先日の話の続きになるが、「排除の理論」にはやっぱり同意できない。自主的な退出ではなく、排除にはどうしても攻撃性が含まれる。
そして、その攻撃性は反動を生む。その反動の攻撃性はさらに、次の反動を生む。悪循環だ。
そして、アレルギー反応は止まらない。
妙な話ですみません。ちょっとした自分自身へのメモとして残しておきます。
そして、タイムリーに茂木健一郎さんがtwitterでこんなツイートをされていました。
有田芳生さん( @aritayoshifu)のブログに引用されている言葉が、今回の事態の本質をついている。「ひとを罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置くな!」(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』)
http://twitter.com/kenichiromogi/status/32562733614374912
もう一つ、ニーチェに絡んで言えば、偽りの「正義」を振り回している人たちの衝動は、つまりは「ルサンチマン」に発していると思う。ルサンチマンに動機付けられ、それを隠す人たちはこの世で一番質が悪い。
http://twitter.com/kenichiromogi/status/32563278609649665
最近の茂木さんは、新卒採用一辺倒(新卒信仰が強すぎる)の日本の企業への不満と、いわゆる小沢一郎問題へのマスコミ報道の偏りへの不満を強く述べられています。今回は後者のことでの、ツイートだったと思いますが、非常に印象に残る言葉でした。
「ひとを罰しようという衝動の強い人間」と「偽りの「正義」を振り回している人たち」は、ここでは同じ人たちを示していると思うのですが、ボクも全く同意見です。
ただし、“偽りの「正義」”はあくまでも当方からの一方的な見方で、その人たちにとっては偽りではなく、まさに正義そのものであろうと想像できます。だからこそ、問題の根は深いんですよね。(この辺は何度か書きましたので、今日は書きませんが。)
何のために罰するのか?、あるいは何のためにわざわざ正義を振り回すのか?
本当の正義であれば、それに反するものが出てきた場合に、おのずから罰する機会が来るし、正義は振り回す必要もないはず。(もちろん、そうではないことも多いのですが。)
正義をかざすことは、正義ではないものを否定、排除することを目的とする、まさに排除の論理。
正義の多様性を認める、正義の幅を広げることが、これから大事になってくる時代が来そうですよね。
エジプトの反政府運動の先に、アメリカの覇権、アメリカの正義の限界と衰退が見え隠れし、排除の論理の反動を感じます。
「ルサンチマン」を排除することも、排除の論理ですかね。少なくともルサンチマンに動機付けられている可能性があることを隠そうとしない人でも目指そうか。
こんなことを書きながら、自分の攻撃性にうんざりする今日この頃。
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