先日、電車で財布を拾いました。
ちょうど降りる駅で座席から立ち上がると、ボクの横にポロリと落ちていた黒い財布・・・
隣に座っていた人のものだろうと、「財布、落としましたよ!」と声をかけるも、その人のものではなく、その横の人のものでもない。もう一度、「誰か財布、落としませんでしたか?」と大きな声を出しても、誰も名乗り出ない・・・
隙間もなく人が座っていた座席に残された一つの財布
隣の人は財布の上に座っていたんでしょうか???
こんなこともあるんですね。
まぁ、それは良いとして。
もちろん、そのまま持ち帰るわけにもいかないので、駅員さんに届けようと、、、
本を片手に持っていたんですけど、ボクの場合は気が弱いので李下に冠を正さずという事で、カバンには入れずに、左手にカバンと本、右手に財布、少し身体から離し気味に持ちながら駅員さんに届けました。
さて、本題。
こういう場合に駅員さんはどのように対応するか?みなさんはご存知ですか??
ボク 「財布が落ちていたので届けました。」
駅員 「ありがとうございます。」
ボク 「一応、拾ったのは三両目、」
駅員 「わざわざありがとうございます。」
と、少し曖昧な記憶ですけど、こんな感じでした。
どう思いますか?
とても簡易な対応で時間を取られずに良かったんですけどね。
いわゆる性善説に立った良い対応とも言えるかも知れません。。。
でも、とても不安な応対ですよね。
その後、駅員さんは落し物として処理したのか?
もちろん、しているはず。しないと嘘でしょう。していると信じるしかないでしょう。
交番に届ける場合には、確か拾い主が自分の名前などを書くはずですよね。
これはこれで面倒ですし、別に御礼を求めるつもりがなければいらないものでしょう。
でも、落し物を拾い主の前で確認する、そして誰が拾ったかを記す、
その行為自体が実は交番、お巡りさんの悪意を排除するシステムになっていると思うんですよね。
今回の駅での応対は、そこがスパッと抜け落ちています。
駅の中に誰かいたのか分かりませんでしたが、仮に駅員さんが一人だったとしたら、預かりましたと机の引き出しにしまっても、きっと誰にも分からないでしょうね。
そういうことはないでしょうけど。
ボクが思うのは、人だから「魔が差す」こともあるということ。
こんなことを思いながら、そう考えるボク自身が魔が差す可能性を恐れていることに気がついたんです。。。誰もいない車内だったら、ボクは同じ行動が取れたのか?と。これは想像するだけで恐ろしいことです。
ここで提案!
どこかのマスコミは「倫理観」の実態調査で、駅員さん(あるいはお巡りさんでも良いですけど)がどの程度、誠実に業務を行っているのか?調べてみてはいかがでしょう?
そんなことを言っている自分が嫌になりますけど・・・
6万円とか少し数が中途半端な財布とか、封筒とか何か、届けてどれだけキチンと戻ってくるか?という感じの調査です。
「美しい日本調査」ですね。(そう言い出すボクは美しくないですが・・・)
すみません。冗談です。本当にやるのは止めてくださいね。
みなさん、ハローです。ホディです。
性善説とか、性悪説とか、よく言われます。
仮に、君はどっちの立場なんだ?と聞かれると・・・
ボクはどちらでもない、と答えますね。
なぜならボクには善と悪の区別に自信がないので。
そういう意味では、何事にも善と悪の二択が成立するわけではないと思っているボクには、この答えは出せません。
ここ数ヶ月、社会保険庁が激しい批判にさらされています。
当然だと思いますか?
お役所的体質だとか、労働組合の問題だとか、
組織の問題だとか、一部の職員がサボっていたとか・・・
今挙げた内容は、すべては原因のようで、結果なんだとボクは考えています。
お役所的体質となった、変に労働組合が強くなった、
三層構造の組織を作り上げた、一部の職員がサボるのを許した・・・
本当はそういう原因のような結果を生み出した問題、つまり本当の原因があるはずなんです。
それは何なのか???
それは「制度」なんです。
国民年金制度とか、そういうことではなく、
もっと広く、公務員に対しての国や自治体のチェック機能の不全です。
今回のように大きな問題となる前から社会保険庁に問題があることは誰もが知っていたんですよ。そして、社会保険庁に限らず、多くの官公庁、自治体などでも数々の不祥事や「勤務実体のない給与問題」などでも明らかなように、それぞれが問題を抱えているんです。
分かっちゃいるけど、直せない・・・
鳥取県の片山知事が著しく勤務に問題の数人の県庁職員を解雇するのに相当苦労されていました。(今もされているのかもしれません。)
社会保険庁は非公務員化という裏技ができましたけど、今回が特別と思ったほうが良いでしょう。しかも単に切り離すという対応にしたために、自治労という今回、多くの人が問題意識を感じている労働組合の問題は何も解決しないんですよね。自治労は社会保険庁だけの労働組合ではないんですけど、みなさん忘れているようです。
話が少しそれましたが、
要は人はミスを犯すことも多いし、時には罪を犯すこともあるかもしれない。(それを性悪説とはボクは言いたくないんですけど、そう言えば分かりやすそうなので、性悪説と言いますけど)
そんな性悪説に立ったチェック機能を準備しておくこと、その機能をキチンと運営することはとても大事なことなんですよね。本当は誰もがミスを犯したくないですし、誰もが罪を犯したくないと思っている(そういう点では性善説ですか。)わけですから、そういうチェック機能が安心感を高めることにつながり、労働の質も高めると思うんです。
そういう意味では現場が機能しなかった場合には、チェック機能の検証が一番大切なんです。チェック機能が異常だとしたら、同じように現場はまた乱れます。
その点、今回の社会保険庁問題の検証には不満です。
長くなるのでこれ以上は、今日は、止めておきますけど(苦笑)。
今日の言いたいことは、鉄道会社の落し物のチェック機能の必要性でした(笑)。
誰かボクのブログの暴走もチェックしてください。
早速丁寧に返事をいただき、感謝しています。
それと、当ブログは長文コメント大歓迎です。
まず第三者の目を意識できる仕組み・・・
まとめていただいたコメントでボクの言いたいことは十分に伝わっています。
もちろん、yayoidaiさんがおっしゃろうとしていた(と思っていますが)「本当の第三者」もここには含まれます。企業の監査機能、特に社外監査役の重要性が問われはじめているのは、こういう話だと思います。でも、すべてが「本当の第三者」とするにはコスト面をはじめ、現実的ではないと思うので、昨日のコメントのような表現で補足してしまいました。
蛇足でしたね。
そして、政治的な問題・・・
政治を「性善説」で見ているか、「性悪説」で見ているか、というお互いの立ち位置が少し異なる気がしましたが、おっしゃろうとしていることは同じだとボクも思いました。
今回の社会保険庁の問題で「親方日の丸の意識」が悪いと言われていますけど、そういう意識が生まれるのはyayoidaiさんと全く同意見ですけど「人の心」「人間の精神の持ち様」なんですよね。「親方日の丸の意識」は決して産まれたときからある意識ではないですし、一度持つと手放せない意識でもないはずですよね。
現実的には公務員は「親方日の丸」なわけですから、これは今回の社保庁のケースを除けば、どうしようもないことなわけです。だから、そういう意識にさせない、そういう意識を直す機能がどこかで必要になるのだと。
ここまでは多分、同じ意識ですよね?
(以降はまたまた蛇足です。)
さらに言えば、政治と言うのは法律を作ることが主な役割のように言われていますけど、法律を作ればそれで良いのか?と言えば、もちろん、そんなことはないですよね。
法律を作るには現状(現実)を理解する必要があるわけですから、少なくとも行政サービスの現状は把握しなければならないと思いますし、
法律を作った後も、実際に立法目的に沿った運営が行われているかをチェックするのは、極めて当然な責務ではないかとボクは思っているんです。
企業では当然のPDCA(Plan・Do・Check・Action)、この点が政治ではあまり上手くいっていないのではないか、と今回の問題を見ながらボクは感じているところです。
もしよろしければ、TBでボクの子ブログ「社会保険を考える」の記事を入れていますので、そちらも参照してみてください。この点を少し丁寧に書いているつもりです。
これからもご遠慮なくコメントくださいね。
良い刺激になります。ありがとうございます。
「暴走」してはいないと思いますよw
あと、それを正しに来た訳でもないです。
>当人が第三者の目を意識できる仕組み
「常に誰かが自分の行動を見ているんだよ、それが良い行いだろうが悪い行いだろうが」と言うことを各個人に抱かせる、と言うことですか?
としたら、自分のコメントはまったくの見当はずれでしたね…
自分の言いたかった考えなのですが。
政治的な問題に関して、「政治」に関わっている者、つまり政治家がそのソリューションに参加すると言うことは、解決後における自らの利を最優先することができる訳です。
「制度」がいくら整っていようと、そこに抜け穴を新たに作ることができる、その抜け穴をくぐって、いろいろ悪い事をやっちゃえる、と。
そこに「制度」の存在価値は無きに等し、政治家の言い訳、盾にしかなりません。
だからといって「政治」に(自分のような!)素人が介入したとしてもどうすることもできないし、じゃあ何が悪事の防衛壁を作るかと言うと、人の心なんじゃないかと思うんです。
全体をしっかり見て善悪の判断ができ、善を自身に適用できる心、それがあってこその「制度」で、それをはぐくむための「制度」であると思っているんです。
それゆえ、「政治的」問題において「制度」と言う第三者視点を扱うのは、根本的に間違っている、と言う事だったんですが、結論が最終的に人間の精神の持ち様、ある意味で理性にたどり着いている点で、主張したいことは大体同じでしたね。
さて、ここまで自身の主張に絶対性を持ってきましたが、もしおかしいと思う事があれば指摘をお願いします。
ずいぶん長文になってしまった…ご迷惑をお掛けしました。
コメントありがとうございます。
早速、“ブログの暴走チェック”ありがとうございます。
「行動を監視する第三者の視点が重要」・・・
おっしゃるとおりですね。
ですが、このあたりはいわゆる「性善説」的な思いが強くなるんですけど、本当に第三者である必要はなく、当人が第三者の目を意識できる仕組みを言いたいんですが、分かりにくいですね。機会があれば今度、改めます。
そして、恐縮なんですが、もし再度ご覧になっているようでしたら「政治的な問題は根底部分が違う」というところを少し説明していただけると勉強になります。
よろしくお願いします。
大いに同意ですが、政治的な問題は根底部分が違う気がします。
第三者の視点を操作できるのが「利」で、その扱いに最も長けているのが「政治家」ですしね…
しかし、もっとしっかりしてほしいものですね。