ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば
ただ有明の 月ぞのこれる (徳大寺 実定 千載161)
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
雲のいづこに 月やどるらむ (清原 深養父 古今166)
ゆくすゑは 空もひとつの 武蔵野に
草の原より いづる月かげ (九条 良経 新古422)
五月闇(さつきやみ) くらはし山の 時鳥(ほととぎす)
おほつかなくも 鳴き渡るかな (藤原 実方 拾遺124)
五月山(さつきやま) 弓末(ゆすゑ)ふりたて ともす火に
鹿やはかなく 目をあはすらむ (崇徳院 新拾遺274)
十三夜 月に追はれし 走り藤
素足に響く 淺紫の音
木霊追ひ 碧潭過(よき)る かげ昏(くら)し
せせらき縺(もつ)る 弱法師月夜
玉よする 浦わの風に 空はれて
光をかはす 秋の夜の月 (崇徳院 千載282)
ゆく螢 雲のうへまで いぬべくは
秋風吹くと 雁に告げこせ (在原 業平 後撰252)
ながむれば かすめる空の うき雲と
ひとつになりぬ かへる雁がね (九条 良経 千載37)
望月夜 たつ雁がねと ささなみの
譜より放れて 陸離 盈(み)つ こゑ
つらなれば こずゑ葉むらも 羽搏きて
つぎつ飛びたつ ゆふまぐれ月
達人輕祿位 居住傍林泉
洗硯魚吞墨 烹茶鶴避煙
嫻惟歌聖代 老不恨流年
靜想閑來者 還應我最偏
達観した君は官位に目もくれず 世を離れ林に近い泉の傍らに住まう
硯を洗えば魚が來て墨を呑み 茶をたてれば鶴が湯気を避け飛び去る
閑雅な境地で太平の世を詩に詠い 老いても過ぎゆく歳月を恨まぬ
想えば君を訪ね來る者のなかで 一番の偏屈者はやはり私か
の一節に基づき
侍童がひとり
物想いに耽りながら 老師の 硯を洗っている
水辺へ降りる 石段
その右下 水面下
ちょうど 侍童の真下より
水面を 石段三段分くらい 隔たった辺り に
右向きに 漂い去る鯉の姿が描かれている
すでに いくたびも 墨が流れ來るのを知っていて
遠巻きにするようだ
むしろ墨が おのづから鯉の姿となり
しばし流れに たゆたい游んで
画面の外へ漂い出る辺りで かき消えるのか
いくたびも 鯉となって游ぶうち 生命を宿らせ
この流れに 棲まうようになり
やがて友や 連合いを求め
侍童の跫(あしおと)に 潭(ふち)より浮び上るも
かつて自らを 形づくった
力強く しなやかな墨が
この頃では 月光や花びらや
風や聲を 綴りかけては
水に呑まれ 消えてしまうのを
腑に落ちぬ様子で 見守り
泳ぎ去ってゆくのかもしれぬ
さわさわと 竹の葉を鳴らす風
雨粒が 流れを窪ませ
墨の渦の先を 逸らせてゆく
尾が一瞬 ゆらめき 見えなくなる
つかのまの 闇のうつつも まだ知らぬ
夢より夢に まよひぬるかな (式子内親王 続拾遺913)
それはなほ 夢のなごりも ながめけり
雨のゆふべも 雲のあしたも (九条 良経 月清集)
浮雲を 風にまかする 大空の
行方も知らぬ 果てぞ悲しき (式子内親王)
対岸の 白い港町を 見下ろす辺り
振り仰ぎ 立待つ 羊飼いには見えぬ
頭上 背後の 空の一角 には
翼を拡げ 手を取りあう ごとく 天翔ける
二体の姿のような 雲が漂う
帆船のなびく旗
打ち寄せる白波
渦巻く波濤 に交じり
はらはらと 羽が落ちてくる
光を浴びて きらめき そこに ない かのように
翳(かげ)に包まれ 朧(おぼろ)に耀(かがよ)い 砕け 煙り 消える ごとく
いま 水面に飛び込み
足をばたつかせる イカロスだけが 動いている
光速で 事象の地平面へ突入してゆく イカロスの
周囲では 光さえも歪み
画面に近い 上空から 突如 降り落ち
悠久の歩みへと逸れ 遠ざかる 畑を耕す農夫と 畝の影を
伸び縮みする手前で とどめおく
帆船は いましも 残る一つの帆を 解き拡げ
順風満帆 海を渡り 世界一周 いつしか
対岸の白い港町へと 未來永劫 帰還する
その姿も もう見えている 昇ることも 沈むことも なき
冷たく 眩(まばゆ)き 陽の光に 透過され
波止場には 帆をすべて降ろし 着岸した姿もある
過去 現在 未來が 集い 移り変わり ともに憩いつづける
朧(おぼろ)に 明滅する 輪舞のうちに
港町自体が 時間の海を漂う 仄白き蜃気楼なのか
蚕のように 蠢(うごめ)く 羊の群は 止まったまま
白化し 死にゆく珊瑚のごとく 手前の崖地を はつかに移動
出帆しつつ 帰帆する船や 昇らず 沈まぬ陽と ともに
海面下で たちまち 地球を ぐるり一周 もとへと戻る
黒い羊は 黒い羊のまま 遠ざかってゆき
同じ瞬間 もろともに もとへと戻る
白い羊の 残像のごとく 世代交代しつつ
白河夜船と 目覚めておらぬ 桿状体から
うとうとし 舟漕ぐ 桿状体へと
錐状体は 虎渓三笑 谿(たに)に木霊す
いまは 昔 昔も いまも
羊飼いの脇に 居待つ犬の 頭部は 白骨化して
いぬが
畑の脇の 森の暗がりで 仰向けに斃(たお)れ
臥(ふし)待つ 男 の
闇の漲(みなぎ)る 眸の穿(うが)たれた 顔は
耀きの失せた 肌の弛みを 硬直させる間もなく
イカロスが突入した拍子に 黄泉から地上へ
押し戻されてしまったか
波乱万丈 生き抜いた 生涯のすべての瞬間を
洩れ出ゆく 生命の息吹きの 渦に
巻き込まれつつ 観ていたところで
時が 無限に引き延ばされてしまったため
無限に 生き直すこととなってしまったのか
皆 なにを待っているのか 知らぬようだ
立待月(十七日月) 居待月(十八日月) 臥待月(十九日月)
イカロスが落ちてきた その時から
この海の轟き響く 辺りの陸(おか)に 日は沈まず 月は出ぬ
物皆 無関心なのではない
見えぬのだ
光の速度は 波動を放ち 空間を歪め
通過する光の周囲の 時間を 限りなく遅くする
光になったイカロスは 時空を貫き 事象の地平面へと吸い込まれ
そこは 折り畳まれてしまった
かのように もはや 感知できぬ次元となり 永遠の瞬間
イカロスだけが落ちつづけ それ以外のすべては止まっている
に等しい
昇らぬ月の 眸の中で
錐状体は 三者三様 意気投合し お喋りに夢中で どこかへ行ってしまう
桿状体は まだ 目覚めていないか もう 眠りかけている
秋はなほ 夕まぐれこそ ただならね
荻の上風(うはかぜ) はぎの下露 (藤原 義孝 義孝集)
萩を詠んだ 後半の句は 二十歳で 九月の夕べ 没した 藤原 義孝
十三歳の折 摂政だった父の邸で催された 連歌の会で
苦心する連衆の前に進み出 詠んだとされる
死後間もなく 周囲の人の夢に現れて 詠んだという歌も 数多伝わる
時雨(しぐれ)とは 千草の花ぞ ちりまがふ
何ふる里の 袖ぬらすらむ (藤原 義孝 後拾遺500)
この歌、義孝かくれ侍りてのち、十月ばかりに、賀縁法師の夢に
心ちよげにて笙をふくと見るほどに、口をただ鳴らすになむ侍りける
「母のかくばかり恋ふるを、心ちよげにていかに」といひ侍りければ
立つをひきとどめて、かくよめるとなむ、言ひ伝へたる
ただならぬ 萩の上風と はぎの下露は
同じ場所にあって 異なる時を内包しているのかも知れぬ
降り落つ 雪片と 舞い散る 花びらのように
異なる時にあって 同じ空間を占め
時空の記憶の中で 重なり合うのかも知れぬ
冬ながら 空より花の 散りくるは
雲のあなたは 春にやあるらむ (清原 深養父 古今330)
空やうみ 海や空とも えぞわかぬ
霞も波も たちみちにつつ (源 実朝)
薄霧の 麓にしづむ 山の端に
ひとりはなれて のぼる月かげ (九条 良経 月清集)
霧のなかで 墨が放たれ 輪を描く
問われて初めて 考え 答えることができる
未來のどこかで 恐れが放つ 死を
あなたが 掌に受け止め 放さぬならば
それを止められぬなら
それでも そこに居たい
わたしたちは 不死身でなく
理解を 天啓のように 届けることもできぬ
ただ すべてを見て そのときに すべきことを
しなければならぬことを 知るだけだ
あなたは 言の葉の道を渡し
未來を守り 過去を救った
受け入れ 伝え 助くため ひらかれた
道は 死を以てしても 壊されず 鎖されぬ
恐れず 拒まず 受け入れ
助け ともに力を尽くし
生きつづけ 世代を重ねれば
だれも なにも 苦痛と哀しみの中に取り残されぬ
世界へと 変容するかも知れぬ
わたしにとって この旅は 驚異でも神秘でも 使命ですらなく
あなたとの別れだった
この旅に來なければ あなたの最期に寄り添えなかった
その瞬間に あなたを救う なにかが できるのではないか とも 想っていた
だが できなかった
あなたの決意と命令に わたしは全力で その場から遠ざかった
あなたのあとを ひき継ぐため
それしか なかった と わかっていても わたしは悔しい
すべてを呪い 憎むほど
だが それでは あなたがしたことが 無になってしまう
憎んで あなたが生き返ろうか
憎しみの中に あなたの心は帰ってこない
知り得なかった あなたの心が いつの日か わたしのところへ伝わってきて
赦し 導いてくれることを 願い 祈り
あなたの聲に 耳を澄まし 待ちつづける
日に千たび 心は谷に 投げ果てて
あるにもあらず 過ぐる我が身は (式子内親王)
もののふの 矢並つくろふ 籠手のうへに
霰たばしる 那須の篠原 (源 実朝)
見しことも 見ぬ行く末も かりそめの
枕に浮ぶ まぼろしの中 (式子内親王)
そのために 來た 伝え 掌をひらき 手をのべ
ともに 未來を支えるため
そのために 行く いつなりと いくたびなりと
過去も 未來も いま ここを通じ 連なる
ゆらいでも 頽(くづお)れることなき
しなやかに 解けては 連なり めぐり逢う
一瞬と 永劫の 結び目
夢ならで 夢なることを なげきつつ
春のはかなき 物思ふかな (藤原 義孝 義孝集)
はじめなき 夢を夢とも 知らずして
この終りにや 覚めはてぬべき (式子内親王)
見し夢の 春のわかれの かなしきは
長きねぶりの 覚むと聞くまで (九条 良経 月清集)
そよぎ 連なり 離れゆく
霧に点(とも)る水滴
中で なにか振り返っている
焦点を解くと 羽も滴も消え かすかな淺紫の翳が残る
それを踏んで 飛行士たちが出てくる
時間の海を渡る飛行士は 飛沫で肌を濡らすことはない
飛沫は奥深く すべてを見透す目の潭(ふち)へ 無限に散り落ちてゆく
目の後ろから あふれ滴る水は
折り畳まれた 時空の端から なびく
遠い潮になる
長く傾けられた記憶を 登りつめる
渦巻く風と ゆらめいて灯る明り
雲の中 霧の中 眸の中 涙の中 海の中 氷の中
すべての水の中に 記憶の杜は 眠っている
映り 夢見 拡がっている 目覚めるときへ と
重力波の漣を過ると
カタコンベのように 冷たく 古びた匂いがする
眠くなり 重くなり 軽くなる 振り子のように
眸が 心臓が ぶら下がる
頭を廻らすと
微小な耀きでできた 鰭龍が 星々の雲間に沈んでゆく
広大無辺を貫ける間
針も文字盤もない 時計のように 雲の入り江に 掛かる月は
遠すぎる鏡を抱いて 息をつめ 輝いていた
尋ね求めるものは 尋ね求められるものに
近づき 重なる道は 自らの眸の中に
谿底で 水面に浸り 木霊が響む 古の言の葉
水鏡の縁が 月の光にひらき そよぐ
辺りが薄暗くなり なにか白いものが降ってくる
それは空間の あらゆる位置に浮いている
小さな羽 間近に照らし出される とまった計器や
白くなった関節の上にも のっている
ひとつひとつに 目を凝らすと
間に もっと昏く淡い 淺紫の翳の羽があって
すべて 連なっている
ふいに 眸だけになって 宙に躍り出
碧々と凍りつく
ひとすじの光に照らされ
たなびくものに 眸をのせ
波のように進む
記憶の杜の奥深く 言の葉を裏返している
鳥に出逢った 木霊だろうか
木洩れ月を透かし
なにも憶えていない眸で見返した
いつか 帰ってくる
いつか 記憶は 芽吹く
古の瞼が ひらかれると
碧く澄んだ湖が どこまでも広がっている
翠の葉が 海と湖の間を 満たしてゆく
望月夜 散り終えた記憶の羽が 虹になる
虹の弧の 内側の端 淺紫の翳の縁から
失われた想い出や 夢だったものが
帰ってくる音がする
童は いつ 帰ってしまったのだろう
雨がやんで 古びた木戸が軋み
竹の根方で 朽ちた硯が 月光を集めている
ただ有明の 月ぞのこれる (徳大寺 実定 千載161)
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
雲のいづこに 月やどるらむ (清原 深養父 古今166)
ゆくすゑは 空もひとつの 武蔵野に
草の原より いづる月かげ (九条 良経 新古422)
五月闇(さつきやみ) くらはし山の 時鳥(ほととぎす)
おほつかなくも 鳴き渡るかな (藤原 実方 拾遺124)
五月山(さつきやま) 弓末(ゆすゑ)ふりたて ともす火に
鹿やはかなく 目をあはすらむ (崇徳院 新拾遺274)
十三夜 月に追はれし 走り藤
素足に響く 淺紫の音
木霊追ひ 碧潭過(よき)る かげ昏(くら)し
せせらき縺(もつ)る 弱法師月夜
玉よする 浦わの風に 空はれて
光をかはす 秋の夜の月 (崇徳院 千載282)
ゆく螢 雲のうへまで いぬべくは
秋風吹くと 雁に告げこせ (在原 業平 後撰252)
ながむれば かすめる空の うき雲と
ひとつになりぬ かへる雁がね (九条 良経 千載37)
望月夜 たつ雁がねと ささなみの
譜より放れて 陸離 盈(み)つ こゑ
つらなれば こずゑ葉むらも 羽搏きて
つぎつ飛びたつ ゆふまぐれ月
宮城 道雄 - 水の変態より 雨 霰 (箏・唄:宮城 道雄)
下村 観山 月の出 絹本 水墨
北宋 魏野(960ー1019)の詩達人輕祿位 居住傍林泉
洗硯魚吞墨 烹茶鶴避煙
嫻惟歌聖代 老不恨流年
靜想閑來者 還應我最偏
達観した君は官位に目もくれず 世を離れ林に近い泉の傍らに住まう
硯を洗えば魚が來て墨を呑み 茶をたてれば鶴が湯気を避け飛び去る
閑雅な境地で太平の世を詩に詠い 老いても過ぎゆく歳月を恨まぬ
想えば君を訪ね來る者のなかで 一番の偏屈者はやはり私か
の一節に基づき
侍童がひとり
物想いに耽りながら 老師の 硯を洗っている
水辺へ降りる 石段
その右下 水面下
ちょうど 侍童の真下より
水面を 石段三段分くらい 隔たった辺り に
右向きに 漂い去る鯉の姿が描かれている
橋本 雅邦 洗硯魚呑墨図(部分)
鯉の姿は 気配のみですでに いくたびも 墨が流れ來るのを知っていて
遠巻きにするようだ
むしろ墨が おのづから鯉の姿となり
しばし流れに たゆたい游んで
画面の外へ漂い出る辺りで かき消えるのか
いくたびも 鯉となって游ぶうち 生命を宿らせ
この流れに 棲まうようになり
やがて友や 連合いを求め
侍童の跫(あしおと)に 潭(ふち)より浮び上るも
かつて自らを 形づくった
力強く しなやかな墨が
この頃では 月光や花びらや
風や聲を 綴りかけては
水に呑まれ 消えてしまうのを
腑に落ちぬ様子で 見守り
泳ぎ去ってゆくのかもしれぬ
さわさわと 竹の葉を鳴らす風
雨粒が 流れを窪ませ
墨の渦の先を 逸らせてゆく
尾が一瞬 ゆらめき 見えなくなる
橋本 雅邦 洗硯魚呑墨図 絹本着色 縦 三尺 横 九寸
つかのまの 闇のうつつも まだ知らぬ
夢より夢に まよひぬるかな (式子内親王 続拾遺913)
それはなほ 夢のなごりも ながめけり
雨のゆふべも 雲のあしたも (九条 良経 月清集)
浮雲を 風にまかする 大空の
行方も知らぬ 果てぞ悲しき (式子内親王)
対岸の 白い港町を 見下ろす辺り
振り仰ぎ 立待つ 羊飼いには見えぬ
頭上 背後の 空の一角 には
翼を拡げ 手を取りあう ごとく 天翔ける
二体の姿のような 雲が漂う
帆船のなびく旗
打ち寄せる白波
渦巻く波濤 に交じり
はらはらと 羽が落ちてくる
光を浴びて きらめき そこに ない かのように
翳(かげ)に包まれ 朧(おぼろ)に耀(かがよ)い 砕け 煙り 消える ごとく
いま 水面に飛び込み
足をばたつかせる イカロスだけが 動いている
光速で 事象の地平面へ突入してゆく イカロスの
周囲では 光さえも歪み
画面に近い 上空から 突如 降り落ち
悠久の歩みへと逸れ 遠ざかる 畑を耕す農夫と 畝の影を
伸び縮みする手前で とどめおく
帆船は いましも 残る一つの帆を 解き拡げ
順風満帆 海を渡り 世界一周 いつしか
対岸の白い港町へと 未來永劫 帰還する
その姿も もう見えている 昇ることも 沈むことも なき
冷たく 眩(まばゆ)き 陽の光に 透過され
波止場には 帆をすべて降ろし 着岸した姿もある
過去 現在 未來が 集い 移り変わり ともに憩いつづける
朧(おぼろ)に 明滅する 輪舞のうちに
港町自体が 時間の海を漂う 仄白き蜃気楼なのか
蚕のように 蠢(うごめ)く 羊の群は 止まったまま
白化し 死にゆく珊瑚のごとく 手前の崖地を はつかに移動
出帆しつつ 帰帆する船や 昇らず 沈まぬ陽と ともに
海面下で たちまち 地球を ぐるり一周 もとへと戻る
黒い羊は 黒い羊のまま 遠ざかってゆき
同じ瞬間 もろともに もとへと戻る
白い羊の 残像のごとく 世代交代しつつ
白河夜船と 目覚めておらぬ 桿状体から
うとうとし 舟漕ぐ 桿状体へと
錐状体は 虎渓三笑 谿(たに)に木霊す
いまは 昔 昔も いまも
羊飼いの脇に 居待つ犬の 頭部は 白骨化して
いぬが
畑の脇の 森の暗がりで 仰向けに斃(たお)れ
臥(ふし)待つ 男 の
闇の漲(みなぎ)る 眸の穿(うが)たれた 顔は
耀きの失せた 肌の弛みを 硬直させる間もなく
イカロスが突入した拍子に 黄泉から地上へ
押し戻されてしまったか
波乱万丈 生き抜いた 生涯のすべての瞬間を
洩れ出ゆく 生命の息吹きの 渦に
巻き込まれつつ 観ていたところで
時が 無限に引き延ばされてしまったため
無限に 生き直すこととなってしまったのか
Claude Debussy - La soirée dans Grenade(グラナダの夕べ)(pf:Claude Debussy)
ヒエロニムス・ボス 放浪者(Museum Boijmans Van Beuningen)
皆 なにを待っているのか 知らぬようだ
立待月(十七日月) 居待月(十八日月) 臥待月(十九日月)
イカロスが落ちてきた その時から
この海の轟き響く 辺りの陸(おか)に 日は沈まず 月は出ぬ
物皆 無関心なのではない
見えぬのだ
光の速度は 波動を放ち 空間を歪め
通過する光の周囲の 時間を 限りなく遅くする
光になったイカロスは 時空を貫き 事象の地平面へと吸い込まれ
そこは 折り畳まれてしまった
かのように もはや 感知できぬ次元となり 永遠の瞬間
イカロスだけが落ちつづけ それ以外のすべては止まっている
に等しい
昇らぬ月の 眸の中で
錐状体は 三者三様 意気投合し お喋りに夢中で どこかへ行ってしまう
桿状体は まだ 目覚めていないか もう 眠りかけている
秋はなほ 夕まぐれこそ ただならね
荻の上風(うはかぜ) はぎの下露 (藤原 義孝 義孝集)
萩を詠んだ 後半の句は 二十歳で 九月の夕べ 没した 藤原 義孝
十三歳の折 摂政だった父の邸で催された 連歌の会で
苦心する連衆の前に進み出 詠んだとされる
死後間もなく 周囲の人の夢に現れて 詠んだという歌も 数多伝わる
時雨(しぐれ)とは 千草の花ぞ ちりまがふ
何ふる里の 袖ぬらすらむ (藤原 義孝 後拾遺500)
この歌、義孝かくれ侍りてのち、十月ばかりに、賀縁法師の夢に
心ちよげにて笙をふくと見るほどに、口をただ鳴らすになむ侍りける
「母のかくばかり恋ふるを、心ちよげにていかに」といひ侍りければ
立つをひきとどめて、かくよめるとなむ、言ひ伝へたる
ただならぬ 萩の上風と はぎの下露は
同じ場所にあって 異なる時を内包しているのかも知れぬ
降り落つ 雪片と 舞い散る 花びらのように
異なる時にあって 同じ空間を占め
時空の記憶の中で 重なり合うのかも知れぬ
冬ながら 空より花の 散りくるは
雲のあなたは 春にやあるらむ (清原 深養父 古今330)
空やうみ 海や空とも えぞわかぬ
霞も波も たちみちにつつ (源 実朝)
薄霧の 麓にしづむ 山の端に
ひとりはなれて のぼる月かげ (九条 良経 月清集)
霧のなかで 墨が放たれ 輪を描く
問われて初めて 考え 答えることができる
未來のどこかで 恐れが放つ 死を
あなたが 掌に受け止め 放さぬならば
それを止められぬなら
それでも そこに居たい
わたしたちは 不死身でなく
理解を 天啓のように 届けることもできぬ
ただ すべてを見て そのときに すべきことを
しなければならぬことを 知るだけだ
あなたは 言の葉の道を渡し
未來を守り 過去を救った
受け入れ 伝え 助くため ひらかれた
道は 死を以てしても 壊されず 鎖されぬ
恐れず 拒まず 受け入れ
助け ともに力を尽くし
生きつづけ 世代を重ねれば
だれも なにも 苦痛と哀しみの中に取り残されぬ
世界へと 変容するかも知れぬ
わたしにとって この旅は 驚異でも神秘でも 使命ですらなく
あなたとの別れだった
この旅に來なければ あなたの最期に寄り添えなかった
その瞬間に あなたを救う なにかが できるのではないか とも 想っていた
だが できなかった
あなたの決意と命令に わたしは全力で その場から遠ざかった
あなたのあとを ひき継ぐため
それしか なかった と わかっていても わたしは悔しい
すべてを呪い 憎むほど
だが それでは あなたがしたことが 無になってしまう
憎んで あなたが生き返ろうか
憎しみの中に あなたの心は帰ってこない
知り得なかった あなたの心が いつの日か わたしのところへ伝わってきて
赦し 導いてくれることを 願い 祈り
あなたの聲に 耳を澄まし 待ちつづける
日に千たび 心は谷に 投げ果てて
あるにもあらず 過ぐる我が身は (式子内親王)
もののふの 矢並つくろふ 籠手のうへに
霰たばしる 那須の篠原 (源 実朝)
見しことも 見ぬ行く末も かりそめの
枕に浮ぶ まぼろしの中 (式子内親王)
そのために 來た 伝え 掌をひらき 手をのべ
ともに 未來を支えるため
そのために 行く いつなりと いくたびなりと
過去も 未來も いま ここを通じ 連なる
ゆらいでも 頽(くづお)れることなき
しなやかに 解けては 連なり めぐり逢う
一瞬と 永劫の 結び目
夢ならで 夢なることを なげきつつ
春のはかなき 物思ふかな (藤原 義孝 義孝集)
はじめなき 夢を夢とも 知らずして
この終りにや 覚めはてぬべき (式子内親王)
見し夢の 春のわかれの かなしきは
長きねぶりの 覚むと聞くまで (九条 良経 月清集)
Jan Zrzavý Kytice(Bouquet)
通路に 羽が散らばっているそよぎ 連なり 離れゆく
霧に点(とも)る水滴
中で なにか振り返っている
焦点を解くと 羽も滴も消え かすかな淺紫の翳が残る
それを踏んで 飛行士たちが出てくる
時間の海を渡る飛行士は 飛沫で肌を濡らすことはない
飛沫は奥深く すべてを見透す目の潭(ふち)へ 無限に散り落ちてゆく
目の後ろから あふれ滴る水は
折り畳まれた 時空の端から なびく
遠い潮になる
長く傾けられた記憶を 登りつめる
渦巻く風と ゆらめいて灯る明り
雲の中 霧の中 眸の中 涙の中 海の中 氷の中
すべての水の中に 記憶の杜は 眠っている
映り 夢見 拡がっている 目覚めるときへ と
重力波の漣を過ると
カタコンベのように 冷たく 古びた匂いがする
眠くなり 重くなり 軽くなる 振り子のように
眸が 心臓が ぶら下がる
頭を廻らすと
微小な耀きでできた 鰭龍が 星々の雲間に沈んでゆく
広大無辺を貫ける間
針も文字盤もない 時計のように 雲の入り江に 掛かる月は
遠すぎる鏡を抱いて 息をつめ 輝いていた
尋ね求めるものは 尋ね求められるものに
近づき 重なる道は 自らの眸の中に
谿底で 水面に浸り 木霊が響む 古の言の葉
水鏡の縁が 月の光にひらき そよぐ
辺りが薄暗くなり なにか白いものが降ってくる
それは空間の あらゆる位置に浮いている
小さな羽 間近に照らし出される とまった計器や
白くなった関節の上にも のっている
ひとつひとつに 目を凝らすと
間に もっと昏く淡い 淺紫の翳の羽があって
すべて 連なっている
ふいに 眸だけになって 宙に躍り出
碧々と凍りつく
ひとすじの光に照らされ
たなびくものに 眸をのせ
波のように進む
記憶の杜の奥深く 言の葉を裏返している
鳥に出逢った 木霊だろうか
木洩れ月を透かし
なにも憶えていない眸で見返した
いつか 帰ってくる
いつか 記憶は 芽吹く
古の瞼が ひらかれると
碧く澄んだ湖が どこまでも広がっている
翠の葉が 海と湖の間を 満たしてゆく
望月夜 散り終えた記憶の羽が 虹になる
虹の弧の 内側の端 淺紫の翳の縁から
失われた想い出や 夢だったものが
帰ってくる音がする
童は いつ 帰ってしまったのだろう
雨がやんで 古びた木戸が軋み
竹の根方で 朽ちた硯が 月光を集めている
Booker Little - The Legendary Quartet B3. Who Can I Turn to? 29:57
これほど密度の濃い長文の準備にはそりゃ時間も掛かりますね。
まず、「ゆくすゑは 空もひとつ」という表現は好きです。
物事を突き詰めてゆくと境がぼやけて来るように思います。
その極限がビッグバン以前でしょうか。
ブリューゲルの細部に行き渡り、かつ、温かみのある絵も好きです。
なにか、人間の繊細さと良心の現れのように感じます。
鯉が墨を呑むという発想は意外でした。
「毒食らわば皿まで」じゃないですが
とことん己が運命を飲み干してやろうとする豪気さを感じます。
後、クラウディオ・アラウは近々手に入りますので、それまでお預けにしておきます。
音楽は、結局、誰が演奏するかに尽きますので感性が合えば良いのですが。
書き出したのは、更新について、みれい様よりコメントをいただいてからで…親身に毎日見に来ていただいたり、何回も叱咤激励していただけないと、なにも始められない自分が情けなく…
みれい様にご助言賜りましたとおり、とりあえず映画と絵の感想を描こうと想ったのですが、書き出した途端、全部変わっていってしまい、しばらくして半分ずつupできないかとも想ったのですが、まだあちこち変わる…
書き出してから、ほんとうに書きたかったことが判ることが多く、そこにいたるまでの部分を全部削ればいいのにそうもできず…
marc様の素晴らしいお写真につきましては、そこに表されている和の心を想ううち、古代の秀歌の間に、自分の即席のを並べるという想い上がった事態に…
どちらも削れず…穴に入ることにして放置…
絵画は、バベルから想い出したイカロスについて、Wikiで近年の研究を読み、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A2%9C%E8%90%BD%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8B%E9%A2%A8%E6%99%AF
絵具や下書きの木炭については、同時代のブリューゲル(工房)の用いていた物の特徴と一致するということで、(画家で修復士の)後輩と ちょっと話したんですが…
(来日している方のバベルでは、ほとんど完全にそうだったんですが、)ここでも、どこから入っても(観る者の)視線が画面内を動き回ることで、描かれたものが次々と生動し、物語が流れ出し展開してゆく、という 彼の手法が、かなり(というか…執拗に…?)抑えられている…
突然 切り離され、パッチワークのように貼り付けられたような人物やモチーフが観る者の視線の速度を遅くし、まるでその人物やモチーフとともに自分までが閉塞してゆくかのように…
(極端に緩慢でなく)動いている(ように見える)のは水面に突入したイカロスの足だけ…でも その先は…ない…
だから…そうするために、意図的に、(画面内でいかなる物語も展開しないように)描かれている と解釈し…
映画のほうは、あちこちで ぽつぽつ お話していたので、これ以上ネタバレするのも非常識(すでにいろいろな意味で充分そうなのですが…申し訳ありません…)だと想い…
異界からの二人の使節のうち、副官と想われる人の視点に想いを馳せることに…
起こる出来事が何千年というスパンで解っていて、そういう観点で生きているにもかかわらず、それより短いスパンで生きるものの視点にも合わせられ、その瞬間を 常と同じように充実させて生きることができる…
あることが起こったとき自分がとる選択もわかっていて、その結果自分の人生はそこで終わってしまうけれど、すべては、よりよきほうへ向かって続いていく…
つまり自分のいない未来も展望できる…ということは自分はやっぱりその中に含まれて居続けている…なんらかの形で…
それでも、どんなに準備しても自分に関してはそうならざるを得ないのに、やっぱりそこへ行く、優秀で、崇高で、善良で、勇気ある 冒険心に満ちた心は どうしても理解しがたかったのですが、その人について行く方の人の心ならわかるように想い…
アラウは みれい様がお好きだと知って、とても感動し…
自分は80歳を過ぎてからの演奏が とても好きなのですが、tubeのライヴ録音でしか知らず…御母様をとても愛しておられた方で…
ドビュッシーを弾かれる方として有名なわけではなかったと想うのですが…華やかで速い音の重なり合いだけではなく…ひとつひとつの音色をゆっくりと弾かれるドビュッシー自身の弾き方に近いような気もいたし…
ドビュッシーやグリーグの自身による演奏も、tubeでしか知らず…
自分は音の違いをほとんど聴き分けられないのですが、ピアノは母が大好きで、いろいろな音の聴こえ方について、ときどき話してくれたのですが、よくわかりませんでした…遠くないところで母が聴いているように想いながら、よく流しています…
小説家も物語が勝手に動くと言ってますよね。
精神分析の技法でもありますね。
語る内に心の深層に迫るという。
>marc様の素晴らしいお写真につきましては
古代において紫は高貴な色とされていたそうですが頷けますね。
>どこから入っても(観る者の)視線が画面内を動き回ることで、描かれたものが次々と生動し、物語が流れ出し展開してゆく
中世に動画は無かった訳ですから
当然、意図的な技法だったんでしょうね。
北斎の「神奈川沖浪裏」なんかもそうですが螺旋の先にイカロスの足があるという。
諧謔の一種でしょうね。
>起こる出来事が何千年というスパンで解っていて
なにやら、仏教において菩薩は54億年後だかに現れるそうで。
勿論、その頃、人類は居ないでしょうが、現代の天文学的タイムスケールには一致してますね。
とりあえず、千年後の人類がもう少し民主的になってて欲しいです。
>アラウは みれい様がお好きだと知って、とても感動し…
そうなんですよね。
情報は仲介者が決定的ですからね。
ラテン系のピアニストがドビュッシーを演奏するのは珍しいそうですから余計楽しみです。
ものすごく仕事が忙しかったです (;・∀・) 散文詩は半分読み終わりましたので、次回感想を書きたいと思います。ベロマークさんの写真は綺麗です。映画や絵画の感想のブログの更新ですか!? 書き出してからほんとうに書きたかったことが判ることが多いのは当然です。でも、最初に見た感想を書いたほうがいいですよ。以前書いた文章をこうしたいとかなりますね。それを次に見る映画や絵画の感想に生かします。こうされると、散文詩の発想と表現力の視野も広がる感じです。Q&Aサイトでは、絵画や映画の感想は書ききれないです。あっ! アラウさん、わたし大好きです (o^∇^o) あはは 聞き比べなら簡単ですよ。YouTubeはmp3の圧縮音源です。FM放送とYouTubeの音質が違うのはわかると思います。FM放送の音の方が良いと、ほとんどのお方は答えると思います。わたし、YouTubeは詰まった音で疲れますので聴かないです。目も疲れそうです。えへっ またね。
よし 明日もお仕事がんばるぞ!
hazarさま、お体に充分に気をつけられてください。
藤の走る道は毎年徐々に変わりますが、此方で改めて観ると、雲も流れてますね〜、実際は殆ど動かぬ絹雲でしたか、月も此の後は色づき奥行を増して、雲の彼方へと昇るでしょう。天体の運行を反映しながら其々異なる時間が流れてる様だ
作品は一度び己れの手を離れ、世間の流れに身を任すもの。応答が有れば嬉しいです。
弱法師の月。〉は、盲いて瞑し、と云う事ですかね、
月に追われた藤〉は、更に逃げ隠れた感じが出ると良い気がします、
と云うのも写真はトリミングしてますので、実物はもっと下まで流れ落ちて行きますよ。でも実際は上から落ちてくのか下から昇ってるのか?
http://vps30-d.kuku.lu/files/20170627-2135_70c6613f3a8ec7359be3df174313c0cf.jpeg
確かに渓谷のせせらき〉も聞こえてきそうです。
落ち延びる藤のフォルムと〈素足〉で思い出したのが、
マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体No.2」の衝撃
https://www.ggccaatt.net/nude-descending-a-staircase/
元はキリコとジョルジュ・ブラックでしたか
https://www.pinterest.jp/pin/443604632022140388/
藤、紫は不思議な色で、次の動画の画像3枚目の向いの山に入って行きますが、谷を挟んだ日陰の藤は、白っぽくて判然としません
http://vps6-d.kuku.lu/files/20170624-1534_d6d4a675b19d21df421f155529d04f85.mov
最新のコンパクトデジカメは手ぶれ補正が可也効く様ですが、其の分チョット歪むかな、そのせいか遠近が出て擬似3Dみたいだ。
山藤の色変わり、此れは自室の窓から対面の小山腹を望遠で、
http://vps30-d.kuku.lu/files/20170624-1621_2bf7b4fce9cc4da7ae9d0a7482552d22.jpeg
右の日陰は、青、水色に…、空の水色と紛らわしいですが。
散文詩の感想は私も又後日に。メモリー容量が限界なのよ〜
皆様ご多用中のところ、早速、まことに ありがとうございます
ぎっくり腰になりかけたのと、数年来のauのポイントが今月末までで無効になるというので、慌てて自分のをスマホとタブレットに、母が使っていたのを、ずっと使わず寝かせていた父のを簡単ケータイに無謀な機種変更し…家ではPC以外使わないwifiの接続等、休みがつぶれ、腰も悪化…
alterd様 ほんとうに ありがとうございます
ビッグバンのお話をわかりやすく読み解いていただいてとてもありがたく拝読させていただいております
今日は「シュレーディンガーの猫を追って」というのを例のところで手にとることができ…まったく知らず…
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309207292/
愛娘を病気で亡くされた研究者のかたが書かれたそうで…あとがきに一茶の句のようにして自作の句をいくつも紛れ込ませている、とあり…
表紙も とてもよく…いま読んでいる「緩慢の発見」もすごくおもしろいんですが、
http://www.hakusuisha.co.jp/book/b206376.html
もうすぐ読み終わったら、これを…楽しみ…
鯉が墨を呑む話ですが、長閑な暮らしを表す詩句として、茶を沸かせば鶴が湯気を避ける、という句と対になって、どちらも自然が近々と暮らしに寄り添っている風情を表しているとのことですが
たぶん なにか食べられるものだろう、と漂う墨を呑み込んでしまう鯉は、たしかに、のんびりしているようでいて、仰るように、その墨の持っているかも知れぬ運命を、自ら進んで出迎え、呑み込んでしまおうとする剛毅さを感じさせ…
洗硯という言葉には、硯の石の紋などが水に漬けるとよく見えることから、硯を鑑賞するという意味もあるとのことで、これは唐子のようですが、日本画なので…端渓とかではなくて日本の硯かな…と調べてみましたところ…
伊達政宗も愛用したという雄勝(おがつ)硯というのを知ることができたのですが、なんと先の震災で町も沈み、石の採掘場への道も壊れて沈み…もうほとんどみられなくなってしまったということでした…
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=jYUDfxv-gCw
http://otokuinfomation.web.fc2.com/blog/index5380.html
http://www.tohoku.meti.go.jp/s_cyusyo/densan-ver3/html/item/miyagi_02.htm
marc様は お持ちかも知れませんね…
墨が擦れる金属の細かい結晶のようなものが一様に出ていて凸凹がむらなくついているのが、よい硯らしく…
肩で鏨を押しておられるのがとても大変そうですが、繊細な鏨さばきで、同い年くらいの御方でしたが、お元気でしょうか…
みふゆ様
おいそがしいさなか、まことに ありがとうございます
生き生きとした 素晴らしいID画像、いつも とても感動しております
そうですね、自分はLP時代によくヨーロッパの古い音楽を聴いていて、カセットはほとんど聴かず、CDも最初の頃は音が…なんだかシャカシャカして…デジタルになってからはもう…なにがなんだか…わからず…
ただ、alterd様が仰る、スペース感というものは、とても大切で…それがあって、自分を包んでくれたり、運んで行ってくれたりするものを聴きたいと…
alterd様がお気に入りの音楽カフェバーで、教会内の演奏が再現されて、とても胸に迫られたと仰られていたヘンリク・グレツキの交響曲第4番は、私も大好きな盤で、そのドーン・アップショウという歌手のかたのが、最初に聴いてすぐに買ったアルバムで…
http://www.nonesuch.com/journal/henryk-gorecki-symphony-no-3-released-nonesuch-25-years-ago-2017-04-24
グレツキの曲はポーランド民謡のとミゼレレの合唱曲のも、とてもよくて、よく聴き…その後、アルヴォ・ペルトのミゼレレを聴いて、ペルトも好きになり、今ではペルトのほうを多く聴いており…
http://www.arvopart.ee/en/
大好きな Da Pacem どれを聴いても泣きたく…
http://www.arvopart.ee/en/product/arvo-part-da-pacem-2/
スペース感で大好きになった演奏家は、ピアノではクラウディオ・アラウ…
チェロでアレクサンダー・クニャーゼフ
alterd様のお好きなBachで CD持っているのがあったので…
https://www.youtube.com/watch?v=ffNewe2kfKI
たしかに これだと、あまりスペース感はないですが…このかたは若くして才能あふれる音楽家だったのですが、両手の筋力が衰える難病を克服、コンクールで受賞するなどの完全復活の直後、ピアニストの新妻とツアーのため移動中の交通事故で大怪我、妻は亡くなられ、チェロも大破…その後、亡き妻の父上のピアニストのかたに支えられ、そのかたとのピアノトリオやカルテットを経て、再復活…
http://masterofseikouudoku.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/alexander_kniaz_8a6d.html
(余談ですが、この記事を書かれているかたの、右のほうにある猫のマーク(ゆめじ)は、放っておくと寝てしまい…矢印を顔の上に持っていくと、急に顔が大きくなって、においを嗅ぐので面白いのですが…)
Wiki https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Kniazev
中世の古楽、ヨーロッパ・アラブ音楽のJordi Savall
https://alia-vox.com/en/
ジョルディ・サヴァール Wiki https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB
「ベルンカとやしの実じいさん」やっと読み終わり…!
とても思いがけない、子どもの視点からの、素晴らしい展開で、大好きに…!
http://www.bookoffonline.co.jp/display/L001,bg=12,q=%2583%2578%2583%258B%2583%2593%2583%254A%2582%25C6%2582%25E2%2582%25B5%2582%25CC%258E%25C0%2582%25B6%2582%25A2%2582%25B3%2582%25F1
お話を書かれているかたはパベル・シュルットさんで
1940年生まれ…
https://en.wikipedia.org/wiki/Pavel_%C5%A0rut
受賞記事…下のほうに英語版が…
http://www.ibby.cz/index.php/cena-hchandersena/33-pavel-rut
絵を描かれているのはガリーナ・ミクリーノワさんで1970年生まれ…
https://en.wikipedia.org/wiki/Galina_Mikl%C3%ADnov%C3%A1
ホームページ見っけ…!…チェコ語みたいですが…
http://galinamiklinova.cz/
おもしろそうなの 一杯…
日本に紹介されたのは初めてみたいですが、ぜひもっと読みたいな…
お二人が三十離れているのも、とても素敵で…
この御二方の間に居る、alterd様やわたしは、みふゆ様とは、三十よりもっと離れていると想われ、ガリーナ様と同じくらいかなと想われるmarc様は、みふゆ様とそのくらい離れておられるのかなと想われますが、パベル様とガリーナ様のように、考え方や感じ方が世代を超えて通じ合い、お互いの想像力や創造力がいっそう深く広くなっていけるように想いました…
マルクーマ様
素晴らしいお写真の原画と未発表の動画まで…まことにありがとうございます…!
ほんとうに写真集とか、映画にされるべきではないかと…
少なくともブログで…ここのブログはalterd様が絵を描かれておられますように、かなり大きく、画像がきれいに出せますので、お勧めです…
私は文章の枠内に入るよう、いったんそのまま取り込ませていただいたものを、ペイントというツールで開いて、サイズ変換し、長辺を500mbくらいに30%とか12%とかに縮小して、文字枠内で、全体を見られるようにしています
そのように縮小したものを、名前をその 2 とかに変えて保存し、ここの、画像を取り込む、というボタンを押して、画像を選択するとき、画像フォルダの中から、小さくした、その2のほうを選んで取り込んでおき、文章の途中で入れたいところに改行して、そこに取り込んだものを引用しています
alterd様は枠を大きくされてて、目一杯大きいのを入れられ、目次のほうはアイコンにされているみたいですね…
藤はたしかに原画のほうでは下から大きく右へ弧を描かれ、壮大な華厳の滝のようですが、蔓は登ってからまた下り、花は上から下へと咲くのでしょうか…
一つの山と谿に 一つの藤の道が廻るようで…ほんとうに素晴らしいところに、素晴らしい五感、感性、知性をお持ちの御方が住まわれ、自然と氣を通わされておられますのに感服いたしました…
弱法師は下村観山のを想い浮かべ…
http://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_246.jpg
http://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_C0016840.X2.jpg
http://www.emuseum.jp/detail/100290/000/000%3Fmode%3Ddetail%26d_lang%3Dja%26s_lang%3Dja%26class%3D1%26title%3D%26c_e%3D%26region%3D%26era%3D%26century%3D%26cptype%3D%26owner%3D%26pos%3D57%26num%3D7
これは梅と落日ですが、なんとなく薄青い空の十三夜の淡い月の出は、白い眸…なにも映さぬけれど心の奥の澄んだ水面に映る音色が聴こえるように…
藤は月を迎えているようにも隠れ下るようにも見え…
ほととぎすの聲は月を呼んでいたのに、うつらうつら咲いたばかりの藤が呼ばれたように想って探しにゆく…声は水面に向かい消えて、そこに藤が見たものは月かげだった…と、いうような…
皆皆様 ほんとうに ありがとうございます
向井 万起男さんならフォームの欠点を指摘してくれるかもしれませんが。
>ビッグバンのお話をわかりやすく読み解いていただいてとてもありがたく拝読させていただいております
ありがとうございます。
滅茶苦茶面白いので下巻買おうとAmazonで探したら「あなたはこの本を2006年に購入しています」と出て、おかしいなぁと思ってたら、こないだ行った鹿児島の知り合いの家にありました。
貸してたの忘れてたんですね(笑)
>「シュレーディンガーの猫を追って」
量子力学も強烈に魅力的な分野ですね。
自然が人間を作ったくせにその人間に何重もの謎を隠しておくというこの面白さ。
>「緩慢の発見」
「遅い者のほうが多くを見る」
「最も遅く歩む者が最も遠くへゆく」同様真理でしょうね。
>茶を沸かせば鶴が湯気を避ける
「風が吹けば桶屋が儲かる」より遥かにシュールですね。
どこか「一頭の牛が近づく春の闇」に通ずるような有無を言わさぬ自然の力を感じます。
>伊達政宗も愛用したという雄勝(おがつ)硯
流れは忘れましたが、今、新渡戸稲造の「武士道」を読んでます。
共感出来る部分もありますが強烈にラディカルな面もありますので一筋縄でいかないです。
>チェロでアレクサンダー・クニャーゼフ
テンポはカザルスの方が好きですが才能は明らかですね。
>考え方や感じ方が世代を超えて通じ合い
結婚前、夜な夜なジャズ・バーで飲んでた頃もそうでしたが、私は未だマニアックな人の方が合うみたいです。
あれ…クニャーゼフ速い…速過ぎ…こんな速かったかな…
でも全部だと3時間もあって、カザルスのより1時間も長い…1のプレリュードだけ早いの??…2分足らず…
カザルス
https://www.youtube.com/watch?v=wqhR37qSUMA
ミシャ・マイスキー
https://www.youtube.com/watch?v=S6yuR8efotI&list=PLA70D07FB6C624D3A
どっちも2分半くらい…
カザルスがバッハにいちばん近づいて高貴というか崇高な…マイスキーはバッハより情熱的で温かい…?
クニャーゼフはもろいというか…はかないですね…
やっぱこの人は最初に聴いたピアノ・トリオとかのほうがいいかも…
この牛の俳句…! だれのなんだろうって想って…
たしかアピチャッポン監督のブンミおじさんの出だしのところで仰られてませんでしたか…marc様かな…
いやalterd様ですよね…リストに入っていると…
https://www.youtube.com/watch?v=A4XKbFDDSmw
これ日本語字幕入ってて…はじまってすぐの字幕の後からずっと、この句みたいな…
高室 呉龍というかたなんですね…
wikiには雲母という句誌のとこに お名前だけ…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E6%AF%8D_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)
このかたが少し紹介されてる…
https://blogs.yahoo.co.jp/aiichi515/15483639.html?__ysp=6auY5a6k5ZGJ6b6N
花の闇 冥府を女 歩く音
短夜や 月の迷へる 山の中
こういうのはmarc様みたいですね…
いま日本の古本屋さんで朝の雪という句集を注文できました…ありがとうございました
茶を沸かすと鶴が逃げていくのも、外で茶を沸かしてるのか…生活と自然が近いというか…近過ぎてびっくりさせられますよね…
そういえば、前に仰られていた、外国のかたの電線とかの俳句は、どなたのでしたでしょうか…
そうだ…「ハーメルン」という日本の若い監督のなかなか良い映画を手に入れ…ご存知でしょうか…
http://www.hameln-film.jp/
予告 https://www.youtube.com/watch?v=nyBIcr7K5Y4
中に人形劇のシーンがあったり…この大きな銀杏の木とかも…とてもよかったです…
いつもまことにありがとうございます
ぎっくり腰は、どうもPCのまえに坐り込んだり、身体を冷やしたり、寝てるときに寝返りを打たなかったりして、なりかかるのですが、まだなってない…と信じて、ゆっくり歩きまわっていると収まってくれます…
ご心配をおかけして申し訳ございません
これ持っているんですが、まだ読んでなく…御守状態で…
https://www.sunmark.co.jp/detail.php?csid=3395-3
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-71353-2/
ですよね。
元々、あの曲には渓流のような感じしてましたが、かなりの急流になってます(笑)
後、以前にも書いたと思いますが、私、風貌重視ですのでミシャ・マイスキーは避けてました。
聴いてみると、やはり、想像通りの音でした。
ヨー・ヨー・マなんかもそうなんですが、当然、技術的には全く問題ないです。
でも、カザルスと比べると何かが決定的に足らないんですよね(汗)
>この牛の俳句…! だれのなんだろうって想って…
内容的に中国の坊さん辺りかと思ってましたが俳人だったんですね。
禅語が持つモダンさと簡潔な迫力を感じます。
>花の闇 冥府を女 歩く音
冥府に似合わない「歩く音」がリアルで良いです。
そういえば、未完ですが開高健にも「花終わる闇」という秀作がありました。
>短夜や 月の迷へる 山の中
惑星ならぬ月を迷わしましたか。
短い夜に迷う切迫感が良いです。
>生活と自然が近いというか…近過ぎてびっくりさせられますよね…
鹿児島の山奥で年間の光熱費が1万円くらいで暮らす人の記事を読んでる所です。
自分ではとても出来ませんが羨ましいです。
>「ハーメルン」
当然、「ハーメルンの笛吹き」が下敷きにあるんでしょうね。
一体、子供たちをどこへ連れて行くんでしょうか。
ともあれ、今時、教育勅語を持ち出さなくてはならない教育の混迷は深いです。
>ぎっくり腰
そういえば、私も、軽い運動をした後、体が随分楽になります。
詩人の夢から、又夢辿る、プネウマの風、帆に受けて
觔斗雲にて一っ飛び、朦朧もわもわエアーゾル、
息吹き与える一撃は、帯電、如意金、金銀真砂、
自在棒にて一っ飛び、今も昔や幾星霜、
テラも一周、戻ってみれば、一世の夢は彼の方の、掌の内もまた良し。
〉まだ宵ながら 明けぬるを。〉〜何時寝覚めてるのか?、歌人さま
徳大寺さんも、清原さんも、薬効灼か、宵っ張りね。今も変わらぬ、
詩人の生ですね、夜行性、哺乳類でもサバンナで、夜寝る馬鹿者は居ない!
色覚無くても夜光性?、哺乳類以外は、赤・青錐状体に反応ピークが二つ有り、近紫外線でも認識可能と出てますね、「紫」の視覚パターンか。
超短波ならば、ブラックライトで見てると云う事でしょうかね。
春草、観山に添えられた和歌もお見事です。
雁がねと小々波と、葉むらと羽搏きの形態は、画趣も汲まれてさぞ御二方も喜んで居られるでしょう
見紛うモノは、他にも色々。思い出したのは、夕まぐれ逆光の、葉影と糸蜻蛉、黒い翅のが居ますね〜、黒揚羽かと思ったけど、、ブラックサテン様ですよ
バリ島の民宿で見上げた夜空の蛍と天の川、〜琴座のベガから、
川を挟んでアルタイルに、何かが届けられる、、流れ星かと思ったら、
軒端から翔び立つ蛍だったです、遠近が掴めない、、翔ぶ方向が変わって唖々、蛍かと。
http://blog-imgs-57-origin.fc2.com/a/s/o/asomanaotosan/seiza_app1.jpg
白鳥座のデネブと併せて、夏の大三角ですわね〜。今宵は七夕、且つ大潮で、何が起こるか
知りませんよ〜、草木も眠る、、葉猿は起きる、、
ふと、燈火の向こうを見遣れば薄暗がりに、落下した星屑シュルシュル旋回してます。
よく見ると顔は人、身体は猿の三体の小人が担いでる、、球体に取付くと云う鞠の精。
御存じ鞠聖、藤原成通卿の守護精霊、夫々額には春楊花、夏安林、秋園という字が
http://www.naginoha.info/?page_id=252
桜に柳、楓に松、四方の懸り木を伝って来るです。三猿の蓋置お持ちでしたね
卿の正夢の、速玉の梛の木は、針葉樹なのに広葉という、、新宮の神社の御神体で、葉と実を土産に貰えます。では又、御機嫌よう。