考える葦のブログ

さわやかに さりげなく

常識の氾濫

2005-08-24 23:32:04 | 徒然なるままに

最近、ボクがふと思うのは、誰が正しいとか、誰が間違っているとか、
何をすべきとか、何はすべきでないとか、
自分の意見は間違っていないとか、あなたの意見は間違っているとか・・・
そんな話が多いな~と。

もちろんボクもそのような話をしているひとりですし、そんな断定的な話ができる場合も時にはあるんですけど。

みなさん、ハローです。ホディです。
今週は日経新聞の『ネットと文明』を読みながら、少しその特集の本筋からは外れるかも知れませんが、ネットを中心とした情報化社会による「常識」の氾濫に驚いていると共に、その常識の暴力を懸念しています。

暴力。(ここでは「強制力を行使すること」という意味で使用します。)
なぜ処罰という権力による暴力は許されて、体罰という力の暴力は許されないのか?
なぜ文字や言葉の暴力は許されるのか?

多様な価値観を尊重する、とよく言われますが「常識」は偏っている気がします。
例えば、「暴力」は良くないという常識。
なぜいけないのか?の理由と暴力とは何かの定義がない。(と思う。ボクの無知ですか?)
暴力は、野蛮人の行為だからかダメなのか?
道徳に反するのか?
法に触れるからか?
申し訳ありませんが、ここまで書きながらボクには答えはありません。

ここで、昨日から気になるこのニュース
例の「原爆は広島だけの問題」という誤報に巻きこまれた?高野連のT参事が登場するのは偶然とは言えボクには苦々しい気持ちが残ります。

「前代未聞の由々しき事態だ。前例で片づけていいものか」
優勝の扱いなど対応を協議すると発表した。

T参事は無関係かも知れませんが、“原爆の日の黙祷”を前例で片付けた高野連の言葉とは思えません。
少なくともこの問題では納得できる説明は高野連からはなかったと思いますが?当該高校からはしつこく報告を求めるこの不思議・・・

本筋から話がそれました。
本当に行き過ぎたのであれば、諭すべきだと思います。
行き過ぎた教育、行き過ぎた体罰とはどの程度をいうのでしょうか?
教師が生徒に「強制力を行使したこと」を誰が責められるのでしょうか?
こんな時だからこそ!星野さんにジャイアンツの監督になって欲しいと思うのは不謹慎でしょうか・・・

ボクはただ、“小さな暴力”を“大きな暴力”で制するのは我慢ができない。
「暴力」というイメージと、表面的な正義だけで裁くのはやめて欲しい。
それこそ「暴力」だと思います。

知らぬ間に浸透する「常識」と言う曖昧な論理。
「それでも地球は回っている」というガリレオの言葉を引用した小泉首相の言葉もありますが、物事には正解があることだけとは限らないですし、常識が正しいとも限らないと思います。
こういう時代だからこそ、人に優しく。スクールウォーズではないが、生徒も教師も学校も、そしてボクらみんなが「信じ、待ち、許してやる」。
そんな常識とは離れた精神論も大切だとボクは感じています。

今日も悲しいニュースを嘆くしかできない小さなボクを嘆くことしかできない。
そうして毎日が過ぎていく。
やっぱりボクの考えはグルグル回っていますかね?

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