ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

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◎イスラーム 4

2015-04-08 23:36:04 | 宗教
イスラーム 4

★ムハンマド

ヒジュラ(622年)

・ムハンマドは新天地を求めて、マッカの東方約60キロのターイフの町で布教を試みるが失敗した


・マッカの北方約350キロのところにヤスリブという町があった

・7世紀の初めには、土地をめぐって8つのアラブ氏族の間で争いがたえず、アウス族とハズラジュ族が対立していた

・620年、ヤスリブからの巡礼者6名がムハンマドの教えに感服し、ムハンマドがヤスリブの混乱を鎮めることができると確信する
 621年、これら6名のうち5名が別の7名を連れて、再びヤスリブにやってきてムハンマドに会い、ムハンマドを預言者と認め、ムハンマドに服従し、罪をさけることを誓う(「第一のアカバの誓い」)
 622年、マッカ巡礼にきた75名は、ムハンマドを預言者と認め、罪をさけるだけではなく、神と預言者のために身命を賭して戦うことを誓った(「第二のアカバの誓い」)

○部族間の対立の調停者として、ムハンマドにヤスリブへ移住して問題を裁いてほしいと申し出があった
 ムハンマドは、次の条件などが満たされればそうしようと約束した
1 ムハンマドの家族と信奉者が共に移住できること
2 彼らがそこで生活手段を見つけるまで支援されるべきこと
3 彼らはヤスリブの1人前の市民として考慮されるべきこと
 もしマッカ住民とその同盟者が攻撃してきた場合には、ヤスリブのすべての者はムスリムの側に立って戦うべきこと

 ヤスリブから来た代表団は、この条件に同意し、こうしてマッカからヤスリブへの密かな移住が始まった
 まず70名の信徒が出発し、最後にムハンマドとアブー・バクルがヤスリブに「移住」した

○この移住は「ヒジュラ(偉大な移住)」と呼ばれ、通例「聖遷」と訳されている

ヒジュラ暦

・ムハンマドの死後、第2代カリフ、ウマルの時代に、ヒジュラを起点とする暦、ヒジュラ暦を採用した
 622年7月16日をヒジュラ暦元年1月1日とする

・ヒジュラ暦は1カ月を29日か30日とする太陰暦で、1年は354日または355日であるため毎年、各月と季節はずれていく

 第9月の月の名がラマダーン(「暑い月」)である

 ラマダーンには「断食」の意味はない

 ラマダーンには、病人、旅行者などを除くすべてのムスリムは、夜明前の祈りから日没まで飲食を断ち、夫婦の交わりを慎むなどの禁欲が義務とされる

 礼拝は夜明前(ファジュル)、正午を少し過ぎた頃(ズフル)、午後(アスル)、日没後(マグリブ)、夜(イシャー)の5回行われる

・「日の出から日没まで断食が行われる」とよく説明されるが、「日の出から」というのは間違いである

 東の地平線から太陽の光が差し込む時間をファジュルといい、ファジュルのアザーン(礼拝の呼びかけ)を聞いた段階で断食(サウム)が始まる
 ファジュルの時にはまだ太陽は地平線の下にあり、見えない位置にある
 地平線に太陽が現れる、日の出の時間(シュルーク)はファジュルの後であり、日の出の時には、もうとっくに断食は始まっている

 日没を告げるアザーンが聞こえたら、断食は一時的に解禁となり、翌日の断食が始まるまで、大量の食事をとる

 ゆえに、ラマダーンの1か月で裕福なムスリムは夜中にごちそうを食べるから、さぞ太ることだろう

○ヒジュラはまた、社会的宗教としてのイスラームの開始も表している

マディーナ

・ヤスリブはマディーナ・アン=ナビー(預言者の町)、略してマディーナ(町)と呼ばれることになった
 メディナはマディーナのなまり