三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

麻加江城

2020-09-05 21:48:33 | 古城巡り

        

城名
 麻加江城
読み
 まかえじょう
住所
 度会町麻加江奥屋敷
築城年
 室町後期か
形式
 丘城
遺構
 曲輪、土塁、空堀、虎口、土橋、虎口
規模
 主郭 50×50m
城主
 不明
標高 55m 比高 23m
歴史背景
 書籍*2に「南北朝期、度会町一帯では両朝の抗争が激しく、南朝が北朝側の法楽寺(蓮花寺・度会町棚橋)を落して背後に蓮華寺城を築くと、今度はこれを北朝が奪回するというような状況であった」とある。
 法楽寺という呼び方は寺の名称ではなく、蓮華寺がある辺り、度会町棚橋辺り一帯の地区をいっている。
書籍
 *1三重の中世城館 *2三重の山城ベスト50を歩く
環境
 宮川右岸の度会町に麻加江集落があり、北のはずれにある丘陵地端に城はある。
現地
 ほぼ東に向いた緩傾斜を溝と土塁で囲んだ三角形の曲輪が中心となっているようだ。
 南200mの所には”郷士館”と呼ばれた館跡があったというが畑地への開発で今は見ることができない。
考察
 現状の主郭から周辺にある他の曲輪と、今は見られない”郷士館”と呼ばれた部分の全体を捉えて、ここは居館の集合体と見られる。
感想
 書籍*2でいう法楽寺辺りとは5~6kmの距離があり、直接関係の可能性は薄くなると思われる。
 北背後の標高146mの山頂に詰城があって、その根小屋的居館とした方が分かり易い。
 標高146mの山頂を攻めてみるべきか。
地図


蓮花寺城

2020-09-05 14:03:41 | 古城巡り

城名
 蓮華寺城
住所
 度会町棚橋
築城年 築城者 城主 不明
形式
 山城(上の城と下の城)
遺構
 曲輪、堀切
規模
 上の城 東西10m×南北80m
 下の城 東西30m×南北25m
標高 160m 比高 90m (上の城)
書籍 未確認
環境
 宮川に突き出た丘陵の頂にあり眼下の宮川や街道を監視するには絶好の場所である。
 西数百メートルの所の宮川縁には牧戸城があったとされる。又眼下の棚橋の西入口辺りには棚橋城があり、東西で蓮華寺城の守りを固めていた様子も伺える。
現地
 山全体がシダに覆われており遺構を確認しにくい。猪に出くわす可能性あり。
考察
 蓮華寺が力を持ち外敵から身を守るために城を必要とした時代があった。戦国時代以前の城かも知れない。
感想
 遺構は狭い曲輪と堀切で構成されている。古いタイプの様子である。
 二つも持たなければならなかったことが興味を引く。寺の僧の上下階層から必然的にできたものかも知れない。
 堀切のいくつかは見応えがある。
地図


矢村城

2020-09-05 09:47:51 | 古城巡り

新城名
 矢村城
旧城名
 山川城
 度会町は”従来の所在地「下久具」の訂正と同時に城名を矢村城とする”としている。
住所
 度会町上久具
形式
 丘城
遺構
 曲輪、空堀、土塁、虎口、井戸跡
規模
 40×60m
城主
 刀根氏か
標高 40m 比高 6m
経緯
 三重の中世城館によると「刀根幸太郎氏によれば、その祖先がここに落ちのびてきたといい、同家には天正8年(1580)の「佑山信士」の位牌がある。付近を開墾したときに刀片などが出土し、岩風呂もあったと古老は伝えている」とある。
書籍
 三重の中世城館
環境
 北に向かう傾斜角3度くらいの緩斜面にある。東側に小川が流れその縁は急崖となる。
現地
 集落とは地続きの様相で天然の要害ではない居館を想像させる周辺のロケーションだ。
 土塁、堀は高さ、深さ、容量があり見応えがある。南側(山側)の堀や土塁は敵からの防御はもとより、山からの水、落石、害獣なども防いでいるようだ。虎口が明瞭なことから一番北側が主郭と思われる。
感想
 古老の話し「ここに落ちのびてきた」から、何らかの敗者かもしれない人の居館ではと想像した。

地図


殿山城

2020-09-04 14:32:04 | 古城巡り

      

城名
 殿山城
読み
 とのやまじょう
住所
 度会町長原
城主
 山崎氏か
形式
 山城
遺構
 削平地
標高 103m 比高 65m
書籍 『度会史』
 「中川村誌に中川神社の東に当り字田間そばの山上に広さ二町歩程の坦夷(注1)あり。土俗(注2)之を殿山と呼ぶも玆に住みし郷士を明らかにせずとある。
 山麓に割合浅い空堀状のものが、130mほど続く。この溝より山側15~20m離れて、高さ1.5mの石積みがほぼ東西に50m続く。さらに、これより山側へ8~10m離れた位置に高さ3mの石垣が45mほど東西に延びている。この石積みと石垣の間が長方形の削平地となっている。ここより北方に宮川を見降ろすことができる。」
注1
 たんい【坦夷】( 名 ・形動 ) [文] ナリ  土地などが平らである・こと(さま)。平坦。 「 -なる大道を択ばば危険少ふして/経国美談 竜渓」
注2
 どぞく【土俗】民俗の旧称。 「 -と伝説」
現地
 上記を頼りに現地に向かう。
 山頂の削平地には高さ1m程の鳥居が数個列をなしている。浅間神社のようだ。
 削平地が下にも見える。これは城跡だと気分は一気に上昇する。早速大きさを歩数で計り図面を書く。作業を進めるほどに確信に変わっていく。これが殿山城だ。
 しかし、『度会史』で紹介のあった様子とは全く異なるのが疑問だ。石積みや石垣を探して麓を半周する。らしきところは出てこない。念のためもう一方の頂上を目指すが、こちらは人の手が入った様子は皆無である。山を下り反対側の麓を回る。
 土塁は所々で切断されてはいるものの麓を巡っている。これは昔の灌漑用水路ではなかろうか。所々切れているのは水を落とすととこであったり水を溜めるところであったり山崩れで流されたところだ。
 山から離れて道に出ようとすると老人が草刈りを始めようとするところであった。声をかけると殿山城については全く知らないという。浅間さんは承知であった。
 近くで作業をしていた老人が一人、二人と近づいてくる。「やっと帰ってきなしたか」「何をされとるんですか」「なかなか姿が見えんので」
 どうやらバイクが止まっているので心配をかけていたようだ。またしても経緯を話すと「殿山城はしらんなー」とさっきの老人と同じ回答であった。
 観光情報として「獅子鼻」という景勝地が近くにあるらしい。麻加江の奥とかいう。
 住民からよい話は聞けなかったが、地形の観察からここが殿山城だと比定することにした。2015.2.3初訪
感想
 北150mの平地(現在水田)に山崎館があったとされている。距離感と位置関係から居館と詰城の関係にあることが十分に想像される。
 それにしても 『度会史』 の記述とかなりの相違点があることが気がかりだ。
地図


山崎館

2020-09-03 22:04:48 | 古城巡り

三重の中世城館より

なかなか現地を比定することが出来なかったが、国土地理院空中写真で痕跡を見つけた。

城名
 山崎館
読み
 やまざきやかた
住所
 度会町立花字山崎
形式
 平城
遺構
 北側の空堀は巾5m、深さ3mで、南側のものは巾20m、深さ8mありそれぞれ宮川へ続いている。
規模
 110m×100m
標高 25m 
歴史
 もと薬師堂がここにあったが集落に移したというが、昭和51年3月ごろ取り壊されたという。
書籍
 三重の中世城館
現地
 現状は殆どが水田となっている。
環境
 ここから150m南の山頂に殿山城があるが、館と詰城の関係性はあるのだろうかと疑ってしまう。
地図

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発見!山崎館跡

2020-09-03 21:50:28 | 古城巡り

発見したのは現地ではなく空中写真のネガの中でした。

縄張図に縮尺は記してなく、現地へ行っても合点がいかなかった。

長年の胸のつかえが今取れた気がする。

古い空中写真は役に立ちます。国土地理院さん、感謝します。

 


栗谷赤坂城

2020-09-02 23:25:03 | 古城巡り

 

城名
 栗谷赤坂城
読み
 くりやあかさかじょう
住所
 大台町栗谷80付近
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切(巾6m、長さ8m、他)
規模
 主郭16×8m
城主
 唐櫃(からと)五身助
標高 200m 比高 48m
歴史
 唐櫃氏の出城という。
経緯
 唐櫃に本拠を構えた唐櫃氏の支城という。
環境
 宮川の支流栗谷川の蛇行点で三方を川に囲まれ半島状になっている。
現地
 峠越の車道が開通し、峠から数分で城跡に着く。
考察
 宮川流域と櫛田川流域を結ぶ重要な間道を、本城(大台町唐櫃)の北口で守る出城と考えられる。
感想
 まるで眼下の間道を180度の視界で見張るためだけに造られた城のようである。
地図

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栗谷殿切城

2020-09-02 21:46:58 | 古城巡り

 

城名
 栗谷殿切城
読み
 くりやとのきりじょう
住所
 大台町栗谷193
築城
 大永年中(1521~1527)
形式
 山城
遺構
 台状地、堀切
城主
 谷内蔵之丞(たにくらのすけ)政教 (栗谷氏)
一族
 北畠家臣
標高 230m 比高 63m
経緯
 谷氏が入境の時は誰も住んでいなく、草木茂り、道細く、山賊が横行し往来する旅人を苦しめた。国司北畠氏は谷内蔵之丞政教に山賊討伐を命じた。谷氏は山城を築き、家来六人を召し連れて山賊討伐の任に着いた。
 谷氏は栗谷三里四方と松阪領の八重田、深長、鎌田を与えられている。(栗谷過去帳より)
歴史
 天正4年(1576)(注1)、谷内蔵之丞政教は北畠具親に与力して義兵を発す、と勢陽五鈴遺響にある。
書籍
 三重の中世城館     史跡・名称・天然記念物・基本調査報告 郷土の文化遺産 宮川流域の遺跡を歩く(田村陽一著)
環境
 宮川と櫛田川を結ぶ間道沿いにある。この道の歴史は古く、古代には開かれ京に通じていた。中世においては熊野灘でとれる魚介類や塩を内陸部に運ぶ”鯖街道”として重要だった。吉野南朝への流通路としても重要だった。
現地
 伊勢国司北畠氏の祈願所・霊符山太陽寺の裏山が栗谷殿切城である。
 この城より南1kmの所には、出入り口を抑えるかのように栗谷赤坂城が築かれている。
 背後の尾根の続くところに堀切が残る。
考察
 山賊を退治するための城砦ということからか、曲輪と堀切の簡素な造りである。
感想
 車を置いてから太陽寺を通過して山頂まで距離は短いが、狭い足の置場と急傾斜に戸惑う。
注1
 天正4年(1576)北畠具教が謀殺された年。
地図

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坊主山館

2020-09-02 15:26:06 | 古城巡り

👆 参考=大日山北にあるヘリポート(後方は大日山)

城名
 坊主山館
読み
 ぼうずやまやかた
住所
 玉城町蚊野(かの)
形式
 平城(300m×700mの丘陵地)
遺構
 幅2m×高さ1m弱の土塁に囲われた曲輪3か所
 1号館:45×60m 2号館:22×42m 3号館:20×20m
規模
 全体で50×150m
城主
 不明
一族
 北畠氏、田丸城の出城
標高 45m 比高 12m
歴史
 旧和歌山軌道に近く、寛正年間(1460~1465)に北畠氏が山田三方を抑えるため要所として築いたものといわれる。
書籍
 三重の中世城館
環境
 昭和47年、陸上自衛隊航空学校のヘリコプター練習場・発着場造成のため破壊された。
 造成の際、山茶碗、土師器などが出土したという。
現地
 立ち入り禁止区域である。
考察
 宇治山田合戦の初期のころに造られた。土塁で囲われた簡素な遺構から山田三方を抑える兵の駐屯地ではないだろうかと考える。
 南2kmに敵方・山神城(池山伊阿賀守)がある。
地図

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山岡城

2020-09-02 10:19:20 | 古城巡り

 

 

城名
 山岡城
読み
 やまおかじょう
住所
 玉城町山岡字村内
形式
 平山城
遺構
 台地の宅地化で消滅
規模
 不明
城主
 池山伊賀守(修理亮) 15??~15??
  田丸三代城主顕晴(親忠)家臣。
 北畠家臣帳(池山修理亮-対馬守-与五平)
標高 14m 比高 5m
経緯
 伊勢において宇治六郷と山田三方は抗争していた。宇治六郷を応援する田丸城主と、山田三方を応援する池山伊賀守、城主と家臣という関係に相反する事態となった。
 山岡城主、池山伊賀守は北畠家臣でありながら、山田三方側に合力し田丸城主と軋轢が生じ、伊賀守は反乱を起こすことになった。結果、伊賀守は田丸城を制圧し、田丸城主(親忠)を自刃に追い込んだ。
歴史
 「勢陽雑記」には、「天文年間田丸家の侍山岡一党、池山伊賀守逆心して田丸を攻めける、とある。
 田丸弾正少弼顕晴防戦ひけれども終に打ち負け、少弼自害しけり、とある。(田丸の兵乱)
 その後、北畠七代晴具の侍大将舟木少輔によって、山岡一党と池山伊賀守を山神城に追い詰め討たれた。(山神城合戦)
 この時、山岡城や城下も攻められたと考えられる。
資料
 三重の中世城館 県史編さんグループレポート 山神城跡発掘調査レポート 玉城町教育委員会パンフ 玉城町文化財調査委員会レポート
環境
 宮川左岸の沖積地に残された比高5m程の丘陵地の中央部、最高地点に城はあったとされる。
 北西3Kmに田丸城、南700mに岩出城がある。
現地
 地元の人に案内してもらって城跡を訪ねる。
 字のほぼ中央の標高の一番高い所に会所があり、城はこの周辺にあった。なるほどここなら高さ的条件は一番だ。昔、周囲は沼田と畑地であったとの話だ。
 会所の建物の中の井戸は「馬洗い井戸」、南東400mは「人斬り場」と呼ばれている。
 また、「山岡づきん」として、落城時の脱出のため変装した姿をなぞらえていると言われている。
 この方、これから山岡氏のことについて調べて村史を纏められるということだ。いい人に巡り合えた。
地図