上の写真、いかがですか。
なかなかおいしそうでしょう。
食べれるのかどうかも分かりませんけど・・・
先日、ソメイヨシノにも実がなる、さくらんぼがなることを知りましたけど、ようやく検証して来ました。それが上の写真です。さくらの枝を見上げると、赤い実がチラホラと・・・
「アハ!体験」ですよ。何だかとても嬉しい気がしました。
季節はずれですけど、桜並木を眺めながらしばらく歩いてみました。よく見ると大体の木に実がなっていますね。でも、見つけにくいことが多いような気がしました。「恥ずかしがりや」なんでしょう。
不思議な思い込みで、ソメイヨシノにはさくらんぼはならないと思っていました。実際、昨年の「さくら観察記」では見つけられなかったんですけど、これが「バカの壁」ですね!
こういう思い込みのない子どもはいろいろなものを見つけられます。見習わないといけないですね~
みなさん、ハローです。ホディです。
養老孟司先生が、「都会は意識で、田舎は身体。意識は身体に支えられている。」とよくおっしゃっています。分かっていても、どうしても意識中心となってしまうんですよね。
ちょうど今日の日経朝刊5面の「インタビュー領空侵犯」はJT生命誌研究館の館長、中村桂子さん。“「生き物」の時間 取り戻そう”と「農業こそ小学校で必修に」という内容の話をされていました。確かに「生き物としての時間の流れに背き、いつも追い立てられている」よな、自然に触れる機会すらほとんどないよな、と自らの姿も想像しながら頷きながら読んでいました。
そして、農業を学ぶとしたら、一時の体験ではなく、「日常のなかに組み込んでいかなければダメ」というのは、本当にそうだと思います。
授業じゃなくても・・・とも思いますけど、今では田舎でも難しいですよね。きっと。特に身近に田んぼも畑もない都会では、こういう授業が必要なのかもしれませんね。
また、養老先生も都会から田舎暮らしへという逆「参勤交代」、霞ヶ関のお役人から年に一ヶ月は田舎で身体を使って働く機会を設けようと主張されています。中村さんの話のように子どもにも必要ですけど、まずは大人、しかも「偉い人」からという養老先生の主張にも大賛成です。
「お前から行け!」と怒られますかね・・・
最後に、もう少し。
『美しい景観を創る会』の「悪い景観 100景」というサイトが話題になっているようです。
http://www.utsukushii-keikan.net/10_worst100/worst.html
すべて悪いとは思いませんけど、確かに「美しい景観」とは言いたくないですね。バランスを失ってしまうと、こうなるんでしょうか。
「意識」と「身体」、「都会」と「田舎」、「人工」と「自然」は対義語じゃない。
人間である以上は、共存共栄させるしかないですよね。
桜にさくらんぼって、考えたら当たり前ですけど、「桜」に「さくらんぼ」ができることが、頭の中でつながってませんでした。
あした、早速見に行ってみないと!
ソメイヨシノのさくらんぼの場合は、花のように派手ではなく、恥ずかしそうにしているので、これもいいな~と感じましたよ。ぜひ、探してみてください。
景観の話ですけど、ks+さんのブログにもコメントしましたけど、いろいろな見方がありますよね。悪く見ようとすれば悪く見える。良く見ようとすれば良く見える・・・撮る人の気持ち次第のような気もしてきました。
でも、いろいろな人の見方は面白いですよね。
そのようにして育った子は「なんで人を殺してはいけないのか?」とか思わないんじゃないかな。自分の身体から離れるから頭だけでそう思ってしまう。
>田舎暮らし
といえば前細川首相が政界からいっさい身を引いて、田舎で野菜作りや陶器をひねったりしてるのをTVで見たことがあります。ある種、理想的な晩年の過ごし方でカッコよかったです。
私は今、失業中で、ベランダで野菜とか花を植えたり、ジムにいったりして、精神のバランスをとっています。(ヒマなんで長くなりました)
失業中で野菜とは・・・全く同じですね(笑)
でもボクは身体をあまり動かしていないので、その点、少しバランスを欠いているような気がします。
養老先生も「身体を動かせば、脳が変わり、見方や考え方が変わる」とおっしゃっています。kotanさんのコメントを読みながら同じニュアンスだな、と感じました。
ボク自身も含めて、「体で覚えること」を忘れがちになりますね。気をつけたいと思います。
細川さんのように悠々自適に生きるのは難しいかも知れませんけど、適度に働き、適度に自然に戻るという生活がボクも理想です。