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中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

長野城/長野氏城

2017-09-05 20:42:59 | 古城巡り

 


スライドデジブック

城名
 長野城
住所
 津市美里町桂畑・北長野城の台
築城年
 文永11年(1274)
築城者
 工藤祐藤
形式
 山城
遺構
 郭、土塁、堀切
規模
 東西100m×南北100m
城主
工藤祐藤
標高 540m  比高 360m
 
略歴
 工藤祐経-祐長①-長野祐政②-祐藤③-祐房④-豊藤⑤-経藤⑥-⑦- - - -藤定⑮-具藤⑯
 祐長①の時、伊勢平家残党追討のため安濃・奄芸2郡を給わった。
 祐政②の時、長野に住み長野氏を名乗った。
 祐藤③の時、長野城を築城した。祐藤の子、雲林院氏を名乗る。
 祐房④の時、子が家所氏を名乗る。
 豊藤⑤の時、分部氏、細野氏、草生家が分家。
 経藤⑥の時、川北氏、中尾家が分家。
 藤定⑮の時、次第に力を失う。
 
歴史
 工藤祐藤によって文永11年(1274年)に築城され、長野工藤氏の拠点とす。
 貞和2年(1346年)に北畠氏に攻められて落城したが、文和元年(1352年)に再び工藤氏が入る。
 延文5年(1360年)には室町幕府に反乱した仁木義長が逃げこみ、追討軍に対して2年以上籠城を続けた。
 この時、伊勢川北城は高師秋、土岐頼義らに攻められて落城した。
 応永21年(1414)、仁木氏(足利幕府方)と長野氏が阿坂城(北畠氏)を攻める。翌年、白米城伝説の阿坂城落城。
 正長元年(1428)、北畠氏と長野氏が組して岩田川で幕府軍と合戦。北畠満雅討死。
 
 天文年間(1532~1555)、長野氏は南は国司家と西は甲賀と中勢では関氏と争いが続いた。
 天文16年(1547)から18年にかけて北畠具晴は長野氏を攻撃、戸木と七栗の間の葉野で合戦が展開された。戦いは激戦となり長野方の大将分部与三右衛門が戦死するなど、一志郡内で両軍の攻防が続いた
 永禄元年(1558), 北畠晴具の孫・北畠具藤を養子とし長野氏16代の家督を継がせた.
 弘治年間(1555~1557)に細野氏は長野から安濃城に移った。その後長野氏が長野城から長野氏城へ移った。
 永禄2年(1559)北畠・長野両氏が一体となり、具藤をはじめ細野・分部・雲林院・草生ら長野一族・与力五千が、北勢の赤堀氏と塩浜で戦った。また、関氏の神戸西城を攻めたが敗れた。
 
 織田信長が長野氏攻略を始める。信長はまず長野工藤氏を討とうとして、有力一族である安濃城の細野藤敦を攻めた。この事態に対して長野一族は、和戦両論に分かれ、藤敦は抗戦固守を主張し安濃城で抵抗を続けた。
 一方、弟の分部光嘉・川北藤元らは和睦を主張し、光嘉らは信長の弟信包を長野工藤氏の嗣とすることを申し入れた。ところが、長野具藤が藤敦は信長についたとの流言に惑わされ、藤敦を討とうとした。対する藤敦は逆に具藤を攻め、具藤は実家北畠氏の本拠地多気に逃亡した。
 これにより長野氏は和睦派が主導権を掌握し、永禄12年(1569年)には信長に降伏した。
 具藤は天正4年(1576年)11月25日の三瀬の変で田丸城において他の北畠一族もろとも殺害された。享年25。国人領主としての長野氏は滅亡した。
 織田家から養子で入った信包は元亀元年(1570年)に上野城を居城とし、長野城を廃している。
 
 天正8年(1580)、細野氏は蒲生家の配下に入った。藤敦は、のちに秀吉に仕えて、慶長三年に伏見城松の丸の守将となった。さらに、秀吉側室松の丸殿の家司となり、慶長8年(1603)2月26日、波乱の生涯を閉じた。 
 長野氏一族としてはひとり分部氏のみ、光嘉が信包の城代として上野城に入り、のち豊臣氏に仕えて上野一万石の大名となった。光嘉は関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍に属し、戦後、加増を受け近江高島郡のうちで二万石を領する大名として生き残った。
 
書籍より
 津市美里町桂畑の標高約520メートルの山頂にある長野城跡で、『太平記』には守護仁木義長が篭城したと伝えられてる。山頂の城郭中心部はコの字型の土塁が三方を囲み、周囲は急竣でいかにも篭城には適した地形となっている。
 この城が文献記録に始めて登場するのは、南北朝時代の争乱を伝える「太平記」延文5年(1360)の記事。畠山国清らとの抗争に敗れ、京都を脱出した伊勢守護仁木義長は、この長野城で幕府追討軍の六角氏頼・土岐頼康らに対し、2年以上も籠城戦を続けた。「太平記」には、要害堅固なため、寄手がなかなか近寄れなかった、と記してる。

 

 

城名

 長野氏城
別名
 細野城
住所
 津市美里町北長野
築城年
 不明
築城者
 細野氏
形式
 東の城・中の城・西の城から成る山城
遺構
 郭、土塁、空堀
規模
 東西150m~南北630m
城主
 細野氏-長野氏
標高 195m~230m 比高 55m~90m
経緯
 1982(S57)年1月16日 国指定史跡に指定
一族
 長野工藤氏-長野氏-細野氏
 
現地案内板
 国指定史跡
 長野氏城跡(東の城・中の城・西の城)
昭和57年1月16日 指定
 標高520mの「城の台」に築かれた長野城跡より長野川を挟んだ東方の標高200~230mの丘陵上を占地し谷を利用した「東の城」「中の城」「西の城」の三つの城から成る山城です。
 長野氏がこの地で国人領主として地歩を固める根拠地となった場と考えられ、丘陵全体を大きく三分した半独立的城を配置しています。
 現在も残る土塁、堀切や連続する階段状の郭は、南北朝時代の特徴をよく表しています。ここからは、主城である長野城跡を望むことができ、また、長野氏の居館もこの地と考えられ、北長野地内には「しろやしき」の地名が残されています。
 津市教育委員会
長野氏城跡案内図
 
 東の城・中の城・西の城は長野城跡の東方約2.5kmにある標高200~230mの一連の丘陵上を占地し、谷を利用して築かれている。
 南北朝時代から室町時代の城の特徴をよく残す山城で、西、中、東の各城跡は居館の性格も具備している。長野氏は守護代あるいは室町幕府の奉公衆として中世後期、伊勢において活躍した国人領主である。
 「太平記」「梅松論」「大乗院寺雑事記」等多くの記録によって、その歴史がわかる城跡として、また、国人領主の発展過程を示す城跡として貴重である
三重県教育委員会事務局 社会教育・文化財保護課
 
 北長野の伊賀街道沿いの標高200メートル前後の三つの連なる丘陵頂部に築かれたもので、土塁や堀切り等の遺構が見られ、国人長野氏の発展過程が知れる遺跡。
 東の城・中の城・西の城の名称は江戸時代に書かれた「伊勢一国旧城跡附」によるもので、「じょうやま・経塚」と地元では呼んでいます。それぞれ階段状の台状地・堀切・土塁などがよく残っている。
 
現地
 長野宿を説明する石柱より
 津と伊賀上野を結ぶ藤堂藩の官道であった伊賀街道の中間の宿場で藩士や旅人で賑わった。長野峠の傍らには氷田があり藩に氷を納めた。
 
地図 長野城/長野氏城
 
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