城名 |
ひよどり城 |
別名 |
五箇篠山羅城 |
住所 |
多気郡勢和村上出江 |
築城年・者 城主 |
不明 |
形式 |
山城 |
遺構 |
郭、土塁、堀切、出郭(主郭の南 370m・標高210m) |
規模 |
65m×95m |
標高 266m 比高 190m |
書籍 |
三重の中世城館 日本城郭体系 勢陽五鈴遺響 |
環境 |
小片野、片野、出江の平野部を眼下に見ることができる位置にある。 |
現地 |
ひよどり城は五箇篠山城の北2.7Kmに位置し、その視線上の尾根に出郭がある。出郭の完成度は低く、見張台程度のものであるが意味はひよどり城の存在意義をを左右するものなのではないだろうか。 |
五箇篠山城の遺構と類似点が一か所ある。郭群の中に極小プリン型で造られた郭がそれぞれ一つある。まるで橋を支える橋脚のようなこの形状は北畠氏に関係する城郭の中でも見られないものでそれが偶然かこの近接する二つの城郭にある。 |
五箇篠山城とひよどり城が同年代、同目的で造られた城と考えると分かり易い。 |
考察 |
勢陽五鈴遺響によると「天正十年(1582)本能寺の変に乗じて北畠具親が五箇篠山城に再挙した時、織田勢の手により篠山城攻撃用として築城された」という。 |
日本城郭大系の解説によると「縄張りの構えから篠山城に対するというよりは反対側の東方に向けられており、織田勢の篠山城攻撃用の一時の城というよりはこの地に勢力を張っていた北畠家臣波多瀬氏の出城ということができよう」とある。 |
筆者は後者の意見に賛同するが理由はさらにある。それは先述したひよどり城主郭から南に370mの所にある郭の存在である。 |
その郭はひよどり城と五箇篠山城の視線上にありひよどり城から五箇篠山城を監視するには不都合な場所にある。ならばこの郭を重要視しもっと完成度が上がると考えられるが見る限り単なる見張台程度である。 |
つまりひよどり城から五箇篠山城を攻撃する気配は日本城郭大系の理由に加えて感じられないのである。 |
感想 |
むしろ五箇篠山を支える支城の一つと考えた方が納得出来る。波多瀬城の支城という説を唱える人もいる。 |
また、朴ノ木館の詰城に該当するものは現在まで比定されていないことから朴ノ木氏の詰城説の可能性を全く否定することはできないと思う。 |
小川新九郎の覚書・天正10年の具親蜂起の際のこの近辺での戦いの記述によるとひよどり城に関するものは出てこない。また、この時の制圧期間は2日間でひよどり城を使うひまもなかったと思われる。これを前提にすると「羅城説」否定される。 |
地図 |
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