三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

法性寺

2017-08-13 08:43:47 | 古里の歴史

 

法性寺
 ほうしょうじ
住所 松阪市曽原町
標高 1.0m
歴史
 蘇原城主天花寺氏の菩提寺 江戸時代は「曽原の道場」
資料
 案内看板 松阪市の指定文化財案内
環境
 曽原城跡から東へ300m。北方面から見た場合、雲出川を渡ると松阪を守る最初のラインで防衛の際は最前線になったと考えられる。曽原城と法性寺が東西横一線に配置されているのもそんな理由があるのかもしれない。
銅鏡
 平安時代のもので鏡面に三尊仏の毛彫りがあるとされるが鏡全体もひずみがあり、やや不鮮明で全体の確認は困難。中央に阿弥陀如来、左に先手観音、右に薬師如来。
 経塚などの埋納物であったものが、何らかの経緯で法性寺に伝わったものと考えられる。(教育委員会評)
現地
 松ヶ島城下にあったと言われる隠れキリシタンの灯篭が中庭に移設されている。
感想
 曽原城も戦国の流れに翻弄された物語を持つ。遺跡は何一つなくなり地元の人でも城跡であったこと自体を知る人が少なくなってきている。
地図

柚原中世墓

2017-08-12 20:45:47 | 古里の歴史

 

  松阪市柚原町寺谷の谷に突出した尾根突端部にある。室町時代のものと比定されている。土饅頭形をした盛土があり宝篋印塔3基が現存し、内1基が墓域とともに史跡に指定されている。笠の隅飾突起は室町時代の特色を示す。墓域には土師器片・常滑製陶器片・人骨片が散乱しており、盗掘により常滑の骨壷が出土した。壷は高さ16cm、広い平底を有するもので室町時代後期頃と推定され、指定の石塔の時代比定とも合致する。(松阪市HP文化情報より)しかし、この墓の由来は明確には断定できていない。柚原に伝わる史料では「とのの墓」と呼ばれ戦死した柚原兼房と弟の中務の墓とされているが根拠となるものがない。石塔の時代比定室町後期と北畠滅亡時の天正年間の間では百年程のずれがある。

そして現状は悲惨なことになっている。

 

 20017年3月14日現在の姿

との」が泣いている。


岩内城

2017-08-09 15:56:55 | 松阪の城

デジブック 『山城遺産 岩内城』

 

 

城名

 岩内城
住所
 松阪市岩内町
築城年
 室町時代
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切、帯郭、竪堀
規模
 東西100m×南北80m 兵の数約500人
城主
 岩内主膳正光安(北畠13人衆の一人)
標高
 180m
比高
 80m
歴史
 北畠は迎撃態勢の一環として岩内城には岩内御所一族(岩内主膳正光安)兵500を置き、信長の侵攻に対抗しようとした。信長は近隣の岩内城と阿坂城に降伏勧告(和睦案)を出した。岩内氏は国司の一族であるため回答を保留。「大河内城の考え次第である」とした。(追記;中世城館と北畠氏の動向より)信長公記に「滝川左近人数入れ置き是よりわきわきの小城へはお手遣いもなく直ちに奥へ、、とある。小城というのは岩内城、伊勢寺城、奥野城、岡ノ谷城、白山城辺りを言っているのでしょう。つまり北畠側から抵抗が無かったので、そこへ軍勢を遣ることもなく、まっすぐ大河内城へ向かったということです。(8月27日)
経緯
 岩内城は多気郡明和町にあったが大河内城の出城として松阪市の天ケ峰に移された。岩内光安の子息が2歳の時、北畠具親の養子となり北畠に改称
書籍
 三重の中世城館の不明城館ページ
一族
 岩内御所
 岩内氏の系譜は不明。顕豊-政治と続いた後、政治の戦死により一時廃絶。永正9年に再興される。
 岩内鎮慶(?) 父は北畠材親か?母は不明。岩内家を再興。木造俊茂から白粉代官職を奪った、岩内某と推定される。久我家木造庄の年貢未納に対し大御所具教とともに対応。  
  岩内国茂(?) 父は岩内鎮慶、母は不明。
   岩内具俊(?) 父は岩内国茂、母は不明。
    岩内光安の子息が2歳の時、北畠具親の養子となり北畠に改称した。
     後、具親敗走の時に光安は田丸城で殺され家は断絶した。
       光安の子息「玉千代」は北畠具親に養われ、成人し北畠荘門光吉と名乗り、北畠の遺臣に守られて伊勢山田に住まいした。
現地
 瑞巌寺跡と墓地の中間位に西登城口がある。金毘羅宮入口のの看板がある。突然、急坂となるが尾根にたどり着くまでの距離は少ない。
 尾根にたどり着くと石垣で造成された金毘羅宮がある。この辺りから城域と思われる。
 堀切ではなさそうな鞍部を超えてしばらくで頂部に着く。その尾根は細く大勢の人数は留まれない。
 しかし、曲輪は主郭、帯郭とそれぞれ明確である。主郭は狭いながらも2段に分けている。
 北側に尾根として続く主郭の切岸は当時の様子を物語っている。帯郭と竪堀がそこを守っている。
 尾根の先は堀切が大小2連ありどちらも明確である。上部の堀切は岩や石垣で造られている。
 この二つの堀切より北へ標高をたどるが城としての構造物は無いと判断した。一部道のようなものと未完成な削平地のようなものはあるがこれは後世の山仕事に関係するものと思う。
 主郭の南側を下るとこの城で一番大きい堀切がある。こちらは山の麓からの敵を防御する位置にある。
 その先には見張台とも思える小さな削平地がある。城の範囲はここまでと思われる。
 その下に大きな削平地があるが他の削平地よりキレイに残っているので後世のものと考えた。大日さんとして今も祀られている。
 松阪遺跡地図にも三重の中世城館にも著わされていない山城の発見である。これは松阪山城会の松本会長が種々の情報を元に自ら足を運んで確定されたものである。
感想
 岩内町にはもう一つの山城がある。ここより南東1Kmの山上にある天ヶ城である。過去に多数の学者の方々が岩内城ではないかと考えられた所だ。
 両城に関して記事が重複するのはそのためである。現状では岩内城と天ヶ城に分類整理することは困難である。
 この二つの山城は造られた時期が異なるのであろう。天ヶ城が古く、岩内城が新しいものと考える。
 このような発見はおそらくこれからもあるのだろう。なんと山城の興味は尽きないものだ。

地図

 


天ヶ城

2017-08-09 10:29:46 | 松阪の城

天ヶ城

平成29年8月9日 岩内城より天ヶ城に改定
城名
 天ヶ城
住所
 松阪市岩内町/伊勢寺町
築城年
 室町時代
形式
 山城
遺構
 郭、帯郭、土塁
規模
 35×40m 兵の数約500人
城主
 岩内主膳正光安(北畠13人衆の一人)
標高
 420m
比高
 310m
歴史
 北畠は迎撃態勢の一環として岩内城には岩内御所一族(岩内主膳正光安)兵500を置き、信長の侵攻に対抗しようとした。信長は近隣の岩内城と阿坂城に降伏勧告(和睦案)を出した。岩内氏は国司の一族であるため回答を保留。「大河内城の考え次第である」とした。(追記;中世城館と北畠氏の動向より)信長公記に「滝川左近人数入れ置き是よりわきわきの小城へはお手遣いもなく直ちに奥へ、、とある。小城というのは岩内城、伊勢寺城、奥野城、岡ノ谷城、白山城辺りを言っているのでしょう。つまり北畠側から抵抗が無かったので、そこへ軍勢を遣ることもなく、まっすぐ大河内城へ向かったということです。(8月27日)
経緯
 岩内城は多気郡明和町にあったが大河内城の出城として松阪市の天ケ峰に移された。岩内光安の子息が2歳の時、北畠具親の養子となり北畠に改称
書籍
 三重の中世城館の不明城館ページ
一族
 岩内御所
 岩内氏の系譜は不明。顕豊-政治と続いた後、政治の戦死により一時廃絶。永正9年に再興される。
 岩内鎮慶(?) 父は北畠材親か?母は不明。岩内家を再興。木造俊茂から白粉代官職を奪った、岩内某と推定される。久我家木造庄の年貢未納に対し大御所具教とともに対応。  
  岩内国茂(?) 父は岩内鎮慶、母は不明。
   岩内具俊(?) 父は岩内国茂、母は不明。
    岩内光安の子息が2歳の時、北畠具親の養子となり北畠に改称した。
     後、具親敗走の時に光安は田丸城で殺され家は断絶した。
       光安の子息「玉千代」は北畠具親に養われ、成人し北畠荘門光吉と名乗り、北畠の遺臣に守られて伊勢山田に住まいした。
現地
 北東端に10m四方の台状地があって、更にその北東側は崖になっている。南西側に巾3mの平坦地、10m四方の削平地へと続く。土塁、堀切は持たない。
 天ケ城と言われるだけあって近辺の山塊の中では険しい場所にある。御所ケ谷と呼ばれる谷をを登ってくると突き当りに構造物と思われる風景がある。食い違い虎口とも見受けられる。更にそこを抜けると土塁らしき筋が3条見受けられる。しかし学者の見解はそこには触れられておらず素人考えであろうか。
感想
 平成26年5月11日(日・晴れ)8:35~10:15  写真30枚ほど
 一人で御所ケ谷を登っていくと左の崖上で鹿がキーキーと泣き、声は谷を響きビックリする。
 今日は3度目のトライで2度目の訪城。1回目は準備不足もあって失敗し、前回は訪城したが写真を紛失し再訪した。
 やはりポイントは谷を登りきったところの土塁の並びである。3本の土塁が並行してそれぞれの存在を示しているがそれがどのように機能していたのかを想像できない。
 今日は初めてそこより奥、上の山を探索した。数分で鞍部に出る。右に行くか左に行くか迷うところであるが伊勢平野に近い方という判断で左を選択した。(右は観音岳への道らしい)
 あまり人が入った足跡はない。5分もすると頂部に着く。丸味を帯びた平坦地の三方に帯郭とでもいえるような幅5m未満の平坦地が構成して見える。東側から虎口らしき窪みが頂部に向って開いている。更に下方に帯郭のような平坦地がある。
 もう一度鞍部に戻るがここの構造が人為的である。堀と土塁の組み合わせで登坂を防御しているように見える。(堀切が埋まってしまったのかもしれない)
 鞍部から右を探索する。何にもない。道は奥に連なっているようだ。ずっと奥の山「観音岳」に向かうようだ。
 一部の資料ではもう一つのピークに岩内城が記されている。前回も見てそれらしきものは無いとわかっているがもう一度確認をしてみよう。
 水平移動なので鼻歌気分だ。天候もよくすがすがしい5月の陽気だ。いくつかの小さい頂部を超えて先端まで来たがやはりそれらしきところは今回も探せなかった。
 食い違い虎口らしき構造は想像を発奮させる。御所谷という名称も気にかかる。
地図

最終考察

 岩内町における山城は、Ⅰ期として岩内御所(御所谷)と詰城としての天ヶ城が造られた。城の造りは北畠氏の他の城とよく似ており洗練されているとは思えない。古いタイプの様子である。

 Ⅱ期として最近発見された標高の低い新岩内城が造られた。天ヶ城より残り方が明確である。堀切や竪堀を多用して防御性に優れていて低い標高でも守りを固くでき使用に際しても便利で現実的である。

 織田信長の伊勢攻めの折には下の岩内城が対応したのではないだろうか。


デジブック 『大石不動院 季節の花』

2017-08-08 15:04:03 | ローカル

デジブック 『大石不動院 季節の花』

2017年8月5日 大石不動さん境内に 珍しい花 ムカデランとリュウゼツランが競演しているとの新聞記事。台風5号の余波で夕立があった後、日が暮れるまでにと急いで現場に向かう。

 


伊勢寺城

2017-08-07 23:29:25 | 松阪の城

伊勢寺城

ヤマレコ山行記録

 

岩盤を切り崩した堀切が西側を守る

 

城名 伊勢寺城
住所 松阪市伊勢寺町城
築城年 不明
築城者 不明
形式 山城
遺構 郭、堀切、空堀、土塁、土橋、帯郭
城主 小菅備後守のち久瀬氏(久瀬五郎左衛門尉)が入る。
標高 180m
比高 60m
書籍 三重の中世城館
環境  大河内城へ続く北からの道を守る位置にある。岡ノ谷城と白山城の組み合わせのように伊勢寺城も五輪山城と組み合わさっているような配置関係にある。こうやって雲出川より南の山裾にはいくつもの城が連なっている。
現地  地図の道を頼りに西から攻めようと思う。(等高線を見て楽そうであると判断)すぐ地図の道を見つけることができた。コンクリート舗装である。森林組合が見えなくなる頃、道から外れて山の傾斜に入る。
   すぐに一番西側の頂部に出る。もう尾根歩きだ。景色も覚えがあった。突然堀切を見つける。前回は見てない、気づいていない部分だ。もうすぐだ。頂部に出る。おやここは見覚えがある。主郭だ。
   主郭の背にあたるところに土塁がありその風景に記憶がある。間違いなく主郭だ。そこから順次下の郭に降りていく。
   二郭とは傾斜でつながっている。二郭と三郭は深い堀切がある。端に土橋がある。堀切に降りる。郭の下まで降りる。主郭の後ろに回ってみる。堀切だ。前回確認してないように思う。
   堀切から竪堀が見られる。谷の方向に向かって途中でなくなっている。
   郭は北の方向に向かって3連に連なっている。その東側が空堀と土塁になっている。三郭の北側も堀切で遮断されている。
   この城の見応えは郭の高さだ。10mはあるだろう。もう一つは二郭と三郭の間の堀切と土橋だ。伊勢寺城は十分見応えがある。でも小規模なので短時間で探索できる。来た道から外れないように帰る。
考察  五輪山城は伊勢寺城の出城だと推定する。
感想  2回目の訪城だが新たな発見があってよかった。1回目の訪城がいかにも稚拙であった。また写真を無くすという不手際もあったが今回挽回した。
地図  


矢倉山城

2017-08-07 23:28:52 | 松阪の城

 

城名
 矢倉山城
住所
 松阪市八太町・阿波曾町・射和町、矢倉
築城年 築城者 城主 不明
形式
 山城
遺構
 郭,堀切、竪堀、のろし台
規模
 主郭;東西約30m×南北約30m 不整円形
 城郭部;東西170m×南北100m
 門から城郭部までの尾根部長さ;280m
標高 164m 比高 北側120m、南側140m
書籍
 伊勢の中世182号 松阪遺跡地図
環境
 西麓の旧熊野道を見下ろす位置
 櫛田川の近くにあるが直接川との関係はないと考える。
現地
 西に走る街道から尾根伝いに登るが最初に見ごたえのある二股の土塁と間の堀部に出くわし驚く。
 尾根の途中に堀切、土橋があり最初に完成度の低い郭が出現する。虎口とも思える構造物も見られる。西の守りの重要さが感じられる。尾根を進むと直ぐ主郭だ。
 城跡は松阪市射和町、八太町、阿波曾町の境、標高164mの山頂に立地する。射和・阿波曽集落との比高差は約140m、八太集落との比高差は120mである。城の西麓には八太・蛸路から射和への街道が通る。(注1)
 城の中心には、東西約30m、南北約30mの主郭(A)がある。主郭の西から南にかけて帯郭(B)が廻る。主郭と帯曲輪の間には急な切岸が施され、比高差は西側で約6mもある。主郭と北西裾には深さ約50cmの溝状の遺構がある。帯曲輪の西側には段差や竪堀(C)が掘られる。帯曲輪の南側にも竪堀がある。帯曲輪はさらに東にも続いている。
 主郭の東には大規模な堀切(D)がある。堀切の深さは曲輪内側で約2.5m、外側で約1.5mである。さらに30m程東には堀切(E)がある。堀切の深さは内側で約2m、外側で約1mである。これらの堀切は城の背後を固めるために構築されることが多く、築城主体は東側(射和側)を背後と考えていた可能性がある。(注2)
考察
 矢倉山城の防御遺構は、主郭とその周辺の切岸、竪堀を持つ帯曲輪、堀切から構成されている。このような組み合わせを持つ城跡は、伊勢国中南部の雲出川流域(旧一志郡)、櫛田川流域(旧飯高郡、飯野郡、多気郡)の山間部に多く分布している。阿坂城跡の南郭など北畠氏が関与していたと考えられる城跡にも採用されている。矢倉山城跡もこれら一連の城郭群に属すると考えられる。
 防御遺構の配置から、城は西麓の八太・蛸路から射和・櫛田川流域に向かう道を正面とし、東の射和側を背後としている可能性がある。このことからその性格は八太・蛸路から射和への街道を抑えるためのものと考えられる。
感想
 西麓にある城への入口は他の城では見られない独特の形状をしている。伊勢の中世182号が指摘しているようにこの城が西麓の街道を抑えることが主目的の城だと位置づけると、この入口の独特の形は当時の関所の施設や風景を連想させる。
推察
 熊野道の監視と併せて神山城の西に位置し、のろし台があることから ネットワークも目的とした城ではないかと推察する。また北麓の戸垣内館の城主の詰城ということも含んで考える方がいいかも知れない。
 城の北・上蛸路町にある真生寺は当時大倉山中腹にあり北畠家の祈願所であったが永禄十二年(1569)の織田信長の大河内城攻のとき兵火にかかり焼失した。又下蛸路の真福寺も罹災したという。このことから同時期に矢倉山城が攻められたか焼かれたかしたと想像するのは易くあながち間違いではないだろう。
(注1)熊野道の旧道と思われる。
(注2)更に尾根の先80mには小型だが堀切が施され東の守りを固くしていることが分かる。
地図

 



大河内城

2017-08-07 23:28:22 | 松阪の城

大河内城

大河内城再編集(L版程度に拡大可)平成29年1月30日

 

おかわちじょう

城名 大河内城
住所 松阪市大河内町城山
築城年 応永22年(1415)
築城者 北畠満雅(兄)
形式 平山城
遺構  城の縄張りは本丸を中心に大手口、搦手口、西ノ丸、二ノ丸・御納戸・馬場などを配し、随所に堀切りや台状地が残る。石垣は当時のものと考えられている。
規模 東西350m×南北500m
城主 北畠顕雅(弟)
標高 110m
比高 40m
経緯  阿坂城で北畠満雅が北朝足利軍に反旗を翻したとき、弟・顕雅に大河内城を造らせこもらせた。その子孫は代々「大河内御所」を称した。
歴史  永禄12年(1569)大河内城の戦い。8月より1か月余り。本城をめぐって北畠具教軍(八千)と織田信長軍(五万)が敵対し、その士気は高く魔虫谷の決戦竜蔵寺坂の夜討ちなどの合戦では、織田方の有力な武将も討たれる有様であった。北畠軍は50日にもおよぶ籠城(ろうじょう)戦に耐え、やがて和睦が成立している。この一大攻防の結果、本城は難攻不落の堅城と称賛されたが、天正3年(1575)には信長の次男北畠信雄により解体されている。
書籍 三重の中世城館、日本城郭体系
環境  東を坂内川、北を矢津川と深く入り込んだ谷に囲まれた丘陵突端部に築かれたよう害の城で、北畠氏の南伊勢支配の重要な拠点であった。
一族 大河内御所一族
家臣 千人
現地  三重県指定史跡。標高110m余りの丘陵突端部一帯、300m四方の範囲内に築造され、東裾には阪内川、北裾には矢津川が流れ、南裾と西裾には深い谷が巡って自然に要害の地を形成している。
   
考察  搦手門、二の丸跡、馬場跡、御納戸、一段高いところが本丸跡、堀切を渡ると西の丸跡などの案内がある。南南西800mに泉ケ久保城、南西900mに脇谷城があり有機的な繋がりがあったのではと思われる。
感想  大河内城は1415年以来1575年の廃城までの160年間の城。規模大きく周囲には取り巻く出城多く守りを固めていた。
   取り巻く城は六呂木城、坂内城、脇谷城、泉ケ久保城、岡ノ谷城、白山城、立野城と又その外周にもいくつかの城が構えている
地図  


西野城

2017-08-07 23:28:00 | 松阪の城

西野城

城名 西野城
住所
松阪市西野町
築城年 不明
築城者 不明
形式
遺構 無し
規模 70m×50m
城主 不明
標高 95m
比高 0m
環境 南に法淨寺川
現地  法淨寺川を谷底とする山口集落の東先端の見晴らしの良い丘陵地で、
  館跡は南に落差7、8mを有する法淨寺川が守りを固める。
   想像ではあるが南の法淨寺川の反対、西から北側には堀があって水を流していたと思われるような状況が見受けられる。
感想  近くに奥野城という城があったという資料もあり2度探索をしたが見つけられなかった。資料や伝承が奥野と西野の書き間違えか聞き間違えの可能性もある。今のところこれ以上の調査は困難と判断した。
考察  この地の領主が住まいした館跡で近くの山中に詰城がありそれが「奥野城」だったのかもしれない。
注1  
地図  <!-- 西野城 -->
   

 


霧館

2017-08-07 23:27:18 | 松阪の城

霧館

きりやかた

解釈   霧館イコール山際館という解釈は吾輩の身勝手かもしれない。松阪市遺跡地図で

山際(やまぎわ)遺跡というのがある。そのデータをヒントにして推測してみた。

記録データの住所が①小片野町ということと、②築城者の山副(やまぞえ)

と現在の地名が山際(やまぎわ)とよく似ていること、そして背後に見応えのある山城にふさわしいような形

の③いい山があること、これにかこつけて現時点では霧館イコール山際館ということにした。

城名  霧館(山際館)
住所  三重県松阪市小片野町
築城年  室町時代
築城者 (北畠家臣)山副十六兵衛---後に久保将監
形式  居館
遺構  なし
規模  南北150m×東西180m
城主  山副十六兵衛---久保将監
標高  84m
経緯  三重の中世城館の「不明城館」の欄に「霧館址」とある。記載されている住所は「小片野町字山際、桐久保」とある。加えて「松阪市遺跡地図」の小片野町地区の地図を見ると「山際遺跡」という範囲が示されている。この両者の共通点は地名の「山際」である。強引にこの地名を同じ事案と見立てて霧館はイコール山際遺跡と考えた。全く同じ地点ではなくても大きく外れていないのでないか、と許容した。
歴史  波多瀬城の城主波多瀬三郎実徳は、叔父山副十六兵衛実有六呂木十之右衛門実忠兄弟とともに挙兵するが、やぶれて捕らえられ船江で処刑される。その山副の住まいがここにあったのかもしれない。
経緯  土師器皿や羽釜が出土している
書籍  三重の中世城館;不明城館
環境  現在、水田
一族  波多瀬城主、波多瀬三郎実徳の叔父 
   六呂木城主、六呂木十之右衛門実忠の兄
感想  背後に標高300m弱の形のよい山がある。その裾に館があったと思われる。程よい高さや形の山と、麓の暮らしやすそうな平地のセットが城主としては理想。いっそうのこと山に登って山城の形跡がないか確かめてみたいと思うほどの山容である。残念ながら麓にも館を思わせる風景や遺構は何もない。やはり山に登るしかないのか。許容している責任を取るべきだと自分を責めているがいつ山に登れるのだろうか。
地図  <!-- 霧館 -->