三歳クラシックレースの三冠最後のレース菊花賞、距離は淀の三千メートル。すでに皐月賞とダービーの二冠を制したオルフェーヴルが最後の一冠へ挑戦する。過去第71回の菊花賞を勝利して、三冠を達成したのは6頭のみである。
スタート直後から彼は前に行きたがり、口を割り、頭を上下させた。危ない、これはまずいことである。池添謙一騎手がどうなだめたか、レースの中盤に入ってようやく落ち着いた。4コーナーを向いてからが強かった。圧勝と言ってよい。ナリタブライアン(異論もあろうがJRA史上最強馬。…私に言わせれば少なくとも最強の三冠馬)のような勝ち方であった。
入線後オルフェーヴルはうまく止まることができず、外ラチにぶつかりそうになって、池添騎手を振り落とした。池添はラチに胸か脇腹をしたたかに強打した。しばし絶息していたのだろう。柵にもたれるようにして屈み込む池添の元に近寄ったオルフェー ヴルは「おい大丈夫か。悪りィ悪りィ」と声を掛けたようである。「大丈夫、大丈夫だよ」と池添がオルフェーヴルの首を軽く叩き、彼の勝利を称えた。
オルフェーヴルがレース後に勢い余って外ラチにぶつかりそうになったのは、これで二度目である。最初はデビュー戦だった。この時は、転がり落ちた池添を放ったまま、オルフェーヴルは好き勝手に走り続けた。池添も調教師や厩務員も、そんなオルフェーヴルを「やんちゃ」と言った。
こうして日本競馬史上に7頭目となる三冠馬が誕生した。三冠馬は傑出した一頭を除いて全体のレベルが低い年に誕生する。例えばミスターシービーやシンボリルドルフの年である。ディープインパクトの世代も、彼のみが天才的に突出し、他はそれほどレベルが高かったとは言い難い。ディープは前年生まれの無冠馬ハーツクライに有馬記念で敗れた。ディープの前年は三冠全て勝ち馬が替わった。
レベルが極めて高い年は皐月賞、ダービー、菊花賞の勝ち馬が全て異なることが多い。しかも彼等はその後、世代の異なる先輩馬や後輩馬を撃破して安田記念、宝塚記念、ジャパンカップ、天皇賞、有馬記念などを勝ちまくるのだ。古くはランドプリンス、ロングエース、イシノヒカル、タイテイム、ストロングエイト、ハマノパレード、ハクホオショウ、ナオキ、タニノチカラの年(なんと凄い世代だったのだろう。最後方から飛んできたイシノヒカルや、大江健三郎の小説の題名のように「遅れてきた青年」タニノチカラは強く、首を低く下げたランニングフォームは美しかった。ちなみに名騎手、名伯楽の野平祐二は、かつてタニノチカラを史上最強馬と評した。)や、トウショウボーイ、クライムカイザー、グリーングラス、テンポイント等がそういった世代だった。
もっとも、全体的にレベルの低い年も、ドングリの背比べで、三冠レース全ての勝ち馬が異なることが多いのだが。
さて三冠馬オルフェーヴルである。その血統表を眺めると、実に感慨深い。父も、母も母の父も、またその父も全て内国産馬なのだ。日本は血統の墓場…長く続いた内国産種牡馬の冬の時代を思えば、まさに隔世の感がある。
父はステイゴールドである。その父は日本のサラブレッド生産史上、最も優れた種牡馬と断言できるサンデーサイレンスである。サンデーサイレンスが日本にやってきたことは、競馬界にとってまさに僥倖と言えた。競走成績も血統も超一流に限りなく近く、本来なら決して日本に入らなかったはずである。これは稀代のホースマン吉田善哉が、子息たちをアメリカの馬産地や競馬界に修業に出し、人脈づくりをさせていたことが結実したものである。
日本の馬産界には、ノーザンダンサー系の優良な繁殖牝馬が溢れていた。同時代にブライアンズタイム、トニービンという、血統も競走成績も一流に少し届かなかったゆえに日本に来た馬たちも、実は凄い種牡馬だった。彼等はこれらの牝馬と高い和合性があったのだ。これらが相俟って、サンデーとブライアンズタイムとトニービンは日本の競走馬の質を一挙に世界レベルに引き揚げ、競馬界に革命を起こしたのである。特にサンデーは、世界的にも屈指の名種牡馬だったのだ。
オルフェーヴルの父ステイゴールドは、綺羅星のごとく居並ぶサンデー産駒の中では、その成績は決して一流ではなかった。ステイゴールドは母の血統が魅力的だった。母ゴールデンサッシュは未勝利馬ながら、あの瞬発力の塊のようなサッカーボーイの全妹なのである。サッカーボーイ自身は本質的にはマイラーであったにもかかわらず、種牡馬となるやスタミナ溢れるステイヤーを何頭も送り出した。
ステイゴールドの一口馬主に、作家で血統研究家の山野浩一がいた。彼もこのサッカーボーイの全妹の血に強く惹かれたものと思われる。私は山野の種牡馬解説が大好きだ。かつて、テインキングという種牡馬について「スピードのない短距離馬」と評したものである。私は声を立てて笑ってしまった。たしかにスピードのない短距離馬が勝ち上がることは難しい。同じく、スタミナのない長距離馬も。
ステイゴールドは大型馬が増えた昨今の男馬にしては小柄で、大レースではいつも二、三着に善戦するも勝ちきれないのである。一流には少しばかり届かなかったのだ。このようにいつも二、三着に善戦する馬は不思議と人気が出る(かつてメジロファントムというのがいた)。ステイゴールドはGⅠレースを勝ち上がるには何かが欠けていたのだ。それはおそらく「底力」である。山野浩一の定義によれば、「底力」とは「ゴール前で全能力を出し切って、もうこれ以上は無理だというところから、さらに絞り出される力」のことだという。今世界で超一流の典型的底力血統はといえば、おそらくサドラーズウェルズだろう(日本には産駒のオペラハウスが輸入され、テイエムオペラオーやメイショウサムソンを輩出した)。
ステイゴールドは彼の競走生活最後のレースに香港の国際GⅠレースを選択した。彼はそこで、劇的に「勝ってしまった」のである。山野はその時の凄まじい末脚を、「まるで映画のフィルムのコマが飛んだようだった」と評した。ステイゴールドは最後に一流馬の仲間入りを果たしたのだ。サンデーか、サッカーボーイの父ディクタスか、母系に流れるノーザンテーストが伝える底力は持っていたのである。(そう言えばいつだったか、ステイゴールドも4コーナーが曲がれずに外ラチに向かって逸走し、熊沢騎手を振り落としたことがあった。父と子は欠点も似ているのだ。)
オルフェーヴルの母はオリエンタルアートといって、3勝馬に過ぎない。その父はメジロマックィーンで、その父系はメジロティターン、メジロアサマと遡る。アサマの父はイギリスのミドルパークステークスを勝ったパーソロンで、マイラーであった。しかしアサマは天皇賞を勝ち、母系によってステイヤーになることを証明した(パーソロン産駒ではシンボリルドルフもステイヤー型である)。
メジロアサマは種牡馬初年度27頭に種付けされたが、全て不受胎であった。おそらく現役時の流感騒動の際に処方された薬の影響があったのだろう。彼は種牡馬失格の烙印を押され、その後はオーナーのメジロ牧場の繁殖牝馬数頭にのみ種付けを続けた。なんとか年に一、二頭の産駒を送り出したが、その中からメジロエスパーダが出た。エスパーダは異次元の能力を持った馬である。このスーパーカーは出れば大差のぶっちぎり勝ちをするのだ。しかし自らが繰り出す異常なスピードに、彼自身の脚が耐え得なかったのである。出走後は脚部不安を発症し、一年もしくは二年近い休養を余儀なくされた。それほどのブランクがあれば復帰初戦は勝てない。生涯7戦4勝。
次にメジロティターンが生まれた。彼は能力が高そうで、どこかひ弱に見えた。しかし天皇賞を勝った。ティターンはアサマに替わって種牡馬となった。そしてティターン産駒からメジロマックィーンが出た。晩成型でスタミナと底力に溢れ、菊花賞と天皇賞を勝った。マックィーンの半兄は、いまだ評価の低いままのメジロデュレンである。デュレンはリボーやシカンブルの底力と狂気の血が入ったフィディオン(長距離・晩成血統)産駒で、レース振りは先行型、典型的なジリ脚で、しかし決してバテないスタミナを持ち、他馬がバテる中、最後は勝ち残るステイヤーであった。こうして全くの人気薄で菊花賞と有馬記念を勝った。「まぐれ」で菊花賞と有馬記念は勝てない。底力がなければ勝てないのだ。何しろデュレン、マックィーンの母メジロオーロラは底力のあるアルサイド系リマンドで、ヒンドスタン(シンザンの父)の血も入った極めつけの重厚な血統なのである。メジロマックィーンは種牡馬として活躍馬を出せなかった。素軽い血統が全盛の今日、お呼びではなかったのだ。しかし母の父としては、素晴らしい底力と重厚さを伝えていることを証明した。(※)
ステイゴールドとオリエンタルアートは、オルフェーヴルの前に宝塚記念と有馬記念 を勝ったドリームジャーニーを出した。この全兄弟をはじめ、ステイゴールドとオリ エンタルアートは、今後も凄い一族を形成するにちがいない。
(この一文は2011年10月25日に書かれたものです。)
(※)翌年、芦毛のゴールドシップが皐月賞、菊花賞、有馬記念を勝ち、さらに古馬になってから宝塚記念も勝った。父はステイゴールド、母の父はメジロマックィーンで、オルフェーヴルと同じ配合である。彼の毛色はメジロマックィーン譲りのものだろう。