hazar  言の葉の林を抜けて、有明の道  風の音

細々と書きためたまま放置していた散文を、少しずつ書き上げ、楽しみにしてくれていた母に届けたい

鎧(よろい) と 槍 ―― 白い岩屋、 黒の龍  (二/四)

2015年01月22日 | 絵画について
ベルナート・マルトレル Bernat Martorell (1390-1452) 聖ゲオルギウスと龍 Saint George



Killing the Dragon 1430-1435 年 テンペラ・板 Tempera on Panel 155.6 × 98.1 cm  

黒装束の聖人が馬上から近々と体を傾け、足下に翼を広げた、
黒犬と蝙蝠(こうもり)、鰐(わに)が合体したような、在り得べからざる
龍の、かっと開いた喉元へ、貫き通さんと、槍を構える。
流れ、踊るような、その肢体と、無駄のない動きは、
卓越した踊り手、運動家、戦士のもの。
右脚は、見えない左脚と一つになり、半眼に捉えられた
龍の開いた喉の奥へ、疾走しつつ身を翻(ひるがえ)す、馬の
動きを左手で導き、棚引(たなび)き翻(ひるがえ)る白絹の蔭で、
微動だにしない、長く鋭い槍が、発止と掲げられる。

龍の生贄(いけにえ)となるべく居合わせた姫は、小さな両手を
胸の前に開き、祈るというよりは、あまりのことに為す術もなく、
慄(おのの)き悲嘆に暮れるよう。
蒼白き顔(かんばせ)を縁取る、金髪の周りには、
聖人の篤(あつ)く、耀き亘(わた)る光背に、
幽(かす)かに応えるかのように、繊細な冠が広がる。
その後ろには、遠く故郷の城の、白壁が聳(そび)え、
人々が鈴なりになって、固唾(かたず)を呑み、見つめている。
姫が、倒れまいと、立ち竦(すく)んで居るのは、
龍の棲(す)み処(か)らしき岩窟の割れ目の上、
傍らに純白の羊も項垂(うなだ)れている。
割れ目の周りからは、小さな蜥蜴(とかげ)のようなものが
三匹、這(は)い出して来ていて、様々な大きさをした
異なる段階の、龍の子のようにも見える。



城の周囲には、濠(ほり)が廻(めぐ)らされ、
何も知らな気な白鳥や鴨が、長閑(のどか)に浮かんでいる。
マルトレル は、スペイン・国際ゴシックの画家で、
カタロニア地方サン・セローニの町の肉屋の息子だったとされる。
イタリア・ルネサンスのウッチェロより、二十年程前に
亡くなっているが、1427年にバルセロナに来るまでの
修業時代については、ほとんど知られていない。
ここでは、等身大程の大画面に、黒頭巾に黒装束、
白地に十字の縫い取られた胸元の覆(おお)いから
棚引(たなび)く白絹という姿の聖人が、
純白の駿馬に跨(またが)って身を反らし、
槍を構える姿が、ほぼ対角線上一杯に描き出される。
龍は、右下の画面の最前部、観る者に最も近い処(ところ)で、
観る者に背を向けて、蹲(うずくま)り、観る者と同じように、
迫り来る騎士を見上げ、目を逸(そ)らすことはない。
やはり入口は、ぎざぎざの、龍の棲(す)む洞窟は、
水辺の向こうの、姫の足下にあり、姫と龍の間に
聖人が白馬を乗り入れる、構図となっている。

聖人は、全身を、黒い頭巾と黒い鎧に覆(おお)われ、
十字の縫い取られた、白い当て布を胸に付け、その端が、
高く揚げた槍を構える右腕の下で、華麗に靡(なび)き、
頭も首元も覆(おお)い尽くされているが、面頬から覗(のぞ)く
蒼白い顔は、ウッチェロの聖人よりは、やや大人の青年のように
見え、伏し目がちに、這(は)いつくばった龍を見据(す)えている。
左手で手綱を引き、全幅の信頼を以て龍の胸元へ飛び込む
愛馬を切り返し、右足首を伸ばし、右手で高く槍を構え、
威嚇するように翼を拡げ、かっと牙を剥(む)き出した
龍の咢(あぎと)へ、切っ先が滑るように繰り出される。



身のこなしの軽く柔らかな騎士の、対角線上に一直線に
流れるように伸ばされた肢体は、静謐な黒と幽(かす)かな金に
包まれ、白々と閃(ひらめ)く、絹と馬体の波打つ耀きの蔭から
光と闇の波動となって、龍の喉笛の奥へと到達する
軌跡は、最早(もはや)描かれ終わっている。
ここには、不確定性は無い。
これは既に起こったことであり、この不滅の瞬間を流れる
波動の肢体に支えられた槍から逃れる術(すべ)はなく、
龍は何が起こるかを知るよりも疾(と)く早く息絶えている。

しかし、ここでは、龍はいまだ槍に刺し貫かれてはおらず、
血は一滴も流れていない。
あくまでも白い、城壁や岩場、羊や白馬の間で、
聖人と龍の黒が対峙し、龍の拡げた翅(はね)の周りに、
かつて捧げられた羊や犠牲者の亡骸が、白骨化して
石礫(つぶて)の中に、散らばっているのみ。
白、白、白、そして黒と黒、金が、そこここに、
姫の幽(かす)かな薔薇色と、蜥蜴(とかげ)のままであろう、
小さきものの、朧(おぼろ)なグレー。

黒死病聖アントニウスの火の病が、突如、町に国に襲いかかり、
数多(あまた)の犠牲者が、富める者も貧しき者も、
幼き者も老いたる人も、正しき人も迷える者も、
奪う者も与える者も、苦しみの裡(うち)に亡くなっていった。
その最中(さなか)、色は失われ、闇の黒と骨の白が、音の絶えた
破壊と荒廃に埋(うず)められた視野を、瞼(まぶた)の下の風景を、覆(おお)う。
この未知なる聖人の黒尽くめの裡(うち)に翻(ひるがえ)る白の波から
繰り出される死が、いつしかどこかから生み出された病の
息の根を止める時、視野の縁から流れ出し、遠ざかる
色の裡(うち)に、懐かしい人の顔が仄(ほの)見えるのかも知れない。

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1 コメント

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黒い龍 (alterd)
2015-01-23 06:20:17
この龍は東洋の巨大のものとは違うんですね。
それだけに、異形のものであっても
どこか生々しいです。

確か、ヒンズー教だったか
この世は、善と悪との闘いであると捉えているようですが
白と黒の対比にもそれが見られるように思います。

そして、聖書にもある通り
「善を以て悪に勝つ」しかないのでしょう。

問題は、カントが言ったように
「理性こそ最も普遍的に人間が共有しているもの」とは思えない事です。
ですので、全ての判断は賭けにならざるを得ません。

話は飛びますが
最近、思い付いた事で
「未来」とは字面の通り
「未だ到来していない事象」の事であり。
毎日が同じ繰り返しなら
時間は進んでいないのと同じであり
新しい事象が起こって初めて
未来が到来したのであるという事です。

ですので、厳密に言うなら
創造的な人間にしか未来は存在しないのではないかと思います。




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