夕暮れ時のことを 「たそがれ」 というが、 「黄昏」 という中国語からの
当て字は、日没後の光が僅かに残っていて、暗い感じをよく表している
もともとは 「誰そ、彼 (は)」 という呼び掛けの言葉で、薄暗くなって
人の顔もはっきり見極められず 「誰だろう、あの人は」 と考え込むことが
多くなることから来ているという
目の 網膜 には、主として明るい光の下で、色彩や形態を識別する 「錐状体」 と
薄暗い光の下で、明暗や動きを感じ取る 「桿状体」 という、二種類の視細胞が
分布している。 錐状体の多くが朝目覚めて、夜眠りに就くのに対して、
桿状体は、殆どが夕方目覚めて、明け方眠りに就く
この二つは、外光が三十ルクス位の明るさになると、昼夜を問わず交代し始め、
明け方と夕方には、かなり大幅な交代が行われる
この為、夜明け頃と日暮れ時には、もう眠りに就いた 「錐状体」 と、
未だ目覚めていない 「桿状体」 か、その逆の組合せが、入混じっていて
どちらも完全には機能していない時間帯が生ずる
本人は目覚めているつもりでも、実は物がよく見えていないことになり、
交通事故なども多発する 「逢魔刻」 とは、この内なる状態の時をいうらしい
いつの頃からか、明け方を 「かはたれ」 と言い分けるようになったが、
これは 「彼は、誰 (そ) 」 で、 「誰そ、彼 (は) 」 の逆の言い回しになっている
目の構造が解明される以前に、物がよく見えない時間帯があり、同じようで
実は逆のことが起こっている、ということが、体験的に表現されていたのかもしれない
下村 観山 の手になる 「晩鐘」 という絵には、人けない深山の大寺らしき門前に、
ひっそりと桜の老木が花咲いていて、晩鐘の深いどよもしに驚いたか、
その根方から貂が走り出ていく …
桜の樹もまたよく知っているその音を聴いているようであり、
見るものとてない満開の花を差し広げて、貂を引き留めようとするようでもあり、
そうではなく、また明日、早くお帰り、と見送るようでもある
だが夜半雨が降り敷けば花は散り、明日貂は来ず、またいつ雷に撃たれ老樹の生涯は
終わるやも知れぬ … それでも、今この穏やかな春の夕べは永遠であり、
貂は画面を走り出てはおらず、宵闇も未だ画面に忍び入っては来ない …
貂とて、忘れていただけで、この音はよく知っているのであり、
恐らく門を鎖しに人が来るであろうことを想い起こし、また里の子どもら
同様、日暮れ前に家路に着くよう、母親から言い含められていただろう
桜の花びらと貂の毛が、柔らかく透き通っていき、黄昏の日差しに
耀きながら、その一つ一つが鐘の音に仄かに震えるようでもある
江戸時代の不定時法では、日の出約三十五分前の明け六つから
日没約三十五分前の暮れ六つまでと、その逆を昼夜として、それぞれ六等分し、
出来た約二時間の十二辰刻を、約三十分毎に、各四刻に分ける。
明け六つ (卯の刻) は、夏には四時前だったのが、冬には六時過ぎに、
暮れ六つ (酉の刻) は、十九時半頃だったのが、十七時過ぎとなり、
昼の一辰刻が、夏には約二時間四十分、冬には約一時間五十分と、随分異なってしまう
当時は十五日ごとに調整したらしい
昔から自分の影が十歩程の長さになると (太陽の角度から) 日没の約一時間前
ということが判るので、これを目安に辺りが闇に沈む前に帰宅したという
三十二歳の 三木 露風 が、北海道で夕日の中を飛ぶアキアカネを見て作ったという
「赤とんぼ」 の詩は、当初は 「夕やけこやけの山の空」 と始まっていたらしい
「こやけ」 の意味するものについては、諸説ある中で、 「日没の十数分後に、
地平線の向こう側に沈んだ太陽から、眼前 (の地平線上) に浮かぶ雲の下側に
光が差し込んで、再び一段と赤々と照らし出されるさま」 というのが、
「負われて見たのは幻か」 という詩句を考え合わせると、かなり有力に思われる
Wikipedia の 貂 (テン) や 鼬 (イタチ) の項には、次のような記述もある
日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた。
江戸時代の百科辞典 『和漢三才図会』 によれば、イタチの群れは火災を引き起こす
とあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている。
新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を、6人で臼を搗く音に似ているとして
「鼬の六人搗き」 と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。
人がこの音を追って行くと、音は止まるという。
(此処を 「六人を臼で搗く」 と読んでしまって、肝を潰したのだが、そうではなく、
三人が次々と杵を振り下ろす中、別な三人がまた間髪を入れず、水を付け捏ね …、
というように、賑やかで調子の速い、大騒ぎを繰り広げているのだった …)
三重県伊賀地方では 「狐七化け、狸八化け、貂九化け」 といい、
テンはキツネやタヌキを上回る変化能力を持つという伝承がある。
秋田県や石川県では目の前をテンが横切ると縁起が悪いといい
(イタチにも同様の伝承がある) 、広島県ではテンを殺すと火難に遭うという。
福島県ではテンはヘコ、フチカリ、コモノ、ハヤなどと呼ばれ、
雪崩による死亡者が化けたものといわれた。
その他、キテンの毛皮は特に優れていて、最高級とされる。
そのため、 「テン獲りは二人で行くな」 ということわざが猟師に伝わっている。
高価で売れるので、一方がもう一方を殺しかねないという意味である。
サキ の 「スレドニ・ヴァシュター」 には、見るからに獰猛な神獣のような鼬が
出て来て、主人公の少年を苛める伯母さんが、少年が秘密裡に飼っているペット
だと思い、閉じ込められた二階から少年が見守る中、始末すべく小屋に入って行った後、
細く開いたままの扉から鼬だけが堂々と外へ出てきて、血濡れた頭を廻らし、走り去り、
後は唯静寂が支配する中、少年は小声で嬉しげに鼬につけた見知らぬ神の名を唱える …
コードウェイナー・スミス の 「ノーストリリア」 や 「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」 で、
不老不死の秘薬を守っていたのは、きわめて獰猛に品種改変された、たくさんのミンクたちで、
侵入等の非常事態には狂乱状態になり、その獰猛かつ狂える強い脳波を収束して
侵入者の感覚器官から注ぎ込み、脳を破壊するという凄い兵器だった …
再び Wiki に拠ると、
鳥山 石燕 の画集 『画図百鬼夜行』 にも 「鼬」 と題した絵が描かれているが、
読みは 「いたち」 ではなく 「てん」 であり、イタチが数百歳を経て魔力を持つ妖怪
となったものがテンとされている。 別説ではイタチが数百歳を経ると狢になるともいう。
画図では数匹のテンが梯子状に絡み合って火柱を成しており、このような姿に絡み合った
テンが家のそばに現れると、その家は火災に遭うとして恐れられていた。
とあり、この重なり合って煤を噴き上げる火焔となった鼬 (テン) の傍に、
観山の山門とよく似た、塀の続く切妻が覘いているのだが、その手前には松がある …
恐らくこの火焔は本物の火災ではなく、 「こやけ」 のように、薄暗くなった辺り一面が
再び急に赤々と耀く時に見えた、陽炎のようなものであり、翳った筈の西日を浴びた鼬が、
屋根の上を並んで組んず解れつ追い駆け合いながら走っていた数匹が、一瞬将棋倒しに
なりかけながら、立ち止まって赤く目を光らせ、尾を揺らめかせただけかも知れない …
菱田 春草 が、満月の晩、白鷺が空中を群れ飛ぶ姿を、同じ宙に浮いた視点から
近々と描いた 「陸離」 は、東京美術学校の教授時代に、日本美術院の同志たちとの
絵画互評会で発表された時は 「月夜飛鷺」 で、この時の会の課題が 「陸離」 だった
互いに評し合う、記録を見てみると、
下村 観山 着想甚だ妙、別に夐點を見ず。
横山 大観 着想に於ては塲中第一ならん、月夜に白鷺の飛びかふ情、
十分に現はれたり。 唯月なくして鷺を今少しく小にせば、
全局廣くなりて一層面白かりしが如し。
鈴木 華村 同感、鷺に當れる光線に變化なく、一様なるはいかゞ、
眞白の鷺と淡鼠に見ゆる鷺と相交へて、光線を一層面白く
描き分けしならば、殊に妙なりしならん。
山脇 荷聲 着想描方ともに佳なり、唯形よりいはゞ、鷺無意味にして、
模様の如きを免れざる歟。
(数人各論あって)
川合 玉堂 予は大観君に反して、荷聲君に賛せざるを得ず。
着想の卓抜奇警、眞に驚くの外なしと雖、
鷺活動を夐きて、空の色に變化なく、一面に塗りたるが如き、
十分成功の作と見るべからず。
(更に数人各論あって)
(岡倉 天心 纏め) 着想の新、圖様の奇、眞に天外より落つるもの、
用筆の温雅にして、賦彩の沈着なる、亦得難き作といふべし。
これを模様畫といふものは、酷評に失するを免れずと雖、
華村子の言大に味ひあるが如く、
其他鷺に就ての非難あるは、濃淡の微瑕より来るにあらん歟。
この空は、まさに天空というべき空気の薄い高層圏で、満月が大きく見える程、月光を満たし、
ゆっくりと地球が自転し、月との引力の満ち牽きを感じながら、はらはらと時の雫を落とす
かのように羽を散らしながら夜気を漕ぐさまは、時間の流れが殆ど無限大に引き延ばされて、
まるで大気が超流動化していくかのようでもある
今にして見れば、 昴 等の、若く青白い重量級の星々が互いに間近に集う様子も想い起こされる
「陸離」 にしても、
三省堂 大辞林
りくり 1 【陸離】
(ト / タル) [文] 形動 タリ
(1) 光が入り乱れて美しくかがやくさま。
「光彩―」「麗しい七色が―と染出される/青春(風葉)」
(2) 複雑に入りまじるさま。
何となく単純に、 「離陸」 と似たような感じなのだろう、と勝手に思ってしまっていたので、
このような壮麗な意味だったのを知って、唖然とすると共に、また何と素晴らしく難しい
御題であり、他の後の大家が 「海月」 等を描かれる中 (… こちらも文字を見ると、一瞬
頭を過るクラゲではなく … その名の当て字の元になった、夜の海の波の上に揺らめく月影 …)、
この絵を描いた春草の発想に畏れ入る …
二つの意味が渾然一体となり、まるで語源となる光景が立ち顕れたかのよう …
一つは、聴こえない深い音がどよもし殷々と消えていく中に、老いた花樹といたいけな小獣の
交感が立ち昇り、一つは、故郷か新天地かへ旅立つ、仲間裡に脈々と流れる、古から受け継がれて
きた本能の、浮き立つような力と喜びに満ちた、翼の羽ばたきと軋みに、幽かに空気のはためく中、
月の光がひたひたと照り映える … その硬質でありながら柔らかな、重くまた軽やかな、
力強くしなやかな音が、胸の奥より血潮となって聴こえて来るような気が …
当て字は、日没後の光が僅かに残っていて、暗い感じをよく表している
もともとは 「誰そ、彼 (は)」 という呼び掛けの言葉で、薄暗くなって
人の顔もはっきり見極められず 「誰だろう、あの人は」 と考え込むことが
多くなることから来ているという
目の 網膜 には、主として明るい光の下で、色彩や形態を識別する 「錐状体」 と
薄暗い光の下で、明暗や動きを感じ取る 「桿状体」 という、二種類の視細胞が
分布している。 錐状体の多くが朝目覚めて、夜眠りに就くのに対して、
桿状体は、殆どが夕方目覚めて、明け方眠りに就く
この二つは、外光が三十ルクス位の明るさになると、昼夜を問わず交代し始め、
明け方と夕方には、かなり大幅な交代が行われる
この為、夜明け頃と日暮れ時には、もう眠りに就いた 「錐状体」 と、
未だ目覚めていない 「桿状体」 か、その逆の組合せが、入混じっていて
どちらも完全には機能していない時間帯が生ずる
本人は目覚めているつもりでも、実は物がよく見えていないことになり、
交通事故なども多発する 「逢魔刻」 とは、この内なる状態の時をいうらしい
いつの頃からか、明け方を 「かはたれ」 と言い分けるようになったが、
これは 「彼は、誰 (そ) 」 で、 「誰そ、彼 (は) 」 の逆の言い回しになっている
目の構造が解明される以前に、物がよく見えない時間帯があり、同じようで
実は逆のことが起こっている、ということが、体験的に表現されていたのかもしれない
下村 観山 の手になる 「晩鐘」 という絵には、人けない深山の大寺らしき門前に、
ひっそりと桜の老木が花咲いていて、晩鐘の深いどよもしに驚いたか、
その根方から貂が走り出ていく …
桜の樹もまたよく知っているその音を聴いているようであり、
見るものとてない満開の花を差し広げて、貂を引き留めようとするようでもあり、
そうではなく、また明日、早くお帰り、と見送るようでもある
だが夜半雨が降り敷けば花は散り、明日貂は来ず、またいつ雷に撃たれ老樹の生涯は
終わるやも知れぬ … それでも、今この穏やかな春の夕べは永遠であり、
貂は画面を走り出てはおらず、宵闇も未だ画面に忍び入っては来ない …
貂とて、忘れていただけで、この音はよく知っているのであり、
恐らく門を鎖しに人が来るであろうことを想い起こし、また里の子どもら
同様、日暮れ前に家路に着くよう、母親から言い含められていただろう
桜の花びらと貂の毛が、柔らかく透き通っていき、黄昏の日差しに
耀きながら、その一つ一つが鐘の音に仄かに震えるようでもある
江戸時代の不定時法では、日の出約三十五分前の明け六つから
日没約三十五分前の暮れ六つまでと、その逆を昼夜として、それぞれ六等分し、
出来た約二時間の十二辰刻を、約三十分毎に、各四刻に分ける。
明け六つ (卯の刻) は、夏には四時前だったのが、冬には六時過ぎに、
暮れ六つ (酉の刻) は、十九時半頃だったのが、十七時過ぎとなり、
昼の一辰刻が、夏には約二時間四十分、冬には約一時間五十分と、随分異なってしまう
当時は十五日ごとに調整したらしい
昔から自分の影が十歩程の長さになると (太陽の角度から) 日没の約一時間前
ということが判るので、これを目安に辺りが闇に沈む前に帰宅したという
三十二歳の 三木 露風 が、北海道で夕日の中を飛ぶアキアカネを見て作ったという
「赤とんぼ」 の詩は、当初は 「夕やけこやけの山の空」 と始まっていたらしい
「こやけ」 の意味するものについては、諸説ある中で、 「日没の十数分後に、
地平線の向こう側に沈んだ太陽から、眼前 (の地平線上) に浮かぶ雲の下側に
光が差し込んで、再び一段と赤々と照らし出されるさま」 というのが、
「負われて見たのは幻か」 という詩句を考え合わせると、かなり有力に思われる
Wikipedia の 貂 (テン) や 鼬 (イタチ) の項には、次のような記述もある
日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた。
江戸時代の百科辞典 『和漢三才図会』 によれば、イタチの群れは火災を引き起こす
とあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている。
新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を、6人で臼を搗く音に似ているとして
「鼬の六人搗き」 と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。
人がこの音を追って行くと、音は止まるという。
(此処を 「六人を臼で搗く」 と読んでしまって、肝を潰したのだが、そうではなく、
三人が次々と杵を振り下ろす中、別な三人がまた間髪を入れず、水を付け捏ね …、
というように、賑やかで調子の速い、大騒ぎを繰り広げているのだった …)
三重県伊賀地方では 「狐七化け、狸八化け、貂九化け」 といい、
テンはキツネやタヌキを上回る変化能力を持つという伝承がある。
秋田県や石川県では目の前をテンが横切ると縁起が悪いといい
(イタチにも同様の伝承がある) 、広島県ではテンを殺すと火難に遭うという。
福島県ではテンはヘコ、フチカリ、コモノ、ハヤなどと呼ばれ、
雪崩による死亡者が化けたものといわれた。
その他、キテンの毛皮は特に優れていて、最高級とされる。
そのため、 「テン獲りは二人で行くな」 ということわざが猟師に伝わっている。
高価で売れるので、一方がもう一方を殺しかねないという意味である。
サキ の 「スレドニ・ヴァシュター」 には、見るからに獰猛な神獣のような鼬が
出て来て、主人公の少年を苛める伯母さんが、少年が秘密裡に飼っているペット
だと思い、閉じ込められた二階から少年が見守る中、始末すべく小屋に入って行った後、
細く開いたままの扉から鼬だけが堂々と外へ出てきて、血濡れた頭を廻らし、走り去り、
後は唯静寂が支配する中、少年は小声で嬉しげに鼬につけた見知らぬ神の名を唱える …
コードウェイナー・スミス の 「ノーストリリア」 や 「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」 で、
不老不死の秘薬を守っていたのは、きわめて獰猛に品種改変された、たくさんのミンクたちで、
侵入等の非常事態には狂乱状態になり、その獰猛かつ狂える強い脳波を収束して
侵入者の感覚器官から注ぎ込み、脳を破壊するという凄い兵器だった …
再び Wiki に拠ると、
鳥山 石燕 の画集 『画図百鬼夜行』 にも 「鼬」 と題した絵が描かれているが、
読みは 「いたち」 ではなく 「てん」 であり、イタチが数百歳を経て魔力を持つ妖怪
となったものがテンとされている。 別説ではイタチが数百歳を経ると狢になるともいう。
画図では数匹のテンが梯子状に絡み合って火柱を成しており、このような姿に絡み合った
テンが家のそばに現れると、その家は火災に遭うとして恐れられていた。
とあり、この重なり合って煤を噴き上げる火焔となった鼬 (テン) の傍に、
観山の山門とよく似た、塀の続く切妻が覘いているのだが、その手前には松がある …
恐らくこの火焔は本物の火災ではなく、 「こやけ」 のように、薄暗くなった辺り一面が
再び急に赤々と耀く時に見えた、陽炎のようなものであり、翳った筈の西日を浴びた鼬が、
屋根の上を並んで組んず解れつ追い駆け合いながら走っていた数匹が、一瞬将棋倒しに
なりかけながら、立ち止まって赤く目を光らせ、尾を揺らめかせただけかも知れない …
菱田 春草 が、満月の晩、白鷺が空中を群れ飛ぶ姿を、同じ宙に浮いた視点から
近々と描いた 「陸離」 は、東京美術学校の教授時代に、日本美術院の同志たちとの
絵画互評会で発表された時は 「月夜飛鷺」 で、この時の会の課題が 「陸離」 だった
互いに評し合う、記録を見てみると、
下村 観山 着想甚だ妙、別に夐點を見ず。
横山 大観 着想に於ては塲中第一ならん、月夜に白鷺の飛びかふ情、
十分に現はれたり。 唯月なくして鷺を今少しく小にせば、
全局廣くなりて一層面白かりしが如し。
鈴木 華村 同感、鷺に當れる光線に變化なく、一様なるはいかゞ、
眞白の鷺と淡鼠に見ゆる鷺と相交へて、光線を一層面白く
描き分けしならば、殊に妙なりしならん。
山脇 荷聲 着想描方ともに佳なり、唯形よりいはゞ、鷺無意味にして、
模様の如きを免れざる歟。
(数人各論あって)
川合 玉堂 予は大観君に反して、荷聲君に賛せざるを得ず。
着想の卓抜奇警、眞に驚くの外なしと雖、
鷺活動を夐きて、空の色に變化なく、一面に塗りたるが如き、
十分成功の作と見るべからず。
(更に数人各論あって)
(岡倉 天心 纏め) 着想の新、圖様の奇、眞に天外より落つるもの、
用筆の温雅にして、賦彩の沈着なる、亦得難き作といふべし。
これを模様畫といふものは、酷評に失するを免れずと雖、
華村子の言大に味ひあるが如く、
其他鷺に就ての非難あるは、濃淡の微瑕より来るにあらん歟。
(日本美術院百年史 二巻下 〔資料編〕)
この空は、まさに天空というべき空気の薄い高層圏で、満月が大きく見える程、月光を満たし、
ゆっくりと地球が自転し、月との引力の満ち牽きを感じながら、はらはらと時の雫を落とす
かのように羽を散らしながら夜気を漕ぐさまは、時間の流れが殆ど無限大に引き延ばされて、
まるで大気が超流動化していくかのようでもある
今にして見れば、 昴 等の、若く青白い重量級の星々が互いに間近に集う様子も想い起こされる
「陸離」 にしても、
三省堂 大辞林
りくり 1 【陸離】
(ト / タル) [文] 形動 タリ
(1) 光が入り乱れて美しくかがやくさま。
「光彩―」「麗しい七色が―と染出される/青春(風葉)」
(2) 複雑に入りまじるさま。
何となく単純に、 「離陸」 と似たような感じなのだろう、と勝手に思ってしまっていたので、
このような壮麗な意味だったのを知って、唖然とすると共に、また何と素晴らしく難しい
御題であり、他の後の大家が 「海月」 等を描かれる中 (… こちらも文字を見ると、一瞬
頭を過るクラゲではなく … その名の当て字の元になった、夜の海の波の上に揺らめく月影 …)、
この絵を描いた春草の発想に畏れ入る …
二つの意味が渾然一体となり、まるで語源となる光景が立ち顕れたかのよう …
一つは、聴こえない深い音がどよもし殷々と消えていく中に、老いた花樹といたいけな小獣の
交感が立ち昇り、一つは、故郷か新天地かへ旅立つ、仲間裡に脈々と流れる、古から受け継がれて
きた本能の、浮き立つような力と喜びに満ちた、翼の羽ばたきと軋みに、幽かに空気のはためく中、
月の光がひたひたと照り映える … その硬質でありながら柔らかな、重くまた軽やかな、
力強くしなやかな音が、胸の奥より血潮となって聴こえて来るような気が …
良い言葉ですね。
前後の脈絡で意味は分かりましたが
初めて聞きました。
恐らく、大和言葉なんでしょうが
特有の柔らかさがあって良いです。
「錐状体」 と「桿状体」のお話も興味深いです。
夜と昼に応じた器官がちゃんと備わっているんですね。
それと、キツネやタヌキだけではなく
テンやイタチも人を化かしてたんですね。
それだけ、身近でありながら
微妙な距離にいる存在だったのでしょうね。
後、「陸離」は以前にも教えて頂きましたが
やはり面白いです。
「黄昏」に戻りますが
前から、良く晴れた夕暮れの空を見上げると
西の空は、きれいなオレンジで
東は深い青なのに
その中間は、どう目を凝らしても
境目が分からないことを面白いと思っていました。
まぁ、いわゆる「グラデーション」ということですが
ヴィトゲンシュタインは
「世界の境界に立つことを夢と呼べ」と言い
ドゥルーズは
「二者の中間の、逃走の線を描く
運動の速度である」等と言うことを連想します。
ヘーゲルなら、堅く「アウフヘーベン」と言うかも知れません。
ともかく、前にも書いたかも知れませんが
私も、二者を乗り越えた異次元へ
強く憧れます。
「錐状体」 と 「桿状体」 について教わった時、物の見え方が一変したのを覚えています。受容する波長が違うので、例えば、道端の紫色の小さな花が、朝通った時には殆ど目にも入らなかったのが、帰り道にはとても綺麗に見える、等は、正にそのせいで、別に心理状態 等とは全く関係なく、また夜更けにアトリエで描いた絵を、昼間自然光の下で眺めると、全然自分が思ったように出来ていない、と感じるのもその為らしいのです …
テンは一度だけ車の助手席で、先のほうの道路を横切るのを目の当りにしたことがあります … 猫よりは全体が長く、迷いなく一跳びかと思う勢いで、宙を飛ぶように横切って居なくなり、友人はとっさに減速することなく (… いけないそうですね … 後続車の安全の為 … ) 通り過ぎることが出来、その辺りに住む自分も初めて見た、と言っていました … 正しくこの画面のテンのような感じで、作品のほうは先日まで横浜に展示されていましたが、大きいので、テンは小さくてもはっきり描かれていたかと … それと、桜の根元には卒塔婆のような物がたくさんあり、こういう桜を観山は他にも幾つかの画面で描いています …
「陸離」 の 互評会の模様は、有名な観山と大観と玉堂だけにしていたのを、引用されている華村 (華邨) と荷聲の分を入れ、典拠を明記しました … あと、もう御一方面白いことと、やや不可解な感じの悪いようなことを言っているかたが居られ …
(上原) 古年 月の描方新奇にして面白し。されども遂に模様の評を免れざるを憾む。柳葉の飛び散るは、小細工といふべし。無きに若かず。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%B9%B4
… ? 更にあと6人位、極めて具体的に、ああ描けば、こう描いたら、と、なかなか凄いのですが、alterd 様 の時も時々そんな感じになることがありますが … ヘッドライトの時を想い起こし … 此方も、そのままでよかったなぁ … と …
でも、この作については、この会と御題がなければ生まれなかったかも知れなかった訳で、変な評は確かに鬱陶しいものですが、それでもこういう会や御題をいただけるのはいいなぁと … alterd 様、その裡に御題くださいませんか、alterd 様 も絵に描いてみたいような …
そういえば、お好きな ビクトル・エリセ 監督 の DVD-BOX に 「挑戦」 という、若い頃、他の二人の監督とオムニバスでショート・フィルムを撮られたのが入っていたのですが、明らかに (卒業制作とかの ?) 課題作のようで、タイトルとかのほかに、共通するモチーフが出てくるのです … 殺人、三角関係 (? … 誤解 ? … 嫉妬 ? ) 、彫刻、双眼鏡、等々 … 全く異なる用い方、脚本と撮り方になっていましたが、それぞれ面白いものでした … そういうのも、よいですね … なにとぞ、よろしくお願いいたします …
詩の題ですよね。
これはまた非常に難しいですね。
確か、開高健だったか
題さえ浮かべばこっちのものみたいなこと言ってましたが
人の面構えのようなもので凄く大事ですよね。
多分、アイディアと一緒で
空中にふっと浮かんだものを捉えるしかないんでしょうね。
心掛けておきますが期待しないでください(笑)
後、絵に対する評価なんですが
例えば、北斎の「神奈川沖浪裏」のような傑作をケナす人は滅多にいないでしょうが
大概の絵にはつけようと思えばいくらでもいちゃもんはつけられると思うんですよね。
まぁ、そこに厳しさの程度はあるでしょうが。
ただ、中には、まるで的外れの酷評もあるわけで
感性の違いとしか言いようがないですね。
しかし、近い感性の人間同士の間で
まるで、両目があって初めて現れる
「遠近感」のような高次のアイディアが生まれる時があります。
それこそが対話の醍醐味でしょうね。
それと「錐状体」 と 「桿状体」のお話では
前々から、雨降りの方が花が綺麗に見える謎が解けました。