風信子(ひやしんす)の☆本の紹介&エッセー☆俳句

濫読・雑読の風信子(ひやしんす)が気の向くままに、お気に入りの本を紹介いたします。

☆ 祖母との、「女同士の打ち明け話。」

2011年02月11日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
母方の祖母が亡くなってから30年も経っているのだが。

生きていたら100歳にもなるのかと考えるとビックリしてしまう。でも親戚には108歳で亡くなった女性や、最近100歳を越した女性がいるので早くに亡くなってしまったなと71歳位で亡くなったことを残念にも思う。

風信子は4歳の頃にひいじいちゃん(祖母の父)が亡くなった時の葬儀の模様を覚えている。それは神式で行われていた。神主が紫色の水干(すいかん)で現れたときに「綺麗だ」と思った。それから土葬であったので、ひょっとして死ぬと地面の下に埋められるのかと大変こわかった。

人は年老いたら死ぬのだと悟った時に、祖母のことが気になった。

心配のあまり7歳のときに祖母に尋ねたことがある。

「ばあちゃんは年幾つ?」

すると祖母は恥ずかしそうに笑い、「52」と答えた。

私は安心した。じゃ、大好きな祖母はマダすぐ死ぬということはないな。

風信子にとっては52歳とはそういう年齢であったが、苦労してきた祖母は老けてみえたから聞いてみたかったのである。

祖母にとっては、孫にも問われると答えるのが恥ずかしい年齢であったのであろう。

風信子は、その祖母の年齢をとうに超えてしまった。



延岡市で暮らしていたときから、祖母はよく泊まりがけで来てくれて1週間ほど滞在してくれた。
それが嬉しくて待ち遠しかった。両親と幼い妹だけの生活は寂しいものであったからだ。

中学1年生のときに宮崎市に越して、両親が不在のときに祖母が泊まりに来てくれた。
その夜、私は祖母にこう言った。

「私ももう大人だし、今夜は女同士の打ち明け話をしよう。」

冗談半分にいったことであったが、祖母は本当に彼女の打ち明け話をしてくれた。

自分のした打ち明け話は不思議と覚えていないのだが、祖母の語った話は覚えている。

祖母は、まず自分が継母に育てられたこと。よくできた女性だったが、遠足のとき着物の羽織を破ったときに継母に叱られるが怖くて家に帰るのがつらかったこと。女学校を卒業したら働いたこと。結婚前の女性が働くなんてとんでもない世相であったが、意地のようなものがあったらしい。職業婦人としてカネボウ紡績で働いたり、病院の受付で働いたそうだ。

それから好きな人が出来たこと。
祖母は笑い方が可愛らしい。ほんとにコロコロと笑うような感じである。笑いながら告げてくれた。

家の縁側で縫物をしていたら毎日、道を通る若い男性がいて、会釈から挨拶をするようになり、やがて縁側に座って話をするようになった。お互いに好きになって相手が結婚を申し込んできたが、相手が水産関係の役所で働いていて親が反対した。貧乏な役人なんかに娘はやれないという事であった。

「堪忍してください」と泣いて頼んだそうだが、継母は、「そんな貧乏なとこへ嫁に出したら、私が継子苛めをしたようではないか。」と許してくれなかった。祖母から聞いた話なのだが、驚いたことに、当時でも24歳になれば自由結婚はできたのだそうだ。家長が許さないと結婚はできないと思っていたのだが・・・。

祖母は24歳まで待とうと固く決心したそうだ。そして、見合い話を断り続けた。

ところが、継母の 「おまえは私が継母だから言うことを聞いてくれないのだね。」
とこの言葉に心が折れてしまったのだと。

「おっかさん、悪うございました。許してください・・・。」

あれほど固く決心していたのに、温厚な祖母は、芯が弱かったのであろう。見合いして結婚したのが祖父であった。

でも好きな人の写真は生涯、持ち続けた。母は、箪笥の引き出しにしまわれた一枚の写真を見て、祖母の好きだった人の顔を知っていた。
私は残念なことに見る機会がなかった。捨てるにしのびなかった写真。どんな男性だったのだろう。

好きだった男性は日露戦争かなんかで早くに戦死してしまったのだそうだ。
祖母の晩年に私が、「その人と結婚していたらどうだったかな?」と聞くと、
「早くに戦死していたから苦労していたかもしれない。結婚しなくて良かったかも」とハッキリと言った。

おやおやと思った。
でも、今の言葉はそうでも、その時々で考えることは違うのかもと当時おもったことであった。



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