岩出城の移り変わり
古地図
昭和23年、米軍空中写真
現代
北
西
東
主郭辺り(周辺より一段高い)
城名 |
岩出城 |
読み |
いわでじょう |
住所 |
玉城町岩出 |
築城年、築城者 |
延徳元年(1469)岩崎長官左近大夫安法 |
又は、天正3年(1575)田丸中務少輔直息(直昌) |
形式 |
平城 |
遺構 |
消滅、石碑 |
規模 |
150×130m |
標高 16m 比高 6m |
歴史 |
この地、岩出は往古(平安中期)の、神宮祭主大中臣氏岩出祭主家の500年にわたる館跡とも伝えられる。 |
一説には延徳元年(1469)岩崎長官左近大夫安法が築城ともいわれる。 |
又は、天正三年(1575)、織田信雄が田丸に三層の天守閣を築き入城の際、城主田丸中務少輔直息はこの岩出台地に城を築いて移ったのが岩出城の最初とされる説もある。 |
その後、牧村兵部大輔利貞、稲葉蔵人道通が城主となった。 |
慶長5年(1600)、家康は関が原の論功で2万石を加増して道通を田丸城主に取り立てたために、岩出城は廃城になった。 |
経緯 |
記念碑は、太平洋戦争直後、食料増産のために、村人により人力で城地を開墾、農地に造成した時に建てられたものである。平成8年3月 玉城町 |
書籍 |
三重の中世城館 宮川流域の遺跡を歩く(田村陽一著) |
環境 |
この城は台地に築かれて東北は断崖、東一体は断崖を隔てて宮川、西には坊主山、茶臼山などの山並みが南から北へ走って自然の要害となっており、南北朝時代から室町時代にかけての伊勢国司北畠氏一族が支配する田丸城の支城(砦)であったと伝えられる。 |
現地 |
平成26年6月28日(土)再訪する。外郭は今も古図面のように存在する。特に北西から北にかけての線は当時のままだと思われる。恐らく高低差も見たままだと考えられる。 |
古図面の本丸あたりに該当する現在地は他より少し高さが高く方形を維持している。 |
現在石碑が建っている辺りは三の丸に当ると思われる。やはりこの辺りが搦め手になっていたのではと思われ、宮川へ通じていたのではないだろうか。 |
感想 |
ある意味、特異な種類の城郭である。近世平城の原型と言ってよいのかも知れない。 |
地図 |