アントナン・アルトーに「ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト」という作品がある。非常に面白く、私が最も愛する小説のひとつである。アルトーはこれらの作品書きながら数少ない友人のひとり「NRF誌」のジャック・リビエールと書簡のやりとりを続けていた。その書簡の中で、徐々にアルトーの狂気が進行していくのがわかる。彼は幼少期の病弊の鎮痛用に阿片を常用していた。そのせいであったろうか。
ヘリオガバルスのアナーキストぶりは何とも凄まじいが、陽性さに欠ける。アルトーも陽性さに欠ける。どちらも鬼気迫るものがある。
梅原貞康は、ロシア革命にちなんで自らを「北明」と名付けた。アナーキスト梅原北明はどこまでも陽性で、大胆であった。
私が梅原北明の名を初めて知ったのは、昭和四十二年(1967年)のことである。確か、「現代の逆臣」と題された安手の新書版の本の中に、その名を見出したのであった。著者は森秀人という物書きである。彼は高校生のおり日本版紅衛兵を志し、早大仏文科を退学後、工員、業界紙記者をはじめ、何十という職業を遍歴した自称反逆児であった。このユーモアにあふれた安手の読み物新書(たしかダイヤモンド社だったと記憶する)には、寺山修司が著者の森秀人を紹介する形で跋文を寄せていた。森秀人は彼の「ボクシング仲間」であり、「思想のゲリラ」であるというものであった。
この「現代の逆臣」は、五十人を超す反逆児たちを紹介したものである。「大番」のモデルとなった株屋で相場師の佐藤和三郎、呼び屋の神彰、作家の深沢七郎、柔道の嘉納治五郎、健康産業の創始者・西勝造、女子バレーのニチボー貝塚監督・大松博文、山岸会の山岸巳代蔵、高利貸しの森脇将光、光クラブの山崎晃嗣、伊藤斗福(ますとみ)、教師・教育評論家の阿部進、暮らしの手帖の花森安治、ジャーナリストの大宅壮一、むのたけじ、作家の永井荷風、太宰治、佐藤春夫、思想家でジャーナリストの幸徳秋水、細菌学者の野口英世、北里柴三郎、他に堀江謙一、小田実、花田清輝、福田恒存、埴谷雄高、小林秀雄、出光佐三、きだみのる、坂口安吾、正木ひろし等の奇人ぶりが描かれていた。一人につき約3、4頁である。
これらの中で面白く強烈だったのは山崎晃嗣、伊藤斗福と弁護士の正木ひろし等で、他は名ばかり高名でも大して面白い人物とは思えなかった。この人物伝の中の出色中の出色は梅原北明であった。
私はたちまちこの男に魅了された。あるとき、古書店で雑誌「エロチカ」に彼の名を見出した。聖職者ならぬ「性職者」梅原北明の「公開性交勝負」の、抱腹絶倒の逸話である。
北明の「正気の狂人」ぶりに比するなら、「現代の逆臣」の他の登場人物は皆、凡庸な常識人に思えるほどである。私は北明を調べ始めた。
北明はその性、落ち着きがなく、明るい反逆児であったらしい。それがもとで二度退学になっている。彼の職歴を見ると思わず微笑んでしまう。やはり落ち着きがない。
郵便局員として働いたが、すぐに現金書留の中味を抜き盗ったことがバレて首になっている。次に医院の薬局でアルバイトをはじめたが、そこから薬を持ち出して横流ししたのがバレ、首になっている。解放セツルメントのボランティア活動に入った。彼はこの時に日本で最初の「全国大会」を企画している。
雑文書きをし、新聞社に記者としてもぐり込み、得意の語学を活かして翻訳のアルバイトをした。その後は出版者、編集者として勇名を馳せ、度重なる発禁で書き手がいなくなると自ら作家として書き、逃亡中はゴーストライターで糊口をしのいだ。またイベント企画者・プロデューサー・演出家、女学校英語教師、鍼灸師(おそらくいい加減な偽鍼灸師であったろう)、靖国神社臨時職員として神社史編纂に携わった。
その後はチャップリン映画等の輸入業者となり、劇場支配人となり、海外からレビューショーやサーカスを招聘した日本の呼び屋第一号となった。大金を得ながら、ドキュメンタリー映画製作者兼監督として「本邦初オール海外ロケ敢行!高砂族の驚異と衝撃の生態!」に出かけ、一文無しになった。
山本五十六のコネもあって海外工業技術所主宰者・海賊版制作者として戦中を過ごし、また機械輸入業者・コンサルタントとして大陸を行き来した。終戦が近づいた頃から戦後にかけて密造酒製造し、自分で浴びるように飲んでいた…。
北明には何度かの絶頂期があった。それは官権を相手に闘う出版者として勇名を馳せ、発禁・逮捕投獄回数の日本レコードを樹立した時であり、映画の輸入と呼び屋、劇場支配人として日劇を再建した時である。帝国ホテルをワンフロア借り切って暮らしていたかと思えば、浅草の裏長屋で食うや食わずの暮らしぶりもした。逃亡・潜伏生活を繰り返し、その貧富のサイクルも目まぐるしく、昇降を繰り返す壊れた高速エレベーターか、ジェットコースターか絶叫マシーンに乗っているかのような人生であった。
あの稚気、遊び心、あのユーモア、あの反骨の魂、不屈の闘志、あのアイデア、柔軟な思考…。私にとって北明は、企画者の鑑(かがみ)であった。イベント屋の鑑であった。呼び屋の鑑であり、絵でも文学でも映画でも興行でもイベントでも、本物を見抜く鑑識眼と先見に長けた、神のような人なのであった。
時代の先の先まで見えていたにもかかわらず、その時代の権力と圧力に全力で逆らい、抗った人でもあった。自由を希求し、柔らかな武器で、たった一人になっても官権と闘いながら、最後は時代の圧倒的な風潮となった「自由」に、プイと背を向けた、反逆児の中の反逆児なのであった。
ほどなく、梅原北明は安藤昌益とともに、私の裡で神となった。私の裡には「北明神社」と「昌益神社」が祀られているのである。神も仏も聖人も完全否定した昌益を神として祀るとは、確かに大いなる矛盾であるが、昌益は私の裡なる神なのである。彼の故郷の弟子たちが「守農太神」と讃えたのは当然なのである。無論、昌益はニーチェの「ツァラトゥストラ」の如く、その信奉者たちを冷たく拒絶するに違いない。
あらゆる権威を嘲笑った少年にも似た稚気の人、「性職者」「エロ・グロ・ナンセンスの帝王」「地下出版の帝王」で、トリックスターの北明も、自分が神として祀られたと知ったなら、おそらく大いに照れながら鼻先でせせら笑うに違いない。「てやんでえ」と吐き捨てるように言うに違いない。
作家・埴谷雄高は、梅原北明に心酔していた。最後にドストエフスキーに行き着いた埴谷雄高は、北明の何に惹かれていたのであろうか。おそらく、あらゆる権威の否定と真の自由を追求した不屈の反骨心と、そのデタラメさと行き当たりばったりの柔軟さと、その狂気にも似た無類のアナーキストぶりであったに違いない。
ちなみに作家の島尾敏雄は、その少年時代に大泉黒石の「俺の自叙伝」等を読み、大いに感化されたという。島尾は黒石を通じてロシア文学に惹かれ、読み漁ったらしい。やがて島尾はドストエフスキーに行き着いた。そして戦争を迎えた。その戦争体験と戦後の結婚生活が、あの島尾文学を生み出したのである。
島尾敏雄は大泉黒石の何に惹かれたのであろうか。おそらく、そのデタラメさと行き当たりばったりと、広大なロシア的虚無と、その無類のアナーキストぶりであったに違いない。しかし島尾は大泉黒石的な破滅ぶりから離れて行き、決して終わることのないドストエフスキー的な自問、反問の文学に行き着いたのに違いない。
梅原貞康は、ロシア革命にちなんで自らを「北明」と名付けた。そして「北明」とは、私にとってアナーキーな神のことなのである。