20代前半の頃だが、某学会の男性につきまとわれたことがある。
「神社は危険だ」
「間違った神様を祈ると大変」
「鳥居をくぐってはいけない」etc…。
思想や信教の自由というものがある。
彼が何を信奉しようと容喙する気はない。
だから、他者の嗜好に嘴を突っ込むのはやめてほしい、とはっきり明言した。
しかし言われたことしか理解できないタイプらしかった。
私が友人と待ち合わせていたら、私に内緒で「約束を変わって」と相手に頼み、当然のような顔をして現れた。
驚いて、不機嫌になって黙した私の気配に気づかない。
「人の約束をぶちこわしたと、わかっている?」と叱り飛ばしたら、宇宙語を聞いているような顔をし
「やめた。今日、話すような雰囲気じゃない」とぼそっと呟いた。
どうも会話が成立しない。
妄想の世界から抜け出ていないように見えた。
「あなたに全く関心がない」というと
「正直な気持ちを打ち明けてくれてうれしい、ありがとう」と返ってくる。
何を言っても無駄な人種はいるものだ。
こういう場合は「三十六計逃げるに如かず」だ。
関わり合いにならないのが最善である。
人間、誰しも想像力もしくは妄想力の中で生きている。
想像と現実の区別がきちんとつけられるのが常識人だと思う。
リアルなA子を、妄想のA子に無理に沿わせようとするのは、典型的なストーカーだ。
何を言っても、何を見ても、自分のいいように変換してしまう。
ある意味、危険なポジティブ思考である。
なぜこの話を思い出したかと言えば、あるブロガーさんのつきまとい被害記事を目にしたからである。
メールも出入りも拒否し、あげく嘲弄の趣をもってネタにしているのに、
なお「彼は私の魂の恋人」と都合よく解釈しているのだった。
他人事ながら(いや他人事だからこそ)苦笑するしかない。
こうした妄想は、頭の中だけにとどめたほうがいい。
他者を巻き込む妄想は、かなり暴力的だ。
それにしても、受容の時代を実感する。
数年前なら、こういう手合いは「正常さに不自由している人」として白眼視されたものだ。
私も歳月を経て、経験すべてがネタになるので、人生は興趣に満ちていると思うようになった。
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「神社は危険だ」
「間違った神様を祈ると大変」
「鳥居をくぐってはいけない」etc…。
思想や信教の自由というものがある。
彼が何を信奉しようと容喙する気はない。
だから、他者の嗜好に嘴を突っ込むのはやめてほしい、とはっきり明言した。
しかし言われたことしか理解できないタイプらしかった。
私が友人と待ち合わせていたら、私に内緒で「約束を変わって」と相手に頼み、当然のような顔をして現れた。
驚いて、不機嫌になって黙した私の気配に気づかない。
「人の約束をぶちこわしたと、わかっている?」と叱り飛ばしたら、宇宙語を聞いているような顔をし
「やめた。今日、話すような雰囲気じゃない」とぼそっと呟いた。
どうも会話が成立しない。
妄想の世界から抜け出ていないように見えた。
「あなたに全く関心がない」というと
「正直な気持ちを打ち明けてくれてうれしい、ありがとう」と返ってくる。
何を言っても無駄な人種はいるものだ。
こういう場合は「三十六計逃げるに如かず」だ。
関わり合いにならないのが最善である。
人間、誰しも想像力もしくは妄想力の中で生きている。
想像と現実の区別がきちんとつけられるのが常識人だと思う。
リアルなA子を、妄想のA子に無理に沿わせようとするのは、典型的なストーカーだ。
何を言っても、何を見ても、自分のいいように変換してしまう。
ある意味、危険なポジティブ思考である。
なぜこの話を思い出したかと言えば、あるブロガーさんのつきまとい被害記事を目にしたからである。
メールも出入りも拒否し、あげく嘲弄の趣をもってネタにしているのに、
なお「彼は私の魂の恋人」と都合よく解釈しているのだった。
他人事ながら(いや他人事だからこそ)苦笑するしかない。
こうした妄想は、頭の中だけにとどめたほうがいい。
他者を巻き込む妄想は、かなり暴力的だ。
それにしても、受容の時代を実感する。
数年前なら、こういう手合いは「正常さに不自由している人」として白眼視されたものだ。
私も歳月を経て、経験すべてがネタになるので、人生は興趣に満ちていると思うようになった。
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