。

「うちの人と住んでいるのはべつの所なの」

 あまり秘密でもなさそうに話しはじめた。

「あの人が長い仕事に出てるときにはいつもこっちへもどってきて、猫たちとのんびりしてるわ」

「猫いないですね」

「いつもそうよ。宵の口はどこかへでかけてるの。どこかで集まりがあるのかしら。神社の境内とか、路地裏に集まってすわっているんでしょ。もうお夕飯あげちゃったし」

「きまぐれですね」

「そうね、あたしと同じよ」

「どこにいるかわからないんですか?」

 猫の集会場のことをいったつもりだった。

「そうよ、教えてないわよ。うちの人にも」また、しんねりとした目つきでこちらを見た。秘密を守りなさいよ、という眼だ。こちらがあまり驚かないのもおかしいような気がしたが、そんなものだろうと思っていたのはいつわれない。

「神尾さんて、やっばり変わってるわね」

「どこがですか」

「あまりなにを聞いても驚かないわね」

「ここが秘密の隠れ家だっていうんですか?」

「そんなたいそうなもんじゃないけど、人に知られたくない家なの」

「喋ったら殺されますね」

「そうよぉ、すくなくとも祟られるわよ」

 タタラレルワヨォ、といって赤塚さんはさも可笑しげに笑った。酔いがまわってきたような笑い方だった。ビールの酔いははやいのだ。そのくせ、すぐに覚めてしまう。「それにさあ」と、すこしぞんないな物言いにもなってきた。「あたしのところって、ほら、なんていいうの、内縁なのよ」

 そんなことまで、と思ったがだまっていた。べつに大したことでもないような気もした。

「くっついてから六年半だけどぉ」と、グラスをくるくるまわしている。「あのひと、静岡にもう一軒家があるのよ」

 そういうことか。

「だから、おアイコね」

 さきほど会ってきた赤塚さんの青黒くていかつい顔を思い出した。あのトラックで荷物を運びながら、二つの家のあいだも走っているのだ。ひょっとしたら、ほかにも何軒か地方に家があるかもしれない。そういう男の気持ちはよくわからなかったが、そうであるなら、彼はトラックを走らせつづけるしかない。子どもの頃、近隣に白くて大きな牡犬がいた。野良ではなく、放し飼いの犬で、いわばその地域のボスのような老犬だった。発情期になると、その白い犬は近隣の雌犬を巡回して、つぎつぎ交尾しては子どもを産ませていた。あきらかにそいつの種であると知れる子犬が何匹もいた。その犬のことをふと思い出した。そして、子どもだった自分は、その老犬をひどく嫌っていたことも。いつだったか、早朝、近所の家の雌犬のうえにのしかかっているのを見たことがある。そのときの牡犬の表情が忘れられない。だらしなく舌をだして、眼をほそめてハアハア息をついている。牝犬たちが、どうしてこんな爺犬と嬉々として交尾するのかわからなかった。その界隈には小型で精悍な黒い牡犬がいたが、若いせいかめったに交尾させてもらえないらしかった。老犬が我が物顔で牝を支配しているのを、恨めしそうに見ている姿があった。


猫迷宮 55

2011年02月24日 23時28分59秒 | 文芸

              12

 

                                                                           

 夜の町に出た。

 トラックできた道をひきかえそうとして、またしても方向音痴のくせに、勘にたよってかまわずに道を選び、神楽坂方向の道を選んでしまった。もうひとつむこうの通りからまっすぐ外堀通りにむかっておりていけばよかったのだ。頭のなかで、あやしげな地図を思い浮かべる。ただ太い二本の通りが飯田橋と市ヶ谷へ別々にのびているだけのことだった。だが、ふと思い当たることがあって、これでもいいような気がした。

 このあいだ赤塚さんに連れられていった一軒家には、この途中で横道にはいれば、なんとかみつかるはずだ。動物的カンにたよるほかない。確かな道筋はわからなくても、表通りから細い横町に入って歩き回れば、ひとつくらい見覚えのある場所がみつかるかもしれない。小さな公園とか、いまだに覚えているが確か赤提灯に「天草」と墨文字で書いてある飲み屋がある。そのあたりの路地の奥をくねくねはいっていくと、赤塚さんが猫と住んでいた一軒家がある。雨月物語にあるようなまやかしでなければ、かならずその家はある。ビールの軽い酔いも手伝って、探検してやれという気になった。

 案の定やはり迷った。半時間ほど、神楽坂奥のちまちました路地をあちこちやみくもに歩きつづけて、方向を失ってしまった。複雑な路地のまっただなかに踏み込んでしまったようだった。何度も神楽坂通りに出て、また次の横町を選んでみる。まごまごしていると、毘沙門天まで来てしまうぞ、と思っているうちに、ふと閃くことがあった。一本だけ捨て看板のまかれた電柱に見覚えがあったのだ。看板の下の灰色の電柱に白いラッカースプレーで落書きがしてあるのをみつけた。〈アラム〉と、下手な片仮名でふきつけてある。アラブ人の名前のようで面白いなと思って覚えていたのだ。先を歩いている赤塚さんのわきにその電柱があった記憶が浮かび出た。その〈アラム〉があったのだ。

 左手には格式ありそうな料亭。その料亭のかどをずっとたどってまた左に折れると、スレート塀にかこまれた古い病院。町医者だ。その病院の横をとおって生け垣が見えれば、そこがこのあいだいった赤塚さんの家のはずだった。

 病院があった。歩をはやめる。いや、すぐに立ち止まる。見えたのだ。生け垣の切れ間に門柱があって、その奥に玄関灯がともっていた。

 玄関に灯がともっている。

 どういうことか?

 玄関灯のシェードに黒いエナメル文字にまちがいはなかった。ということは、失踪したという赤塚さんはこの家にいるのだ。それも、さきほどいた砂土原町のマンショからさほど遠くない。

 旦那はいなくなったと騒いで、他人までまきこんでいるが、とうの赤塚さんはもうひとつの家にいる。この家は赤塚さんの隠れ家なのだろうか。どう考えても、赤塚さんがもともと母親と住んでいた家のようだ。数年前に、あの旦那と内縁関係で同居しはじめたとき、赤塚さんはこの家のありかを教えなかったらしい。

 門柱のところまできて、逡巡した。今日のことをありのまま告げたほうがいいのか、迷ったのだ。それでも、玄関先まで踏みこんでしまう。好奇心のほうがまさったのだ。なりゆきにまかせて、ほんとうのところを確かめてみたかった。まさか、このあいだの晩のようになるわけもないだろうと多寡を括ってもいた。

 壊れているかもしれなかったが、古びた呼び鈴のボタンを押した。

   しばらくの間があった。玄関灯は灯っているが留守かもしれない。あるいは、まったくの別人が現れる。もっと悪いことに、男が出てくる。その男が自分とそっくりだったとしたら。瞬時にそんな妄想をする。

「はあーい」

 と、聞き覚えのある声が奥でした。とんとんと足音がして玄関の開き戸があいた。「あら」と、赤塚さんはひと息のんでから、ふっとふくみ笑いをした。その意味はこちらもよくわかっている。

「近くを通ったものですから。ちょっと気になって」と、曖昧な挨拶をしているそばから、言葉をかぶせてきた。

「いいわよ、あがってぇ。誰もいないから」

 もとよりいるはずもない。猫たちのほかは、この家のありかを知らないのだから。ふと、その猫たちも留守かと思った。

「よかったわあ。もう来てくれないかと思ったてたわ。今、ひとりでどうしようかと思っていたのよ」                               

 夕飯のことらしかった。

 茶の間に招き入れ、自分はいそいそと台所へたっていく。このあいだと同じような展開だ。遠慮してそうそうに帰ろうかと思ったが、それではわざわざ立ち寄った意味がない。茶の間にはいったとたん、この家の匂いがした。畳の匂いと蚊とり線香の匂い、それになにか白粉のような女臭さ。先刻のマンションが消臭剤の匂いがしたのと反対に、古びた生活の臭いだ。蓄積された時間の臭いだろうか。一代かぎりで染みつく匂いではなさそうだ。昔、母親と住んでいたのなら、渋すぎる家具の趣味も納得がいく。

「よかったわあ、今夜で」

 と、ビールをちゃぶ台のせて栓をぬきながら赤塚さんはそういった。

「どこか出掛けるんですか」と、とぼけて聞いてみた。赤塚さんは明日あたり、あのマンションにもどるつもりだったのだ。                    「うん、ちよっとねぇ」と、グラスにそそぎだした。「暑いわねえ、家は扇風機だけなのよ。冷房が嫌なのよ」

 扇風機の首振りをとめて、こちらにだけむけてくれた。有り難いようだが、かえって落ち着かない。                              

「会社の冷房も壊れちゃって、今は扇風機だけです」

「あら」と、自分もビールをひとくちふくんだ。「あそこのクーラーったら、フィルターにタバコの臭いがしみこんで、いやな臭いでしょう。かえっていいんじゃない」「古いですからね」

 扇風機からまともに風があたるので、シャツの下に染み出ていた汗がひんやりする。これはこれであまり気持ちのいいものではない。

 それにしても、お茶がわりのつもりなのだろうか、ビールをつぎつぎに抜いてくれるわりには、いっこう食べ物をだすようすはなかった。

「でも、よくこの家の場所おぼえてたわ。案外わかりにくいところなんだけど」

「このあいだ歩いて帰りましたから」

 微妙なことにふれるな、と思ったときにはもう口にだしていた。

「そうよね。一人で帰っちゃったんだわよね。眼をさましたとき夢をみていたんじゃって思った。みんな片づいてたいし」

 赤塚さんはじっとこちらの眼をみつめた。そのまま動かさない。それから、くすりと笑ってみせた。

「今夜はかえさないわよ、ねえ」

 ねえ、とは誰にいっているのかわからない。独り言のようにも聞こえた。応対に困る物言いだ。なんだか、このあいだの晩のあのときと今が、映画のシーンのようにつながった気がした。

「それにしても、蒸すわ」と、茶箪笥の上にあった団扇をすいとぬいて、扇ぎだした。「このほうがいいわ。扇風機も一晩じゅうでは体に毒だし」

「この家にはそっちが似合いますよ」

「そうね、いわなかったかしら、みんなわたしの母親の趣味よ。趣味というより、生活そのものだわ」

 胸もとをすこしあけて風をいれている。なんだか遠慮のないあいだがらのようなふるまいだ。喉もとに汗が浮いていた。


猫迷宮  54

2011年02月24日 23時25分08秒 | 文芸

ドアを開けて、案内された部屋はわずかに芳香剤の臭いがした。安っぽいビニールレザーのソファーセットのリビングだったが、きちんと片づいていた。むしろそっけないくらい清潔な感じだ。旦那が掃除をしているのか、いつもそうなのかはわからない。すぐにクーラーが静かに動きだした。

「お茶などよりこちらにしましょう」

 といって、ビール瓶をテーブルに置いた。

「わざわざ来ていただいて」と、いまさらの挨拶をしながら、グラスに注いでくれる。「ビールだけはいつも冷蔵庫に絶やしたことがないんです」

 自分のことではなく赤塚さんのことらしい。

「冷蔵庫の中はどうでしたか?」と、探偵じみた質問をしてみる。

「別にかわったところはありませんでした。古くなった牛乳パックもないし、残り物もありませんでしたが」

「家をあけるつもりだったらしいですね。その、猫にはいつもミルクぐらいやるんでしょうから」

 あまり気が乗らぬのに、訳知り顔の推理だけはスラスラ出てくる。いい気なものだと自分でも思うが。それでも、相手はそこまで気がまわらなかったらしく、感心したように頷いた。

「なるほど、やはりしばらく家をあける覚悟で出ていったのですね。あっ、どうぞ口をつけてください」

 遠慮なく半分ほど喉に流しこむのを見て、旦那は自分もすこしグラスに口をつけた。「わたしはあまりやらぬほうなのです」

「運転が仕事だからですか」

「いえ、すこし飲むだけで朦朧としてしまって、翌日頭が痛くなるたちなんです」

「そうですか、無理に飲むこともありませんよね」と、どちらが主かわからない応答になった。

「それで、気になる手紙というのは」

 早々に本題にはいることにした。

「いま持ってきます」

 そういって、赤塚さんの旦那は隣の部屋に入っていった。勝手にビールをつぎたして、もう一杯飲み干す。トラックのなかでずいぶん汗をかいていたのだ。部屋のクーラーは弱くしてあるのかすこしも効いてこない。そういえば、赤塚さんは冷房嫌いだったことを思い出した。紅花舎にいたころ、いつも薄手のカーディガンを膝にかけていたものだ。

「これです」

 と、茶色い事務用封筒が目の前に差し出された。裏返すとどれも差出人は同じで、印刷文字だ。「庚申研修会事務局」とある。住所は神奈川県内だった。

「中は?」

「やはり印刷物です。なにかの研修会の通知のようです」

「見てもいいですか?」

「はい」

 四つ折りの手紙を開いてみると、どれも期限のすぎた研修会の案内で、どれも木曜日だった。いちばん新しいものも五月末のもので、それだけは木金と二日間にわたる研修会だった。神奈川県内のセミナーハウスの住所が記されている。その案内の末尾に、ボールペンで「次回は当番ですので宜しくお願いいたします。宮澤」と、追伸が添えられていた。

「この宮澤って人はご存じですか?」

「いえ、さっぱり。こんな集まりに加わっているのも知りませんでした。何の集会なのですかね」

「庚申ていえば、庚申塚とか、方位とか、古い信仰や習俗の研究ですよ」

 このあたりは、あの稲葉氏なら詳しいだろうなと思いながら、知っているだけのことはならべてみせた。いつだったか、風水を扱った私家版も編集したことがある。

「なんだか占いの団体みたいな名前ですね。研究でなくて研修ですから、なにか勉強してたんじゃないですか」

 宗教団体ではないのかと思ったが、いたずらに心配させてもいけないので黙っていた。

「この住所のところにあたってみることもできますね」と、つい口にだして、自分がすでに興信所の所員の口ぶりになっているのがおかしかった。

「でも、案外と俳句かなにかの同好会ってこともありますから」

「そういうものですか」と、赤塚さんの旦那は首をひねった。「どうも私などにはよくわかりません。そんな教養がないものですから」

 赤塚さんの旦那は、若い頃から自動車一筋できたのだと自分の経歴を話しだした。工業高校の機械科で、自動車修理からはじめて、修理工場が潰れたのを機会に大型の免許をとって運送屋に再就職したのだという。こうして、自営になってもなんとかやっていけるのは、車検をのぞいてたいていの修理は自分でできるからだという。

「ほかになにか手掛かりのようなものはないのですか。あまりこの手紙にこだわっていると、とんでもない勘違いをして無駄な動きにもなりますから」

 いつかテレビで見た刑事物で覚えた台詞だ。

「あとは、吊るしたノートにいくつか知らない電話番号が書いてあるだけです」  

「当たってみました?」

「いえ、見ず知らずの人のところにいきなり電話はできませんから」

 というよりも赤塚さんの旦那は電話嫌いらしい。紅花舎にだって電話もせずに顔をだしたくらいだ。その気持ちはこちらにもよくわかった。ふとみると、飲めないという酒をむりやり飲み下している。ビールがグラス半分ほどになった。

 わずかなアルコールでほんとうに酔いがまわるらしかった。どちらかというと酒飲みたちを相手にしてきたので、すこし信じられなかった。ひょっとしたら酒を飲んだという暗示で、酔ったような状態になってしまうのかもわからない。

「あの不躾なことばかりですみません」と、もつれはじめた舌で赤塚さんの旦那はいままで黙っていたことまで話しだしそうだった。

「でも、こうして神尾さんにお会いしてよくわかりました。頼子もあなたのことを頼りにしてちょくちょく出かけていっていたわけがです」

 なんだか女房の浮気相手を遠回しに責めているようにも聞こえる。

「はじめは妙なことも疑っておりまして、会社にいったときには厭味のひとつもいってやろうかと思っていたのです」

 やはりそういうことかと思ったが、まだ話はつづくようだった。

「神尾さんは変わった人ですね」

 どこかで聞いたことのある台詞だ。

「しばらく話していると、なんでも洗いざらい打ち明けたくなる雰囲気があります」 

 さしずめカウンセラーむきといいたいのか、それとも刑事にでもなれば、落としの名人にでもなれそうだ。すこし皮肉な気分になったが、黙って聞いていた。

 クーラーがあまり効いてこず、赤塚さんの旦那のシャツは汗で色が変わるほどになっている。酒のせいでもあるようだ。

「暑いですか? いっそ窓あけたほうが風がはいるんじゃないですか」

 と、いって腰をうかせた。

「いいんです。トラックのなかはもっと暑いときもあります。窓を開けても排気ガス臭い風しかはいりませんし」

 なるほど大久保通りに面しているマンションだ。空気がいいわけがない。座りなおして、こちらもビールをあおる。しかたがない、とことんつきあうほかなさそうだった。

「そうなんです。そういうところがいいのですね」

 と、得心したような物言いになった。

「よくわかりませんが」

「ご自分ではそうでしょう。こだわりがなくて、その場でまともにむかいあってくれるようです」

 突然大変なことを言いだしたものだが、昔からこんなたちだ。

「赤塚さんの消息の話ではないのですか?」

 それた話を本線にもどすことにした。だが、どのみち迷路のなかで右左を変えただけかもしれなかった。本線だと思っていると、とてつもない迷路の入り口にだったりすることだってある。庚申研修会などという団体をさぐっていけば、いずれはそこにな引きずり込まれるにちがいない。

「梶尾さん」と、初めて姓名でよびかけた。相手がとろんとした表情になって、眠りかけているような気がしたからだ。意識の薄れそうな人には、名前をきちんと呼びかけたほうがいいというのは応急処置の基本だ。

「梶尾さん」と、もう一度名をよんだ。

「はい」と、すこしだけ顔をあげた。「すみません。朦朧としてました」

「いいですよ、そのままでも。でも、赤塚さんのことはすこし調べておきます。東北からお帰りなったらご連絡ください。それまでに赤塚さんがもどってきているかもしれませんし」

「はあ」

「明日からお仕事ですよね」

「はい」

「だいじょうぶですか?」

「はい、早朝から出ます。東北道の下りですから混まないと思います。八王子で一件荷物を受けて、すぐにそこのインターから入ります」

 そんなやりとりをしてから、それではまた、といって辞去しようとした。赤塚さんの旦那は、立ち上がれずに頭だけさげて「お願いします」と一言だけいった。こちらがいよいよ立ち上がると、とりすがるように上着のポケットのなかに封筒をねじこもうとした。紅花舎にいるときにすでに断っていた十万円の必要経費だ。なんどか押し問答をしていて、とうとうこちらが折れて受け取った。交通費などか生じたら明細を書いておき、残った分はいずれ返すつもりだ。このところ使うに使えない金ばかりつかまされる。たまったものではない。

 階段を降りて、マンションを出るとまだ宵の口だった。八時を回ったところだった。腕時計の革ベルトが汗ばんでいたのではずしてズホンのポケットに入れる。出入口の郵便ボックスに「梶尾・赤塚」と連名で表示がさしこまれていたのをいまさらのように確認した。


猫迷宮  53

2011年02月24日 23時23分49秒 | 文芸

「で、どうしましょう。興信所の仕事としては受けられませんが、知り合いとしてすこしはお力になりますよ」

 赤塚さんの旦那が顔をあげた。すこし安堵したようだった。すみません、と恐縮したようにまた頭をさげている。

「あの、車できています。そう遠くないので、この後、わたしのところへいっしょに来てはいただけませんか。いくつか見ていただきたいものとかありまして」

 本格的調査のような口ぶりになっている。もういちど、念を押すのも面倒だったので、「どちらでしったけお宅は?」と、とぼけてみせた。

「砂土原町です。車なら十分とはかかりません」

 〈車〉という言葉を口にするときだけ、赤塚さんの旦那はなんだか自信がありげなふうを見せた。職業柄なのかもしれない。一年の大半を運送のトラックのなかで過ごしているのだ。

 仕事の始末をして、シャッターを降ろし、表通りに出ると、どこに駐車していのたか赤塚さんの亭主がまわしてきたのはトラックだった。

「すみません自家用のこいつしかないもんで」

「いや、かまいまいせんよ」

 トラックの助手席に乗り込んだとき、何年かまえにもこんなことがあったような気がした。確か幌つきトラックの荷台だったような記憶だ。幌のなかはむせかえるようで、動物の尿の臭いと石油の臭いが吐き気をもよおしたあれも蒸し暑い夏だった。

「トラックをとめるところがあるんですか」

 赤塚さんの家は細い路地の奥だったように覚えている。

「マンションの裏に駐車場を借りてます。大型もとめられます。印刷所の自家用トラックも何台もはいってますよ」

 はてな、と思っているうちに、トラックは外堀通りから大久保通り方面にむかってのぼりはじめた。このままつきぬければ、早稲田界隈に出る。右折して、ゆるいカーブをまわった。

「ここで降りてもらいえますか」と、赤塚さんの旦那がいった。確かに大型車両用の駐車場だった。「表通りにまわればすぐです」

 アスファルトからの熱でめまいがしそうだった。

 相手のあとについて表通りにまわり、赤塚さんの旦那がたちどまったとき、本当に目眩がした。そこは、築二十年くらいはたっている大きなマンションだった。

「ここですか?」

「ええ、もう古いですが、ここをずっと借りてます」

 そういって、エレベーターホールへ入っていく。

「三階です。頼子はあまり高いところは嫌だというものですから」

 狐につままれているのか、悪い冗談なのか、ここが赤塚家の住まいだというのだ。「ここはもう長いのですか」と、そらとぼけてきいてみる。

「五年くらいになります。その、頼子と一緒になってからですが」

 もっと驚いたことに、三階の部屋の表札は、赤塚ではなく梶尾となっていた。それをじっとみていると、「赤塚は頼子の旧姓です」と、振り返った。「頼子とわたしは内縁でしてね、たがいにもとの名を名乗っています」

 内縁。正式に入籍していないこと。あるいは事実上の夫婦関係のこと。

 辞書の解説のような文言が頭のなかでぐるぐるまわった。このさきどれほどの秘密を知らされることやらわからなくなってきた。


猫迷宮  52

2011年02月24日 23時21分31秒 | 文芸

あの」と、赤塚さんの旦那は、長い沈黙のあとで、意を決したように話しだした。「こちらにお伺いしましたのは、ただ様子を聞きに参っただけではないのです。内々で調査していただきたいのです」

 はっと言葉を呑みこんだ。また、勘違いの人が現れたのだ。もう山名興信所は存在しないのだ。いや、それはできません。ここはただの出版社ですから、といおうとするのを制するように、相手はたたみかけてきた。

「どこにもお願いできないので、以前に勤めていたヨシミでお願いにあがったのです。頼子の消息がつかめればいいのです。頼子がどうしていつもいなくなるのか調べて欲しいのです。わたしは、明日から今度は東北のほうに荷物を運びにでかけなくてはなりません。八戸まで足をのばします。八戸から荷主の指示によっては、北海道へも渡らねばならぬ長期の仕事で、一月は家をあけてしまいます。たとえ、その間に頼子が家にもどってきたとしても、どうしていたのか内密に調べてはもらえないでしょうか」 なにか、わけがありそうだ。知人であるし、すこしは世話になった人のことだから、力になってはやりたいが、それを仕事にして請け負っていいものだろうか迷った。赤塚さんが頼子って名前だったのをあらためて知ったくらいだ。なにかの書類でみたことはあったのだが、赤塚さんは赤塚さんとしか覚えていなかった。もちろん探偵でもなんでもない素人だ。そのあたりを説明しようとした。

「ご迷惑なのは承知しております。こちらの方面のお仕事は、以前に廃業されたことは伺っております。今でも依頼はあるけれど、みな断っているとも、頼子から聞いていました。ですが、ここは、神尾さんにお願いしたいのです。必要な経費も用意し参りました」

 そういって、茶封筒を差し出した。

「当面の経費として十万持って参じました」

 またしても、始末に困る金の話だ。

「あの、興信所ではなくなっているので、無理ですよ」

 もう一度つきはなしてやる。そうつきはなしてから、ほかにもなにかワケがありそうな気がした。しかし、そこまで立ち入ったら、もう引受けざるを得なくなる。

「あの、ぼくは編集専門で、そういった仕事の経験はありませんから。それに大曲社長自身も不在で、いや本当のことをいうと消息不明の状態なんですよ。この会社は辛うじてまわしているのが精一杯なんです」

 そういう、赤塚さんの旦那はじっとこちらをみつめた。なにか言いたげだ。迷っているようにもみえた。

「それでも、お願いしたいのです。ここに、頼子が残したメモの紙があります。見てください」

 ぎょっとした。目の前で手でのしてみせた紙切れに、「紅花舎、神尾さん。十六時」と、走り書きがあった。

「頼子は几帳面で、予定を電話のわきのメモに残してでかけることが多いのです。このメモのほかにも神尾さんの名前が三回書いてありました。この二ヵ月にいちばん出てくる名前が神尾さんだったので、今日もこうして来てみたのです」

 どういうつもりだろう。こちらの腹をさぐっているようのか。赤塚さんとの仲を疑っているのだろうか。それなら、遠回しな厭味にも思える。こちらも考えるふうをよそおって相手のでかたをまつほかはない。

「あいつが勤めをはじめたのも今日はじめて知ったくらいで、留守のあいだの様子は神尾さんのほうがよく知っているだろうと思ってきたのです。それに・・・」

 と、いって赤塚さんの旦那はまたすこし迷っているようだった。

「なにかお困りのことがあるのですか」

「はい、わからない手紙がいくつかあって」

「手紙?」

「はい。手紙というよりも、印刷物なのですが、なんのことやらわからないのです」 赤塚さんの旦那は額の汗をぬぐった。

「持ってらっしゃたのですか」

「家に置いてあります。あいつ宛の手紙ですし」

 そういってから、しばらく二人とも黙り込んしまった。このままつきはなすわけにもいかないなと思う。五日も家をあけているとあれば、いちおうそのわけをつきとめねばおさまりがつかないだろう。


猫迷宮 51

2011年02月24日 23時20分44秒 | 文芸

 しばらくて来客があった。浅黒い顔をしたいかつい男で、どうみても出版や印刷関係の人間にはみえなかった。宅配の業者にはこんな男がいる。ドアを開けて、しばらくのぞきこむようにしていたが、こちらが立ち上がったので、一礼してなかに入ってきた。またぞろ興信所の客だとやっかいだと思う。

「あの、紅花舎はこちらでよろしいでしょうか」

「はあ、そうですけど」

「あのお、以前にこちらでお世話になっていた者の身内なのですが」

 また、未払い分の督促なのかと一瞬ヒヤリとしたが、そのような請求なら本人がくるはずだ。

「赤塚と申しますが」

「ああ」と、いって一瞬かたまってしまった。赤塚さんの旦那らしい。旦那が紅花舎になんの用だ。それとも自分にか? 先日の夜のことがあるので嫌な予感がした。まさか、赤塚さんが話したわけじゃなかろうが。

「まあ、お座りください。赤塚さんがなにか?」

 旦那は、冴えない表情でかしこまって椅子に腰をおろした。灰色の開襟シャツの脇が汗で黒くなっていた。

「不躾な話なのですが、最近こちらに来たことはありましたか」

「ええ、一週間ほどまえに御仕事で近くに来たからって顔をだしましたけど。そのまえにも経理書類を調べに一度。半月前かな」

 夜に御飯をつくってもらったことは黙っておくことにする。

 旦那はじっと黙っている。なにか辻褄をあわせようとしているような感じだ。

「五日ほどまえに長距離の仕事から帰ったら家にいないのです。それもずっと帰ってこないのです」

「どちらか旅行か、御実家へもどったとかではないんですか」

「いえ、心当たりはみんなたずねましたが、どこへいったものやらわからないのです。新しい勤め先も私が留守中に決めたようで、どこの会社やらわからないので、もしかしたら、こちらでなにかわかるかもしれないと思いまして」

 どうやら赤塚さんは家出したらしい。それとも失踪したというのだろうか。

「保険会社の外交みたいなことをいってましたよ。詳しいことは知りませんが。都内を歩き回っていたようですが、それも中央区とか千代田区にかぎられていたようですけど。

 赤塚さんの旦那の顔がみるみる青ざめていくのがわかった。ほんとうに心配しているようすだ。自営のトラックの運転手ときいていたから、もっと骨太で豪胆な感じを想像していたが、顔色のわりに気が弱そうだった。

「どれくらい御仕事で留守にされていのですか?」

「三週間とすこしです。九州に一便運んで、そのあとで関西一円で仕事をこなしていましたから、思ったより長期になりました。自営ですから仕事があればあるだけ受け手おかないと、後で苦しくなりますから」

「書き置きはなかったのですか」

「はい。部屋の片付けや、洗い物はきちんとしてありましたが、今どこかへ出掛けたような感じでした。身の回りの物がなくなっているようすもないのです」

「家出ではないと?」

「いえ、ちいさなボストンバッグはありませんでした。あれが旅行にいくときに使うものです」

「それじゃあ、旅行にでもいったのではないのですか。五泊くらいのパック旅行ってありますよ」

「そんな女ではないのです」と、いって旦那は口ごもった。「これまで旅行というものはしたことがないのです。そのかわり・・・」

 また、口ごもった。

「そのかわり、なんです?」

 なんだか、興信所で事情をきいているような気分になった。山名興信所だ。

「はい。これまでも、ときどき、ふいといなくなることがありました」

「家出?」

「家出ともいえないのです。ある日ふいといなくなって、また、ふいに帰ってくるようなぐあいです」

 猫みたいですね、といおうとしてやめた。そういえば、飼い猫がいたはずだ。こちらはそんなことは知らないことになっているから、そんな話題をだしてはマズかろう。

「今度もそうだと思うのですか?」

「はい。そういうときは、あいつ、飼っている二匹の猫も連れて出ていってしまいますから」

 そうか、猫もろともの失踪というわけだ。

「こちらに勤めておりました頃にはそんな癖もやんでいたのですが、三年ぶりでしょうか、こんなことは」

 どこかの男と逃げたとか、アイソづかしのあげくでもなさそうだった。

「紅花舎に来たときは変わったことはなかったですよ。新しい仕事もはりきっていたようですし」

「長距離で出張中は電話などいれなかったのですか?」

 そんなことを聞いてもなんのたしにもならなかったが、いろいろ話して相手も気が紛れるかもしれない。

「ときどき、いまどこそこを走っているなどと夜などに電話しました。たいてい家におりまして、あらそう、なんていつものような返事でした」

「ふむ」

「ただ、木曜の晩だけは、集まりがあるとかでいないとも申しておりました」

「木曜の晩? 習い事ですか?」

「さて、なんですか。普段も、月に一度くらいは、決まって木曜日には出掛けていったものです」

「どこへ行ってるともいわないのですか」

「いえ、こちらがきかなかったのです。そういうことは、あまり話さないので」

「心配じゃなかったんですか」

 すこし刺激的な話題になりそうだった。

「いや、とくに」と、いって赤塚さんの旦那はまたなにか考えている。

「警察かなにかに捜索願いでも出したらどうです」

 すこしつきはなした。旦那は困ったような顔をした。

「いえ、そんな事件ってことでもない気がしています」

「でも、五日くらい帰らないんですよね」

「もう六日になります」

「お金は持って出ているのですか」

「さて、それも。このあいだ出先から生活費を三十万ほど送金してあります。それを持ってでたかどうか。それに貯金などもどうしているのか知りませんので」

 そういう夫婦もあるものかと思ったが、それには触れないことなした。いくら何を聞いても、こちらではなんり見当もつかないのだから。知っているのは最後に会ったときにも赤塚さんがしたたか酔ってしまったことだけだ。そのあとのことはいわないことにしても、なにか鬱屈したことがあったのかもしれない。失踪癖のある女だったのか、赤塚さんは。


猫迷宮 50

2011年02月24日 23時12分11秒 | 文芸

 どこをどう歩いたのか、外堀通りにはでることができた。 そこから、歩いて練馬に帰る元気はなかった。水道橋方面なら地理は簡単だった。会社へもどり夜中にシャッターをズルズルと開けて、事務所のソファーに倒れこんだまでは覚えている

 朝、目が覚めると、会社のソファーの上だった。昨日の午後に寝込んでから、ずっとそのままだったという気もする。あれはみな長い夢だったような気もする。頭痛がした。一夜の祟りのような頭痛だった。

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 日中の気温が二十八度を越えた。湿度もどんどんあがっていた。 紅花舎のエアコンは、真夏日三日目にして働かなくなった。数年間クリーニングもメンテナンスも怠ってきたツケがきたのだ。それは会社だとて同じことらしい。エアコンの寿命と会社の寿命がそれぞれ尽きようとしているかのようだった。修理屋に電話して、エアコンの型式と製造年を伝えると、おそらく冷却ガスがぬけたのだろうということだった。修理の見積をしにきてくれというと、あからさまに交換したほうがいいですよいわれた。業務用のエアコンを新調できるわけもない。しばらく扇風機で我慢することにした。ラジオに扇風機、二十年ほど時間が逆行した気分だった。昭和三十年代。自分が小学生だった頃だ。新幹線、オリンピック、ケネディ暗殺。電気洗濯機、テレビ、電気冷蔵庫、電気掃除機。どんどん電化製品が家のなかに入ってきた。野犬が減った。赤痢や疫痢に罹らなくなった。近所のタバコ屋に電話をかりにゆくこともなくなった。それでも、学校の試験問題はしばらくはガリ版刷りだった。みな子供時代のことだ。

「夏のほうが好きだわ。洗濯物がよく乾いて気持ちがいいし」

デスクのむこうでミドリちゃんがそんなことをいっている。今日のぶんの校正刷りを重そうに置いた。封筒の上に小さなハンカチの包みが乗っていた。毎日ではないが、ときどきいつもの握り飯とゆで卵を持ってきてくれるようになった。あんまり暑くなるとお弁当もいたみやすくなってダメね、といっている。どこかで聞いたような文句だ。

「でも、また雨になりそ。まだ梅雨が終わってないし」

 ミドリちゃんは用事が終わってもなかなか帰らなかった。

「あれからアパートのほうはどう? 静かになった」

 あの夜の事件がまだ気になっていた。とくに深夜の物音はなんだったのだろう。

「それがずっと静かになっちゃって、気味が悪いくらい。奥さん、出てっちゃったのじゃないしかしら。最近見かけないし、声も聞こえないんです。よく台所で酔っぱらって歌をうたってたのに」

「旦那のほうは?」

「夜おそくに帰ったり帰らなかったり。新聞がたまってることが多いんです」

 ミドリちゃんは、もっと別なことを話したそうな感じだった。また、飯に誘おうかと思ったが、財布の中身が心細くなっていた。

「神尾さん、わたしのところに御飯食べにきてもいいですよ」

 と、ふいにそういって、ミドリちゃんがこちらの眼をのぞきこんでいる。なんだか気後れしたのは、このあいだの赤塚さんのところでの件があったからだ。

「うん、こんど」と、うなずくと、いつとはいわずにミドリちゃんも笑って、階段を降りていった。          


猫迷宮  49

2011年02月24日 23時06分55秒 | 文芸

「ねえ、また何か考えてたでしょ」と、赤塚さんはすこしからむようになってきた。

「考えてましたよ」

「神尾さんて、素直なんだかひねくれてんだかわかんない」

 と、新たに酒をついでグイとあおっている。

「まあ紅花舎にまだいるくらいですから」

「そおとうよね・・・」

 と、わかったようなわからないようなことをいってきた。

「でもぉ」と、すこしばかり真顔になった。「でも、あの社長もそうとうな人だから気をつけなさいよね」

「どういうこと?」

「だから、巻きこまれちゃダメってことよ。社員に保証人の判なんか押させていた時期もあったんだから。あたしピンときたわ。あの人、働き手が欲しいんじゃなくて、身柄が欲しいんじゃないかって」

「身柄?」

「そう、骨までしゃぶられるわよぉ」

 酔ってきたらしい赤塚さんの話しぶりには凄みはなかったが、大曲氏の平素の動きからも納得がいく。このあいだ夢に出てきた町金の取立人の警告とおなじだ。

「出版を請け負った相手が資産家だったりすると、必ず不動産の利殖をもちかけたりしていたわ」

「興信所のほうは?」

 こちらも聞きたかったことがあった。

「知らないわ。あたしが勤めるまえのことだったらしいから。信用調査や素行調査を逆手にとって恐喝まがいのことでもしていたんじゃないのかしら。お金を余計払いそうなほうに調査資料を渡すのよ」

「アコギですね」

「アコギもいいとこ。世の中には芯から悪い人っているものね。地獄に三回落ちたって改心しないのよ」

 と、赤塚さんは地口のようなことをいった。

 いつのまにか、日本酒の中瓶がカラになっていた。こちらもすこし酔いがまわってきて、体がダルくなってきた。

「あら、今夜はペース早いわぁ」と、赤塚さんは腰を浮かせた。

「あっ、もうあんまり・・・」

 と、いいかけるのも聞かず、台所へ入っていった。今度は焼酎をさげてきた。

「いいのよぉ。どんどん呑んでよ」

 食卓の食べ物をつまんでいるのを、もどかしそうにして、カラのグラスに注いでくれた。氷を手でつまんで入れている。もう、どうでもいいような雰囲気だ。

「ブリ旨いです」と、いうと。

「皮のところ残してね。猫がほしがるのよぉ」と、自分も箸をつけて一口食べた。

「すこし味が濃かったかしら。あたし、薄味のほうがいいの。うちの人が北のほうの出で、とにかく味は濃いのが好きなものだからいつもこうなっちゃって。ほんとうは、魚の匂いが残るくらいが好きなのよ」

 とたんに口のなかに魚の匂いがひろがったような気がした。焼酎を一口ふくむ。氷のせいか水のように薄い。

 襟元をすこし開いて扇風機の風をあてた。

 なんの素振りとまちがえたのか、赤塚さんの目の色がすこし変わったようだった。「ねえ・・・」と、にじり寄ってくる。来た。「神尾さん、いいんでしょ」と、片方の脚に手をのせた。いいもなにも、そういうことらしい。

 大きな猫が膝の上にのしかかってきたような気がした。「神尾さん!」と、しぼるような声になって、唇をかさねてきた。押さえつけられて身動きもならなかった。堰を切ったような激しさがあった。「いいわよねえ」と、囁きながら、こちらのシャツのボタンをはずそうとする。どうにでもなれだが、赤塚さんはかなり酔っている。化粧と酒のにおいがいりまじって鼻をついた。それに汗ばんだ女の肌のにおいも。

 今度はベルトに手をかけてスボンを開きにかかっている。こういう展開は好きじゃないな、と不思議に興奮しもせず赤塚さんの髪だけを撫でてやった。赤塚さんの熱い息が股間にかかったのがわかる。そこに、ねっとりした唇がふれたのがわかった。

 一瞬の間があった。

 おや、と思った。赤塚さんはそのまま動かなくなってしまったのだ。髪をかきわけて、顔をみるとそのままつぶれていた。眠っているのだ。むしろ失神しているのではないかと思える。そっと体をはずして、座布団の上に頭を乗せてやる。ほっとしたような、ものたりないような片づかない気分だったが、たぶんこれでいいはずだ。急いで身繕いをして、部屋のなかを見回した。卓袱台のうえの狼藉は片づけていったほうがよさそうだった。二つずつ出ている食器の類も台所へさげたほうがいい。自分もかなり酔っているなかで、他人の家で洗い物をするのは難儀だった。残っている肴も全部生ゴミの容器に捨てる。洗ったグラスに水道の水をいれて一杯飲んだ。

 犯行現場にもどるような気分で居間にもどると、うつ伏せで眠っている赤塚さんの顔を横にむけ息が詰まらないようにしてやる。はて、なにか上にかけてやろうと考えて、隣の寝室らしいところをのぞくと、布団が一組のべてあった。赤塚さんの用意であったらしい。段取りが狂ったというわけか。薄いタオルケットを布団からはがして、居間にもどり、かけてやった。赤塚さんは低く鼾をかいていた。

 自分もかなり酔っていて、いっそ隣の部屋の布団に転がりこんでしまいたかったが、朝になれば気まずかろうと、無理にも玄関におりて靴を穿いた。十一時をすこし過ぎていた。これから、不案内な町を出て、帰らねばならない。

 歩きだすと、頭が朦朧としてきて、どこかの公園のベンチにでも寝ころがりたかった。我ながら足もとがフラついて情けない。


猫迷宮  48

2011年02月24日 23時05分38秒 | 文芸

「こんなものでよかったら、さきに飲んでててね」と、また台所へ入っていった。主人が常に晩酌をやる家では、酒肴の類がきらさず用意されているものだ。ビールというよりは日本酒の肴のような塩辛や佃煮、青い物の黒胡麻和え、ハルサメと枝豆の酢の物。すぐあとで筑前煮のような野菜の煮つけが大皿で加えられた。とにかく野菜をたくさんだしたいという心根が知れる。それを見ただけで、お腹がふくれるような気分になった。

 ついでもらったビールがすっと喉に落ちていく。たくさん歩いて汗をかいたためだろう。なんだか水のように感じられた。手酌で二杯目をついでいると、

「あらあら」と、みとがめて瓶をうばいとるようにしてついでくれた。

「ずいぶんイケるくちなんじゃない」と、そういうが、ほんとうはたいしたこともない。泥酔するほど酔う金もないわけだし。

 また居間でひとり酒になった。神棚があって、その脇には川崎大師の札がたてかけてある。壁には富山の薬袋がさがっている。なんだが時代が一時に三十年ももどってしまったような雰囲気だった。赤塚さんだって、まだ四十前なのに渋い趣味だと思う。世田谷で母親と住んでいた家を思い出す。風邪薬とか胃腸の散薬はかならず常備の薬箱から出してきたものだ。

「はい、これでとりあえず。御飯はあとでもいいわね」

 と、赤塚さんが運んできたのは鰤の照り焼きにハジカミを添えたものだった。飴色にうまく焼けていて食欲をさそう。ビールよりも日本酒がよさそうだ。

 赤塚さんも心得ていて、よく冷えた酒の中瓶をどかりと卓袱台にのせた。グラスに氷もいれてある。それがいつもの飲み方なのだろうか。

「どんどんやってちょうだいな。お酒でもなんでもあるわよ」

 と、自分もこれから腰をすえそうな按配だ。先にはじめていた相手を追いかけるような勢いがある。どれほど飲むのだろう。ビールばかりいつまでも飲みつづける女を知っているし、酒好きだがあっというまに潰れてしまう女もいた。赤塚さんは、とにかくお酒が好きなようだった。少しばかり酒がまわりだしてもこれといってくずれるわけでもなく、いつものような物言いでの話がつづく。突然、つぶれるくちかもしれない。会社勤めをしていたとき、そういう年長の同僚がいた。とことん呑むまでほとんど変わらず穏やかに笑っているが、突然椅子から崩れ落ちるようにして酔いつぶれてしまうのだ。何度か介抱したり、自分のアパートに連れていって泊めたり、さんざんな目にあった。数人で呑みにいっても、二人だけでもそうだった。口の悪い者になると、アイツは勘定の直前にツブレちまうんだぜ、と陰口をいったりした。確かにその男は、酔いつぶれてしまって勘定どころではない。最後に部屋に泊めたとき、スボンのポケットからはみだしていたヨレた財布をのぞいたことがあった。財布のなかには千円ほどしかはいっていなかった。彼のほうから、ちょっと寄ってきましょうよと誘った晩だった。日本酒を何本もあけて、こちらもかなりメートルがあがっていたが、その財布の中身を見ていっぺんにシラケてしまったことを覚えている。シラケたというより、なんだか憐れになって、もう一緒に呑みたくなくなった。

 赤塚さんはなにやら身の上話をしているようだったが、その同僚のことを思い出していてほとんど耳にはいらなかった。酒を呑むといつもそうだ。ますます自分のなかにはいってしまう。

「ねえ、黙ってなに考えてるのかしら」

 と、赤塚さんがわざとしんねりとした眼をしてこちらを見ていた。それから、クスッと笑っている。

「やらしいこと考えてるのじゃないのぉ」

 と、からかってくる。そんな手にのるわけにもいかない。

「そうですよ。ものすごくヤラシイこと・・・」と、返事してやる。

「ねえ、どういうことよ」

 と、身をのり出してきた。昨夜のミドリちゃんとのこともあるから、そういう展開にはしないつもりだったけれど、もともとイキアタリバッタリの性格には我ながらあれてしまう。ただ、どういうつもりでも、赤塚さんをがっかりさせないことだ。せっかく御馳走してくれているのだから。あの酔いつぶれる同僚だって、結果としてタダ呑みにはなるけれど、呑んでいるあいだは、四方山話も結構堂に入っていた。俳句とか釣りとか意外なことに詳しくて、なかなか教えられたものだ。「アナタ、釣リトイウモノハ、魚ヲツルモリデ糸ヲタラシテハオモシロクアリマセンヨ。魚ヲ釣ルノデハナク時間ヲツルノデスナ。針ニ魚ガカカッテシマッタラ、モウ釣リ上ゲルダケデ、タノシミハ終ワッテシマイマス」そんなふうな物言いをした。

「ねえ、神尾さんて変わってるわねえ」と、赤塚さんはからになったグラスを振りながらそういった。「なんだか、物事にこだわりがなくって、ラクそうだわね」

「薄情なんでしょ。こだわらないってことは」と、わざとニヒルにいってやる。ニヒルなんて若い世代では死語だが、赤塚さんには通じると思った。いつだったか、初めてはいったスナックのカウンターの隣に座りこんできた店の若い娘が、わたしの風貌を見て「お客さんニヒルね」と、いってきたのには閉口したけれど。

「猫みたいでいいわね」と、赤塚さんは、またすこしちかくに寄ってきた。

「猫いなくなったみたいですね」

「そうよ、二匹とも夜遊びでしょ。気まぐれなんだから」

 台所の明かりは消えていて、なにかがいる気配もない。猫たちも出ていったのなら、ひとりで酒を呑むにも寂しいだろうなとも思う。御亭主がいるときにはあまり呑まないのかもしれない


猫迷宮  47

2011年02月24日 23時05分38秒 | 文芸

「こんなものでよかったら、さきに飲んでててね」と、また台所へ入っていった。主人が常に晩酌をやる家では、酒肴の類がきらさず用意されているものだ。ビールというよりは日本酒の肴のような塩辛や佃煮、青い物の黒胡麻和え、ハルサメと枝豆の酢の物。すぐあとで筑前煮のような野菜の煮つけが大皿で加えられた。とにかく野菜をたくさんだしたいという心根が知れる。それを見ただけで、お腹がふくれるような気分になった。

 ついでもらったビールがすっと喉に落ちていく。たくさん歩いて汗をかいたためだろう。なんだか水のように感じられた。手酌で二杯目をついでいると、

「あらあら」と、みとがめて瓶をうばいとるようにしてついでくれた。

「ずいぶんイケるくちなんじゃない」と、そういうが、ほんとうはたいしたこともない。泥酔するほど酔う金もないわけだし。

 また居間でひとり酒になった。神棚があって、その脇には川崎大師の札がたてかけてある。壁には富山の薬袋がさがっている。なんだが時代が一時に三十年ももどってしまったような雰囲気だった。赤塚さんだって、まだ四十前なのに渋い趣味だと思う。世田谷で母親と住んでいた家を思い出す。風邪薬とか胃腸の散薬はかならず常備の薬箱から出してきたものだ。

「はい、これでとりあえず。御飯はあとでもいいわね」

 と、赤塚さんが運んできたのは鰤の照り焼きにハジカミを添えたものだった。飴色にうまく焼けていて食欲をさそう。ビールよりも日本酒がよさそうだ。

 赤塚さんも心得ていて、よく冷えた酒の中瓶をどかりと卓袱台にのせた。グラスに氷もいれてある。それがいつもの飲み方なのだろうか。

「どんどんやってちょうだいな。お酒でもなんでもあるわよ」

 と、自分もこれから腰をすえそうな按配だ。先にはじめていた相手を追いかけるような勢いがある。どれほど飲むのだろう。ビールばかりいつまでも飲みつづける女を知っているし、酒好きだがあっというまに潰れてしまう女もいた。赤塚さんは、とにかくお酒が好きなようだった。少しばかり酒がまわりだしてもこれといってくずれるわけでもなく、いつものような物言いでの話がつづく。突然、つぶれるくちかもしれない。会社勤めをしていたとき、そういう年長の同僚がいた。とことん呑むまでほとんど変わらず穏やかに笑っているが、突然椅子から崩れ落ちるようにして酔いつぶれてしまうのだ。何度か介抱したり、自分のアパートに連れていって泊めたり、さんざんな目にあった。数人で呑みにいっても、二人だけでもそうだった。口の悪い者になると、アイツは勘定の直前にツブレちまうんだぜ、と陰口をいったりした。確かにその男は、酔いつぶれてしまって勘定どころではない。最後に部屋に泊めたとき、スボンのポケットからはみだしていたヨレた財布をのぞいたことがあった。財布のなかには千円ほどしかはいっていなかった。彼のほうから、ちょっと寄ってきましょうよと誘った晩だった。日本酒を何本もあけて、こちらもかなりメートルがあがっていたが、その財布の中身を見ていっぺんにシラケてしまったことを覚えている。シラケたというより、なんだか憐れになって、もう一緒に呑みたくなくなった。

 赤塚さんはなにやら身の上話をしているようだったが、その同僚のことを思い出していてほとんど耳にはいらなかった。酒を呑むといつもそうだ。ますます自分のなかにはいってしまう。

「ねえ、黙ってなに考えてるのかしら」

 と、赤塚さんがわざとしんねりとした眼をしてこちらを見ていた。それから、クスッと笑っている。

「やらしいこと考えてるのじゃないのぉ」

 と、からかってくる。そんな手にのるわけにもいかない。

「そうですよ。ものすごくヤラシイこと・・・」と、返事してやる。

「ねえ、どういうことよ」

 と、身をのり出してきた。昨夜のミドリちゃんとのこともあるから、そういう展開にはしないつもりだったけれど、もともとイキアタリバッタリの性格には我ながらあれてしまう。ただ、どういうつもりでも、赤塚さんをがっかりさせないことだ。せっかく御馳走してくれているのだから。あの酔いつぶれる同僚だって、結果としてタダ呑みにはなるけれど、呑んでいるあいだは、四方山話も結構堂に入っていた。俳句とか釣りとか意外なことに詳しくて、なかなか教えられたものだ。「アナタ、釣リトイウモノハ、魚ヲツルモリデ糸ヲタラシテハオモシロクアリマセンヨ。魚ヲ釣ルノデハナク時間ヲツルノデスナ。針ニ魚ガカカッテシマッタラ、モウ釣リ上ゲルダケデ、タノシミハ終ワッテシマイマス」そんなふうな物言いをした。

「ねえ、神尾さんて変わってるわねえ」と、赤塚さんはからになったグラスを振りながらそういった。「なんだか、物事にこだわりがなくって、ラクそうだわね」

「薄情なんでしょ。こだわらないってことは」と、わざとニヒルにいってやる。ニヒルなんて若い世代では死語だが、赤塚さんには通じると思った。いつだったか、初めてはいったスナックのカウンターの隣に座りこんできた店の若い娘が、わたしの風貌を見て「お客さんニヒルね」と、いってきたのには閉口したけれど。

「猫みたいでいいわね」と、赤塚さんは、またすこしちかくに寄ってきた。

「猫いなくなったみたいですね」

「そうよ、二匹とも夜遊びでしょ。気まぐれなんだから」

 台所の明かりは消えていて、なにかがいる気配もない。猫たちも出ていったのなら、ひとりで酒を呑むにも寂しいだろうなとも思う。御亭主がいるときにはあまり呑まないのかもしれない


猫迷宮 46

2011年02月24日 23時04分01秒 | 文芸

 

「神尾さん、風邪ひくわよぉ」

 聞き知った声が耳もとでした。赤塚さんが顔をのぞきこんでいる。また、なにかのついでに寄ったらしい。

「お疲れなのかしら。暇そうね」と、すこしからかうような口ぶりだ。相変わらず息がかかるほど顔をちかづけてのぞきこんでいる。薄い藤色のスーツを着ていて、勤めの帰りか途中ののような様子だった。言葉にならない返事をして、起き上がった。まだ夢をみているような気持ちだった。

 赤塚さんは、新しい職場のことをなんたらかんたらと勝手に喋りはじめた。やはり保険会社らしい。

「神尾さんを誘いにきたのよ」と、曖昧な物言いをしてくる。保険の勧誘なら無理なことは知っているはずだ。

「約束でしょ。今晩うちにいらっしゃいな」

 御飯のことのようだ。

「でも・・・」と、いってようやく腰をうかす。

「暇そうじゃない。そうやってるくらいじゃ」と、就業中に居眠りをしていたひけめをついてきた。そうか、あれはただのお愛想でもなかったのかと思う。

「いいんですか」と、うっかり問い返してしまった。

「いいのよぉ。今日はそのつもりで来たんだから」

「はあ」と、すこし寒くなって上着をきこんだ。

「じゃ、いいわね。歩いても近くだから。ついてらっしゃいよ」

 と、赤塚さんはさっさと外に出ていく気配だ。あわてて事務所内をみまわす。時計は五時を回っている。窓もしめてあるし、不都合もなさそうだ。赤塚さんはもう階段を下りかかっていた。

 水道橋から一駅乗って、飯田橋で降りる。赤塚さんは外堀通りを突っ切ってゆるやかな坂道のひとつをさっさと上がっていった。並んで歩けばいいものをすこし足早で、一歩あとから追いかけるようにしてついていった。ときどきちらりとこちらを振り見て、笑っている。まだ寝ぼけてるみたいねといって。

 よく考えもせずついてきたが、今はなんだかお腹すいているのに気づく。

「砂土原町っていっても飯田橋よりなの。すぐよ」と、またそれだけいった。なんだか神楽坂の奥の密集した住宅地のようなところを通って、細い道をいくつもまがっていく。外堀通りから何本も路地がはいあがっていくような地形だ。はじめての場所なのでそんな感じがしていた。途中に小さな飲食店街があったかと思うと、大きな邸宅やマンションもあり、また小さな住宅の並ぶ界隈が現れた。古くからある町のようだった。表通りにでればなんだこのあたりかと思うかもしれない。大日本印刷がこのあたりになかったかな、とは仕事がらの土地勘だ。

「もうすぐよ」と、ぼんやり歩いているのを見咎めるようにまたいっている。

 赤塚さんにひきこまれた家は、古いがこざっぱりした日本家屋の一軒家だった。借家だというがちいさな庭もあり、玄関わきに自転車が二台たてかけてあった。

「さ、はいってぇ」と、カギをあけながら赤塚さんはいった。ドアではなくガラガラ開ける引き戸だった。軒下に曇りガラスの丸い玄関燈があった。ガラスに黒いエナメルで小さく赤塚と書いてある。塚の文字が半分ほど剥がれていた。

 玄関にはいると、この家独特のにおいのようなものがした。それぞれの家にはにおいがある。仏壇のある家だと、毎日焚く線香のものだったり、犬を飼っていればそのにおい。猫がいるらしい。猫のトイレの砂のにおいがした。

「猫飼ってるんですか」

「そうよぉ。二匹もいるの」と、ハイヒールをぬぎながらいっている。「ふつうの猫だけど」

 居間にとおされて、大きな丸い卓袱台の前に座布団をのべてくれる。

「ゆっくりしていてね」と、自分は着替えるのか奥に入っていった。そのうちに、後ろで気配がして、猫が一匹をすっと通って、台所のほうへはいっていった。大ぶりな三毛で、尻尾が長い。

「あら、あんた、もう帰ってきちゃったの。お腹がすいたの?」

 奥で赤塚さんの声がした。

「のどが渇いたのね。今日は暑かったものねえ」

 ひとしきり猫とのやりとりがつづいて、ようやく赤塚さんが出てきた。

「仕度はすぐできるから」と、とりあえずビールを運んできた。サッポロの黒ラベルだ。そういうところは赤塚さんらしい。紅花舎にいたころも、酒の銘柄の好みは盛んに聞かされていた。

 冷蔵庫から酒肴らしい食べ物があっというまに並べられた。

「暑いでしょ」と、いって小型の扇風機のスイッチをひねりっている。扇風機がゆっくりと首を振りはじめた。


猫迷宮 45

2011年02月24日 23時02分54秒 | 文芸

  失せ猫が帰ってくるように祈願するときには殆ど稲荷神社の名前があがるのは、狐と猫との因縁があるからでしょうか。日本橋堀留の三光神社には失せ猫帰還の御利益があるといわれています。関西では大阪は西長堀のその名も猫稲荷。祈願成就のときには、猫の土人形を奉納しすることになっています。御礼はたいてい油揚げというのも一様であります。

                                                         『猫文書』

                                       

 

 失せ猫、失せ物、失せ人はともかく、どこかにいる気配はするが、見え隠れしてはっきりしないものがまわりに多すぎる。姿を見せない雇い主、姿を見せない依頼人、半ズボンの少年。こちらから探しにいかなければ、金輪際つかまらないような気もする。とくに姿を消した人間は厄介だろう。いつだったか、駅の掲示板に行方不明者をたずねる小さなポスターを見たことがあった。あまりの内容にことに、手帳にメモした。かなり高齢の婦人の失踪が写真付きで掲示されていた。「年齢は八十七歳。大正三年七月生まれ。身長百四十センチメートル。体重三十キロ位。パーマなしの白髪。眼鏡をかけている。入れ歯はなく、左胸部に手術のあと有り。第一第二腰椎に圧迫骨折。茶色の厚手手編みのカーディガンに焦げ茶色のロングスカート。薄茶色の厚手靴下を着用。黒色の男物のサンダル靴。三万円ほど持って外出行方不明」と、あった。神奈川県の警察署扱いの掲示だ。わざわざ手帳に書き取ったのは、物好きからではない。行方不明から二年ほど経過していて、いまだ消息不明の八十七歳の老女というのに驚いたからだ。家族からの捜索願いにしたがっての詳細な人物像とはいえ、二年間も発見されないということがあるだろうか。事件にまきこまれて、拉致あるいは殺されて遺棄されているのかもしれない。だが、そんな尋ね人のポスターが練馬区の駅の掲示板に貼ってあるのも奇妙な気がした。住居が葉山の近くらしく、川か海にながされて行方不明になっているとも考えられるが、それよりも老女が別の世界に迷い込んでしまったような空想にかられたものだ。年をとってふと散歩に出る。見知った界隈をすこし離れたとき、自分が見たこともない町にいるのに気がつく。どう歩いても、もとの町にもどることができない。それが、自分の痴呆のせいか、そういう町にふみこんだのかも本人にはわからぬまま、呆然と立ち尽くしている。誰かに道を聞きたいが、そのときにはどう訊ねていいものかもわからなくなっている。そんなおそろしい瞬間が人生には待ち受けているのかもしれない。ふと見ると、自分の目の前を一匹の猫が歩いている。くるりと頭をめぐらせて、こちらを振り返ると、またすたすたと道を進んでいく。まるで先導するように。この猫のあとについてゆくしかない、と老いた頭で思いつき、小さな生き物のあとをどこまでも追いかけて歩みだしていくのではないか。・・・そんな空想をめぐらしているうちに、いつのまにかうたた寝してしまった。昨夜よく眠れなかったためか、午後二時を過ぎるとたまらなく眠くなってきたのだ。デスクにつっぷすのもだらしない気がして、ソファまでよろけて転がりこんだ。

 


猫迷宮 44

2011年02月24日 22時58分47秒 | 文芸

 地下鉄本郷三丁目で降りる。壱岐坂にむかって路地をまがりながら歩いていると、目の前を少年が歩いていた。十歳くらいで、中学生のようではなかった。午前九時を過ぎて、学校はとっくにはじまっている時刻だ。ピンとくるものがあった。白い半袖シャツに焦げ茶の半ズボン。よく刈り込まれた髪ときしゃなうなじ。こちらとおなじように路地を右左しながら壱岐坂にむかっているようすだ。また紅花舎に行こうとしているのだろうか。このままついていって、会社の前でつかまえ、いろいろ聞いてみようと思う。歩みがゆっくりと尾行の歩き方になった。もうすぐ壱岐坂下の通りになる。それを渡れば本郷二丁目にはいる。二十メートルほどはなれて、少年を追った。気づいてはいないようだった。通りに出ると、横断歩道橋に上がっていく。ほとんど誰も使わない歩道橋だ。こちらは通りをつっきるつもりで、車の切れ間を待った。少年はもうむこうの階段を下りはじめていた。

 なかなか車の切れ目がなく、ようやく横断し始めたころには、少年は本郷二丁目の路地にはいりこんでいってしまった。やむなく走って会社にむかったが、ほかの横道に入ったのか少年の後ろ姿は見えなくなった。紅花舎のはいっているビルのまえにきても誰もいなかった。二階への入口のシャッターも下りている。自分が開けなければ閉まったままにはちがいないが。

 ガラガラとシャッターをあげた足もとを、黒い影がすばやくとびだした。おっと思って見ると、猫だった。いつかミドリちゃんが逃がしていた神社の飼猫だ。また、開いていた窓から忍び込んでいたのだろうか。昨日は一日雨だったから紅花舎の窓はちゃんと閉めておいたはずなのに。隣の部屋は空テナントのままだったから、そこの窓でも開いたままなのだろうか。猫はあっというまに姿をくらました。なにが面白くてこんなビルに忍んでくるのか、自分の領域と決めこんでの巡回ルートかもしれない。

 雨続きだったので、久々の晴れに風をいれようと窓をすべて開け放つ。どの窓もカギが掛かっていて、ちゃんとしまっていた。自分で閉めた覚えがあるのだ。さきほどの忍び猫はどこからはいってきたのだろう。それとも、昨日の昼のうちに階段からあがってきて、とじこめられたのか。ミドリちゃんが来て、ふたりで出たときにはみあたらなかったが、どこかの物陰にうずくまっていたのかもしれない。だとしたら、雨の夜のビルのなかは冷えたことだろう。人も猫もそれぞれの雨の夜を過ごしたというわけだ。

  午後になって、約束通りミドリちゃんが事務所にあがってきた。今日はあいにく校正の仕事が出ていないそうで、口実がみつけにくかったようだった。郵便物を抱えていた。

「やっぱり?」

 と、さっそく猫の袋の話になった。駅までの道筋はていねいに見たけれどそれらしいものはみあたらなかったのは本当だ。

「ほんと、変なことがあるものね」

 ほっとしているような、まだ腑に落ちないような気分は同じだった。

「午前中、半ズボンをはいた男の子をみかけたんだけど」と、話をかえた。「この界隈に入り込んできたので後をつけたけど」

 ミドリちゃんが身をのりだしてきた。

「白い封筒の子かしら」

「同じ子供じゃないかな。学校のある時間帯だったし」

「顔をみました?」

 かぶりを振ってみせた。

「そうだったわ」と、ミドリちゃんがなにか思い出したようだった。「こないだ、うちの社長にに山名興信所のこときいてみたんです。そしたら・・・」

 と、ミドリちゃんは一息ついた。普段はあまり長くしゃべらないいほうなので、なんだかちょっと人が変わったみたいな感じがした。

「そしたらです。興信所って、やっぱり大曲さんが最初に作った会社だったんですって。信用調査みたいなことが専門だったらしくて、大曲さんが一人で動いていたそうです。ずっと前らしいですけど。それから不動産のブローカーでかなり稼ぐようになって興信所は看板だけになり、テナントではいっていたここの二階を買い取ったんだって」

 なるほど、このフロアー自体が大曲氏の持ち物なら赤字会社でも家賃の心配はいらなかったわけだ。

「紅花舎は?」

「よくは知らないんですけど、丸尾印刷とのつきあいから有限会社で出版も始めたみたいです」

「ずいぶんいろいろ聞いたね」

「別の人との話を聞いちゃったんです」

「最近そんな話がでたの」

「ええ、よくうちにくる出版ブローカーの人とそんな話になったんです」

「それって、この前お酒飲んでた人?」

「そうなんです。田邊さんて社長と同郷の人。社史が専門ていってました。個人の自費出版は手間のわりに金にならないっていつもいってる人です」

「・・・それじゃあ、あのシロネコ君は大曲社長の昔の客筋だっかもな」

 ミドリちゃんにはそれがよくわからなかったらしく、首をすこしかしげた。すこし黙ったままじっとこちらを見ている。それから緊張がとけたようにニコッと笑った。「たくさん喋っちゃいましたね。郵便局へ行くって出てきたんです」

 と、あわてて出ていこうとする。

「あの」と、いってはみたが、どうつづけていいか考えてなかった。ミドリちゃんは、それをまっていたように振り返った。

「今夜、夕飯をちやんと食べないか」

 ラーメン屋ではないというくらいの意味だったが。なんだか仕切りなおしをしたいような気分だった。ミドリちゃんは嬉しそうに笑ったが、すぐに困ったような顔になった。

「すみません。今晩用事があるんです。木曜日なので」

「木曜日?」

「はい、集まりがあるんです」

 集まり? 集会? なんだろうと思ったがそれ以上きくのはやめにした。

「そうか、じゃ今度」

「すみません」と、頭をさげてミドリちゃんは急いで階段を下りていった。集会か。なるほど、ミドリちゃんについてもまだなにも知らないのだ。島村沙代という本当の名前だって昨日はじめて表札で知ったくらいだ。

 一人になってから、さて今日はもう仕事がなのに気がついた。稲葉氏の原稿も、『昭和戯文集成』も校正分は片づいていた。もういちど念をいれて読むことにした。気が進まない作業ではあるけれど。