この一文は2011年7月17日に書かれたものである。
毎夜、窓を大きく開け放して寝ている。室内を涼やかな風が通り抜け、熱帯夜は一度もない。
ここしばらく、横になりながら、ほぽ満月に近い月を眺めている。月は東から昇り、南の沖天に動き、やがて西の空に移って、私からは見えなくなる。夏の月の動きは意外なほど早い。それだけ夜が短いわけである。
それにしても、月がこれほど大きく光り輝くものだと、改めて知った。皎々とした月明かりで屋外も室内も明るい。その輝度の強さは、建物や樹木などに漆黒の影闇をつくり、レースのカーテンの模様も床に揺れるシルエットを映じる。
もし、この月の輝きを「まるで金貨のようだ、いやまるで丸い黄金の球のようだ、…」と喩えれば、それこそまるで、リラダン伯が「残酷物語」の中の「ポールとヴィルジニー」に描いたとおり、即物的な現代人そのものの表象である。
ヴィリエ・ド・リラダンはフランス革命で没落したものの、有数の大貴族の出である。ポードレール等とボヘミアンの生活を送り、マラルメ等とは生涯の友であった。彼の有名な逸話に、「生活? そんなものは下男にでもやらしておけ」というのがあった。
何しろ芸術の神か悪魔に魅入られた、それ以外は何の興味も示さなかった伯爵だったのである。彼は世界の文学界に多大な影響を与えた。若き日の三島由紀夫もその一人であった。
「源氏物語」は世界最古の長編小説と言われているが、世界最古の中編小説、世界最古の恋愛小説なら、ロンゴスの「ダフニスとクローエ」だろう。古代ギリシャ語で書かれ、その成立は「源氏物語」より七百年早い。エーゲ海のレスボス島を舞台とした牧歌的で健康的な純愛小説である。
リラダン伯はこの古典文学「ダフニスとクローエ」を下敷きにし、「残酷物語」として「ポールとヴィルジニー」を書いた。この恋人たちは、結婚後の二人の財産を数え合い、語り合うのである。煌めく星を見れば、まるでダイヤモンドのようだわ、とウットリし、あるいは金貨のようだと恍惚とする。そして愛の誓いとして、君にあの星数以上の金貨を贈るよと言うのだ。二人で皎々たる月を眺めても、まるで黄金のようだ、僕たちもあんな金塊を手に入れようねと語り合うのだ。二人の睦言は不動産、貴金属、金、金、金の、即物的打算的な話ばかりである。もはや現代人には「ダフニスとクローエ」のような牧歌的な純愛はないのだ。だから「残酷物語」というわけである。リラダンはいかにも皮相的であった。
かつてライザ・ミネリ主演の名作ミュージカルに「キャバレー」というのがあった。その中で「マニマニマニー、マニマニマニマニマニマニ…」と歌われる傑作があった。「マニーマニー、お金が世界を回している」という歌である。描かれていたのは退廃的な、深いナイリズムであった。
今年の春まで私がお世話になっていた出版社に、中国人の三十代の女史がいた。彼女は芸術や文学、スポーツなどには全く関心がない。いつもお金にまつわる話しかしなかった。どこが安い、どこなら何割お得、ポイントがつく、高給、高収入、お金持ち、超富裕層、お金儲け、あの人は高級車を何台保有している、あの人はキャッシュで何百万もの買い物を気軽にできる凄い人…。人間の価値はお金の保有高、財産の多寡で決まる。ビジネスの成功者、高額所得者、お金儲けをしている人のみが尊敬に値し、生きるに値する人であり、付き合うに値する人である。さらに、お金儲けができない人は無価値な人、貧しい人はさっさと死んでしまえばいいとまで言うのである。
全てのクライテリアは金や富に還元され、価値化されるのだ。これはそのまま市場原理至上主義と結びついている。好い人なのだが、彼女のおしゃべりを聞いているうちに不快になったものである。そして「ポールとヴィルジニー」を想い出した。
これは中国人に特有なのではない。日本人も同様なのだが、中国人はより少しばかり、その価値基準の信奉において強烈なのである。ここまで金や富に心を奪われる心象もまた、深いナイリズムに根ざしていると言ってよい。
今度の大震災、大津波、原発事故で、日本の市場原理主義は激変するかも知れない。替わって新しい連帯原理というものが生まれているのかも知れない。それは日本人の市場原理至上主義からの離脱を意味する。それはまた、日本を発祥地、根拠地としていた日本のグローバル企業が、日本からの離脱を図ることを意味する。そう、連帯原理と言えば、柄谷行人に「NAM-原理」「可能なるコミュニズム」というのがあった。あれは連帯原理、相互扶助論だった。
明治維新、大逆事件、関東大震災、大空襲、敗戦、バブルの崩壊、狂騒的かつ恐るべき速さで進化しまた時代遅れとなるIT、リーマンショック、3.11…。海外の事変でいえば、ベルリンの壁の崩壊、ソ連邦の解体、冷戦の終了、9.11…。その前と後では、時代認識、歴史と思想哲学、価値が激変するのだ。
ガラガラと音を立てるように変わる時代。多くの不幸も悲劇も現出するが、ついていけないほどの時代の激動や世界の激変、歴史的不幸に遭遇することは、「僥倖」かも知れない、と言ったのは福沢諭吉である(「文明論之概略」)。何故なら「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」…だからである。世界が激変する前と後を聞見することは、一生ではなく二生を経験することであり、これは僥倖、得をしたと思うべきだと言うのである。さすが諭吉は楽天主義者なのであった。
ふと、諭吉はアナーキストだったのではないかと思ってしまう。なぜなら、アナーキズムとは、思想哲学というより、多分に、権力・圧力・拘束力に対する憤怒と、へそ曲がりと痩せ我慢と、人の好い、どこか明るい楽天的気分で、主義というより趣味に近いものだからである。
横になって皎々たる月を眺めながら、こんなことを考えているうちに、あたりはうっすらと明けはじめてしまうこともある。
さて、リラダンに強い影響を受けた三島由起夫も、「ダフニスとクローエ」を下敷きに小説を書いた。しかし彼は、その作品をリラダンのように皮相的にはしなかった。再び、牧歌的、健康的な純愛小説に仕立て直したのだ。名作「潮騒」である。…それにしても、今宵もまるで黄金のような月ではないか。
毎夜、窓を大きく開け放して寝ている。室内を涼やかな風が通り抜け、熱帯夜は一度もない。
ここしばらく、横になりながら、ほぽ満月に近い月を眺めている。月は東から昇り、南の沖天に動き、やがて西の空に移って、私からは見えなくなる。夏の月の動きは意外なほど早い。それだけ夜が短いわけである。
それにしても、月がこれほど大きく光り輝くものだと、改めて知った。皎々とした月明かりで屋外も室内も明るい。その輝度の強さは、建物や樹木などに漆黒の影闇をつくり、レースのカーテンの模様も床に揺れるシルエットを映じる。
もし、この月の輝きを「まるで金貨のようだ、いやまるで丸い黄金の球のようだ、…」と喩えれば、それこそまるで、リラダン伯が「残酷物語」の中の「ポールとヴィルジニー」に描いたとおり、即物的な現代人そのものの表象である。
ヴィリエ・ド・リラダンはフランス革命で没落したものの、有数の大貴族の出である。ポードレール等とボヘミアンの生活を送り、マラルメ等とは生涯の友であった。彼の有名な逸話に、「生活? そんなものは下男にでもやらしておけ」というのがあった。
何しろ芸術の神か悪魔に魅入られた、それ以外は何の興味も示さなかった伯爵だったのである。彼は世界の文学界に多大な影響を与えた。若き日の三島由紀夫もその一人であった。
「源氏物語」は世界最古の長編小説と言われているが、世界最古の中編小説、世界最古の恋愛小説なら、ロンゴスの「ダフニスとクローエ」だろう。古代ギリシャ語で書かれ、その成立は「源氏物語」より七百年早い。エーゲ海のレスボス島を舞台とした牧歌的で健康的な純愛小説である。
リラダン伯はこの古典文学「ダフニスとクローエ」を下敷きにし、「残酷物語」として「ポールとヴィルジニー」を書いた。この恋人たちは、結婚後の二人の財産を数え合い、語り合うのである。煌めく星を見れば、まるでダイヤモンドのようだわ、とウットリし、あるいは金貨のようだと恍惚とする。そして愛の誓いとして、君にあの星数以上の金貨を贈るよと言うのだ。二人で皎々たる月を眺めても、まるで黄金のようだ、僕たちもあんな金塊を手に入れようねと語り合うのだ。二人の睦言は不動産、貴金属、金、金、金の、即物的打算的な話ばかりである。もはや現代人には「ダフニスとクローエ」のような牧歌的な純愛はないのだ。だから「残酷物語」というわけである。リラダンはいかにも皮相的であった。
かつてライザ・ミネリ主演の名作ミュージカルに「キャバレー」というのがあった。その中で「マニマニマニー、マニマニマニマニマニマニ…」と歌われる傑作があった。「マニーマニー、お金が世界を回している」という歌である。描かれていたのは退廃的な、深いナイリズムであった。
今年の春まで私がお世話になっていた出版社に、中国人の三十代の女史がいた。彼女は芸術や文学、スポーツなどには全く関心がない。いつもお金にまつわる話しかしなかった。どこが安い、どこなら何割お得、ポイントがつく、高給、高収入、お金持ち、超富裕層、お金儲け、あの人は高級車を何台保有している、あの人はキャッシュで何百万もの買い物を気軽にできる凄い人…。人間の価値はお金の保有高、財産の多寡で決まる。ビジネスの成功者、高額所得者、お金儲けをしている人のみが尊敬に値し、生きるに値する人であり、付き合うに値する人である。さらに、お金儲けができない人は無価値な人、貧しい人はさっさと死んでしまえばいいとまで言うのである。
全てのクライテリアは金や富に還元され、価値化されるのだ。これはそのまま市場原理至上主義と結びついている。好い人なのだが、彼女のおしゃべりを聞いているうちに不快になったものである。そして「ポールとヴィルジニー」を想い出した。
これは中国人に特有なのではない。日本人も同様なのだが、中国人はより少しばかり、その価値基準の信奉において強烈なのである。ここまで金や富に心を奪われる心象もまた、深いナイリズムに根ざしていると言ってよい。
今度の大震災、大津波、原発事故で、日本の市場原理主義は激変するかも知れない。替わって新しい連帯原理というものが生まれているのかも知れない。それは日本人の市場原理至上主義からの離脱を意味する。それはまた、日本を発祥地、根拠地としていた日本のグローバル企業が、日本からの離脱を図ることを意味する。そう、連帯原理と言えば、柄谷行人に「NAM-原理」「可能なるコミュニズム」というのがあった。あれは連帯原理、相互扶助論だった。
明治維新、大逆事件、関東大震災、大空襲、敗戦、バブルの崩壊、狂騒的かつ恐るべき速さで進化しまた時代遅れとなるIT、リーマンショック、3.11…。海外の事変でいえば、ベルリンの壁の崩壊、ソ連邦の解体、冷戦の終了、9.11…。その前と後では、時代認識、歴史と思想哲学、価値が激変するのだ。
ガラガラと音を立てるように変わる時代。多くの不幸も悲劇も現出するが、ついていけないほどの時代の激動や世界の激変、歴史的不幸に遭遇することは、「僥倖」かも知れない、と言ったのは福沢諭吉である(「文明論之概略」)。何故なら「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」…だからである。世界が激変する前と後を聞見することは、一生ではなく二生を経験することであり、これは僥倖、得をしたと思うべきだと言うのである。さすが諭吉は楽天主義者なのであった。
ふと、諭吉はアナーキストだったのではないかと思ってしまう。なぜなら、アナーキズムとは、思想哲学というより、多分に、権力・圧力・拘束力に対する憤怒と、へそ曲がりと痩せ我慢と、人の好い、どこか明るい楽天的気分で、主義というより趣味に近いものだからである。
横になって皎々たる月を眺めながら、こんなことを考えているうちに、あたりはうっすらと明けはじめてしまうこともある。
さて、リラダンに強い影響を受けた三島由起夫も、「ダフニスとクローエ」を下敷きに小説を書いた。しかし彼は、その作品をリラダンのように皮相的にはしなかった。再び、牧歌的、健康的な純愛小説に仕立て直したのだ。名作「潮騒」である。…それにしても、今宵もまるで黄金のような月ではないか。