日経新聞夕刊のコラム「あすへの話題」に気になる話が載っていました。このコラムは曜日ごとに著者が替わるんですけど、今日は京都大学教授の山極寿一さんの番でした。題して「下のしつけ」。
昨今の親から子への虐待を耳にすると、子どもたちがすぐに食とトイレの作法を身につけられると誤解しているような気がする。人間はまだ植物と共生している霊長類の一員なのである。
コラムの最後の部分を引用させていただきました。
要は、美味しいものがあれば手を出し、勝手気ままに排便するのは、植物の種を広くばらまくという霊長類の本能のひとつであると。だから、食卓とトイレの作法はヒトにとっては難しいことであり、親もそういうことをしっかりと理解すべきなのだとか。
ウンウン、そうだな~と読んでいました。
ちょうど、最近気になっていることとも本質は似ているような気がするんですよね。
それは、子どもの厚着。
赤ちゃんはともかく、子どもは薄着で大丈夫でしょう?
違いますかね。
ボクらが子どもの頃は、風邪でもひかない限りは冬でも短パンは「義務教育」でした。ストーブは10℃以下にならないとつけてもらえなかったですしね。
子どもは風の子、それでも大丈夫なんですよね。
うちもそうなので、あまり言えませんけど、
寒かろう、寒かろう、と愛情たっぷりで厚着をさせる・・・
そうして、本来持つヒトの体温調節機能は劣化していくような気がしています。
なぜ、「子どもの下のしつけ」と「子どもの厚着」が本質的に似ているような気がするかと言うと・・・
どちらも、大人の自分たちを基準にして判断しているんですよね。
「食卓とトイレの作法」も「寒いのは耐えられない」のも。
それが進化なのであれば仕方がないと思いますけど、とても違和感があるんですよね。
みなさん、ハローです。ホディです。
子どもの厚着より気になるのは、犬の厚着。毛皮だけでは寒いのか・・・
雪が降ると、喜んで庭を駆け回るのが犬ではないのか?
ボクには、分かりません。
さて、そんなことを書きながら、よく子どもにも言い聞かせるコトバですけど「その人の身になる」という行為について考えていました。
実際は、「その人」の身になったつもりで、「自分自身」の身で考えている。
本当に「他人」になることはできないし、
ましてや「子ども」や「犬」の身になることなんてできない。
結局は、自分自身の基準なんですよね。
だから悪いとか、
そういうことを言うつもりではないんですけど・・・
何となく「虐待のニュース」や「厚着」を見ていると、ボクらのいる「大人の世界」が当たり前、常識になっているような気がしますね。それは進化なのかも知れませんし、平和の世の中の証拠で喜ぶべきものなのかも知れませんけど。。。
「大人の愛情」は本当に子どもや犬を幸せにするのか。
そんなことまで考えてしまっています。
これも、「ボク自身の基準」なんですけどね。
そんな厚着のことも含め、進路の選択やその手段として塾に通うことなどでもよく見られるように、親の価値観を子供に一方的に押しつけている光景はよく目にします。親がもっと子供の目線で考え、子供が自分の意見を言うことができる状況が形成されていれば、今のイジメとかいろんな問題の多くが解消できるのかもしれませんね。
“青ッパナ”は見かけませんね~
親の価値観、子どもの価値観・・・
難しいですよね。
自分も含め、子どもに対して、変なところで「子ども扱い」「大人扱い」している気がします。そこでは、個性の時代と言いながら、自然と親にとって都合の良い価値観を押し付けているんですよね。
挙句の果てに、おっしゃるとおり、「大人の価値観」がイジメなどを引き起こしているような気がします。。。