三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

小原冷泉館跡

2017-08-07 23:26:53 | 古里の歴史

小原冷泉館跡

おはられいぜいやかたあと

 

城名
 小原冷泉館跡
住所
 松阪市嬉野小原町
創立
 元亀年中(1570~1573)
形式
 居館
現状
 寶徳寺
遺構
 屋敷地
規模
 東西90m×南北60m
城主
 小原冷泉
標高 250m   比高 20m
一族
 藤氏近衛家の末裔。京の関白近衛公の連衆(れんじゅ)に連なる冷泉家の一族 客殿・多気の公家として京より迎えられ小原に住まいした。嫡男以外であったため地方に下向させられたという説もある。
資料
 大嶋内蔵頭書   北畠家臣帳
 戦国南伊勢国人名事典
 
 船江城に籠城する本田美作守を助けるべく小原冷泉らは援軍として駆けつけ織田信長の先鋒に夜襲を掛けこれを蹴散らす活躍をした。信長が船江城の輩を嫌って攻撃を後回しにしたという説となる。
現地
 寶徳寺の南80mに中村川を見下ろす緩斜面にある。この居跡から南300mの山頂には詰城の一つ小原城出郭(西城)が目の前に見える。
 出郭(西城)から更に東250mの山頂に主郭がある。冷泉は日常は居館に住みいざという時の詰城と中継用・監視用である見晴らし台の出郭を持ったと考えられる。
経緯
 平成28年8月22日 小原城の遠景を撮影しようと現地に行く。広い路肩に車を止め三脚とカメラをセットしていると電動車いすのご老人が傍を通りかかった。会釈をすると声を掛けられた。「小原城の写真を撮らせてください」というと、「ここは出城じゃ、城は向こうにある」と明言されてビックリした。小原の在所に近衛冷泉の城跡があるという。
 色々お話をお聞きするにほぼ半時間位、炎天下のもと二人で汗をかきながら過ごすに至った。なんと90歳とのこと。これ以上引き留めては問題あり。お礼をして見送った。
 宝徳寺がそうらしい。寺伝での「元亀年中(1570~73)近衛冷泉卿が創立」が老人の言葉の裏付になっているのかもしれない。
感想
 館跡より西1.5Kmにある髯山の狼煙台の番は小原城主、冷泉の役目であったのかもしれない。居館と同じ尾根筋であるし、近辺で一番近い城主である。

地図;

 

 


高城

2017-08-07 23:26:28 | 松阪の城

高城

たかじょう・たかんじょ

城名 高城
住所 松阪市大阿坂町市谷・百々向
築城年 南北朝時代・室町時代
形式 山城
遺構 郭、土塁、堀切
規模 東西140m、南北100m
標高 70m
比高 20m
経緯  『南方紀伝』に記される阿坂城の「両出城」が本城と枳城と考えられるところから、阿坂城の国指定史跡化に伴って「附」として枳城跡とともに国史跡に指定されるに至った。
書籍 松阪市教育委員会ホームページ 三重の中世城館
現地  北東方向に突き出た標高70mの丘陵頂部に築かれた城で、東西140m、南北100mの規模をもつ。60m四方の主郭を中心に南東側に削平地、西側に切り込み平地、北東側に二重の堀切りを配する。主郭をめぐる土塁は西側が幅15mと広く、他は5mと狭いが、外側での高さは10mにも達する。主郭の東辺と西辺の中央は土塁が切れ枡形状の出入口を形づくっており、戦国期の城の特徴を備えている。
感想  阿坂城のある桝形山の麓・大手を守るような場所にある。阿坂城は何度も歴史に登場してくる南伊勢にとっては重要なポイントと考えられるので出城があっても不思議ではない。万全を喫したのだろう。
地図  


赤城

2017-08-07 23:24:50 | 松阪の城

赤城はあった!!!

赤城(野村城)

あかじょう(のむらじょう)

一か月前のこと

松阪市の遺跡をまとめた資料によると「赤城」は城跡ではなく集落の名称である。しかも訪ねた場所は赤城集落ではなくそばの美濃田古墳群であった。

しかし、写真で分かるように中世平城の風情が感じられ城跡として見れば十分見れるものだ。切岸、土塁、郭など一通り揃っている。石垣が散見されるがこれは後世のものだと推定した。

 

赤城

 

2014年5月31日 新展開

やはり赤城はあった!

  伊勢寺城主、久瀬五郎左衛門尉が応永年間に住まいしていた。

  応永22年(1415)阿坂城の戦いの時、北畠の家臣として暁名を挙げた。

以上飯南郡史より

所見;松阪市が城跡を単に遺跡と表示している例は他にも「達磨城を永山遺跡」

   がある。一覧表の城跡表示だけを注視してると逃してしまうことになる。

   飯南郡史では「野村城」としている。「今俗に赤城という」と、あるように野村城が

   赤城に言いかえられたようである。ここでは赤城で統一し、参考資料扱いから

   松阪の城リストに加えることとした。

地図;

 

 

 

 

 

 

 


星合氏館

2017-08-07 23:24:22 | 松阪の城

城名
 星合氏館
読み
 ほしあいうじやかた
住所
 松阪市星合町里中
築城年
 永生年間(1504~1521)に築城し居城とした
築城者
 北畠政郷の三男・北畠頼房(星合頼房⇒大河内頼房)
 頼房は1510年頃の生れ。11歳ごろの築城?
形式
 居館
遺構
 無し
推定規模
 東西100m×南北160m
城主
 星合(大河内)①頼房━②具種(坂内具佑)━③具㤗
一族
 北畠氏の分家、北畠政郷の三男・星合頼房
標高 2m 比高 
歴史
 廃城時期;元亀3年(1572)
経緯
 北畠政郷の三男・頼房が永生年間(1504~1521)にこの地に館を築き住まいした。
 兄の材親の信頼厚く伊賀甲賀の乱では大将として軍功をあらわしている。大永六年(1526)、大河内城主(兄)親忠が出家したので代わって頼房が大河内城主となった。
 星合氏は頼房の子・具種が跡を継いだ。具種も軍功多く具祐と改め阪内城主となる。(注1)
 続いて星合氏は教房や具㤗へと続くが元亀三年(1572)具㤗が大河内城を併有して移ったので星合館はこの時廃館となった。
書籍
 三重の中世城館
勢陽五鈴遺響
 星合城址;星合権中納言源頼房住ス
環境
 雲出川は伊勢平野の中央部を伊勢湾に向かって流れ、香良洲の三角州で分流する。その南側の里、星合に館があり、北側の香良洲の矢野城と共に雲出川の出入りを抑えていた。
現地
 館跡は江戸時代に開墾され現在は畑地及び宅地になっている。畑地の西側の段差が城域を示すという。
感想
 江戸時代に開墾され今では宅地と美田に生まれ代わっているがこの地で営々と星合氏の歴史が営まれ大河内城主や阪内城主と繋がっていく実家のような所だ。
注1
 同一人物説は星合系図により尊重した。解釈を否定する説もある。あるいは、星合氏が北畠氏の一族であることを証明できないという全体否定もある。
地図

👇 松阪遺跡地図

👇 畑地の段差が城域を現すという

 

👇 遺跡地図が示す縁辺 

👇 傍にある寺「明照寺」

👇 近くに七夕伝説の地が伝えられている

 

 

 

 


佐藤氏館

2017-08-07 23:24:01 | 松阪の城

 

城名
   佐藤氏館
読み
 さとううじやかた
住所
 松阪市肥留町
築城年
 不明
築城者
 佐藤氏
形式
 居館
遺構
 なし
推定規模
 東西130m×南北160m
城主
 佐藤氏
一族
 北畠家臣
標高 3m 
経緯
 佐藤氏とは、奥州信夫郡を本貫地とした佐藤氏の庶流で、南北朝時代に北朝方として諸国を転戦し、その後、伊勢国一志郡内に移住し、室町・戦国期には伊勢国司の北畠氏の被官であった家である。(松阪市の文化情報HPより)
歴史
 佐藤家文書によると織田信長が伊勢に侵攻してきた時北畠氏は佐藤氏に天花寺城に入るように命令している。そこで織田軍と籠城戦を行ったということである。(三重の山城ベスト50を歩くより)
環境
 伊勢平野の中にあり雲出川の南を守る。伊勢街道に面して館は造られていた。東1.5Kmに星合氏館、南東1.5Kmに曽原城、南西2Kmに須賀城がある。
感想
 雲出川の南を守ると同時に伊勢街道の関所的機能があったのではないだろうか。現在も街道には石灯篭があり、雰囲気を醸し出している。

地図;


👇 松阪遺跡地図

 

👇 伊勢街道の四つ辻に位置する

👇 館の角地

👇 辻に立つ灯篭

👇 見事なまきがき

👇 ひっそりと佇む地蔵さん

👇 館跡地に建つ名刹「金剛寺」


曽原城

2017-08-07 23:23:44 | 松阪の城

 

城名
 曽原城
住所
 松阪市曽原町
築城年
 嘉吉年間(1441-1443)
築城者
 天花寺越中守
形式
 平城
遺構
 全壊
推定規模
 東西200m×南北100m
城主
 嘉吉2年(1442)北畠の臣、久我主計介(かずえのすけ) 天花寺氏を称する。
一族
 天花寺氏
標高 2m 
経緯
 築城以来120余年、この地で十数代、曽原七郷を領してきた。
  城下では交易が盛んに行われ規模も相当大きかった。
  永禄2年(1569)、織田信長の諸城破却命に反し天花寺小次郎とその子新左衛門は籠城して反抗する。織田軍の城攻めは年が明けてから開始された。元亀元年(1570)、家木主水介も加勢すべく曽原城に入った。
  元亀2年(1571)、曽原城籠城3年目、北畠信意(後の信雄)は諸将を引率して曽原城を攻めた。籠城側に居た家城主水介は主君(具房)に対して弓は引けぬと北畠側にまわり、ついに曽原城は落城してしまう。
環境
 本城の天花寺城より東に5Kmにあって、北に雲出川、東に伊勢湾という重要な位置にある。また伊勢街道に面しており交易が盛んであったことがうなづける。碧川の水運も利用されたと考えられる。
現地
 地域振興三雲局となっている。
注1
 家城主水介(?~1577)いえきもんどのすけ
 北畠家の家臣で家城の城主。家木主水正・主水佑とも書くこともある。槍の名手で北畠軍のなかでも勇猛な武将のひとりである。
 織田信長との戦いでは大河内の城に入って戦い、日置大膳らと防戦し、織田軍武将池田恒興の軍をさんざんに討ち取る。(大河内城の戦い)
 その後も曽原や森の各城にうって織田軍と抵抗戦をつづけた。(曽原城の戦い、森城の戦い)
 北畠具親が挙兵するとこれに従い、挙兵して鳥屋尾石見守とともに織田軍やそれに加担した旧北畠家臣らと戦うが、敗れて川俣で戦死した。 (具親の挙兵、川俣の戦い)
 森城落城後は川俣山に落ちるが信雄の追討軍に見つかり、多勢と渡り合った末に討死にした。

地図;


👇 松阪遺跡地図

👇 跡地に立つ振興局

天花寺氏の菩提寺「法性寺」

👇 奥様、お世話になりました。

 

 

 


須賀城

2017-08-07 23:23:21 | 松阪の城

須賀城

 

城名
 須賀城
住所
 松阪市嬉野須賀町
築城者
 佐波氏
形式
 居館
遺構
 大規模な土塁、高さ3m 南北の長さ50mの。南辺、西辺を囲むような土塁や堀が存在する。嬉野史より
規模
 東西150m×南北135m
城主
 佐波近江守
一族
 北畠氏の家臣(阿坂城従騎)
標高 7m 比高 6m
歴史
 中村川流域における古代から中世の状況として把握できている史料は吾妻鏡に見られる。須可郷に関するものとして、平治元年(1159)11月17日 須可庄下司為兼(平為兼)息兼真解に「伊勢国須可御庄下司為兼法師子息僧兼真解 申請 殿下政所裁事」の記述があるほか、「吾妻鏡」に元暦元年(1184)9月9日条にも須可庄の地名を見ることができる。
 応永2年(1468)頃、足利幕府政権争いの時、足利義視が伊勢に逃れてきたとき須賀の積善寺へ寄り接待を受けたことが分かっている。
書籍
 嬉野史 三重の中世城館
 勢陽五鈴遺響 須賀城址;佐波近江守居ス
環境
 伊勢平野のまん真ん中で米所。初瀬街道に近く多気御所へ米を運ぶにも打ってつけ。
現地
 一番西端の土塁を竹林の中に見つけた。堀跡はコンクリートの川に生まれ変わっていた。平成26年6月現在
 土塁は三か所で確認できたので間違いない。城の西端の最初の防衛施設の堀と土塁である。
 北に記された土塁は濃い竹林の中にあると思われ未確認である。
 中央南部に記された区画群も同じく深い竹林の中で確認は困難な様子で諦める。
 その区画群の南端は東西に長く崖状を見せている。
 中央北部で道端の土塁の並びは確認できた。敵からの防御というよりは防災の意味かも知れない。
考察
 中世の須賀は、荘園であったことや、北畠氏の支配領域であり、北畠氏に関連深い寺や城があったことは確かなようだ。
 近世以降、須賀城はその後、豊臣時代には松阪城に入部した蒲生氏郷の領地となり、坂源左衛門尉が住んだといわれ、また、江戸幕府体制下の須賀集落は和歌山藩松坂領に組み込まれた。
 須賀町には現在も佐波姓を名乗る子孫が住まいされている。
感想
 水田を見渡す低い台地にあり荘園の防御的働きがあったのではないだろうか。集落全体を取り巻く広範囲な土塁・空堀の設置は米蔵を守るためのもので、伊勢平野の米を多気に送る集積所の役割など、大きな意味合いがあったのではないだろうか。
地図


小川城

2017-08-07 23:23:05 | 松阪の城

小川城

城名
 小川城
住所
 松阪市嬉野中川町
築城年
 14世紀後半
築城者
 小牧薩摩守(上小川城城主)
形式
 居館
遺構
 注1
推定規模
 東西130m×南北140m
城主
 小牧薩摩守(白口峠の番頭・矢下の家老)
標高 10m 
歴史
 北畠の家臣小牧薩摩の守の居城で家中には立木重兵衛等がいた。
 一族の小牧頼長は霧山城の戦いで討死している。(北畠物語)
経緯
 小川神社の東付近の水田の下から遺構が出て松阪市の発掘調査(注1)が済み、今は住宅地となっていてその面影はまったくない。
書籍
 松阪市の発掘調査報告書 中川駅周辺区画整理事業に伴う発掘調査報告書Ⅱ 三重の中世城館
環境
 現在でも近畿鉄道が大阪線と名古屋線で分岐するように重要な場所である。
 当時としては初瀬街道が南北に走り、交差するように中村川が東西に流れやはり重要な場所であった。
 特に小牧薩摩守は中村川上流の上小川にも城や邸宅を築き白口峠から中流までを監督していたようである。
 ちなみに白口峠から小川城までグーグルで徒歩23Km4時間半とでた。
注1 松阪市の発掘調査(旧嬉野町)
 平成5年、6年調査 嬉野町教育委員会、埋蔵文化財センター 2004年12月発行纏め本
 遺構の評価
 溝で区画された居館跡が確認された。おおむね15世紀から16世紀代の土師器鍋などが出土する。巾2.5m 長さ26m 深さ1.6mの溝がL字状にある。礎石立ちの建物である可能性も推定される。入り口部分で一部虎口状にクランクし南側では並行する溝。南側部分は小規模な土塁などが存在していた可能性。現在の初瀬街道あたりまで遺構部分が延びる可能性。(平成26年6月10日文化財センター)
 中川駅周辺区画整理事業に伴う発掘調査報告書Ⅱ
 今回の調査を実施した小川城跡も出土遺物から見て、ほぼ14世紀後半~15世紀段階の遺構遺物が確認されていることから15世紀における、北畠支配の拠点を示すものと考えられる。
 又、中村川流域における古代から中世の状況として把握できている史料は吾妻鏡に見られる。須可郷に関するものとして、平治元年(1159)11月17日 須可庄下司為兼(平為兼)息兼真解に「伊勢国須可御庄下司為兼法師子息僧兼真解 申請 殿下政所裁事」の記述があるほか、「吾妻鏡」に元暦元年(1184)9月9日条にも須可庄の地名を見ることができる。
 Ⅲ 調査の概要
 A 小川城跡
 a  調査区の概要
 平成5年、6年の2か年にわたり調査を実施した。
 調査区は水田の耕作が継続的に実施されている。
 調査区は小川神社南側でA~E、2Aである。
 d  室町時代の遺構
 SB1 堀立柱建物 4間×5間 4.2m×5.1m 柱総数18本
 SB2 堀立柱建物 6間×4間 6m×4.1m 柱総数18本
 SB3 堀立柱建物 4間×5間 4.2m×5.1m 柱総数18本
 SB4 堀立柱建物 2間×4間 2.2m×4.2m 柱総数11本
 SB5 堀立柱建物 5間×4間 4.2m×5.1m 柱総数18本
 SB6 堀立柱建物 2間×3間 2.2m×3.1m 柱総数10本
 SB7 堀立柱建物 2間×6間 2.2m×6.1m 柱総数10本
 SB8 堀立柱建物 3間×6間 3.1×6.1m 柱総数10本
 SE1 井戸 長径1.2m 短径1.0m 深さ3m
 SE2 井戸 長径1.6m 短径1.4m 深さ3m
 SE3 井戸 長径1.4m 短径1.2m 深さ2.6m
 溝 幅最大2.6m 南肩部分で石積みによる護岸が実施される。深さ最深0.8m 溝断面形はU字状、池の可能性が想定される。(SD1)
 溝 幅0.6m 長さ11m 深さ0.5m 断面U字状(SD2)
 溝 幅0.4m 長さ15m 深さ0.3m 断面U字状(SD3)
 溝 幅1.6m 長さ6m 深さ0.5m 断面U字状(SD4)
 溝 幅0.5m 長さ4m 深さ0.5m 断面U字状(SD5)
 SD6,SD7,SD9,SD21,SD22,SD23,SD24
 総延長127.5m
 遺構の評価
 東側=奈良時代から平安時代
 西側=室町時代
 性格は大きく異なる。
 東側 明確な堀立柱建物などの遺構は検出されなかったが、柵列などの遺構が存在する事から大規模な堀などの区画を伴う遺構としては正倉や豪族居館等の遺構と考えられる。
 西側 主に溝で区画された居館跡が確認された。おおむね15世紀末~16世紀代の土師器が出土する。方形の区画は南北 m東西 mの溝によって方形に区画された館地である。
 小規模な池跡である可能性が存在するが今後の類例を見る必要がある。
 又、小川城については入り口部分で一部虎口状にクランクし南側では平行する溝によって道路状の遺構が存在することなどからすると南側部分については小規模な土塁などが存在していた可能性がある。
 調査の成果と課題
 中村川流域の中世城館は11か所が確認されている。
今回の小川城跡については森本城周辺の調査で確認されている屋敷田遺跡と同様ないわゆる館的な機能を有する中世の居館跡であることが確認できた。
 16世紀の遺物が集中的に確認されていることからいわゆる北畠氏がこの一志郡域を所領とした時期とほぼ同じ時期にあたる。
 小川城跡に関する記述としては、小牧薩摩守とし、矢下家老と示されているように小川城跡の位置づけが中村川流域の防御的な側面に関係した館であると考えられる。
 こうしたことからすると、中村川流域の中世城館は居館の性格を有する須賀城、小川城、森本城の3つの館と中世山城の6つの山城とで構成されていることが確認できるが、現在、こうした館が確認できる位置については中村川右岸地域に集中するものであり左岸では現在確認することができない。
 こうした事から見ると、北畠の地域支配のあり方が複数の核によってその地域支配がなされていたことが推察できるものであると考えられ、雲出川流域においては木造城を中心とした核による支配阿坂城を中心とした核が存在し、阿坂政所を中心とした支配が、この中村川流域におけるおのおのの居館を中心とした小グループへと細分されるものであると考えられる。
 また、こうした小グループに細分される、各館のあり方については、小川城跡ではその土塁などの防御的施設は残存しなかったが、須賀城や森本城においても高さ2mを超える土塁などが存在する事などからすると、小川城跡においても、東側溝などの区画される部分で土塁などの構造を有していたものと考えられる。
 外部の防御施設としては、、土塁などの構造を有する館跡ではあるが、内部的な構造としては、小川城跡の南中央部に石囲いを有する大型の土杭の存在などからすると小規模な池や庭園を有する館の跡が存在した可能性が高いと考えられる。
 こうした庭園などの遺構が各小グループの館跡に存在する事などからすると、中世後期の武士の館が防御的な機能のみではなく、政治的な機能を取り込んでいたものと考えられ今後の調査事例の増加がまたれる。

 地図;

 

 


天花寺城

2017-08-07 23:22:16 | 松阪の城

天花寺城

てんげじじょう

城主;薗大納言(薗の御所・平安時代)

   久我三郎(鎌倉時代、12世紀)

   久我修理太夫━久我主計介(かずえのすけ)(天花寺氏に改称)

   天花寺広高、天花寺新左衛門

住所;松阪市嬉野天花寺町堀田

遺構;曲輪、土塁、堀切、空堀

位置づけ;伊勢平野の中央を流れる雲出川の支流・中村川の入口で平野部

    に突き出た台地で睨みを効かす絶好の位置にある。西からの尾根を切る

    空堀は大規模である。

経緯;父、久我修理太夫は堀之内城主・舟木光俊を攻めたが失敗し自殺す

    る。以後堀之内が薗の御所と呼ばれることになる。

  修理太夫の子・主計介は曽原城主も兼ね姓を天花寺に改称し北畠氏に

    仕える。後、天花寺広高も居城とある。

  他説①;正平年間(1346-1370)天花寺蔵人が居城し、応安3年伊賀・春

    日部高宗に従い近江を攻め功績により曽原城を与えられる。

  他説②;永禄年間(1558-1570)天花寺小次郎がおり、信長軍を拒み続

    けて3か年にわたって城を守ったが元亀2年小次郎は討死して廃城した。

    書籍「三重の山城ベスト50を歩く」では織田信長が伊勢侵攻の時籠城

    戦の舞台であった、その様子も確認できたと記述されている。

感想;古く7世紀、8世紀からこの地は天花寺として崇められてきた。今未来

  に向かって天花寺は更に営々と歴史を刻んでいくのだろうと想う。

  ここより南西400mの所に支城の天花寺南城がある。

地図;


 平成26年12月20日 天花寺南城は本城の南端の堀切であると解釈した。誤りとして訂正する。

 

 

  

 


天花寺南城

2017-08-07 23:22:00 | 松阪の城

天花寺南城

てんげじみなみじょう

位置づけ;天花寺本城の南西400mのところにあり支城と思われる。

遺構;堀、土塁

地図;


 平成26年12月20日 天花寺南城について訂正

書籍「三重の山城ベスト50を歩く」において竹田憲治さんが記述されているように

 南城は本城の南端の堀切と解釈する。道路の敷設によって分断されたが当時は丘陵全体を城域とする結構大きい規模の天花寺城であったと思われる。

 松阪市の城の数量としては天花寺南城と天花寺城は同じものとしひとつとしてカウントすることにした。