高校の履修単位不足問題が全国で噴出していますね。
読売新聞の記事によると、35都道県282校で問題が見つかったのだとか。
こうなると、ボクは高校での必須科目のあり方が間違っているのではないか、という気になっています。広く学ぶほうが良いのか、深く学ぶほうが良いのか。単純に学んだ科目数が少ないことを責めればよいほど、事は簡単ではなく、だからといって、必須科目として定められたものを学ぶ機会を奪ったことを放っておいてよいというものでもないですしね。
また「大学入試のための勉強」への批判は、当然のように感じますけど、次の目標が大学である以上は結果的には大学入試のための勉強が多くなることは必然ですしね。最近のボクの場合は、資格の勉強などで、世の中にはそんな勉強の仕方も必要だと痛感している悲しい面もあります。
「高校卒業」の基準としては、科目の数という面もあると思いますが、
知識の深さ(量)の面もあると思います。
科目の数はいかにも客観的なので格好の批判対象になりましたけど、
小中レベルの知識もない大学生(大卒者)がいることも公然の事実だと思いますし、
個別の問題をあまり見すぎると「高校卒業」という基準が、ますます歪められていくような懸念をしています。義務教育じゃないんだから、高校に任せておけばよいのでは・・・という気がしますけど、どうでしょう?
外野のボクらが教育を語れば語るほど、教育破壊が進んでいるような気がしませんか?
内田樹先生のブログ『内田樹の研究室』に「教育破壊はどこまで続くのか」という記事がありました。そこには、やはり「学ぶ」ということについての記載がありました。
「学ぶ」というのは、自分が何を知らないかについて知ること
「学校というのは子どもに「自分は何を知らないか」を学ばせる場」なのだとしたら、今の科目数の議論が、いかにも「星の数」の過不足を責めるような話に思えてなりません。さらに、「受験というのは「自分が何を知っているか」を誇示する場」(@内田先生)となっている現実と同じように、学校までもが「自分が何を知っているか」を誇示する場となることを肯定するような学校批判が続いているような気がするのはボクだけでしょうか?
高校卒業のレベルを云々言えるほど、今のボクには「高校時代の知識」は残っていません。でも、そのときの勉強が何かを残してくれたのは確かだと思っています。(信じているだけかも?)
それが何だったのか???
履修した科目数や取った点数ではないことは事実ですよね。
ん・・・
深みにはまりそうなので、教育についてはこの辺で。
みなさん、ハローです。ホディです。
昨日の日本シリーズを残念ながら見逃してしまいました・・・
44年ぶりの日本一のファイターズは・・・
新庄選手の引退以外にも、ヒルマン監督の退団?、小笠原選手や岡島投手のFA?と、早くも崩壊の危機が???
せっかくつかんだ日本一、来年もがんばって欲しいんですけどね。
好きな野球を見逃すほど、最近は少しバタバタしています。
気がつけば、週末ですヨ。
土日はあえて、ゆっくり、じっくり過ごしたいと思います。
今の教育は、偏差値の高い学校へ行き、他を蹴落とし、将来優越感に浸って生活するための基盤をつくるためのものにすぎません。
そして、その教育制度の勝者は、他を否定し、自分の力を誇示することに己のエビデンスを感じるのでしょう。
教育とは何たるかが教育者に根ざしていれば、受験のために必要な教科を削るようなことはしなかったはずです。けれども、教壇に立つ人間の多くも偏差値教育の勝者なのですから、学校に全てを期待すること自体に無理があるのかもしれませんね。
なかなか難しい問題ですよね。
知識の量を問題視するという点では、今回の必須科目履修不足議論は偏差値教育と同じ視点であり、誰もがその学校の「生徒」が何を学んだかという本質的な問題を棚上げしています。(学校で学ぶことで大切なものは何でしょう?)
実はボクも自分が必須科目のすべてを履修したかどうか、少なくとも「知識として身についたかどうか」については自信がありません。きっと多くの人がそうではないでしょうか。
それを知ったうえで、科目数の不足をいかにも大犯罪のように攻撃する・・・
ボクらは結局、「自分が何を知らないか」を棚に上げて「自分が何を知っているか」を誇示することでしか教育は語れないのか、と残念な気持ちになりますね。
教育とは何なのか?
ボクら以上に現場の教師の多くは悩んでいると思います。(そうであってほしいと信じています。)
個人的には一部の教師のレベルの低下をフォーカスして教育を嘆くことは止めて、fallさんの書かれているように「他を敬い、学ばせてもらう」ことに専念すべきだと思っています。(そういう意味ではボクらも教育されている途中ではないか。)
教育を崩壊させているのは、「自分が何を知っているか」を誇示しながら、それぞれが家庭教師を責めるように学校や教師を責めるボクらの姿勢ではないかと。
そんなことを感じています。
学校教育・社会教育・家庭教育の3つに
分かれているのでしょう。
学校教育では、いじめ
社会教育では、パワーハラスメント
家庭教育では、幼児虐待
結局、どこの環境でも強いものが
弱いものを攻撃して、力でねじ伏せている
のかも・・・
敬いという意味を本当に知っている人が
少なくなったんでしょうね!
自分さえよければ、それでいいなんて
教えていたかもしれないと・・・
社会に出てからそう思っていたかなぁ
学校教育・社会教育・家庭教育・・・
それぞれの教育現場で、強いものが弱いものを・・・
これが自然なのかもしれませんけど、何だか嫌な感じがしますよね。
なんとかならないかな、と期待しつつ。
教育に関しては、他を敬いじっと我慢することが一番ではないかと、そう思っています。