hazar  言の葉の林を抜けて、有明の道  風の音

細々と書きためたまま放置していた散文を、少しずつ書き上げ、楽しみにしてくれていた母に届けたい

鎧を脱ぎ槍を捨て、青空を映す碧緑の川となり、夜空の下、龍は黒い翼を拡げる (四/四)

2015年03月27日 | 絵画について
ひたひたと地底から湧き出す、水が湛(たた)えられる洞窟に
いつしか何かが顔を出し、鎖(とざ)された辺りを見回している
やがて仄(ほの)暗い水面に映る、自らを見て
魚でも蜥蜴(トカゲ)でもない、狭間(はざま)の深淵へ肢を滑らせる
幼生のまま幾星霜、大地の胎動に昏(くら)く満ち曳く
羊水から彷徨(さまよ)い出ては行きつ戻りつ、孤独の裡(うち)に
奇妙な飢えに苛(さいな)まれ、 山椒魚 (サンショウウオ) の如(ごと)く
何かに導かれるまま、遮二無二(しゃにむに)道を歩み出す

ハンガリーからスロバキアにかけてアドリア海のイタリア対岸に広がる
スロベニア には、 古くから知られた深く広大な鍾乳洞 があり
伝説上の龍の幼生とされた 洞井守(ホライモリ) も生息していて
垣間見(かいまみ)られた、生まれる遙か以前の胎児のような
仄(ほの)光る白い手足のある、目のない蛇のような姿
群れ成して棲む蝙蝠(こうもり)の黒い翼と細く煌(きらめ)く牙
そしてそれらの骨や 想像を絶する有機的な形 をした 鍾乳石 自体が
龍とその棲み処(すみか)となる 洞窟 伝説の祖となったかも知れない

緑の龍に守護されるスロベニアの首都 リュブリャナ を流れる
碧緑の リュブリャニツァ川 は全長約十 里(り) の半分程が洞窟内

大陸から日本へ伝えられた 里(り) は、五町から六町の長い距離で
直接計測するのは難しいため、一里歩くのにかかる、およその時間から
その間に歩いた距離を、一里と呼ぶようになっていった
人が歩く速さは、地形や道の状態によっても変わるので、様々な長さの
里が生ずることとなったが、時間が 「長く」 かかるのは、その間
移動のためのエネルギーを消費してもいる訳で、正に一理あることとなる
目的地までの里数で所要時間がわかる利点は、後の 光年 にも比せられよう

時間は、存在が移動(成長、変転)し続けることによって生まれ
何故なら存在とは、波動であるから、その発祥と終焉は
この 事象 への出現と、そこからの離脱であり、異なる事象への移動を通じ
また、この事象へ戻るか、通過していく過程と考えられないだろうか
なぜなら事象においては 何も減らず、何も増えない はずだから

この事象において束の間、共に連なり共に移動し、共に終息していくと
定められた波動である存在が、その波動として存在しつつ、移動を続けていく
ために、内的統御が必要となった時、その時空を旅する乗り物の器の内に
連なり合った個々の総意であり、かつ個々には関知し得ない全体を感知し得る
処の、乗客であり操縦士である、視点、思考を持った、一つの魂が目覚める

同じ構造の存在に宿る魂が似ているのは、その連なり合い方が同じだからで
連なり合っている物自体は、どれ一つをとっても似てはいるが唯一無二の異なった物で
その内外で世代交代を続けながら、愈々(いよいよ)同じようで違う物たり続け
似ていることと、移動してきた時空の軌跡からは逃れられないが、急速に衰えつつ
経験と記憶の蓄えが増して、それが釣り合うかというと、そうでもなく
重荷となり混乱や誤作動を招く場合が多くなっていくのだろう

数多の存在の波動が、大いなる波紋の流れを作り出し、その波動の
航跡と干渉が、事象の時空の、動き続ける地図を形作っていく
旅は続く、どこまでも、いつまでも、同じ場所、違う時、違う場所、同じ時

蛇行しつつ流れ、三日月湖や扇状に広がる湖を点在させながら
山奥から発し、海へと到る川は、碧緑の龍で、氾濫しては、田畑や村落を押し流し
荒れ果てさせることもあれば、豊かな水と魚を、恵んでくれることもある
古き山間の東欧から 中央アジア にかけてと、 バルカン半島 から アナトリア
の辺りには、鍾乳洞や地下河川が広がり、独特の 守護龍伝説 も生まれた
翼のある蛇のような龍に雌雄があり、人に似た外見の差異も認められるという
姉(か妹)の龍は、人を忌み嫌い、天候を荒らし作物を枯らすが
(兄か)弟の龍は、人を慈しみ愛し、作物を守り齎(もたら)すとされる
人を巡り、彼らの間には諍(いさか)いが絶えない

姉(か妹)の龍は水の相を持ち、(兄か)弟の龍は炎の相を持つ
逆でなくてよかった
川の流れは水だが、そこには光が湛(たた)えられ、波立ち煌(きらめ)く光は
鱗(うろこ)となり、夜には数多の星を映し宿す銀河の鏡像となる
二つの龍は同じ川の表裏を成し、巴にもつれ連なり流れていく
そして光は時に炎の様相を帯びるが、川が燃えることはない
嵐の暗い空を稲妻が切り裂き、濁流が谿(たに)を抉(えぐ)りながら
激しく渦巻き下る鉄砲水と化す時、それは黒い龍が翼を拡げ
猛(たけ)り狂うように見えないだろうか

川である龍は、炎の中に居ても涼しい顔
源や傍らの山が噴火し溶岩が流れ下る時、それは熱く赤黒く、もはや全く別の
地下深くの黄泉の国からの使者であり、その行く手に碧緑の水流るる川あれば
これを冷まし岩へと変じつつ蒸散、竟(つい)には干上がり消えるやも知れぬ
源泉が力を取り戻す日まで
川は支流を集め蛇行を繰り返し、地下へ潜り幾重にも分かれ
土石流や鉄砲水によって流れを変え、また一つになる時、大地は鳴動する
多頭の龍は、尾に相当する一つの源泉から枝分かれした激流にも比せられよう
そして、これが人の集まり住む山間に生じた時
それは制御さるべき悪龍となり得るかも知れない

ミカエルの龍退治は、火山活動の鎮火かも知れず
天然ガスとともに噴出する熱水や鉱水の禁忌
また決壊を繰り返す、山間の激流の治水伝説かも知れない
二つの急流が一つの鉄砲水となり、押し寄せる濁流を
ミカエルが大地を槍で突き開けた孔へと導き流し
地下河川と成して信者の町を救った、という 奇蹟 もある

鉱毒泉に耐え神託を授ける、ギリシャ由来の冥界や火山活動、地熱を司る
神を祀る者たちが、近隣の、霊験新たかな古代キリスト教徒の聖なる清泉を
自らの鉱毒で汚染、かつ破壊すべくダムを作り、川の流れを変え決壊させた
山間の鉄砲水が囂々(ごうごう)と迫る中、彼の地の古代キリスト教父の熱心な祈りで
ミカエルが雷神のごとく立ち顕(あらわ)れ、槍で地に孔を突き開け
水をそこへと流れ下らせて泉と町を救ったという物語は
蛇のごとく、うねり流れる水を、その源泉とも、地下の冥界へ続く洞穴ともつかぬ
大地に開いた口へ、槍を突く姿に描くものがある

11C 
12C


Archangel Michael at Chonae | Icon of a Miracle


15C
15C
左右より流れ来る、二つの川が中央で、一つの水柱に縒(よ)り合わされ
ミカエルが槍で差す、孔へと、一気に垂直に流れ下る
アーチ状の、天と地の間の、地平線上に描かれていた川が
いつしか嶮(けわ)しい二つの嶺(みね)に取って代わられ
川の流れはその背後に隠れて、谷の間から突如一つになった姿で現れ
やがてS字形にくねりつつ、流れ下るようになる
それは、槍を斜めに地に突き立てたミカエルの開いた、仄(ほの)暗い孔に注ぎ込み
地底へ向かって消え去ろうとする、青い大蛇のようでもあり
その孔へと渦巻き入っていく水の先端は、槍に貫かれた龍の頭部のようでもある

川が二つの嶺(みね)の背後へ隠れると同時に、石灰質の白い段に青い水を湛えた
棚田のようなパムッカレを彷彿(ほうふつ)とさせる岩山が、辺りに望まれるようになり
その左右の断崖の向こうに、川を隔てた ヒエラポリス
その向かいの、画面手前の コロサイ と同じ側の
嶺(みね)の後ろに ラオディキア があると知れるようにもなる

左右の嶺(みね)に沿って、二手に分かれていたことを暗示されるのみとなった川は
捩(よじ)れ逆巻く一本の流れとなって、谷間から姿を現し
異教の鉱毒泉のあるヒエラポリスから、キリスト教会のあるコロサイへと向かう

かつて教会の入り口に立つ教父の前に顕(あらわ)れた、ミカエルは
身体を開き、斜めに構えた槍を突き捻じ込みつつ
同時に、すでに引き抜き、去ろうとするような動きに合わせ
翼が背後へ 逆卍(スワスティカ) のように開かれていたが
今や、制御された滝のように膨らみつつ流れ落ちる、背後に垂らされたものへと変ってゆき
更に、戸口に立つ教父へと送られていた視線が、教父が次第に小さく、かつ平伏しつつ
また戸口から歩み出て近づくことによって、はっきりと見下ろされる形になっていく

最終的に、水流の流れ落ちる孔であり、蛇行する巨大な水龍の頭へと
ミカエルは目を転じている
そこで再び翼は、槍に沿って広がり始め
人間の悪意によって追い出された川である龍は、その悪意から逃れ
ミカエルの開いてくれた帰り道へと、大地の胎(はら)へと一目散に退散する
ミカエルの繊細な槍の触れる、その頭からは血飛沫(ちしぶき)ではなく
歓びと感謝の虹が、鯨(クジラ)の呼気のように噴き出し広がる

ミカエルは、川という龍を退治したのではなかった
人間の悪意によって、その棲み処(すみか)を追われ、もがき苦しみつつ
山肌を打ち転がり落ち下って来たのを、大地の綣(へそ)を素早く開いて
地中深くで傷を癒(いや)し、休むよう助けたのである
そのように自然を痛めつけ、己(おの)が悪意の道具とする人間のことなど、眼中になかった

蛇行する(急流)、という言葉の由来となった、この川 は、 メンデレス川 といい
数多の氾濫を起こしつつ、谿(たに)を削り、 三日月湖 を残した
トルコカリア地方 を流れ、 二つが知られている
このミカエルの寺院と奇蹟のあった町コロサイ
リュコス川が大メンデレス川へ合流する手前
毛織物産業で栄えた都市 ラオディキア 、アポロ神殿と鉱泉、 景観
冥界よりの託宣で人気のあった ヒエラポリス とともに
リュコス渓谷で古代都市の三角地を形成した




このコロサイが、ラオディキア以前に毛織物で栄えた、更に古き時代
その名を冠した、暗い赤の毛織物 で、知られていた
それは、ここで、いくつかのミカエルによって纏われているマントのようでもあり
また、先のウッチェロの、ミカエルに刺し貫かれた龍の、生贄(いけにえ)にされかけていた
姫君や、ピエロ・デラ・フランチェスカの、天空の青の胴着を纏(まと)ったミカエルが
履(は)いていた、龍の血のように赤い靴を、想い起こさせはしないだろうか

エフェソス の獄中にあった 福音書記者聖パウロ によって
わざとらしい謙遜や天使崇拝の脇道に逸れることなく (第二章十八節)
キリストと神の教えに沿った明快な信仰生活の実践を説かれた 手紙
使者によって届けられる、その途上にあった、 紀元六十年頃の
マグニチュード六近い地震
によって多くの活断層が、三つの町を壊滅させ、その後
復興された町も、14世紀の再度の大地震で壊滅、放棄され、遺跡のみが残るという

活断層の端に位置し、断層による地崩れと熱泉の雪崩(なだ)れ込んだコロサイの
遠く町はずれに、裂け目という意味の クローナイ という名の小集落があり
震災後、難を逃れた僅かな人々が残って居たことから、これが後の伝説の
ミカエルが裂いた地の穴の由来となり、実際にこのあたりで地下川となっていたらしき
リュコス川は、崩落で流れを変え、二つに大きく分かれて、この地を巡ることとなった


Grandes Heures de Rohan 1430 - 1435: the dead man before God.
A demon attempts to steal his soul, but is attacked by St Michael the Archangel

こうした絵画も、神の剣としてのミカエルを介し
善き人の魂が神の御許へ向かう、九十九折(つづらおり)の道のりであると同時に
大地の水が天へと還(かえ)って、また雨となり地下の川へと注ぐ道程を伝えてもいるかのよう

ボヘミア地方にも、急流という現地語に相当する川があり
それはドイツ語のカササギという語と同じだった
この白と黒に分かれた長い尾を持つ鳥は、見え方や数によって、吉兆とも凶兆ともなり
故(ゆえ)に凶難を乗り越え、新進に転じようとする願いを担うことも多いように思われる
ボヘミアの急流、エルスター川は、白エルスター川 と、黒エルスター川 があり
交わることはないが、その山深い源泉は、カササギの泉と呼ばれている


マルトレルの描いた、黒ずくめの聖ゲオルギウスは
カササギのように、胸に、白地(に十字)の当て布をつけ
氾濫(はんらん)する急流を地下へと逃がし収めたミカエルのように
画面の斜め一杯に、槍を構える



 

槍の切っ先に口を開いて蹲(うずくま)る龍は
伝統的な碧緑の川の守護龍ではなく、土砂を捲(ま)き込み、泥色の闇に黒ずんで
自らの凶兆から逃れる術もなく、道なき道を辿(たど)り、荒れ狂う急流の
巣から墜(お)ちたカササギの、もはや生きる術を絶たれた雛(ひな)のように
飢え、嘆きながら、赤い口を開き、助けを呼ぶかのよう


いや、そうではなく
ゲオルギウスもまた、龍の口から、毒液を溢(あふ)れさせるよう注ぎ込まれた
悪意の奔流を、今しも槍で抜き去り、幼い頃、澄んだ流れで憩い戯(たわむ)れていた姿に戻り
傍らにある黄泉への入り口から、大地の源泉へと還(かえ)るよう、促しているのかも知れない
姫もその心に呼応して、龍が悪意に蝕(むしば)まれた禍々(まがまが)しい姿から
元の小さく稀有(けう)な、か弱き生き物へと還(かえ)れるよう、必死に祈っているのだろう
その足下に現れ始めた、薄い灰色の洞井守(ホライモリ)こそ
龍の本性であり、人間の悪意から解き放たれ
大地の底深く澄んだ水の穏やかな薄明へと、還(かえ)って往こうとしているのではないか

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
何も減らず、何も増えない (alterd)
2015-03-28 06:59:28
常々、この世は万華鏡のようなものではないかと思っています。
万華鏡の中にある色の付いた細片に当たる元素や化学物質、生命
そして、時空の性質もその都度変化する訳ですが
「何も減らず、何も増えない」という感覚は
「エネルギー保存の法則」と並んで
私の印象にフィットします。
ニーチェの言う「永劫回帰」もそういった感覚だったのかも知れません。

後、人間の味方である龍と敵である龍の
存在は、この世は善と悪のせめぎあいであるとするヒンドゥー経を連想します。
自然その物に究極の目標が有るのか無いのか誰も知りませんが少なくとも人間に都合の良い事ばかりでは無いのは明らかです。

ただ、人間の間に決定的な意見の相違が
存在する事が最大の問題であると思います。
最近、ローマ法王が原発を指して
「人類に破滅をもたらすバビロンの技術である」というような事を述べましたが
経済成長至上主義者にとっては
無くてはならない技術のようです。

また、「人の痛みは我慢出来る」と言います。
一般に、自分にとって自分の健康や命は
掛け替えの無い大切なものでありますが
減ったとはいえ、毎年、歩行者の6割を含む5千人の交通事故による死亡者が居ても自動車が失くなるはずもないですし
明確な事故原因も解明されておらず
まだ、23万人が非難している原発事故後も原発が再稼働に向けて動いているという事は社会が全体の便利さや豊かさの為なら一部の犠牲は仕方無いと考えているのは明らかです。

そこには健康や命の価値において、
自己と他者、あるいは社会との決定的な
アンバランスが存在するように思います。

私は、例え、それが当たっているのかどうか分からないにしても、他者の痛みに想像力を働かせたいと念じています。





返信する

コメントを投稿