芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

童謡道~掌説うためいろ余話~

2016年04月20日 | エッセイ

 日本人は何事か一つのことに打ち込み、それを「道」とすることを好むらしい。剣道、居合道、柔道、合気道、相撲道、茶道、華道…。そして斎藤信夫における「童謡道」。
 ほんのはずみであったとはいえ、童謡の世界をのぞいたことは「運命」であった。童謡のための詩を書き、研究することは「道」であった。毎日一篇の詩を書く、これが己に課した「修行」であった。
 斎藤信夫の創作ノートはB5判の大学ノートで65冊を数え、作品には全て通しの作品番号が付けられ、最後の作品は11,127番になるという。さらにその後ろに11,136番まで番号が振られていたらしい。彼は命ある限り、詩を書こうとしていたのだろう。しかし、ついにその番号まで埋められることはなかった。昭和62年9月20日に76歳で亡くなったからである。
 それにしても何という詩の数であろう。

 斎藤信夫は明治44年(1911年)3月3日、千葉県山武郡南郷村(成東町)の農家の長男として生まれた。父・三樹は、信夫に農業を継がせるつもりでいたが、身体があまり丈夫ではなく、会社勤めをしたかったらしい。
 信夫の祖父・茂三郎は教育者で、地元小学校の校長などを歴任したが、いつしかその強い影響を受けて、彼もまた教育の道に進んだ。
 信夫は地元の大総尋常高等小学校で代用教員となった。翌年、休職して千葉師範学校第二部に入学し、昭和6年碧海尋常高等小学校の訓導に戻った。

 昭和7年 (1932年)3月、千葉市内の院内尋常小学校に転勤となり、ここで七歳年上の先輩教師・市原三郎と出会った。運命とは、5月のある日に市原の自宅の酒食に招かれたことである。
 この時初めて、この先輩教師が詩誌の同人として叙事詩や民謡、童謡の詩を書き、その童謡がレコードにもなっていることを知った。彼がかけてくれた童謡のレコードを聴きながら、信夫は「あたかも馬上の将軍の英姿を見つめる子供のように」この先輩を仰ぎ見た。
 市原はにこにこと彼に酒を勧めながら、童謡や詩、その興味深い逸話について語ってくれたのである。信夫はいささか興奮し、市原家で時の経つのも忘れるほどであった。信夫は決意した。「自分もレコードになるような童謡の詩を書こう。」
 その夜から、一日も詩心から離れられなかった。市原先生の家を訪問したことは、運命づけられたものと思われた。
 信夫のその性、よく言えば辛抱強く、語弊のある言い方をすれば執念深かったに違いない。彼は中学一年生になったときから約十年間、一日も欠かさず日記をつけて来たが、この自分の辛抱強さを童謡の修行に替えたいと考えた。彼はピタリと日記を止め、童謡の詩を毎日ひとつ必ず書くことに決心した。
 童謡詩の制作のためになるものなら、絵本、漫画、童話、子ども向けの読み物などなんでも読み漁った。もちろん、先達の詩人や童謡作家の作品にも残らず目を通した。
 中でも特に野口雨情、北原白秋、西条八十らの言葉に憧れ、彼らに私淑した。雨情の土の匂いと叙情、白秋の天凛と華麗な語彙、八十の奔放さと都会的瀟洒…。しかし白秋や八十はどうも真似できない。似た風土に育ったせいもあって、雨情に心惹かれる信夫であった。
そして彼らに対抗意識も抱いた。なにせ武芸のような「童謡道」なのである。
「同業者に対する対抗意識を強めることと、内容形式共に他人の研究を吸収進化させること」