殺人罪など凶悪事件の公訴時効を廃止する刑事訴訟法改正が4月27日成立し、即日施行されました。
個人的には、罪はいつまでたっても罪であり、時間で罪が問われなくなるような話はあまり納得感はないということでは全く反対する理由はありません・・・
一方で、本改正・・・とても大きな動きだと思うんですが、それほど報道を目にすることは少ないですよね。しかも、国会でも与野党とも賛成で、スピード可決。一部の新聞の社説では議論の少なさを懸念する内容を目にしました。
約1ヶ月前ですが、雑誌「AERA」で高村薫さんがコラム「平成雑記帳」にこんな話を書かれていました。
題して『尼崎の脱線事故で検察審査会の判断が出た。桜の季節に、生贄をつくらない問いを考える。』
内容は時効の話とは違うのですが、現代の市民感覚と法律のバランス感覚について書かれていました。
例えば、こんな風に・・・
(JR西日本の尼崎の脱線事故についての検察審議会の判断は)
企業のトップに刑事責任がないわけがないとする市民感覚と、道義的責任と刑事責任は別だとする法律との距離がきわだつ結果になった。喪失を怒りや恨みで埋めるほかない被害者遺族にとって現行刑法は非情にすぎ、市民の生活感覚を反映させようとすれば、法律の常識では起訴できないものを起訴するアクロバットになる、ということである。
(中略)
市民感覚を担う市民とは、この複雑な社会や企業で、複雑な活動をする個人でもある。その個人の活動について、過失や故意や責任の度合いが現行法で厳密に限定されているのは、逆に限定せざるを得ないほど、個人の行為と限定できないものが多すぎ、個人と全体の関係が複雑すぎるからだろう。
高村さんがこう書かれていますが、「いまもやむにやまれぬ怒りと喪失感を抱えて生きる人びとには、春も桜も遠い」のでしょう。
ボクらはその人たちの気持ちを想像することしかをできないわけですが、出来るだけ納得できる法律が望ましいことは間違いないと思います。
一方で、
けっして<偶然>や<運命>を認めず、どこまでも機械的原因を究明せずにはいられない現代人が、そのために一生を空費しないよう、現行法はあらかじめ追求すべき範囲を限定していると考えるのも一手だろう。
悲惨な事件や事故は残念ながら後を絶たないのも現実で、
マスコミの報道も、いつの間にか下火になってしまうのも現実です。
時効がその前に再度、ニュースとなり、世間にその事件を思い出させ、
警察官が締め切りを前に、再度、気持ちを入れなおすなど、
時効という区切りが様々な効果を生み出していることもあるんでしょう。
そうした現実も含め、新しい「現行法」の中で、ボクらは何か出来るのか?
「二度と事故を起こさないために何をすべきか」
「怒りや恨みは晴らさなければならないものだろうか」
そういう根源的な問いもあるだろうと、高村薫さんはこのコラムを締められていました。
「賛成」の中で、いろいろと考えさせられる問題だと思いました。
いつものように答えはないんですが・・・
何時の頃からか罪を憎んで人を憎まず
という良い風習が無くなりましたね。
私が間違っているのかなぁーとも思いますが。
何時までも何時までも憎むという気持ちも
理解は出来ますがそれにしても、、、、。
時効はあっても良いと思っていますが、、。
難しいですよね。。。
罪を憎んで人を憎まず・・・
ホント、大事なことだと思います。
でも、自分にそれが出来るのか?というと、
それも自信がありませんが。