宮崎市の空襲は昭和20年の3月18日が最初で8月12日まで幾たびも繰り返し、あったらしいです。
そのとき、母は13歳でした。
祖父(母の父)は、逓信省(?)で通信を受け持っていたので軍隊に召集されておらず、一番はげしい空襲のときには家族と一緒に逃げたそうです。
以前から家の庭には祖父の手になる防空壕が掘ってあったが、情報を知りえたのか祖父は、空襲激化の前により堅固なものに防空壕を作り変えていたそうです。
空襲警報がなると、母の妹でようやく2歳になる児が、「来たよう。来たよう。」と大人に告げながら、庭中をあちこち走り廻るので、祖母は、その子を摑まえるのに追われて、毎度、逃げ損ねて防空壕へ入ることは出来なかったそうです。苦笑しながら祖母も話してくれました。
空襲が激化し、焼夷弾などが落ちてきて、民家が焼け、とうとう家から避難することになったとき、家族全員で無我夢中で宮崎神宮のほうへと逃げたらしいのですが、当時の宮崎神宮は森の木までが軍への供出とかで伐採されており、目隠しがなく、グラマン戦闘機には市民を追いかけて、機銃掃射するには最適の条件であったらしいです。
それでも、母達の命を救ったのは神宮の塀がコンクリートで僅かに内側に反っており、弾がその反りにばかり当たって、壁に沿って走る人間にはトウトウ当たらないで終わっただからでした。たぶん、その塀が頭をおおう位の高さを持っていたのでしょう。
家族全員無事でした。
それでも、グラマンは低空で降りて来ては、機銃掃射し再び上がっていくので、祖父は考えて、その間隙を縫って一人ずつ安全な場所へ逃がせることにし、祖父の「ソレッ」という合図で一人が走り出す。「今だ!」という掛け声で別の人が、一目散に走るという状況。2歳の叔母を抱えた祖母は大変だったでしょうし、祖父の母も一緒にいたはずです。
掛け声で一人ずつ走り抜けるのは、「まるでコンバット(アメリカのTVドラマ)みたいなもんよ。まったく同じ。」とは母の話。
最後に祖父が駆けて逃げますが、一瞬、戦闘機を仰ぎみると、搭乗兵の顔がハッキリと間近に見えたそうです。まだ若い16歳位の兵士で、操縦管を握りしめ身を乗り出すようにして攻撃してきていたのだとか。
母達が空襲から逃げ伸びてハアハア息を切らしていた頃、長崎の軍事工場で魚雷を作っていた16歳の父は、原爆投下後の市内中心部で毎日、黒こげの遺体の埋葬の奉仕活動を続けていました。2週間ほど作業を続ければ、宮崎へ帰る汽車の乗車券が出ると聞き、とにかくも帰ろうと手伝っていたそうです。(夜学へ行けるというので、宮崎からはるか長崎まで行ったらしいです。)
父は、「この世に神などいるもんか!」 と、その地獄図をみて思ったそうです。
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そのとき、母は13歳でした。
祖父(母の父)は、逓信省(?)で通信を受け持っていたので軍隊に召集されておらず、一番はげしい空襲のときには家族と一緒に逃げたそうです。
以前から家の庭には祖父の手になる防空壕が掘ってあったが、情報を知りえたのか祖父は、空襲激化の前により堅固なものに防空壕を作り変えていたそうです。
空襲警報がなると、母の妹でようやく2歳になる児が、「来たよう。来たよう。」と大人に告げながら、庭中をあちこち走り廻るので、祖母は、その子を摑まえるのに追われて、毎度、逃げ損ねて防空壕へ入ることは出来なかったそうです。苦笑しながら祖母も話してくれました。
空襲が激化し、焼夷弾などが落ちてきて、民家が焼け、とうとう家から避難することになったとき、家族全員で無我夢中で宮崎神宮のほうへと逃げたらしいのですが、当時の宮崎神宮は森の木までが軍への供出とかで伐採されており、目隠しがなく、グラマン戦闘機には市民を追いかけて、機銃掃射するには最適の条件であったらしいです。
それでも、母達の命を救ったのは神宮の塀がコンクリートで僅かに内側に反っており、弾がその反りにばかり当たって、壁に沿って走る人間にはトウトウ当たらないで終わっただからでした。たぶん、その塀が頭をおおう位の高さを持っていたのでしょう。
家族全員無事でした。
それでも、グラマンは低空で降りて来ては、機銃掃射し再び上がっていくので、祖父は考えて、その間隙を縫って一人ずつ安全な場所へ逃がせることにし、祖父の「ソレッ」という合図で一人が走り出す。「今だ!」という掛け声で別の人が、一目散に走るという状況。2歳の叔母を抱えた祖母は大変だったでしょうし、祖父の母も一緒にいたはずです。
掛け声で一人ずつ走り抜けるのは、「まるでコンバット(アメリカのTVドラマ)みたいなもんよ。まったく同じ。」とは母の話。
最後に祖父が駆けて逃げますが、一瞬、戦闘機を仰ぎみると、搭乗兵の顔がハッキリと間近に見えたそうです。まだ若い16歳位の兵士で、操縦管を握りしめ身を乗り出すようにして攻撃してきていたのだとか。
母達が空襲から逃げ伸びてハアハア息を切らしていた頃、長崎の軍事工場で魚雷を作っていた16歳の父は、原爆投下後の市内中心部で毎日、黒こげの遺体の埋葬の奉仕活動を続けていました。2週間ほど作業を続ければ、宮崎へ帰る汽車の乗車券が出ると聞き、とにかくも帰ろうと手伝っていたそうです。(夜学へ行けるというので、宮崎からはるか長崎まで行ったらしいです。)
父は、「この世に神などいるもんか!」 と、その地獄図をみて思ったそうです。
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