城名 |
長谷城 |
読み |
長谷城 |
住所 |
多気町長谷 |
形式 |
山城(独立山頂) |
遺構 |
曲輪、堀切、土塁、井戸 |
規模 |
160×100m |
標高 218m 比高 113m |
城主 |
度会家行か |
築城時期 |
南北朝時代 |
環境 |
近津長谷城より南西へ(400m)派生する複雑な尾根の一つにある。 |
現地 |
河川や街道からは少し離れた位置にある。現在は近長谷寺のための舗装路が整備され、近くに駐車場もあるので比高は気にしなくてよい。又城への入口も舗装路から簡単には入れる。 |
感想 |
ロケーション、地勢からみると近津長谷城の支城と考えられる。近津長谷城は周辺に西之城、東之城、茶臼山砦、そしてこの長谷城と一大城砦群を形造っている。 |
南朝の拠点としてその意気込みが伝わってくるようだ。 |
地図 |
城名 |
西ノ城 |
住所 |
多気町津留/鍬形 |
築城年・築城者・城主 不明 |
形式 |
山城(尾根山頂) |
遺構 |
郭、堀切(西に2か所、東に4か所) |
規模 |
主郭、東西30×20m |
標高 210m 比高 150m |
経緯 |
近津長谷城は貞和三年(正平二年・1347)楠木正行の挙兵に呼応し外宮禰宜の度会家行らが兵糧米・具足をととのえ構えたと「外宮禰宜目安案」に記されている。田丸城・一之瀬城とともに北軍をおおいに悩ました伊勢における南朝方の拠点の一つであった。 |
その近津長谷城の「西の城」という説がある。尾根伝いに2100mほどの距離でそれほど困難なルートではない。 |
書籍 |
三重の中世城館 |
環境 |
丹生と櫛田川の両面をを見下ろす急峻な山城である。 |
現地 |
どこから攻めるにもまずは急峻な傾斜を攻略しないと近寄れない。尾根に取り付いても主郭までの距離がいずれのルートも十分ありこれも防御上有利である。 |
考察 |
近津長谷城の縄張りと比較すると単純である。見張台や虎口や井戸など付属施設の種類も少ない。 |
感想 |
城郭の形態は単郭プリン型で堀切は充実しているが土塁は見られない。帯曲輪の完成度も低くどちらかというと古いタイプの特徴がある。近津長谷城が本城とするとこの城の特徴から西を守る砦と考えられる。 |
地図 |
城名 |
矢田城 |
読み |
やたじょう |
住所 |
多気町矢田 |
築城者 |
2説あり(以下参照) |
形式 |
山城(独立山頂) |
遺構 |
曲輪、土塁、堀切、虎口、櫓台 |
規模 |
150×90m(主郭50×40m) |
標高 129m 比高 77m |
経緯 |
以下は笠木館にある説明板の記述内容。おおむね各資料はこのような論調である。 |
①阪内氏の居館跡として断定されている。「神宮文庫」、寛正年間(約1460)頃より。平時には笠木御所に居住をして、有時(事)には1km離れた矢田城に立籠りの砦としていた。 |
②永禄12年(1569)10月4日、以降、具教・具房父子はこの笠木阪内の御所に退城したと「信長公記」に記されている。 |
③天正4年(1576)11月、北畠具教は三瀬の館にて謀殺され、当時の笠木城主阪内兵庫頭具義(国司の聟・むこ)も田丸城で鏖殺(おうさつ)された。 |
書籍 |
『伊勢の中世/第75号(文責 成瀬匡章)』の築城に関する見解は異なるものがあるので要旨を記す。 |
「矢田城の虎口は中勢地方ないしは、北畠氏配下の諸城にはない縄張である。 |
割合発達した立岡城でも平入り虎口である。北畠氏の重要拠点であった阿坂城でもこのような虎口は見られない。 |
一番類似したものとして、阿坂城の出城・高城が挙げられる。但し高城は織田氏の南伊勢侵攻時に織田方によって構築された可能性が指摘されている。(注1) |
虎口の形態を見る限り高城同様、築城に織田氏が関与した可能性が考えられる。 |
そう仮定すると笠木館の詰城というよりは笠木館に対するもので、その時期は永禄12年から天正4年と限定することができ、南伊勢の政情をみるとき貴重な遺構である。」 |
感想 |
この城の一番の見所は主郭虎口である。狭い山頂ながら虎口関係に占める面積比率は比較的大きい。 |
気になるのは虎口の方位である。成瀬氏が指摘の笠木館に対するものだとすると、それよりほぼ正反対の方向に虎口及び虎口に付随する防御施設が備わっている点である。 |
注1 |
山本浩之「阿坂城・大河内城と周辺城館について」『中世城館研究』第13号 中世城郭研究会 1999 |
地図 |
城名 |
五桂城 |
読み |
五桂城 |
住所 |
多気町平谷/五桂 |
築城年 |
一概に言えないが堀切の竪堀化の傾向が見られないことから、在地の城跡として共通するよく似た、竪堀のある長原城より古いと考えられる。 |
長原城の推定築城年は天文5年(1536)なのでそれ以前ということになる。 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、堀切、土塁 |
規模 |
主郭25×20m |
城主 |
不明 |
標高 220m 比高 163m |
書籍 |
①三重の中世城館の記述を記す。 |
「五桂の南西の標高220mの光度山から北東にのびる山地の尾根にある。佐奈谷を一望におさめる所で、東側は五桂池へ通ずる谷となり、西側は急斜面をなしている。尾根が小山状に盛り上がっているだけで、あまり遺構はみられない。北方の人家の付近には馬場と呼ばれる所がある。」 |
「地目:山林、墓地 立地:山頂 住所:五桂字城山」 |
②日本城郭大系の記述を記す。 |
「多気町五桂字城山 山頂に城山の地名。遺構・城主は不明。」 |
以上2紙は場所を間違えている。今後のこともあるのでここで指摘しておきたい。(注1) |
③伊勢の中世 第62号 |
「五桂城跡は多気町の五桂の通称「城山」と呼ばれている光度山(標高229m)の山頂部に立地する中世城館である。 |
◎前記2紙の①と②は「城山」の位置を間違えていることになる。 |
現地 |
山頂の主郭にあたる所には直径2m、高さ0.5mの古墳状の高まりがあり、石室があり小さい祠が祀られている。 |
土塁は東の縁に高さ0.5mの小規模なものである。 |
登城は東の谷から行った。中々厳しいのぼりである。しかし、山頂に来てから分かったことだが北東に道があった。その道は地元の小学生も遠足で来ているようだ。 |
注1 |
2紙は五桂城の位置は間違えているが、その間違えた場所は本城に対する出城又は支城と考えても良いのかも知れない。 |
尾根で通じている点、本城の北側にある点(注2)、削平地が何段かある点、見晴らしの良い点など出城、砦などとして好条件が揃っている。 |
注2 |
この場所は北側から敵が来ることが想定できる。 |
地図 |
五桂城の支城かも知れない場所
城名 |
笠木館 |
読み |
かさぎやかた |
別名 |
笠木御所 |
○現地の案内板の記述より |
笠木はかつての神宮祭主領であったが寛政年間(1460頃)より、阪内氏の知行地となり阪内氏の居館跡として断定されている。(神宮文庫) |
永禄12年(1569)織田信長と北畠勢が大河内城で攻防を展開したが、信長の次男信雄を北畠家の養子として和議を結んだ。そこで具教・具房父子はこの笠木御所に退城したと「信長公記」に記されている。 |
天正4年(1576)11月北畠具教は三瀬の館にて謀殺され、当時の笠木城主阪内兵庫具義(国司の婿)も田丸城で殴殺された。 |
○もう一つ案内板「中世の回土居群」より |
この場所は中村ノ内と言い古くから中屋敷と呼ばれ明治初期まで八幡祠があった。また近くの字名に町屋、市門、伊賀人、駒ノ口などがある。 |
標高は40mながら二重、三重の土塁に囲まれ迷路のようになった郭が大小合わせて37、井戸が24ほど点在していた。 |
中世の回土居群としては県下でも数少ない砦跡である。平時にはここを居住として、有事には1km離れた矢田城を立て籠もりの砦としていたと考えられる。 |
以上、原文のまま |
住所 |
多気町笠木 |
形式 |
平城 |
遺構 |
曲輪、土塁、空堀、井戸 |
規模 |
480×350m 兵500人 |
城主 |
笠木氏(坂内兵庫具義) |
一族 |
北畠家 - 坂内一族 - 笠木氏 |
標高 40m 比高 7m |
書籍 |
三重の中世城館 三重の山城ベスト50を歩く |
環境 |
南に走る外城田川に沿う低い河岸段丘上で、南は水田が広がる。 |
現地 |
中央の一段高い台状地周辺は、周辺の曲輪群より防御が厳重になっている。 |
丘陵の東の隅には防御専用と思われる曲輪が2ヶ所ある。こちらは通常の山城の雰囲気で、地元ではのろし台と呼ばれている。 |
倒れた竹が折り重なった上に、井戸跡がたくさんあるので危険である。単独の訪城は十分気を付けてほしい。 |
感想 |
ここが中世の一つの街を現しているという点で貴重な遺産である。 |
中勢の各地に北畠家の御所と呼ばれる場所が複数あるが、それらも地勢や人数による規模などの違いがあったとしても、このような街が営まれていたと想像される。 |
地図 |
城名 |
牧城 |
住所 |
多気町牧/鍬形 |
築城者 |
岡惟家(これいえ) |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、竪堀 |
城主 |
岡惟家 - 小四郎(注1) |
標高 96m 比高 47m |
歴史 |
北畠家家臣 |
経緯 |
1576年か1577年に北畠教具と同時期に死去。 |
書籍 |
○勢陽五鈴遺響 |
「同所ニアリ岡小四郎住セリ北畠家臣ナリ」(p209) |
○三重の中世城館 ○三重県の城 |
「多気郡多気町字前街道 中牧集落の南東250mの山頂にあったとされる城で、北畠氏の被官岡氏の居城という」 |
○多気町史 |
「鍋倉峠南側に標高100mの山があり、その山頂に城跡がある。「伊勢名勝志」には北畠氏の家臣岡惟家(これいえ)此ニ居リ近郷ヲ所管ス。小四郎ナルモノニ至リ、天正中北畠具教三瀬ニ殺セラレル時之ニ死ス。其の子孫今本村ニ存ス」 |
また、「山頂には狭い平坦地があるだけである。峠の西入口麓付近を扇の館といい、今も小四郎を子孫とする岡氏宅がある。多分この辺りに居館があったのだろう」とある。 |
環境 |
櫛田川が北に大きく湾曲する原因の尾根が牧の地を南北に横たわる。その尾根の真ん中あたりを伊勢本街道が東西に突っ切っている。まるで自然の関所ようだ。 |
この鍋倉峠の南側の丘頂に城跡はあるが不整形な削平地と北側にある竪堀だけで完成度は低い。 |
現地 |
浅間山が祀られていたようだが今は石仏も峠の際に降りてきて山頂へ人の訪れる様子はないようだ。 |
この尾根からは東も西も視界は効くので見張台にはもってこいの所である。峠の北側の尾根には削平地や周辺の高まり等、見張台的な様子が伺える。 |
考察 |
扇方の地形は地図上で今でも見られる。 |
注1 |
飯高の谷野城の城主が「岡小四郎」と云われるが両者の関係性を解いたものはない。 |
地図 |
城名 |
城山城 |
読み |
しろやまじょう |
別名 |
棚橋城 |
住所 |
度会町棚橋 |
形式 |
丘城 |
遺構 |
無し(堀切痕、切岸跡らしきものは散見される) |
規模 |
不明 |
城主 |
福井若狭守か |
標高 31m 比高 川面より15m |
経緯 |
”以前から城山と呼ばれていた場所”と三重の中世城館に記されている。 |
書籍 |
三重の中世城館 渡会史 |
渡会史の記述を以下に記す。 |
棚橋の集落のほぼ西端に位置する段丘上にあり、下方は宮川の流れがかつては大渦を巻き、曲流するところであった。 |
小高い崖をなし、北西部には「城の小殿さん」と呼ばれる小祠がある。 |
東側は「城の阪」と呼ばれ堀切となっている。 |
現在その大部分は町営住宅の「城山団地」となっている。 |
築城などについての伝承や文献はないが南北朝の動乱時代に北朝方の拠点であった蓮花寺にかかわるものであろう。 |
環境 |
北側の山が宮川に迫り出すように人や川の可動範囲を狭めている場所で、恐らく古くは通行だけでも難儀な場所だったと想像される。また、その山で宮川が大きく湾曲し、船溜まり的な場所をつくっているところでもある。 |
現地 |
宮川本流と北からの支流の合流点で、棚橋の河岸段丘台地の突端となる所に城はある。そこを県道が城跡を分断しているように見える。 |
北西300~400mの山腹、山頂には蓮華寺城がある。渡会史が記す「南北朝の動乱時代に北朝方の拠点であった蓮花寺にかかわるもの」の可能性はあると思える。この辺一帯を法楽寺と言ったらしいがその一角を占めていたのではないだろうか。 |
考察 |
この城が北朝側か南朝側なのか? |
感想 |
地形や周辺のロケーション、残っているわずかな歴史情報から、重要な地点であることは間違いないだろうけど、跡形の無い城跡の典型だ。残念!!!!! |
地図 |
城名 |
南鮠川城 |
読み |
みなみはいかわじょう |
住所 |
度会郡度会町鮠川662/富津 |
形式 |
丘城 |
遺構 |
土塁の一部 |
規模 |
内城田村史によると当時、東西30間、南北20間とあり、54×36m位ほ平地があったようだ。 |
城主 |
不明 |
標高 29m 川面からの比高 10m |
書籍 |
三重の中世城館 |
環境 |
宮川に面する河岸段丘の断崖にある。支流鮠川(はいかわ)が東側の急崖を創り出したようだ。まるで岬の突端の様相を現している。 |
「内城田村誌」によると「南鮠川の城、字浦の上なる渡船場の断崖上。東西30間。南北20間の平地にあり。 |
郷人これを城(じょう)と称す。蓋し(注1)砦跡ならん」とある。 |
昭和47年2月、城跡を縦断するように鮠川大橋が完成した。いまは土塁状のものがわずか数メートル残っている。 |
現地 |
宮川右岸の河岸段丘の縁に城はある。城から宮川へは行き来ができる。船着き場の様子が垣間みられる。 |
ここで戦いをうんぬんという気配ではない。現地に来てそれが分かった。現在は土塁の片割れが残るのみであるがロケーションは当時の雰囲気を残していると思える。 |
考察 |
山城ではなく、居館でもない。渡船場で物資や通行人を抑える関所という位置付けが一番近いと思われる。 |
ここより3km下流の宮川左岸に牧戸城があるが、河岸段丘の縁に造られる城砦の2例となる。 |
感想 |
鮠川大橋記念碑に長年の渡し舟、、、という行があるように結構川幅のある宮川のこの場所では渡し舟の運航は大変であったと想像できる。 |
宮川を渡る関料をとったり人や物の検査をしたり舟自体を守る役目があったりという気がする。 |
注1 |
蓋し:(けだし) 物事を確信をもって推定する意を表す。まさしく。たしかに。思うに。 |
地図 |
城名 |
牧戸城 |
読み |
まきどじょう |
住所 |
度会町牧戸101 |
築城者 |
牧戸氏か |
形式 |
平城 |
遺構 |
無し |
規模 |
不明 |
城主 |
牧戸友之助 牧戸与五郎 |
一族 |
北畠氏家臣 |
標高 10m |
書籍 |
渡会史 三重の中世城館 |
渡会史によると、「勢陽五鈴遺響」に「牧戸砦跡。同処にあり 国司北畠家のきか牧戸氏住まいせり」とあり、内城田村誌には「牧戸砦址・本区に在りと、今其跡を詳にせず。 |
また三重国盗り物語には牧戸友之助の名が見える。他書にも牧戸与五郎の記述もある。そのことから土豪、牧戸氏の館か砦ほどのものがあったのだろう。いまその位置を明確にすることはむずかしく台地の先端が宮川に突出する八柱神社跡ではなかろうか。また集落の西端ともいわれる、とある。 |
環境 |
宮川に突き出すような河岸段丘の縁に城跡はある。敵に対する防御というよりは、宮川の抑えと言った方が合点がいくロケーションだ。 |
現地 |
上流側、入り口より奥の方に浅い溝が方形の区画を示しているようだ。 |
考察 |
ここまで遺構が無いと断定はできない。 |
感想 |
南鮠(はや)川城が3km上流の宮川右岸にへばり付く様にあるが、それと対照的に牧戸城は左岸にあり、対を成しているようにも見える。 |
地図 |