いや~なつかしいですね(@とんねるず)。
少しご報告しましたが、正月には同窓会のために実家に帰省していました。
小学校の同級生で、ついに前厄の年となり、よく遊んでいた神社で一緒に厄払いをしてもらおうと、そして、せっかくなので、一緒に飲んで、2次会では中学では一緒の学校になる隣の小学校と合流して、久しぶりに同じ時間を過ごそうじゃないか、
と、そんなひと時を迎えていました。
東京育ちのボクの子どもには、あまり想像できないようですが・・・
小学校は、一クラス。しかも20名をちょっと超えるくらいの人数。
多くは幼稚園から一緒で、小学校ではずっと一緒、中学校でも同じ学校(クラスはいくつかに分かれましたが。)、加えて高校も半数以上?が同じ学校、そんな地域でした。
ほとんどの人と20年以上のご無沙汰での再会。
残念ながら、都合がつかなかった人や、今回の突然の豪雪で来れなかったり、
半分くらいの人数しか集まれなかったんですけどね。
自分は変わったつもりはあまりないですが、同級生は顔が変わったかな?分かるかな?なんて、不安を感じていましたが、いきなり道でバッタリ会った同級生のときから、お互いに「おっ!」。やっぱり面影は残るものなんですね。きっとそれぞれが年相応に、それぞれの人生を刻んできたのでしょうが、本当に小さな頃から一緒だった同級生の顔は変わってないな、と思えてしまいます。
体つきはそれなりの貫禄をつけた人も多く、中学は義務だった坊主頭からの髪形の変化などはいろいろなんですけどね(笑)。
厄払いのメンバーとは、箱根駅伝もまだ7区の時間から集まって、夜まで。
隣の小学校と合流しても、時間の流れは早い早い。いつの間にか三々五々、帰る人もいたりして、ボクも3次会は辞退して家路に着きました。
いい時間を過ごしたなと、今でも満足感を覚えています。
ただ、こういう会は、何を得るわけでもない、何かを目的とすべきという主義の人にはもったいない時間になるのかも知れませんよね。そんなことを想像したのも、何かのコラムで、ただ過去を振り返るだけで、何の意味もない「同窓会なんて行くな」みたいな話があって、そんなことを考える人もいるのか、と逆に新鮮で、記憶に残っているので。
ボクは、数時間のことでそこまで言うか(そんなに何かの目的が大事か?)、多くの時間が実はそれ以上に意味のない時間だったりするんじゃないかな?という考えなので、同意できませんが、そういう人も多いんでしょうか。
そのとき、感じていたのは自分の居場所の安心感ではないか、と今になって考えています。
今、東京での家族、帰省したときの家族、今の会社、昔の会社、同期、大学の友人・・・
一つとして同じ位置にはいないんですよね。当然でしょうが。
もちろん、過去の自分と全く同じ位置はありえませんが、また違う位置・・・
それを自分の居場所として感じられる自分の能力?にも感謝していますし、そうした周囲に恵まれた運や縁にもとても感謝しています。
それこそ、誰とも同じではない「個性」であり、「自分らしさ」なんだと思うんですよね。
個性や自分らしさは、自分が見つけるものでも、探すものでもなく、周囲との関係ではないか、
そんなことを、ここまで書きながらしみじみと感じています。
(このあたりの話は、何かの本で読んだフレーズですかね?)
ちょうど、先日、茂木健一郎さん @kenichiromogi が連続ツイートされていたのが、「居場所」について。
それを読みながら、先日の同窓会や、今週続いたさまざまな自分の居場所を提供してくれる先輩や仲間との飲み会での心地良さについて考えていたら、今日のブログにつながりました。
一部を引用すると・・・
居場所(1)人間にとって、お金よりも、地位よりも、何よりも必要なのは「居場所」かもしれない。周囲の様子を見たり、自身の人生を振り返るとそう思えてくる。
3:16 PM Jan 13th webから
http://twitter.com/kenichiromogi/status/25692795524091904
居場所(9)社会の中に、さまざまな人たちの居場所があること、居場所を提供すること。これが、人間にとってもっとも大切な「健康で文化的な生活」の条件である。
3:24 PM Jan 13th webから
http://twitter.com/kenichiromogi/status/25694689197826048
自分の居場所があることに感謝しつつ、誰かの居場所の一部となっているといいな、
なんて感じる今日この頃です。
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